第215話 来世へ祈る幸せ

 ストゥディウムには、あの暗い部屋で目覚めた時より以前の記憶はない。

 何故かあの部屋にいたソムリエの手で地上に連れ出され、高位の信者達によって『新主派』の〝主〟となるべく帝王学を受けることになったのは自然の流れだった。

 記憶も知識もない無知の少女が、『新主派彼ら』の嘘を素直に信じるのは仕方ないことだということも。


 最初に覚えたのは、読み書きと聖堂の掃除だった。

 読み書きは現代では当たり前にできて当然だったし、聖堂内外は常に清潔であることを心がけて、毎日箒と水が入った重いバケツ、そして雑巾を持って歩いていた。

 読み書きは口も手が疲れるほど難しかったし、拭き掃除では手が荒れて、破れた皮膚の下から血を流した時には、ソムリエが気づいて保湿クリームを塗るまでずっと放置して怒られたこともあった。


 では捕縛した異教徒の男連中に鞭打ちや水責めを担当し、現世にいる異教徒集団の抹殺も時に怪我を負うこともあったが、それでも命令を遂行した。

 魔法も上達し、着々と信者のランクを上げていき、ついには周囲が長年求めていた〝主〟に選ばれた。

 自分の面倒を見てくれた信者が「よくやりました」と「あなたは私達の誉れ」ですと涙声で伝えてくれたことは、今でも覚えている。


 選ばれた〝主〟としてソムリエ達と共に祭壇に立った時、信者達はみな頭を垂れた。

 厳かに、恭しく。まるで神聖なものを見たと言わんばかり。

 その時、ストゥディウムは確かに『生きている』と実感した。


 これまでの生活がプログラム通りに動いていたロボットみたいで、寝る前には必ず自分は人間なのかと思ったほどだ。

 それでも、あの時にようやく自分は人間なのだと自覚した。


 ――私は人間だ。『新主派』を治める〝主〟として生を受けた、選ばれた人間だ。


 あの時の感動は自分しか味わえないモノだった。

 ストゥディウム達を〝主〟として導いて欲しいと強く願う信者達を従い、この世界を『新主派』が長年抱き続けた目的――魔導士のための、魔導士だけの、魔導士が幸せになる世界を生み出すために尽力することを誓った。


 なのに。それなのに!

 ああ、〝神〟というのは非情で冷酷な方なのだろうか!?

 本物の四大魔導士の生まれ変わりが現れ、清廉で美しい聖堂と園は汚され、そして自分は人間ではなく、妄執によって生み出された肉の体を持つ亡霊だと真実を突きつけられた!


 だけど――拒みたいその真実が、過去の自分のちぐはぐさを思い知らせるものだった。

 目覚めた時に記憶も知識もなかったのは、無から生まれた存在だから。

 最初に読み書きと掃除を覚えさせたのは、常識そのものがなかったから。

 これまでこなしてきた仕事は全て、『新主派』を存続させるためだけの必要だったから。


 全てが点と線で繋がり、ストゥディウムの中で己のアイデンティティが崩れている。

 結局、どれほど否定しても自分は人間ではない。

 それは永遠に覆らないし、どう足掻いても答えは変わらない。


(なら……なら、私はどうすればいいの……?)


 生きているのにすでに死んでいるこの身で、一体何ができるというのだろうか。

『新主派』が壊滅してしまったら、自分には生きる理由も意味も価値もないのに。

 真実を突きつけられ、慟哭を上げる中、ストゥディウムは目の前の少女を見た。


 琥珀色に輝く髪と瞳をした、【起源の魔導士】の生まれ変わり。

 作られた自分と違い、彼女は親の腹から産まれた本物の人間。

 ストゥディウムに真実を語り、アイデンティティの壊した少女に、せめて一矢報いたいと思った。


(せめて。せめて一度でいい。この女に――『新主派』を滅ぼした魔女に〝主〟として鉄槌を下す!)


 それは、完全な八つ当たりだった。

 己の存在も、『新主派』の存亡も、日向がいなくてもいずれは訪れていた。


 それでも。

 この英雄の皮を被った魔女だけは、何を犠牲にしても絶対にこの手で殺したい。

 それが皮肉にもストゥディウムが初めて抱いた、自分から望んだ願いだった。



 今も膨れ上がるストゥディウムの魔力。異位相空間自体に影響を及ぼし、今も破壊しかねない状況に防御に徹していた日向も対抗策を考えていた。

 しかし、魔力を通じて伝わる彼女の憎悪に息を呑む。

 当然だ。今まで彼女自身さえ知らなかった真実を突きつけられて、存在理由を壊させたのだ。恨まない理由などない。


 加えてストゥディウムの魔力は、彼女を生み出す際に犠牲となった者達の魔力がそのまま混ぜ合っているのだ。

 魔力値は実際に測定していないから分からないが、恐らく一〇〇万は優に超えているはずだ。でなければ、本来なら破壊すら難しい異位相空間に亀裂を入れさせることなど不可能だ。


(このまま放置しても、いずれ空間そのものが崩壊する。そうなったら、ここにいる全員は『奈落』に落ちて一生現世に戻れないまま死んでいく……)


 空間干渉魔法が一番操作の難しい魔法なのは、一度のミスで全てを失うリスクが大きすぎるからだ。

 空間というのは繊細な存在であり、宇宙のように無限の広さを有している。そこを自分好みにいじくるという行為自体、本来ならばどの魔法よりも難しい。


 陽は手足のように空間干渉魔法を使ってはいるが、その技術も前世で災害時の緊急避難場所や納屋のスペースを広くするためだけに培ったもので、本人もまさか戦闘でも役に立てるなど思いもよらなかった。

 でも一度だけ、ベネディクトが空間干渉魔法の操作を誤った時がある。


 その時は誰もいなくて、練習用として廃棄予定の納屋を使っていたから大事にならなかったが、操作を誤って納屋とそこから地下一メートルの地面が綺麗に抉れてそのまま消失したのだ。

 もしかしたらどこかの地へ転移させてしまったかと思い、急いで国中駆けまわったが空中から納屋が降ってきたという情報は一切なかった。


 不審に思い、全員で謎の原因について話し合った結果、現世と異位相空間の間には『奈落』というものがあると推測した。

『奈落』は現世と異位相空間の間にある空間で、そこはブラックホールのように強い重力が常に発生しており、そこに入ったが最後永遠に出ることはできない。

 もちろん確証はないし、推測の域内だった『奈落』が立証されたのは、【魔導士大戦期】に起きた第一次世界大戦時だ。


 フランスの魔導士が空間干渉魔法の操作を誤ってしまい、結果敵味方関係なく術者を含む三二九人と半径四二キロメートルの大地が抉れて消失した。

 これが『奈落』の存在を推測から確証へ至らせた大事件となり、以降空間干渉魔法については最善の注意と操作を尊重するようになった。


 そんな危険性の高い『奈落』に落ちてしまえば、日向どころかここにいる全員の死が確定される。

 ストゥディウムは他のみんなを巻き添えにしても、日向のことを殺したいのだと強く願っている。

 かつての自分なら、その憎悪を受け止めながら喜んで死んだだろう。


 だけど、今の日向は今世で必ず幸せになると悠護に誓っている。

 たとえストゥディウムが死を望んでも、ここで死ぬつもりさらさらない。

 なら、日向のすべきことはただ一つ。


 ――ストゥディウムを殺す。


 たとえ亡霊の集合体であろうとも、人を殺すことに罪悪感がないといえば嘘になる。

 それ以前に元々、日向には人を殺す度胸などない。

 しかし、ストゥディウムを含む『新主派』は許されない罪を犯したのは事実だ。


 〝神〟の代わりに裁こうというわけではないが、この暴走を止めるためにも、『新主派』の罪を清算するためにも、どちらにせよストゥディウムを殺すことはもはや決定事項。

 心が罪悪感と後悔で痛もうが、それでも手を下さなければならない時もある。

 日向にとって、それが今この瞬間なのだ。


「――終わらせよう。この手で、あたしが」



☆★☆★☆



 日向の魔力が上昇するのを、悠護は感じていた。

 彼女の魔力はどの魔力よりも分かりやすい性質をしているため、距離があろうとも感じ取ることはできる。

 だけど、日向の魔力がストゥディウムの魔力と徐々に拮抗している。それが一体なんの合図なのか、悠護は知っている。


(これは……希美の時と同じ、無魔法を使う合図だ!)


 高校一年のクリスマス・イヴ――『灰雪はいせつの聖夜』と呼ばれた事件で日向の命を奪おうとした幼馴染み・桃瀬希美がフォクスあらためフィリエ・クリスティアの甘言に唆されたことによって起きた。

 その後は『錠』の一つを外した日向の無魔法によって希美は魔核マギアは消失、さらにフィリエによって用済みとして殺された。


 今の日向の魔力の上昇は、あの時希美に放った無魔法を使用する合図だ。

 現にラズベリーレッド色の魔力と違い、金色の燐光が舞う琥珀色の光の柱が出現している。

 強化魔法で脚力を向上させ、目的地である屋上に辿り着く。


 そこでは《スペラレ》を構えた日向、ストゥディウムと呼ばれている少女が対峙していた。

 特にストゥディウムは聖堂で見た時と違い、ひどくおぞましい姿に変貌していた。

 美しかっただろう紅色の髪は激しく乱れ、顔は病的に白い。露出している顔や首、手や足には黒い痣が浮かび上がっていて、魔力が背中に集中しているせいで悪魔の翼のように形作られている。


〝主〟どころか悪魔と呼んでもおかしくない風貌をした日向は、顔だけこちらに向いた。

 日向は悠護の顔を見て、優しく微笑む。唇だけを動かして、声なき言葉を呟く。

 だけど、悠護にはしっかりと届いていた。


 ――大丈夫だよ。


 その言葉は悠護の心配を拭うための、優しい嘘だった。

 殺すことしか道がない彼女が、せめて恋人の前では虚勢を張りたいと思っていた。

 それが分かっているからこそ、悠護は何も言わず静かに頷く。それだけで日向は十分だった。


「『業火の刃フェッルム・イグネ』ッッッ!!」


 ストゥディウムが詠唱と共に放たれた魔法は千を超える炎の刃が襲いかかる、殺傷性ランクSに入る広域攻撃魔法。

 軽く掠るだけで全身に炎が燃え移り、建物に直撃したらビルなど問答無用で叩き折られ、その後も周囲を数十分も燃やし続けるそれは、日向に届く前に琥珀色の壁に触れた瞬間に消え去る。

 

「――『000カムビアティオ』」


 日向が《スペラレ》を下した瞬間に魔法が放たれる。

000カムビアティオ』――かつて恋人を殺したカロンへの復讐として、彼の『魂の情報』を書き換えた短命の運命を背負わせたその魔法は、光の奔流となった暴虐の如く悪魔と化したストゥディウムを襲う。


 疾駆する奔流にストゥディウムはなんとか耐えようとするも、自分より上回る魔力に敵うわけがなく。

 ストゥディウム――いや、悪魔に成り代わった亡霊の集合体は、悲鳴も慟哭も上げられないまま光へと呑まれていく。

 そして光が収まり、亡霊の少女と異位相空間を『奈落』へ落としかけた魔力が消失していた。


「…………」


 日向が《スペラレ》を腕輪に戻し、そのまま座り込んだ。

 いくら無魔法の魔力量の調整をしたからといって、体には多大な負荷がかかっている。慌てて駆け寄り、今にも倒れそうな日向を抱きかかえた。


「大丈夫か?」

「……うん……ちょっと、疲れた……かな」


 もたれかかる日向の顔色は悪く、立ち上がることすら難しいと判断した悠護が「よいしょ」と言いながらおんぶした。

 背中に柔らかい感触を感じるが、理性を総動員させながらなんとか持ちこたえる。

 そのままゆっくりと、振動によって体に負担がかからないように注意しながら歩く。


 聖堂は暴れ回ったせいであちこちにひびが入り、どこからか血臭さえ漂ってくる。

 恐らく途中で消えたティレーネが、した結果なのだろう。

 疲れ果てて、眠りかけている日向が船を漕ぎながら何度も悠護の肩に額をぶつけてくる。さすがにちょっと痛いなと思いながらも歩くと、ふと日向が口を開いた。


「……ねぇ、悠護」

「なんだ?」

「ストゥディウムは……来世では、幸せになれるかな……?」


 ぴたり、と足が止まった。

 敵であり、作られた亡霊の来世の幸せを考えるなど、本当にお人好しな日向らしく苦笑してしまう。

 だけど……悠護がこの手で命を奪ったソムリエも、どうか来世では幸せになって欲しいと願っていたからこそ、日向が望む言葉を言えた。


「ああ、きっとな」

「…………そっか、……なら、安心、かな…………」


 悠護の言葉に満足したのか、日向は静かな寝息を立てながら眠りについた。

 少しだけ血の気が悪いが、それでも穏やかな表情で眠る恋人の寝顔を見て、悠護は微笑みながら言った。


「――おやすみ、日向」



 二月六日、午前四時二八分三二秒。

 国際魔導士連盟日本支部および七色家が秘密裏に決行した『新主派』打倒作戦は成功。

『新主派』関連の事件と打倒作戦で出た死傷者は約三三〇名、内三〇名近くは『新主派』に与していた信者とスポンサーとして暗躍していた重役達であった。

 新生四大魔導士は四名中一名しか死体が発見できず、残り三名は打倒作戦に参加していた聖天学園有志によって死体ごと消滅したと報告された。


 数日後、IMF上層部の発表で『新主派』が壊滅したことにより、今回の騒動は『新主打倒事件』として歴史に名を残した。

 この事件によって魔導士差別主義者の活動が強まるが、IMF日本支部長・黒宮徹一は今回を機に聖天学園に入学できなかった一般社会で生きる魔導士および魔導士家系出身の一般人を保護する組織を自身の就任期間中に新設することを発表。


 後に、『準魔導士』――一般社会にいる魔導士と魔導士家系出身者の一般人――を保護する国際準魔導士互助組織『リベルタス』を発足。

 その組織に豊崎日向もとい黒宮日向の名が理事長として刻まれるのは、そう遠くない未来の話である。

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