第168話 英雄達の〝原典〟14

 イアンは恋というものはしたことがない。

 兄の手の者によって左頬に刺青を入れられる前から、誰かを愛するということが分からないと言った方が正しい。

 両親は両家の地位を存続させるための政略結婚で、当然ながら二人の間に愛というものはなかった。人形劇のように家族ごっこをして、血の繋がった兄弟同士で跡目争いをする。


 なんて不完全な家だろう。

 なんて滑稽な家族だろう。


 誰もが台本通りの生活を送って、愛なんてものがない冷たい家族を演じる。

 家柄と容姿目当ての令嬢も、血が繋がっていても冷たい関係の家族も、イアンにとってどうでもいい存在だった。

 友人と呼べるのは、自分を家から連れ出したクロウとアリナ達だけだ。


 ――そう思っていた。目の前の少女と対峙するまでは。


「くっ!」

「しぶといわね……!」


 赤い大剣で襲い掛かる炎を斬ると、右目に包帯を巻いた少女が忌々しそうに舌打ちをした。

 少女のそばには鬼の角を生やした女騎士が付き添い、紅蓮の炎を周囲に起こす。炎は石さえも灰に変え、あらゆるものを燃やし尽くす。


(――まるで業火みたいだ)


 地獄に堕ちた罪人を苦しめる猛火。

 少女の怒りと憎しみ、そして言葉では言い表せない渇望が炎として具現している。

 こんな感情を持ったこともないイアンにとって、目の前の少女が羨ましかった。


「余所見しないで!」


 少女が叫ぶと同時に、鬼女騎士は剣を振るう。

 イアンも同じく剣で防ぐも、斬撃は何度も繰り出される。一撃のひとつひとつがひどく重い。

 目の前の鬼女騎士が魔物であるのは明確だ。幽霊の如く足のない存在など、これまで研究で何度か見かけた魔物と合致する。華奢な体に真紅の鎧を纏っている美麗な雰囲気を醸し出しているが、人一〇人は簡単にぶん投げそうな腕力を持っているのは戦闘を通して確認済みだ。


 イアンの持つ鍔のない赤い大剣――《ルブルム》は、クロウの指導の賜物で作った業物だ。

 これまでの魔導具と同じで柄と剣身の間に魔法陣が刻まれている。一つの魔方陣に小さな魔法陣を刻むことで複数の付与が可能となり、《ルブルム》には二つの魔法が付与されている。


 一つ目は、重力干渉魔法。魔力を注ぐだけで大剣の重さを自在に操れるというものだ。イアンは自身が手にする時は軽くし、相手に攻撃を仕掛ける時は重くするという工程を繰り返している。

 二つ目は、強化魔法。その中でも物理攻撃でも魔法攻撃でも破壊されない『不壊フィルムス』を付与されている。だがその反面、武器の切れ味と医療の低下が発生するため、手入れの仕方もクロウから教わったから今は万全な状態だ。


 業火の魔物は持っていた剣を弓に変えると、鎧の間から漏れ出している火の粉が矢になる。弦を引いて放たれる矢を斬り消すも、矢は減るどころか増えるばかりだ。

 魔物の召喚には触媒となる物が必要となるが、この様子を見るに触媒として使われたのは炎、剣、弓だろう。


 しかも魔物は非物質化という現象を起こし、物理攻撃を無効にする特製もある。

 魔物との長期戦はなるべく避けるためには、術者である魔導士を討たなければならない。

 だが、アリナ達は無闇に人の命を奪う行為を忌避している。こんな状況下だというのに甘い考えだと思うが、イアンもできるならば穏便で済ませたい。


(大分賭けになるが、勝負に出るしかないな……!)


 直後、イアンの足が赤い魔力で包まれる。

 力を込めて地面を蹴り上げると、イアンの体は矢の如く疾走した。業火の魔物は反応が遅れたのか、動きが鈍くなった隙を突いてその胴体に刃を突き刺した。


「インフェルノッ!!」


 少女が悲痛な声を上げると、術者の魔力供給が不安定になったのと魔物へのダメージが蓄積許容量を超えたことで火の粉となって霧散した。

 魔物が消えたのを見計らってイアンは《ルブルム》を手放し、少女を地面に押し倒す。押し倒されたのと同時に少女の包帯が外れ、右目が露わになった瞬間息を呑んだ。


 黒目の部分さえ真っ白に染まり、虹彩が赤い六芒星の形になっている右目。

 イアンの視線がそこに集中されているのに気づくと、少女はきっと強く睨みつけた。


「それは……」

「お前達の魔法発展のためにと無理矢理された人体実験の成果よ。私は長が首謀者だと疑われた例の事件の生き残りよ」

「生き残り……まさか、お前がヘレン・グレイスか?」


 自分が対峙していた少女が、まさか事の発端となったあの事件の生き残りだと知り驚愕するイアンに対し、ヘレンは鋭く睨みながら言った。


「お前達の……国王のせいで、私は家族も友達も失った! 同じような目に遭った子達は、みんな惨い死に方をしたわ! なんで!? どうして私達がこんな目に遭わなければならないの!? 私達はただ……ただ普通に暮らしていただけ! 何も悪いことなんかしていないのにっ!!」

「――っ!!」


 ヘレンの慟哭が、昔の自分と重なる。

 兄の刺客によって拐かされ、石筒の中で真っ赤に燃える炭の山から引き抜いた焼きゴテが顔に迫ってきた時に同じことを言った。

 自分は悪いことはしていない。どうしてこんな目に遭わないといけない、と涙を流しながら叫んだ。


 その時に彼らは言った。

 悪いことしていてもしなくても、命令ならばするだけだ、と。

 そう言って左頬に焼きゴテを押し付けた彼らの、あまりの痛みで絶叫する自分を哀れんだあの目は今も忘れなれない。


 ヘレンもそうだ。

 命令だから人体実験の被検体にされた。家族も友達も命令によって奪われた。

 そして、それを奪ったのは自分達が守るべき国――それも国王によって。


「なあ……お前、俺と逃げるか?」

「……え?」


 それは同情だったのか、同じ目に遭った者同士の共感だったのか分からない。

 だけど、この少女に対して形容しがたい感情を抱いたことは確かだ。血で血を洗う戦いに身を投じる戦いに、これ以上彼女を巻き込むのはイアン自身が嫌だった。


「自分でも頭がおかしいと思ってる。でも……俺は、お前を殺したくない。生きててほしい」

「何、それ……そんなの、あなたになんの得もないわよ!」

「そうだな、得はない。……でも」


 ゆっくりとヘレンから体をどかすと、イアンは哀しげな顔で周囲を見渡す。

 美しい街並みは壊れ、血と死臭と黒煙が充満した地獄のような現実。

 その現実を生み出したのが国王ならば、自分はなんのために戦ったのか分からなくなる。


「俺は――もう国王の命に従えない。もう、疲れた」


 疲弊そのものが滲み出る声で呟いたイアンの姿に、ヘレンはゆっくり起き上がるとそっと左頬に触れる。

 イアン自身が忌み嫌っていた悪魔の翼を模した刺青に、ごわごわと触れるその手のぬくもりを感じながら慰安笑みを零し、ヘレンもまたどこかおかしそうに笑みを浮かべながら見つめ合った。


 その数十分後、イアンとヘレンの思しき衣服の切れ端が血だらけで見つかり、両軍共に二人が死亡したと報告された。

 二人が戦場から逃げて生きていることを知らない者達は、ただ静かに冥福を祈ることしかできなかった。



(クソ、クソ、クソ! どうしてこんなことになったんだ)


 血と煙が混ざった戦場。本来ならサンデスには無縁の場所になるはずだった。

 サンデスは見た目と同じように勉学も剣術も馬術も魔法も平凡だ。国王である兄と下の弟と比べられ、陰では『二流王子』と蔑まれた。

 変にプライドが高い性分のせいで自分より地位が低い者を軽視し、友人と呼べる存在はいない。


 何をやっても平凡で、人脈の欠片もない第二王子。

 そんな自分が人質に取られて、国から見捨てられるのは時間の問題だった。

 一応は王族として利用価値はあったが、国が見捨てた以上その地位もない。今まで見下してきた下民に成り下がり、年下の子供にさえ舐められる始末。


 サンデスは特別な存在になりたいわけじゃなかった。

 ただ王族として贅沢な暮らしをして、暗殺も跡目争いも関係なく幸せな余生を過ごしたかった。

 でも、世界はそう願うことすら許してくれなかった。


「いたぞ! 裏切り者だ!」

「殺せ! そいつの首を城門に晒せ! 国の汚点たるサンデスに死を!!」


 国が、自分を守っていた騎士が叫ぶ。

 裏切り者。国の汚点。恥知らず。首を。罰を。死を。

 自分の命を狙って集まってくる。まるで蝋燭の灯に惹かれた蛾のように。


「クソ……許さない……許さない……」


 こうなったのも全部魔法のせいだ。

 魔法なんてものがあったから、自分の人生はおかしくなった。

 アリナが、ジークが、兄が、サンデスの一生を狂わせた。


 死ぬのは嫌だ。まだ生きていたい。化け物を殺すまで、絶対に生き延びてみせる。

 ここまで狂わせおかしくさせたあいつらに復讐する、その時まで。


 逆恨みに等しい負の感情を抱いた裏切りの王子は、生への執着と憎悪を動力に戦場を駆ける。

 平凡でつまらないと呼ばれ続けたその顔は、涙でぐちゃぐちゃになりながらも口元は三日月のような笑みを浮かべていた。



☆★☆★☆



 ナイフで胴体を刺す。柄を使って頭を殴る。俊敏な動きを利用して相手の喉元を掻き切り、教わった魔法を使ってみっともなく命乞いをする大人を虐殺する。

『レベリス』の仲間内で【殺人の申し子】と称された少年――リンジーは、返り血を浴びながらまだ一三歳の少年は年不相応な蠱惑的な笑みを浮かべた。


 リンジーは花街にある高級娼館の高級娼婦であった母と、王侯貴族である父との間に生まれた子だった。

 母は高級娼婦として選ばれてもおかしくない美貌を持ち、吟詠も楽器も舞踏も娼婦の中では一番上手なうえに盤上遊戯にも強いことから、数多の男が負け知らずの母の体を抱こうと躍起になっていた。


 だが、当時上客の一人であった父が卑怯な手を使って母との勝負に勝ち、負けた母は勝負に勝った報酬として丸三日父に抱かれ続けた。

 最初からそのつもりだったのだろう。父は母との勝負を前にあらかじめ三日分の金を娼館に渡していて、その三日間は母の許しを請う声と泣き叫ぶような嬌声、寝台が激しく軋む音、さらに父の獣の如く荒い息と欲情駆り立てる言葉しか部屋の外から聞こえなかったという。


 父はようやく高嶺の花を最初に犯せることに対する愉悦と恍惚を感じて満足したのか、まるで打ち上げられた魚のように僅かな痙攣と細い呼吸しかしない母を労わりもせず娼館を後にし、それ以来二度と現れることはなかった。

 その数ヶ月、母はリンジーを身籠った。避妊もロクにしないままの行為に及んだのだから妊娠するのは当然で、娼館側は重い病気を患ったと嘘の情報を流して母を奥に匿い、その後リンジーを生んだ。


 娼館で生まれた子は女ならそのまま娼婦見習いにするが、男は花街を守る警備隊になるのが決まりだ。

 だが父には正妻と愛人三人の間に一切子に恵まれなかったため、跡継ぎとして生まれたばかりのリンジーを母の手から奪った。我が子を奪われた母がその数日後に首を吊って自殺したと知ったのは、それから数年後だった。


 父に言われるように勉学、剣術、習い事をこなす日々は辛かった。

 一つでも間違えれば両手が何週間も腫れが引かないほど鞭で打たれ、時間を一秒でも遅れたら食事を抜きにされた。ひどい時は冷たい地下室で何日も勉強をさせられた。

 跡取りとして立派にしたいという父の異常な教育に耐え切れず、リンジーは家を飛び出して生まれた場所の娼館に戻った。その時に母が死んだことも知った。


 母が死んだことさえショックだったのに、面倒事を持ち込まれるのを疎んだ娼館は置いてくれと請うリンジーを追い払われ、リンジーは齢七歳にして絶望に落とされた。

 父からの追手から逃れるように貧民街に隠れ、料理店のゴミ箱で虫の死骸やネズミの毛、ゴキブリの羽がついたほとんど骨しかない肉を齧り、パンや果物を売る店から商品を盗んだり、時には夜遊びする貴族の坊ちゃんや旦那を殺して金品を奪って暮らした。


 父の異常さ、母の死、娼館の拒絶、そしてみずぼらしい自分をゴミのように見る通行人の目。

 リンジーの心を壊すには充分で、己の絶望を消すように人を殺すことに躊躇しなくなった。人が嫌がることも、痛いところも全部知っているリンジーにとって、殺人は天賦の才だった。


 今まで金目当てだった殺人が無差別になり、その腕を見込まれて反魔法勢力にスカウトされるのは時間の問題だった。

 魔導士といえど相手は付け焼き刃の剣術と魔法しか学んでいないお坊ちゃんばかりで、魔法なしで殺すのは容易かった。

 だがジークという男が現れ、自分に魔導士の素養があると知ると魔法を教えてくれた。丁寧な指導で教わったリンジーは、魔法を国の人間をたくさん殺すための道具にした。


 ある者を風魔法で胴体を真っ二つに切り裂き。

 ある者を炎で全身が炭化するほど黒焦げにし。

 ある者を重力で押し潰して臓物をぶちまけさせた。


 快感だった。未来への希望しか抱かなった者が絶望で歪む顔を見るのが。

 清々だった。自分をバカにした者が無残に死んでいく様が。

 歓喜だった。ただの無力な子供だった自分がここまで人を殺せることが。


 血に塗れながらも物言わぬ死体に哄笑を上げたリンジーを、誰もが勝てないと思った。

 そんな時、狂い歪んだ少年と対峙する者がいた。


【創作の魔導士】クロウ・カランブルク。

 彼は両手に黒い剣を携え、リンジーを静かに睨みつけていた。彼の真紅の瞳に宿っていたのは憤怒とわずかな憐憫。

 高笑いしながら襲い掛かるリンジーを、彼は瞬殺した。


 彼が剣を振ったのは三回。

 一回目はリンジーのナイフを弾き、二回目は少年が隠し持っていたもう一本のナイフを弾き飛ばし、三回目は峰で彼の腹にめり込ませてそのまま地面に叩きつけた。

 強化魔法で腕力が通常の倍もあるクロウの攻撃は、貧弱なリンジーの骨をいくつも折り、口から大量の血を吐かせた。


「がぼっ!? げぇ!? がはっ、あが……!?」


 状況が呑み込めず血反吐を吐きながら地面に倒れたリンジーを、クロウは哀愁に満ちた目で見下ろしながら言った。


「命までは奪わない。お前には、まだ未来がある」


 戦場だというのに甘い言葉を言って、クロウは止めを刺さないまま立ち去った。

 マントを翻して歩き去るその姿は、リンジーに途轍もない屈辱を与えた。

【殺人の申し子】と呼ばれた自分に止めを刺さず、未来に希望すら抱いていないのにふざけた言葉を残した。それがリンジーの自尊心を大きく傷つけた。


「許さない……許さない……、お前は絶対に殺してやる! いつか必ず、この手で! それまで生きてやがれ、クソったれめぇ!!」


 泣き叫ぶようなリンジーの罵声を聞きながら、クロウは一度も振り返らずその場を去った。



 ――ここ数十日は、地獄だった。


 戦場となった王都を歩きながら、クロウはこれまでの記憶を思い出す。

『レベリス』が王都に侵攻し、これまで税を搾取した悪徳貴族だけでなくなんの罪もない国民も等しく死に、中には産まれたばかりの赤子の死体すらあった。

 幸運にも生き残った者達は宮殿に保護されているが、あの鉄壁の守りが破れるかは時間の問題だ。


(そうなる前に終わらせる)


 もう無辜の民が死ぬ姿も死体も見たくない。

 愛しい少女と友が血に塗れ、苦しげな顔で敵を殺す姿は見たくない。

 これ以上の犠牲を増やす前に、ジークと会わなければならない。


 死体と壊れた武器、瓦礫が転がる道を歩き続け、目的の人物が目の前に現れた。

 裾に白いレースを施された紅いローブは、彼の純白の髪と相まって憎らしいほど似合っている。青と紫に変わる瞳がクロウの姿を映すと、鋭く細めた。


「クロウか、久しぶりだな」

「ああ、久しぶりだな。お前、脱獄してから俺達がどれだけ心配したと思ってる? あちこち探している内に『レベリス』の長になりやがって、ふざけんなよ」

「……それについては本当にすまないと思っている。だが、私に罪をなすりつけ、アリナを狙う悪魔の首を跳ね飛ばすまで引くわけにはいかない」

「悪魔……?」


 クロウの脳裏に聖書に出てくる禍々しい悪魔を想像するが、目の前のジークがゆっくりと剣を抜いた。

 あの日、アリナに渡した彼女の剣と対となる剣を。


「……本気か」

「逆に聞くが、私が本気じゃなかった時はあったか?」

「チッ……ああそうだな、お前はどんなことでも本気で挑んだな。なら、俺も全力でお前を叩きのめす!!」


 クロウの叫びと共に、石畳の上に転がる欠けた刃を黒い刃を持つ双剣に変える。

 英雄の一人の本気を肌身で感じながら、ジークも剣を構える。

 弱風によって砂塵が舞う中、どこかで小石が転がる音がした。コンッ、コンッ、コンッと三回跳ね、コトンッと石畳に落ちた。


 次の瞬間、両者は地面を蹴り上げ、刃を交えた。

 硬貨の裏表のように全く逆の容姿をした英雄と叛逆者の激突が、今始まる。

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