第160話 英雄達の〝原典〟6

「――さて、今までの経緯は全てベネディクトから聞いた。次はお前だ、アリナ。お前は一体どこでその『奇跡』を手に入れたんだ?」


 嵐が止み、領民がアリナの起こした『奇跡』について大騒ぎしている外とは反対に、屋敷の中は重い沈黙が下りていた。

 大雨で濡れた体を温めて生地の薄い寝衣しんいに着替えたアリナは、両親と兄夫婦からの視線を浴びながらも毅然な態度を貫いている。ティレーネはそんな姿を見るも、部屋の隅で静かに黙り込む。


「……お父様、今まで黙ってごめんなさい。私は一〇歳の誕生日の時に、〝神〟の声を聞いたのです」


 アリナの一言に室内がざわっと震えた。

 本当は〝神〟本人であるヤハウェと出会ったからだが、彼の存在は約束で明かさないことにしている。家族に対して嘘をつくのは心が痛むが、それも彼を守るためならば普段は嫌う嘘をつく覚悟もある。


「〝神〟の声……だと……!? アリナ、何故そんな大事なことを言わなかったんだ!?」

「それは……〝神〟との約束なのです。私ごと利用する者から狙われないために、時が来るまで明かさないことを条件に『奇跡』を教わってもらいました。今まで外に出かけていたのはそのせいなのです」


 自分でも驚くほどすらすらと出る言い訳は、半分の嘘と真実を混ぜ込んだものだ。

 本当ならヤハウェのことも話したかった。彼がどれだけ優しくて、『奇跡』だけでなく色んなことを教えてくれたのだと声を大にして言いたかった。


 でも、それはアリナの望みであって、ヤハウェの望みではない。

 自分の望みを叶えるために他者を巻き込むことは間違いだ。巻き込むならば、たとえ心が痛んでも嘘をつくことさえ厭わない。

 そのおかげで今まで嘘がついたことのないアリナの言葉は、両親達を信じさせるいい判断材料になった。


「そうなの……アリナ、あなたのおかげで領地を守れました。ですがいくら民とはいえ、あなたも一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていたのですよ。わかりましたね?」

「……はい、反省しています」

「分かればよろしい。……今日は疲れたでしょう、部屋に戻りなさい」

「はい、失礼します」


 母の言葉にアリナは小さく頷くと、一礼をして部屋を出た。

 ティレーネはその後ろをついていき、アリナが部屋の扉の前で足を止めると同じように足を止める。


「ごめんね、ティラ。ずっと黙ってて」

「い、いいえ! むしろあんな大変な秘密を話すのはとても勇気がいります! お嬢様はあまりお気にしないでください」

「そうね……ありがとう。じゃあ私はもう休むわね、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」


 アリナが部屋に入るまで頭を下げるティレーネの姿が扉の向こうに消えると、ふらふらとした足取りで寝台に寝転ぶ。

 全身に襲い掛かる倦怠感は今まで大技なんてものを使っていないアリナの体に負担がかかり、お風呂の時もメイドの手を借りないと湯船から出ることもできなかった。今は大分緩和されているが、こうして枕に顔を埋めているだけで眠気が襲ってくる。


(……ダメよ、まだ眠ったら。これからのことを考えなきゃ……)


『奇跡』について明かしてしまったのは不可抗力だが、ヤハウェの言った自分は彼が今まで見てきた〝神〟の使いの末路を通るかもしれない。

 現にあの『奇跡』を目撃した者達はアリナを真の『神に愛された者』として崇めており、このままでは他の領地だけでなく国全体に広まる可能性が高い。


(そうなる前に一度ヤハウェと話をした方がいいかもしれないわね)


 眠気と戦う頭でそう考えながら、夜空に浮かぶ三日月を見つめた。



 コンコンと扉が叩かれる音に反応して、いつの間にか下りていた瞼を開けた。

 普段よりゆっくりとした動作で起き上がると、アリナはやや眠たげな声色で「誰?」と声をかけた。


「私だ。開けてくれ」

「兄さん……? ええ、分かったわ」


 いつもなら自分から扉を開けるはずの兄の違う様子に首を傾げるも、言われたとおりに扉を開けると羊皮紙の束と数冊の本を抱えたベネディクトの姿を見て目を瞠る。

 ベネディクトは持ってきたそれを勉強机の上に置くと一息つく横で、アリナはランプの灯を点けるとおもむろに一冊の本のページを開く。


 ページを開いた本に記されていたのは、アリナがヤハウェと共に学んだ『奇跡』についての記述。

 しかもすべての『奇跡』についての個人的な解釈を入れている。中にはアリナだけでなくヤハウェさえ考えられなかった、数ある『奇跡』を応用し生み出した新たな『奇跡』まである。


「兄さん、これは……」

「すまない、私はお前が『奇跡』について学んでいることを知っていた。ここにあるものは全て、部屋にあったものを持ち込んで私なりにまとめた物なんだ」


 ベネディクトの言葉にアリナは息を呑んだ。

 まさか実の兄が勝手に部屋に入っただけでなく、これまでまとめた『奇跡』関連の本と羊皮紙を持ち込んだという事実は、妹であるアリナさえ信じられなかった。

 ベネディクトは誠実な男性だ。たとえ部屋に入るにしても事後報告くらいはするはず。それさえなかったことさえもアリナを驚かすには十分だ。


「私がしたことは兄としても男としても最悪だ。勝手にお前の秘密を知ってこんなものを書いたのだからな」

「…………いいえ、兄さんのせいじゃないです。私が勝手に隠していただけだから」

「……そうか。なら、率直に言おう。私はこの力が悪しきものに変わるのは時間の問題だと考える/思う。それはアリナだって分かっているだろう?」


 突然の宣言にアリナは目を見開くも、静かに頷いた。

〝神〟がまとめたこの『奇跡』は、使い方次第で薬にも毒にもなる。誰かを幸福にする佳きものになれば、誰かを不幸にする悪しきものにもなる。

 もちろん、そのことは最初から気づいていた。それでも自分でも制御できない知識欲が『奇跡』の全てを知りたがった。


「きっと今回のことは王都にも伝わる可能性がある。カロン様が王位に就いたとはいえ、フランス王国とは拮抗状態している。これを機に『奇跡』を軍事目的で利用するかもしれない」

「そんな……この『奇跡』は、そんなもののために使わない! もっと別の、隣人のために使うべきものです!」


 イングランド王国とフランス王国は領土が近いため、資源の奪い合いが百年近く水面下で行われているのは領国では常識だ。

 軍事においてはフランス王国が一歩前に出ていて、イングランド王国がまだ数十年前の技術を利用している。それは数ヶ月前に崩御した前国王が、私腹を肥やすためだけに国税を軍事に回さなかったのも原因の一つだ。


『奇跡』の中には簡単に人の命を奪えるものもある。

 以前、アリナが鴨を仕留めた時に使った『奇跡』さえも威力を強めれば、人間の首なんて手折った花のように落とせる。


「分かってる。けど、カロン様がその力に目をつけるのは確かだ。そう遠くない内に呼び出されるかもしれない」

「そんな……そんなことになったら、私は一体どうすれば……」


 アリナは、ただ己の心に従っただけだ。

 己が為すべき『偉業』を為すことこそが、アリナが『奇跡』を学ぶことを決めた要因だ。その『偉業』の中に、『奇跡』を軍事利用するというものは含まれていない。


「……アリナ、この本だからきっと分かってると思うが、私はすでに『奇跡』についての知識は全て把握している」

「? そうですね」

「それってつまり、『奇跡』の強さを分類させることもできるということだ」

「……! それって――」

「ああ、故意に軍にわざと弱い『奇跡』を教え、強い『奇跡』を教えないようにできるということだ」


 ベネディクトの言葉に、アリナの顔色が暗いものから明るいものに変わる。

 確かに『奇跡』はどれも簡単なものから難しいものまであり、難しいものほど威力が強く、簡単なものほど威力が弱い。

 もし『奇跡』を自分達で管理できるならば、相手には悪いがアリナが想像した最悪の事態を招く可能性が低くなる。


「兄さん、それは素敵な考えですね! ……あれ、でもちょっと待って。その言い方だと、まるで兄さんも『奇跡』を管理するっていう話になるような……」

「もちろん、私も『奇跡』を管理しようと考えている」

「……はい!?」


 兄の宣言に素っ頓狂な声が出た。

 ベネディクトは次期男爵としてこの地を治める義務がある。『奇跡』を管理するなんて一見簡単そうに見えて実はかなりの大仕事、領主の仕事を含めると膨大な量になる。


「兄さんは領主としてのお役目があります! 『奇跡』は私の手でちゃんと……!」

「残念だけど、父にはすでに話はしてある。それに領主になるにはまだまだ半人前だとも言われたから、しばらくはアリナの面倒を見るよう言われた」

「なっ……!?」

「それに『奇跡』のことを黙っていた私にも責任がある。……たまには兄として、妹の重荷を背負わせてくれ」


 すでに先手を取られ、はくはくと口を動かすもアリナの目からは涙が零れた。

『奇跡』のことは、ずっと独りで抱えるつもりだった。これはアリナとヤハウェの二人でやり始めたことで、第三者に伝えるつもりも教えるつもりもなかった。

 それを、この兄は背負うと言うのだ。勝手に部屋に忍び込んで、勝手に『奇跡』について知ったのに。


 なのに――なのに、嬉しかった。

 ヤハウェ以外話してはならない『奇跡』を共有する存在がいるという事実は、三年も隠し続けていたアリナにとって、まさに天から与えてくれた祝福そのものだ。


「本当に……妹離れできない困った兄さん、ですね……!」

「兄離れできない妹に言われたくないな」


 せめてもの嫌味を言うと、見事に嫌味の応酬をされた。

 互いに顔を見合わせ、ぷっと噴き出し笑う。

 笑い合う兄妹の姿に、こっそり覗いていたエリーゼの顔には安堵しかなかった。



☆★☆★☆



 翌日。アリナはヤハウェの小屋に来ていた。

 いつものように『奇跡』を宿した石を首に提げて、動きやすい服装で森を歩く。

 嵐の影響で自分の腕より何倍も太い木は、ここに来る途中で何本かへし折れていて、茶色く濁った川の流れを堰き止めているせいでひどり有様だ。


 森で育った動物達は倒れた木々の下敷きになって事切れ、巣があった場所らしきところには小さい卵が割れている。ほんの数日前まであった命がなくなったという光景は、自分達のところだけでなく他の土地でもあるのだと思うと胸が痛む。

 ブーツの先に泥がつくのも気にしないまま、荒れた道を進んだ。


 今は昔より文明が栄えてきたとはいえ、嵐だけでなく疫病や飢饉で救われるはずの命が失われていく。

 全ての命を救うなんて〝神〟でさえ不可能なのに、自分ならばできると豪語するつもりはない。

 でも、もしその手助けができるならば、『奇跡』をこの手で管理したい。


「……やあ、そろそろ来ると思ってたよ」


 辿り着いた小屋は、三年前と全く変わらない。

 濁った川の流れで動く水車、茅葺屋根をしたレンガ造りの小屋、軒下から垂れさがる藁の縄で括りつけられている干し肉や薬草。

 どれも昔から変わらず、一切傷がついていない。その前に立つ〝神〟は相変わらず美しいままだ。


 膝まで伸ばした銀色の髪と同色の瞳、黒を基調とした衣装と川で拾った石で作った装飾品。そして、自分を見つめる優しい眼差し。

 自分は少し成長して背が伸びているはずなのに、出会った頃と変わらない女の子と思えないほどの細い体つきしているのに、未だに彼が大きく見える。


「……ヤハウェ。『奇跡』のこと、ばれちゃった」

「そうだね」

「ヤハウェは……どこかに行くの?」

「うん」

「どこに行っちゃうの?」

「ごめんね……それは言えないんだ。言ったとしても、君では絶対に辿り着けない場所だから」


 悲しげに歪み始める〝神〟の顔。その瞳に映る自分も同じ顔をしている。

『奇跡』が多くの者の目に晒された今、宮殿にまで伝わっているはずだ。いくらアリナが『〝神〟の声を聞いた』と言っても、誰かがヤハウェの存在に勘付く可能性もある。

 人前に出ることを嫌う〝神〟にとって、一刻も早く立ち去って誰も来られない場所で姿を隠すしかない。


「……ごめんなさい、こんなことになって……」


 衝動的に彼に抱き着いたアリナの瞳から、ぽろぽろと真珠のような涙が零れ落ちる。

 自分と出会わなければ静かに暮らせたはずなのに、彼を困らせることばかりしてしまった。

 何度謝罪したって足りないくらい、アリナの心の中はヤハウェに対する罪悪感でいっぱいだ。


「……泣かないで。君と関わらなくても、僕はいつか元の場所に戻らなければならなかった。それが今日だっただけだよ」

「ヤハウェ……」


 骨張った細い指先で優しく涙を拭われる。

「ごめんね」と優しい声で頭を撫でられる。

 迷惑をかけた自分にこんなに優しくしてくれるなんて、どこまでいい人なのだろう。


 互いに立場が違っていたら、きっと今頃は仲の良い友人としてそばにいてくれたのだろうか。

 そんなのはただの妄想でしかないと分かっていても、きっとそうだったに違いないと思わせた。


「僕はね、君と過ごしていた時間が一番楽しかったんだ。木の実を採りに行った時に木の根に足を躓いて転んだり、釣った魚は大きくて服が濡れるのを構わず抱えて僕に見せたり、一緒に毛皮の上でお昼寝をしたり……今まで過ごした時間の中で、あの時以上に幸せなことなんてなかった」

「そんなの、私だって……同じだよ……!」


 涙を流すアリナを見つめながら、ヤハウェは慰めるように互いの額を合わせた。

 姿を変えてこの星の時間の流れを見守り続けながら、人の目に触れないように隠れて暮らしていた。

 だけど、アリナと出会って今までなかった幸せを感じられた。同じものを食べて、流木や貝殻を拾いあって、陽だまりと花の香りに包まれながら一緒に寝る。

 他愛のない平穏な日々は、ヤハウェにとって一生忘れられない宝物だ。


 だけど、それもアリナも同じだった。

 領地で遊んでくれる子はいたが、ヤハウェのような時間は過ごせなかった。家庭教師でさえ知らないことを教えてくれて、一緒にいるだけで楽しかった。

 怪我をしてしまった日も、勉強ばかりしていた日も、時々お昼寝をしたりおやつを食べ合った日も、アリナにとって大切な思い出だ。


「お別れに君に『奇跡』の名前を付けようと思うんだ」

「名前……?」

「ずっと考えてたんだ、この『奇跡』の名前を。それで……昨日思いついたんだ。魔さえも退く法則の力――『魔法』なんてどうかな?」

「魔法……素敵な名前ね」

「よかった、気に入ってくれて」


 魔法――アリナとヤハウェが一緒に学んで作り上げた『奇跡』の名前。

 この名に恥じないよう、魔法を佳きものにしようと心に誓う。


「それでね、君にだけこの世界の〝秘密〟を教えてあげる」

「秘密……?」


 いつもと同じ声なのに、ひどく胸騒ぎがする。

 思わず顔を見ると、〝神〟は優しくも悲しそうな笑みを浮かべている。

 今まで見たことのない表情に、アリナはひゅっと息を呑む。


「この世界の〝秘密〟、それはね――――」


〝神〟の薄い唇を動かしながら語られるのは、一人の少女では背負いきれない〝秘密〟。

 言葉を失う少女の全身が小刻みに震えながらも、琥珀色の瞳は現実から目を逸らさないように〝神〟を見つめる。

 風と葉、水と鳥の音しか聞こえない森の中で、語り終えたヤハウェは再び微笑んだ。


「……ごめんね、こんな〝秘密〟を打ち明かして。でも、君ならばいいと思ったんだ」

「えっと…………その、とても驚いたけど……、ヤハウェは一度も嘘ついたことないから。……うん、ちょっと理解するまで時間がかかるけど、この〝秘密〟は墓場まで持っていくことをあなたに誓うわ」


 未だに震えが止まらないのに強がる少女が愛おしく見えて、〝神〟は陶器のように白い額に唇を落とした。

 それは同じ時間を過ごした少女への感謝と謝罪、そして幸せになって欲しいと願いを込めた優しい口づけだった。


「ありがとう……アリナ。僕は君のことが大好きだよ、ずっと見守っているからね」


 微笑みながら囁いた瞬間、アリナの視界が真っ白に染まる。

 あまりの眩しさに目を瞑り、瞼の裏でも感じられる光が収まるとゆっくりと目を開ける。

 目の前にあったあの宝物のような小屋は、なんの痕跡を残さないまま消えていた。

 もう二度とあの水車の音も聴けず、素敵なものばかりがある小屋の中も見られない。


「あ……はは、あはは、あはははっ。ヤハウェ、これはちょっとやりすぎだよ……!」


 自分への未練を丸ごと消した〝神〟の行動に、アリナは思わず笑ってしまった。

 涙を流しながら笑う自分は、きっと第三者から見たらおかしいのだろう。それでもヤハウェの気遣いが自分の予想より斜めを行ってしまい、笑いが止まらない。


 ヤハウェの姿も小屋もなくなった思い出の場所で、アリナは自分の気が済むまでずっと笑い続けた。

 それ以来、ヤハウェがアリナの前に再び現れることはなかった。

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