第159話 英雄達の〝原典〟5

「――『光の矢レクス・サギッタ』」


 琥珀色に輝く光の矢が、緑の葉が生い茂る木の間をすり抜ける。

 光の矢は川をのんびり泳ぐ鴨の首に命中し、しゃがれた声を上げながら絶命する。様子を見に来たヤハウェが絶命した鴨を手に取ると、そのまま『奇跡』を使ったアリナの方に戻る。


「命中していたよ。精度も威力も十分だし、もうほとんどの『奇跡』を習得したんじゃないかな」

「そうかな? でも、ヤハウェが言うならそうかも」


 にっこりと笑うアリナの顔に、ヤハウェは眩しそうに目を眇めた。

 今まで人と関わることを避けていたヤハウェにとって、アリナはこれまでの時間の中で一番長く付き合った人の子。

 同じ時間を過ごし、同じものを見て、同じように触れ合ったのは初めてだった。


 アリナと出会ったあの日から、すでに三年近く時間が流れた。

 過剰なほどのフリルもレースがない質素な淡い藤色と藍色のドレスは、彼女の琥珀色の髪をより映えさせていて、顔立ちもどの貴族令嬢よりも可憐で美しい淑女そのもの。

 日が経つにつれて彼女の神秘的な雰囲気が際立ち、今では貴族令息だけでなく国内全ての男性の視線が釘付けになる令嬢へと育った。


 今では国内の貴族令息から抱えきれないほどの恋文や贈り物を贈られ、婚約の話も何十件も持ち上がるほどだ。


「そういえば、例の『紅玉の君』からの手紙は来たの?」

「……まだよ。でも明日辺りには来るかもね」


 仕留めた鴨を川の水につけて血抜きをしながら話を振ると、アリナは頬を薔薇色に染めながら髪の毛を弄る。

『紅玉の君』というのはヤハウェが読んでいるあだ名のようなもので、本名はクロウ・カランブルクと言うらしい。この国の第三王子の従者として仕える公爵令息だが、出自は貧民街だと聞く。


 これを聞いた時点で血統を重んじる貴族からは誰も相手にされないだろうが、アリナを含むエレクトゥルム男爵家はそんなことは一切気にしなかった。

 彼女の家の祖先がこの地を開拓した放蕩者であったのもそうだが、どちらかというとこの家の血を繋げるという意味では身分というのは気にしない性分だ。


 現に二年前にベネディクトの妻となった女性は王都に店を構える商家の娘だ。

 その性分は両親と兄だけでなく彼女も見事に遺伝し、彼への手紙を月に二回ほど交わすようになった。


 クロウの手紙の内容は王都で働いているというのもあって、庶民の流行品や工房で働いていた時の話だった。

 好奇心旺盛なアリナにとっては目を輝かせるほど興味を惹かれ、他愛のない話しか書かれていないが三年近くも文通が続いているのはヤハウェが知る限り『紅玉の君』だけだ。


 それ以外の手紙は全て恋文と婚約の申し込み、後はお茶会の誘いばかりだった。


「ねぇヤハウェ、『奇跡』をもっと使いやすくする方法とかないかしら? この勉強方法で第三者に教えるとやっぱり手間があるというか……」

「うーん、言われてみると……そもそもこれは僕が分かればいいやって思って集めたものだしね。分かった、後で考えてみる」

「ありがとう。でもその前にさっき獲った鴨を使ってご飯にしましょう」


 花嫁修業で料理を嗜んでいるアリナにとって鶏の首を絞めるのも、お腹を切って内臓を取り出して洗うのもへっちゃらだ。

 鼻歌交じりで鴨の羽むしりをする気満々のアリナの後ろ姿を見ながら、ヤハウェは悲しそうな笑みを浮かべた。



(これは……ここをこうすれば、もうちょっと効率が良くなるな)


 ベネディクトが使う執務室は元々勉強部屋として使っていたもので、アリナが『奇跡』について記された羊皮紙を見つけて以降、時々部屋に入り込んでそれらしい本や羊皮紙を手にこの部屋に持ち込んだりもした。

 もちろん夕方になる前には返しているし、通りすがりの使用人達にはこのことは秘密にするよう口止めもしている。


 アリナが学んだ代物は、完璧に人の手には余るものだ。

 彼女が一体どこでこんなものを教わったのか聞きたいが、性格を考えると教えた人間の許可を得るまで話すことはないだろう。

 妻は自分の妹が手を出しているものについて調べているということも明かしたが、彼女はアリナの秘密を暴こうとする自分を咎めることなく、逆にアリナがもし悪行に走ったら絶対に止めるようにと約束まで交わした。


 妻エリーゼとアリナは婚約者だった頃から仲が良かった。ああして家族となった義妹のことを気にかけてくれるのは純粋に嬉しいものだ。

 だけど、根本的な解決はしていない。


(……そろそろ、これについて話さないとな。少なくとも――誰かの耳に入る前に)


 人智を超えた力は、人に幸福と不幸をもたらす。

 アリナがもしこの力を佳きものにしようと思っても、第三者によって悪しきものに変わってします。

 そうなったら、一番心を痛むのはアリナだ。


(――そうなる前に、この問題を片付けなければならない)


 明日、ちゃんと話そうと心に決めながら、アリナが屋敷に戻る前に持ち込んだ羊皮紙と本を返しに行った。



『親愛なるアリナ・エレクトゥルム男爵令嬢様

 春の風が吹き、大地に眠っていた花々が目を覚ます季節になりましたね。王都の街ではカロン様の生誕祝いのために街中を赤い薔薇と金のリボンで飾っています。我が家では私が打った剣をお贈りになる予定です、しかもカロン様直々のご要望で。

 私のような未熟者の剣をご所望するなんて驚きですが、以前自分が打った剣で他の騎士の方々と鍛錬した時、通りかかったカロン様のお眼鏡に叶ったらしいのです。それで今年の祝いの品に私の剣を入れてくれ、とご命令を仰せつかりました。

 その剣はあと鞘を完成させればいいだけです。黒革の柄、中央に柘榴石を埋め込んだ金の鍔、そして鋭い両刃。我ながら会心の出来だと思います。自分の作品をあなたの目に入れられなくて残念です。

 そういえばそちらでは春は何をするのですか? カロン様の生誕祝いはもちろんですが、春の感謝祭として春に取れた野菜や果物を料理や飲み物にして一週間ほど祝う行事があります。

 次の時にぜひ、お教えください。

                      クロウ・カランブルク公爵家令息』


『親愛なるクロウ・カランブルク公爵令息様

 とても暖かで穏やかな季節になりましたね。領地でも作物の苗が植えられ、皆が秋の収穫まで待ちきれない様子でした。

 カロン様のお贈り物を作って献上する大役なんて、国内の貴族では覚えている限りではあなた様がその記念すべき一人目になったことをお慶び申し上げます。私もよくお祝いとして花や刺繍入りハンカチを贈りますが、そろそろ別の物を贈ろうと考えています。

 家族の誰かの誕生日には王都まで行って贈り物を選ぼうと思うのですが、その時はぜひあなた様の助言があると嬉しいです。

 それと、エレクトゥルム男爵家領でも感謝祭があります。王都と違って二、三日しか行いませんが、誰もが楽器を手に歌ったり踊ったりするのです。私はいつもその踊りに参加していますけど、少しはしたないと思うでしょうか? でも、踊りは良いものです。舞踏会のダンスもいいですが、やはり形に囚われない自由なダンスの方が私は好きです。

 ご機会がありましたら、ぜひあなた様を領地にご招待したいです。お返事待ってます。

                      アリナ・エレクトゥルム男爵令嬢』


 羊皮紙の最後に自身の名を書いて、アリナは満足げな表情を浮かべる。

 彼との文通は三年も続いているが、今までの男性からの手紙のようにすぐに飽きるというものはなかった。最初、初めて聞く名に首を傾げたが、文章に『あなたから白薔薇の花冠を頂いた者です』と書かれていたのを見て、差出人が交流会であの花冠をあげた少年だと気づいた。


 自分が貧民街出身だということも包み隠さず明かし、こうして文通をする許可を求めた辺りを読んだ時、あの夜空色の髪と紅玉の瞳を思い出して文通をすることを許可した。

 彼の手紙の内容は宮殿での生活や城下町の出来事、さらには今も足を運ぶ鍛冶屋でのことなど、あまり王都に足を運ばないアリナには興味深いものばかりだった。


 アリナも領地でのことを書くと、クロウも続きを急かす子供みたいに色々と聞いてくれているのを知ると嬉しくなる。そうしている内に文通していた手紙がもう数十通も超えてしまった。

 慣れたように封蝋にエレクトゥルム男爵家の家紋を捺していると、窓の外で雨音が聞こえ始めた。


「雨……? でも風も強いし、嵐が来るのかしら」


 室内にいても聴こえる風音にアリナの顔色が不安に彩られる。

 嵐は嫌いだ。作物の根ごと畑をダメにし、厩舎や家屋が半壊されて、動物達は逃走してしまう。川もいつもの透明さが嘘のように濁って流れが速くなる。

 嵐が来ませんようにと祈りながら、アリナはランプの灯を消した。



☆★☆★☆



 翌朝、嵐はやってきた。

 領地に尋常な被害を与える災害は、土地だけでなく領民の命さえ関わる問題だ。他と比べて少し高い丘にある屋敷の周囲は幸い嵐の影響はあまり受けておらず、室内には近隣住民が深夜から避難している。

 暴風が起き、激しい雨音が家の窓ガラスを打ち付けて始終鳴らし続ける。時々聞こえる雷に「きゃあっ」と近くにいたメイドが悲鳴を上げた。


「大丈夫? ティラ」

「は、はい……」


 アリナと同い年で侍女であるティレーネ・クリスティアは、怯えた表情で窓の外を見ている。彼女と別に双子の妹であるフィリエ・クリスティアがいるのだが、彼女は去年宮殿の侍女の募集の張り紙を見て王都へ行ってしまった。

 顔はそっくりなのにこの屋敷に雇ってもらった恩で我が家に一生の忠誠を誓った姉と違い、フィリエは貴族の正妻か愛人になって贅沢がしたいと言っていた。


 アリナもフィリエとは特別仲が良かったというわけではないが、本人の意思を尊重させたとはいえ離れ離れになると一抹の寂しさがある。


「ティラは相変わらず雷が苦手なのね、フィラはへっちゃらだったのに」

「あの妹は神経が図太いだけなんですっ、私は繊細なのですよ!」

「はいはい、分かってる」


 雷が苦手な令嬢はいくらでもいるが、ティレーネはそれを頑なに認めない。

 彼女の矜持がそうさせているのだろうが、少しは素直になって欲しい。


「ティラ、兄さんは?」

「ベネディクト様は他の方と共に被害状況の把握をしに、旦那様と奥様、それとエリーゼ様は避難した領民の世話と被害について話し合っています」

「……そう」


 両親とエリーゼが屋敷にいることに安堵するも、外にいるベネディクトがいると聞いて胸がひどくざわついた。

 アリナが産まれる前にも何度か嵐があったが、その時は死傷者も出したし家の人間が死んだ事例もある。脳裏に無残な死体となった兄の姿を想像し、ぞっと背筋を凍らせると踵を返した。


「ティラ! 私も兄さんのところに行ってくる!」

「アリナ様!? お待ちください!」


 ティレーネの制止を無視し、フード付きのローブをかけると屋敷の近くの厩舎にいる愛馬に鞍を付けて跨る。慣れた手つきで手綱を引いて馬と共に走り出すアリナの姿に、両親が悲鳴交じりの声を上げるのを聞きながらも止めることはなかった。



 馬を走らせて行く内に雨足が強くなっていった。川は今まで見た中では一番ひどい濁流を発生させ、一緒に田植えをした畑も浸水してしまっている。

 雨降る外に長時間いたせいでローブはぐっしょり濡れているが、それでも気にせず馬を走らせた。


「――急げ! 早く逃げろ!」

「!」


 兄の声に気づいて手綱を引いて馬を止めると、兄が一〇を超える男達を高所へと誘導していた。

 ベネディクト達がいるのは用水路の中で一番大きな場所で、そこの水が他と比べて濁流が激しい。脇に積んだ砂袋で洪水を防ごうとしているが限度があるのだろう、袋同士の空いた場所から水がちょろちょろと漏れ出している。


 漏れ出した水が堰を切るように砂袋を押しのけて放水し、激流が男達に襲い掛かった。

 野太い悲鳴を上げて用水路に呑み込まれそうになる領民と助け出そうとする兄の姿を見て、アリナは鞍から飛び降りると両手をかざしながら詠唱する。


「『停止スプシスト』!」


 かざした両手から琥珀色の光が溢れ、民と兄の命を呑み込もうとした水はぴたりと動きを止めた。

 誰もが目を見開いて驚くと、目が自然とアリナの方へ集まっていく。

 ベネディクトさえ目を瞠る姿を横目に、次のなんの『奇跡』を使うか思案していた。


(いくら川の流れを止めても、こんなのは所詮付け焼き刃。もっと一番いい解決方法は――この嵐を鎮めること)


 気候に干渉する『奇跡』は、操作が一番難しい。

 頭の中で気候をどう扱い、どのような結果に導くのか明確にイメージしなければより悪い結果になってしまうと、ヤハウェに何度も注意された。


 アリナは目を閉じて、脳裏に嵐が止んだ光景を浮かべる。

 水で泥となった大地は太陽の光を浴びて白銀に煌めき、吹き抜ける風には雨の湿った匂いが混じる。それは不快ではなく、むしろ新しい光景の一つとして心地よいもの。


(絶対に――止めてみせる!!)


 普段あまり見ない真剣な顔立ちに、ベネディクトだけでなく民達も息を呑む。

 今まで見た人当たりよく慈愛に満ちた令嬢の顔ではない。一人の少女として、そしてこの地を愛する者としての決意を滲ませるその顔は、彼女の神秘的な雰囲気をより際立たせる。


「――『反転の空インヴェルシオ・スキュ』」


 アリナの体から琥珀色の光があふれ出した直後、色濃い灰色の空から金色の光が差し込んだ。

 あれほど降り注いだ雨が止み、雲はまるで何かに退くように流れ、清々しい青空と太陽が姿を現す。空には虹がかかり、水粒がついた草も同じように虹色に輝く。

 嵐がたった一度で止んだ『奇跡』に、領民達は地面に座り込んで荒い息を繰り返すアリナを見つめる。


「神の業だ……」

「アリナ様は、真の『神に愛された者』だったのだ」

「アリア様バンザーイ!!」


 誰もが歓声を上げ、『奇跡』を披露したアリナを称える。

 少しばかり青い顔をしながら立ち上がり、歓声を浴びながら微笑む妹の姿を見て、ベネディクトは彼女にあの『奇跡』を使わせたことをひどく後悔しながらも、痛みを堪える表情を浮かべた。



 領民が歓声を上げ、アリナが微笑む姿をヤハウェは見ていた。

 彼女が馬を操ってここまで走り、『奇跡』を使って見事嵐を遠ざけた姿を全て。

 それは、ヤハウェにとっては嬉しくもあり、悲しいものだった。


「……もう君は、僕がいなくてもこの〝業〟を佳きものにしてくれる。これで僕も本当の役目に戻れるよ」


 悲しげな表情を浮かべながら、別離を決意した〝神〟は少女の姿を目に焼き付けながら踵を返した。

 森に同化するように、ひっそりと静かに姿を消しながら。


 その時、アリナだけでなくヤハウェも気づかなかった。

 歓声を上げる民衆の中に、王国に仕える密偵が興奮が入り混じった下卑た笑みを浮かべていたことに――。

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