第214話 タイムリミット

 少女が目を覚ましたのは、薄暗い空間だった。

 長机の上で全裸のまま寝転んでいて、床には大きな魔法陣。数本の長い燭台で囲んだ周りを白いローブを身に纏った老人達が白目を剥き、口から唾液を流し、苦悶の表情を浮かべたまま命を絶っている。

 呆然と眺めていると、魔法陣から離れている一人の少年が怯えた表情でこちらに近づいてくる。


(どうしてこの人、こんな顔をしてるの……?)


 少女は、少年が怯えた理由が分からなかった。

 転がる死体に怯えているのか、この暗い空間に怯えているのか、それとも……自分に?

 理由は分からないまま、少年が少女に白いローブを優しくかけてくれた。


「あなたは……誰?」

「!」


 口を開いたことがそんなに驚いたことなのか、少年は大袈裟に肩を震わせる。

 だけど、じっと見つめる少女に少年は悲しげな笑みを浮かべた。


「俺は……ソムリエ。洗礼名だけど、これが俺の名前だ」

「ソムリエ……?」

「そうだ。そして君の洗礼名は――ストゥディウムだ」

「ストゥディウム……」


 少女――ストゥディウムが自分の洗礼名を口にする。

 不思議と唇が馴染んでいく感覚に、ストゥディウムはこてんと首を傾げていると、ソムリエはそっと手を差し出す。

 おもむろに差し出されたそれに目を丸くしながらも、ゆっくりと重ねる。自分の手とは違う硬い手が、そっと握られた。


(……温かい)


 これが、さっきのおぞましい魔法で生まれた亡霊の集合体なのかと思ってしまうほどの温かさだ。

 古狸達の妄執と魔力、そして堕胎した子供の亡骸を媒介にして生まれた、肉の体を持つ亡霊。

 彼女の存在の在り方は世界の命の理そのものを侮辱していて、本来ならば化け物として忌み嫌うべきだ。


 だけど。

 ソムリエは、ストゥディウムを嫌うことはできなかった。

 純粋で『新主派』の仕事をこなしていき、『新主派』の存続のためだけに生きている彼女のそばにいたいと願った。

 そして……自分自身でも信じられないことに、ストゥディウムに恋を抱いた。


 自分でもどうかしていると思っている。

 亡霊であるはずの少女に恋をしても、報われないこと分かっていたのに。

 それでも、ソムリエはストゥディウムという一人の少女を愛してしまった。


 だから、救いたい。

 真実を突きつけられ、我を忘れて暴れる少女を。

 ストゥディウムと対峙している敵が本当に無魔法を使えるならば、このままでは彼女が存在ごと消えてしまう。


 そのためには――目の前の少年を殺さないといけない。

 自分と同じ、守るべき愛しい女がいる男を。



 ソムリエの攻撃が苛烈さを増す。

 エストックによる刺突が繰り返し放たれ、《ノクティス》で防御しても、その間を縫い、頬や腕に刃が掠って切り傷が作られていく。

 必死に防御に徹しながらも、悠護は冷静にソムリエのことを分析する。


(この異常のスピードは恐らく風魔法による付与エンチャント効果だ。強化魔法を使わない移動速度向上とかマジかよ)


 強化魔法を使わないで他の魔法による付与でスピードや腕力を向上させる方法はある。

 しかし、他の魔法による付与より強化魔法の方が魔力量的にコスパが良く、強化魔法以外の付与をする魔導士は少ない。

 悠護だってやろうと思えばできるが、戦闘で使う勇気はない。


 それに比べて、ソムリエの魔力量は枯渇してもおかしくないのに、魔力切れを起こすような症状が見られない。

 風魔法による付与エンチャント効果で戦っているとはいえ、このままでは体力も魔力も尽きる。

 そんなこと、本人だってわかってるはずなのに……。


(いや……こいつは、死ぬつもりで戦ってるのか)


 愛する女を救えるのなら、たとえ己の命がどうなろうと構わない。この命だけで救えるのなら、どんなものより安いのだと思っている。

 かつての悠護クロウも同じことを考えていた。自分の命を投げ捨てでも、大切なものを守りたいと。でも、それも無意味に終わり、結局日向アリナは己の命を犠牲に抗争を止めることになってしまった。


 もちろん前世の後悔を繰り返さないために、今世では必ず幸せになると決めている。

 だからこそ、同じ考えをしているソムリエは前世の自分と重なってしまう。

 たとえ肉の体を持った亡霊だとしても、彼はストゥディウムを愛してしまった。一生をかけて守りたいと強く願ってしまった。

 それが……許されない恋だとしても。


 しかし、ソムリエがストゥディウムを救うことは不可能に近い。

 たとえ彼が少女を救えたとしても、この魔力量は『五階位クィーンクェ』相当だ。『新主派』の〝主〟として選ばれてしまっている以上、IMFは彼らを第一級魔導犯罪者として世界中に指名手配届けを出し、寝ても覚めても追われる逃亡生活を送ることになる。

 その時、引き離れた二人がどんな最期を迎えるのか、想像に難くない。


(なら……俺ができることは……)


 ここで、ソムリエを殺してしまうことだ。

 ストゥディウムが日向と戦っている以上、彼女もストゥディウムを殺す方法を立てるに違いない。もちろん人を殺すことに罪悪感は抱くし、好んで何度もやりたいと思わない。

 それでも……死ぬこそで本当の意味で救われる者がいるのも、覆らない事実だ。


(次だ。次の攻撃を弾いた時、ここで決める!!)


 悠護が殺す覚悟を決めた時、ソムリエが目の前で大きく跳躍した。

 彼のエストックがミントグリーン色の魔力が織り交ぜた風を纏っており、威力もだが剣戟も今以上にアップしている。

 その攻撃は、双剣モードの《ノクティス》で防げるか分からない。


「『可変の盾スクトゥム』!!」


 悠護の詠唱と同時に《ノクティス》が双剣モードから盾モードに変形する。

 烏と鉤爪のモチーフが施された盾は、エストックの猛威すら受け止めて防ぐ。風魔法の付与による効果は絶大で、膂力向上のために強化魔法もかけているが、それでもソムリエの魔力が想いの丈によって増幅していく。


 魔力というのは精神エネルギーを変換させたパワーは、特定の感情によってその威力を増す。

 たとえば、憎悪。

 たとえば、憧憬。

 たとえば、愛情。

 喜怒哀楽を含む感情が、強ければ強いほど魔力の威力を高め、時には予期もせぬ力へと変貌する。


「うあああああああああああああああっ!!」

「くおらぁああああああああああああっ!!」


 ソムリエの咆哮に抗うように、悠護の咆哮を上げる。

 盾モードの《ノクティス》からビキビキと嫌な音が鳴るが、それでも歯を食いしばって耐え抜く。

 咆哮は二重奏のように重なり合い、《ノクティス》を大きく振るう。ガキィィンッ! と金属音が高らかに響き、ソムリエは体から吹き飛ばされる。


 受け身もロクに取れないまま転がっていくソムリエは、全身に走る痛みに耐えながら起き上がるも息を呑む。

 目の前で悠護が《ノクティス》を一振りの長剣に変わっていて、垂直に構えていた。

 黒い刃に集中して集まる真紅色の魔力は、今も膨れ上がるストゥディウムの魔力と大差なく、その奔流の輝きは危機的状況だというのに――ひどく、美しかった。


 長い歴史の中で、四大魔導士とその補佐達しか知らないクロウ・カランブルクが生み出した広域殲滅魔法『終焉の夜フィニス・ノクティス』。

 自然魔法に分類している闇魔法を極限にまで威力を向上させていて、その一撃は一国を簡単に滅ぼすほどの力を持つ人為的な脅威。

 間違えても一人の人間に向けてはいけない魔法を、悠護は今放とうとしている。


 それでも――痛みなく、ソムリエを殺すにはこれしかない。

 せめて、恐ろしく優しい闇に包まれながら眠って欲しい。

 こんなちっぽけな慈悲しか、悠護はあげられない。


「――『終焉の夜フィニス・ノクティス』」


 闇の奔流がソムリエを呑み込む。

 自分の身を襲う闇は、一切の痛みも苦しみも熱さもない。何故か心地よく、そのままこの闇に身を委ねてしまいたい欲求に駆られてしまう。

 このまま負けてしまうと分かっていても、この闇から逃れられない。


 ソムリエの脳裏にこれまでの記憶が流れていく。

 物心ついた頃に両親に『新主派』に売られ、大金が入った封筒を持って両親の背が遠ざかっていく記憶。

 という名目で、何日もかけて男からも女からも犯され続けた記憶。

 子供の自分には耐え切れない過酷な訓練をされ続けて、布団の中で何度も死を望んだ記憶。

 どれもこれもロクでもない思い出だ。


 それでも――こんなクソったれな人生でも、幸せな記憶があった。

 初めてストゥディウムと出会い、彼女の手を握った記憶。

 なんの疑問を抱かず、『新主派』の仕事をこなす彼女のそばに寄り添った記憶。

 今まで笑わなかったストゥディウムが、初めて自分に微笑んだ記憶。


 ――ああ、なんだ。そんなにひどい人生じゃなかった。


 それだけが分かっただけでも、少しだけ心が救われた。

 でも――まだ、自分はストゥディウムを救っていない。

 このまま死ぬことはできないのに、ソムリエにはこの闇に対抗できる術を持っていない。


「…………ストゥディウム、ごめんな」


 ――お前を救えないまま先に逝く、口だけの俺を許してくれ。


 ミントグリーン色の右目から一筋の涙が流れ、今にも泣きそうな笑顔を浮かべる。

 亡霊の少女への確かな恋慕と後悔を残しながら、ソムリエは闇の中へと消えていく。

 それはこの死が非業の死はなく、純粋な救済の死によるものだと受け入れて。


「……………………」


終焉の夜フィニス・ノクティス』の威力が収まり、マグマのように赤く染まった黒い爪痕が残ったそこで、悠護はただただ立ち尽くす。

 ここにいた青年は血も肉も骨も残さず闇に呑まれ、この世からいなくなった。

 唯一残されたのは、チェーンが千切れ、『新主派』のモチーフを象ったペンダントだけ。悠護はそれを拾い上げ、ぎゅっと握りしめる。


「……ごめんな。どうか、来世では幸せになってくれ」


 謝罪の言葉を口にしながら、ペンダントが手の中で一輪の薔薇に変わる。

 それを爪痕の前に置き、黙祷を捧げる。

 閉じていた目を開け、無言で立ち上がり、そのまま踵を返し駆け出した。


 少年が行く先は、愛する少女がいる場所。

 自分の大切な者を守るために、後悔と罪悪感を抱えながらも悠護は走った。



☆★☆★☆



「痛い……痛いよぉ……」


 フロスは泣いていた。

 全身の五感がなくなるほどの麻痺に襲われ、深く抉られた太腿から流れる血は今も止まらない。

 這いずりながら逃げるフロスの背中を、ギルベルトはブーツを履いた足で遠慮なく踏んだ。


「ひぃぃ……っ!?」

「どこへ逃げる? 同胞を汚した貴様の仕置きはまだまだあるぞ?」

「や、やめて……お願い、許してぇ……!?」


 多くの異教徒を屠り、泣き顔なんて無様な姿を晒したことのないフロムは、今日この日初めて滂沱の涙を流し、心の中で懺悔した。


(神様、神様、お願いします。この男から私をお救いくださいませ!)


『新主派』では〝神〟の存在を否定していたが、危機的状況の今ではその考えすら頭から抜けていた。

 この時のフロムは純粋に、ギルベルトから逃れたくて、死にたくて必死に祈っていた。

 ただただ命乞いをするフロムの願いは、生憎〝神〟には届かなかった。


「――悪いな」


 たった一言。それだけでフロムの命運は尽きたと宣言させる。

 肉を刺す音と共に、竜化したギルベルトの右手の黒い爪が背中から心臓に向かって貫いた。

 か細い悲鳴を上げながら、フロムの体は痙攣しそのまま静かに動かなくなる。


 同胞の無念を晴らしたギルベルトは、右手を引き抜きこびりついた血と脂を魔法で蒸発させながら落とす。

 そのまま踵を返し別方向へ歩き出すと、へこんだ壁にもたれかかるようにフロムと同じ見た目をした少年に陽が《銀翼》の穂先を心臓に突き刺していた。

 フロムと似た容姿をしているから、恐らく彼がパピリオなのだろう。


 ずるりと槍が抜かれると、パピリオの体から血が溢れ出た。

 少しばかり憔悴した様子の陽が頬に返り血をつけているギルベルトに気づき、力のない苦笑を浮かべた。


「終わったんか?」

「ああ。同胞の仇を討った」

「そか。……ようやったな」

「互いにな」


 簡潔で言葉らしい言葉はない労い。

 だけど、陽にはそれだけで充分だったらしく、乾いた笑みを浮かべながらパチンッと指を鳴らす。

 轟!! と、パピリオが真っ赤な炎に包まれた。


「火葬か」

「ワイが奪った命や……せめて、これくらいさせといてくれ」


 今も燃えるパピリオから背を向けて歩き出す陽。ギルベルトは何も言わずに追いかける。

 彼自身も人の命を奪うことはやはり抵抗があるのだろう。しかし、新生四大魔導士の存在は後に大きな火種となりかねない。

 正しくないやり方と分かっていても、彼らの命を奪うことしか争いの種がなくならないのも事実だ。


 今も膨れ上がる魔力の出所に注意深く観察していると、別の方向から樹達がやってきた。

 怜哉は陽と同じく返り血を浴びており、逆に樹と心菜には血が付いていない。恐らく二人が手を下す前に怜哉が処理したのだろう。

 不謹慎だが相手を癒し、新たな物を想像する彼らの手が血で染まらなくて安堵した。


「みんな、戻ったか」

「そっちはどう?」

「終わったぞ。新生四大魔導士の一人、フロムは同胞を汚した報いをこの手で下し終わらせた」

「そう。先生は?」

「ワイも終わったところや。今はもう灰になっとるやろ」


 ギルベルトと陽の報告に樹と心菜が顔を曇らせるが、怜哉はいつも通りの顔で頷く。


「……そう。なら、黒宮くんはどうしてるのかな? それに今も起きてる魔力増加現象と豊崎さんは?」

「それは……」


 怜哉の質問にどう答えるか戸惑っていると、霧彦の念話が脳から聞こえてきた。


『報告します。悠護くんは新生四大魔導士の一人、ソムリエを撃破した後、豊崎さんがいる屋上に向かっています。豊崎さんは未だ新生四大魔導士の一人、ストゥディウムと交戦中です。アリス達は被害者達を地下の転移魔法陣に誘導しましたが、厳重にロックさえていて開くのに時間がかかるようです』


 霧彦の報告を聞いて、すぐさま算段を考えた陽が指示を出した。


「なら樹と心菜は転移魔法陣がある地下に行きぃ。樹の精霊眼があれば転移魔法陣のロックを解除できるし、心菜はその間怪我がひどい被害者達を治しとき。怜哉も地下にまだ敵が潜んどるかもしれへんから、二人の護衛を任せる」

「わかった」「はい!」「はい」

「ギルベルトとワイは他に逃げ遅れとる奴がいないか確認してくる。それでええか?」

「オレはそれで構わん」

「よし、なら急ぎや!」


 陽の的確な指示で全員が動き始め、二手に分かれる。

 その道中、空間干渉魔法の使い手である陽は、この異位相空間のタイムリミットが近づいていることに気づいていた。


(いくら空間に制限がないとはいえ、これほどの魔力の余波を受け取るんや。仮に魔力が収まったとしても、三〇分が限界やな)


 三〇分。

 それが、この異位相空間の寿命。

 あまりにも短い寿命に、陽はより多くの生存者の確保のためにその足を速めた。

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