第221話 通じ合う想い

 店を出てからも、二人の流れる空気はどこかぎこちない。

 休憩としてカフェで飲み物を買ってオープンテラスに座ってからも、普段なら出るはずの会話すらない。正直、別れを切り出すか悩むカップルにしか見えない。

 現に近くにた女子高校生達から「あの二人、別れるのかな?」「空気お通夜みたいだからそうじゃない?」とひそひそ話しているのが聞こえ、樹は思わずスティックシュガーを握り潰した。


 握り潰した拍子で破けた箇所から砂糖が零れ出し、慌てて残ったのをコーヒーに入れるも、テーブルの上に砂糖が散らばってしまった。

 この後掃除する店員さんに申し訳なく思いながら、ガムシロップを入れていると、心菜がくすりと笑う。


「ふふっ……」

「ん? どした?」

「ううん、樹くんらしさが戻ったなって思ったの」

「えっ……ああ、そう……だな。俺も同じこと思ってた……」


 自分らしくないというのは互いに理解していた。

 色んなことを変に深く考えてしまい、デートを楽しむよりそっちに優先的に思考を動かしてしまう。

 せっかく心菜が誘ってくれたというのに、自分のこれまでの行動を思い出して嫌な気分になる。


 すると樹は何を思ったのか、突然まだアツアツのコーヒーを一気飲みした。

 目の前で心菜がぎょっとしていたし、喉が熱いのを通り越して痛くなるもそのままコーヒーを飲み干すことに成功する。

 樹の予想外の行動に一部の周囲は目を丸くするも、健闘を讃えるようにまばらに拍手した。


「な、何やってるの!? ほら、お水飲んで!」


 一番血相変えている心菜は、慌てて小粒の氷が入ったお冷を渡す。

 樹は咳き込みながらも水を受け取り、それも一気に飲み干す。一息が吐いて落ち着きを取り戻した樹は、そのまま席を立ち心菜の手を取る。


「よし心菜、海行くぞ」

「う、海っ? なんでって……樹くん!?」


心菜の小さくも綺麗な手を取ったまま、カフェを出る。

 背後で恋人が色々と言っていたが、樹はそれを無視して電車に乗って海の公園に向かう。

 海の公園は横浜市で唯一海岸を持つ公園で、他にもジョギングコースやバーベキュー場、夏にはビーチバレーなどのマリンスポーツを楽しめたりと好評がある。


 今の時期は潮干狩りシーズンで、干潮の時間帯である昼間は潮干狩りを楽しむ家族連れで賑わっているが、さすがに夕方になると満潮の時間になっていて人もあまりいない。

 海岸を散歩する人がちらほらいるだけで、潮干狩りを楽しんだ家族はここに向かう途中に獲ったアサリで一杯になったバケツを持って楽しそうに話しながら帰っていた。


 春でも冷たい潮風が吹き、潮の匂いが鼻にツンとくる。

 何故いきなり海に連れてこられたかは分からないが、樹は静かな双眸で海を見つめている。

 彼が海に対して何か思い入れがあるという話は聞いたことないが、それでもその瞳はどこか遠いところ見ているような気がした。


「あ、あの……樹く――」

「……………スゥ――――ッ……」


 心菜が意を決して声をかけようとした時だ。

 樹はおもむろに、息を静かに吸い始めた。何かをしようとする動作に首を傾げた直後。


「俺は――――ッ!! とんでもねぇ意気地なしだぁああ――――ッ!!」

「!!?」


 突然大声で叫び出した樹に、心菜だけでなく砂浜を散歩していた通行人すらもぎょっと目を剥く。

 周囲からの痛い視線を向けられながらも、樹は叫び続ける。


「俺にはあいつらみたいな覚悟はないし、心菜を幸せにできる自信すらねぇ!!」

「……!」

「それでも俺はあいつらと一緒にいてぇし!! 心菜を幸せにしたいって思ってるんだよ!! なのに……その一歩を踏み出せねぇ!! 俺はそんなに腰抜けだったのか!? もっと男らしく引っ張って行けよ!! ばっかやろおぉおお―――――ッ!!」


 心菜が息を呑む間に、樹は捲し立てるように叫ぶ。

 そこで声が途切れ、ぜぇはぁと息を荒げながら深呼吸する。


「はぁ……はぁ……あ゛~~~~すっきりした!」

「い、樹くん……今のって……?」

「ああ、突然連れて来て悪かったな。驚いただろ?」

「う、うん……それはもう……」


 誰だって突然海に連れて行かれたかと思えば、目の前で海に向かって叫んだのだ。

 これで驚かない人など、それこそ超合金顔負けのメンタルの強い人だけだろう。


「……昔、親父が仕事で上手く行かなくてぎくしゃくした時、よく俺を連れて海まで行ってさっきみたいに大声を出してストレスを発散させてたんだ。その影響なのか、俺も嫌なことがあると一人で海まで行ってたんだ」

「そうなんだ……でも、なんで私も連れてきたの?」

「……それは、今の俺の気持ちを伝えるには、これが最善だって思ったからだ」


 そう言う樹のサファイアブルー色の瞳が、怯えと悲しみの色を宿す。

 いつもの明るくて、頼り甲斐のあるいつもの樹ではない。弱みと恐怖を隠した、本当の樹の姿がそこにあった。


「この二年、俺は色んな経験をした。普通の高校生じゃ味わえない日常の中で、ニュースや歴史に名を残すとんでもない事件に巻き込まれて……でも、それが不思議と嫌じゃなかった。むしろ、楽しかったんだ。まるで物語の登場人物になったみたいで」


 思えば、自分達は普通の学生とは違う体験をしてきた。

 世界唯一の魔導士養成学校に入学をして、魔導犯罪組織と戦ったり、イギリス王室と知り合ったり、今は世界を揺るがす魔導犯罪組織と戦う未来すら待ち構えている。

 大変だったことも、辛いこともあったけれど、それでもあの日々は樹にとっても心菜にとってもかけがえのないものだ。


「でも、『新主派』の件……いや『叛逆の礼拝』が起きてから、俺は今がとても怖くなっていった」

「怖く……?」

「日向達が四大魔導士の生まれ変わりのことも、カロンって奴のことも、そして……人を殺すことも。一気に信じられない事実ばかり目の前に一気に現れて……それを受け入れる覚悟をすることが、できなくなっていった」


 樹は足元に転がる石を手に取ると、そのまま海へと投げ捨てる。

 ボチャンッと音を立てて揺れる水面を見つめながら、語り続ける。


「……正直に言うと、今までの事件で『俺は絶対に死なない』って変な自信があったんだ。もちろん俺の実力不足は自覚しているし、周りが強いからってのもある。でも……『叛逆の礼拝』でようやく気付いた。俺は、周囲に守られながら戦っていただけで、あいつらみたいな強さを持ってないって。……バカだよな、俺。そんなこといまさら気づくなんて」


 あの自信が自分の勘違いだと思い知った時、それまで感じなかった恐怖が一気に襲ってきた。

 今までの事件での自分の行動を思い出し、一歩間違えれば死に繋がるようなことがあったのだと知り、無意識に全身を震わせながら激しく後悔した。


 なんて思い上がりをしていたのだろう。

 自分は日向達みたいに特別な力も、前世の記憶もない。平和で平凡な社会で生きていた、魔導士として生まれただけのただの人間。

 虎の威を借りる狐のように、自分も特別だと思い込んでいた痛い男。


 そんな自分が、人を殺す覚悟も心菜と結婚して一生を添い遂げる覚悟もできるはずがない。

 自分はこんなにも意気地なしなのだと痛感させられ、顔を俯いた時だった。


「…………ううん、それは私も同じだよ」



 自分の返答に、樹が顔を上げて目を瞠る。

 恋人の驚いている様を見て、心菜は小さく苦笑しながら言った。


「私もね、みんなに頼りすぎなどころがあったのに……樹くんたちの優しさに甘えて、ずっと楽な立ち位置にいた。戦いもリリウムに任せきりだし、今も攻撃魔法はてんでダメ……一番足手まといは私なの。人を殺すどころか傷つけることすら戸惑う私こそが、一番……!」

「それは違うッ!!」


 懺悔するように言う心菜の肩を掴んで、樹は目の前で叫ぶ。

 痛々しい表情を浮かべる彼女を見て、樹も自分が同じ顔をしていることに気づかないまま言った。


「心菜は足手まといじゃない! お前の治癒魔法のおかげで何度も助かったし、誰だって人を傷つけることも殺すことも嫌いだ。むしろ、覚悟なんか短時間でできるわけがない!」

「樹くん……」

「でも……俺達は、ずっとあいつらの優しさに甘えていた。それは変わらない」


 まるでぬるま湯のように温かく、心地よいあの優しさにずっと浸っていた。

 それが当然といわんばかりに。その裏に隠された辛く険しい覚悟を知らないまま。

 ずっと、甘えていた。


「…………けど、だからこそ。俺達は変わらないといけないんだよ。今を、これから先の未来を」

「樹くん……」

「あんな情けないことを言った手前、格好つかないことくらい分かってる。一瞬だとしても、お前との将来に不安を抱いたのは覆せない事実だ」


「でも」と言いながら、樹は心菜の両手を自分の両手で包み込むように握る。

 大きくて無骨で、胼胝たこができて固くなった箇所があるその手は、少しだけ震えていて汗ばんでいた。

 それでも目元を赤く染めながら、樹は告げる。


「それでも――俺は、心菜とならどんな困難だって乗り越えられる。お前と……一緒に生きてきたい」


 その告白は、同じように彼との将来に不安を抱いた心菜にとって、救いの言葉だった。

 嬉しさのあまり真珠のように丸い涙をポロポロと流す心菜を見て、樹はぎょっと目を見開きながら慌て始める。


「えっ、な、ちょっ!? なんだ、やっぱりヤだったか!?」

「ううん……っ、違うの……。嬉しく、て……っ!」


 慌てた拍子に離れた両手を今度は心菜が握り返し、涙が零れたまま微笑みを浮かべる。


「私も……ずっと樹くんと一緒にいたい。一生離さないでね」


 微笑む恋人を見て、樹は嬉しそうに口元を緩ませながら、柔らかく細い体を抱きしめる。

 服越しからでもじんわりと感じるその熱を、もっと直に触れたいと思うのはそう時間はかからなかった。



☆★☆★☆



 誰かと肌を合わせることが、こんなにも緊張して高揚するものなのだと初めて知った。

 自分の指が肌を優しく這うたびに、甘い声が上がって眩暈でくらくらとする。

 ウェーブを描く亜麻色の髪が白いシーツに広がって、汗ばんだ肌に数本纏わりつく様すら普段の愛らしさとかけ離れた妖艶さを醸し出している。


「大丈夫か……?」

「うん……ちょっと、ふわふわする……」


 自分の下で組み敷いている心菜が小さく笑みを浮べるが、その目尻に薄っすらと涙が浮かび上がっていた。

 樹もそうだが心菜だってそういうことをするのはハジメテだ。

 あのまま衝動的に近くのホテルの部屋を取って、ロクにお風呂に入らないままベッドに押し倒してしまった。完全に自分の欲望に駆られたまま抱いていることに今やっと気づいて、どうしようもない罪悪感に襲われる。


「ご、ごめん……俺、自分勝手にお前を……っ」


 謝罪をしようとした直後、心菜の唇が樹の唇と重なる。

 さっきまでしていたディープキスではない、本当に触れ合うだけのバードキス。

 それでも、樹の口を封じるには十分な効果があった。


「……いいの。樹くん、私も……こうして触れ合えることができて、本当に嬉しいの……」

「心菜……」


 そっと自分の頬に触れる彼女が、優しく微笑む。

 そして、樹のなけなしの理性の糸を切れさせるような言葉を言った。


「だから――私を、早くあなたのものにして」


 普段清楚で控えめな性格である彼女らしからぬ情熱的な言葉。

 それを聞いた直後、樹の背筋がゾクゾクッと震え、衝動的に彼女の柔らかい唇に噛みつくように自分の唇を重ねていた。

 獣のように求めてくる樹に、心菜も悲鳴染みた甘い声を上げながらも必死に受け止め、腕を背中に回す。


 心菜が痛みと快楽に耐えるように背中に爪を立てても、樹はその痛みで顔を歪ませながらも離さない。

 シーツに汗が染み込み、どちらのものか分からないくらい唾液を交換するように口付けを交わし合う。

 食事も水も摂らず何度も何度も求め合った二人の行為がようやく終わったのは、空が暗くなり淡く光る月が西へ傾いてからしばらく経った頃だった。



 カーテンの隙間から日差しが射す。

 ちょうどカーテンの遮光力を掻い潜った光を直に浴びて、樹が瞼を震わせながら起き上がる。

 ぼうっと見覚えのない部屋を眺めていると、鏡の前で昨日と同じ服を着た心菜が椅子に座って部屋にあったブラシで髪を梳かしていた。


 いつも見慣れている姿なのに、どこか大人の色気漂う心菜を見て、昨晩の記憶が一気に蘇る。

 いつもよく漂った汗の匂い、シーツに負けないほどの真っ白な肌、そして涙を浮かべながら蕩けた笑みを浮べた――――。


「だぁああああああああああっ!?」

「!? 樹くんどうしたの!?」


 突然叫んだ樹に、鼻歌交じりで髪を梳かしていた心菜が肩を震わせ振り返る。

 たった数歩しかない距離なのに、どこかぎこちなく歩いてくる心菜を見て、樹はすぐさま彼女を抱きしめた。


「ごめん! ほんっとーにごめん! うわー、俺がっつきすぎだろ!? マジ最低、自分勝手にやるとか男としてクズじゃん……ほんとゴメン……許してつかあさい」

「い、樹くん。落ち着いて? ねぇ、本当に落ち着いて?」


 一気に落ち込んで謝り始めた樹に、心菜は背中をぽんぽんと叩きながら宥める。

 完全に怒られて耳を垂れさせた子犬状態の恋人を見て、優しく微笑みながら言った。


「大丈夫だよ、樹くん。昨夜は私もちょっと欲張っちゃったの。確かに腰も痛いし体も怠いけど……でも、それすら愛おしいの。やっとあなたと気持ちを通じ合えて幸せだって感じるの」

「…………本当か? 無理してないか?」

「してないよ。してたら、こんなこと言わないよ」


 あの夜の時、まるで獣のように求めてくる樹に愛おしさを抱いたのは本当だ。

 自分を大切にしていたからこそ遠慮していたと分かってはいても、やはりちゃんと愛されているのかと思い悩んだこともあった。

 だけど、昨夜それが自分の杞憂だったと分かったと同時にますます樹のことが好きになった。


「そっか……なら、よかった」

「ほら、そろそろ着替えないと。もうお昼前だよ?」

「えっ、マジか!? うっわー……これ、絶対おふくろに根掘り葉掘り聞かされるな……。いや、それより心菜んの叔母さんか?」

「うーん……多分、怒るより卒倒する……かな?」


 あの厳格でたまに会うとぐちぐち小言を言ってくる心菜の叔母が、青を通り越して白い顔で卒倒する場面が明確に思い浮かんでしまう。

 ……次会う時はお詫びの菓子折りを持っていこうと心の中で決めていると、おもむろにブラシを突きつけられた。


「な、なんだよ」

「髪、結って欲しいな。これを使って」


 そう言って、心菜は紙袋からあの髪留めを取り出す。

 自分と同じ色の石が嵌め込まれた、独占欲の証を。


「ああ、わかった」


 断る理由がなく、ブラシを手に取って慣れた手つきで髪を編んでいく。

 丁寧に、髪を傷つけないように結い上げ、最後に髪留めをつける。亜麻色の髪にシルバーの輝きはとても映えていて、あまりの美しさに見惚れながらも微笑む。


「似合ってるよ、心菜」

「ありがとう、樹くん」


 寄り添い合って幸せそうに微笑み合う二人は、自然と唇を合わせる。

 しばらくくっついて、二人のお腹が同時に鳴るまで、温かな幸福感に浸っていた。

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