第150話 裏舞台の者達
「そろそろ、『継承の儀』が始まるだろう」
『レベリス』の拠点である白亜の居城。
その中でも一番豪華で広い部屋が、主のカウチで古ぼけた本のページを捲る。部屋の中ではアングイスが紅茶を飲んでいて、一見ゆったりしているように見えるが、雰囲気が誰も近づくことが許さないと伝えてくる。
「あんなものを考えるとは、昔の王族とIMFの上層部は意地悪い性格しているな」
「
ぺらり、とページを捲る。角や背が軽く剥げていて、黒い本の表紙には精緻な模様と十字架が描かれている。紙は天も地も小口も全部日に焼けて茶色い。だけど、その手に持つ本の仕草は優雅でどこか優しい。
何度も読んでいるはずなのに、それでも彼は何かある度にこの本を手に取りページを捲る。この行動はもはや彼の癖のようなものだ。
「実行はやはり当日だな。警備が儀式に集中する分、他が手薄になる。非信仰派の暴動を煽らせれば街の方に被害が出れば、向こうも儀式の警備を削がなければならない。その時に叩けば問題ない」
「ああ、これでやっとアヴェムの小言が止まる」
毎日のようにいつ動くのか、主は何を考えているのかと定期診察の帰りに言われる。レトゥムの悪戯の相手にしているせいでストレスが溜まっているのだろう。一度は暴れてすっきりさせなければならないと思っていても、この組織は主の命令がなければ動けない。
命令なしに動くと去年のフォクスのように惨い仕打ちが待っている。
「それで……本当にやるのか?」
「ああ。昔から決めている、そうだろ」
アングイスの発言に主は平然と答える。
表情も、声色も、本を捲るページのスピードもいつも通り。だけど、それが彼の動揺を隠す仮面なのだと自分は知っている。
「……そうか。なら俺はこれ以上言わない」
空になったカップをソーサーごと持って立ち上がると、靴音を鳴らしながら部屋を出る。一人になった主は、本を……いや聖書を閉じて呟く。
「エリ……エリ……レマ……サバクタニ」
――我が神、我が神、どうして私を見捨てられたのですか。
何度も問いかけても、神が答えることはない。その事実は既に知っている。
だけど、主は何度も何度も問いかける。
届かないと分かっていても、自分のことが嫌いだと理解していても、訊きたくて訊きたくて仕方ない。
この聖書の書いてある通りに思っているのか。
本当にこの世界を見守っているのか。
聞きたいことは山ほどあるが、一番聞きたいことは変わらない。
――何故、あなたは彼女に魔法を与えたのか。
ラルムは夢を見る。
この顔に刺青を入れられた日のことを。
一番思い出したくもない記憶を。
自分の家は爵位を得た貴族だった。
父と母だけでなく上には二人の兄と一人の姉もいて、自分は兄達の代用品として勉学に励んだ。だけど、上より優秀だった自分を疎んだ兄が裏で人攫いを頼んで誘拐させた。
縄でぐるぐる巻きにされて、泣き叫ぶ自分の顔に刃物を入れられたことは今でも忘れない。
醜い刺青が刻まれて、家族だけでなく使用人さえ遠巻きにされた。
刺青を隠すために髪を伸ばし、自室に閉じ篭もり、人と関わることを一切やめた。
永遠とも思える孤独に怯えるも、ずっとこのままでいいと願った。
あの日、自分を部屋に引きずり出した少年が現れるまでは。
心だけでなく魂にさえ刻まれた心の闇。
無意識に苦しみ唸るラルムの顔に、ふわりと優しいぬくもりが触れた。
ふるりと瞼を震わせて持ち上げると、愛しい顔が視界に入る。
コバルトブルー色の瞳と白と赤の異形の瞳。自分と同じ心の闇の象徴だが、それさえも愛おしい。
頬に触れる手のぬくもりが心地よくて摺り寄ると、くすくすと笑みを零した。
「ふふっ、甘えん坊さんね」
「お前にだけは甘えたいんだよ」
笑いながらラルムはルキアの体を改めて抱きしめる。悪戯で手を腰に滑らせるとぴくりと淫らに動く。
眠る前まで何度も愛し合ったのだ、先ほどの情事を思い出して反応するのは至極当然。その恥じらう様さえとても愛らしい。
「……こうしているだけで幸せだ」
「私もよ。でも……私達には〝目的〟がある。それを果たさないとこの幸せは永遠にこない」
愛しい恋人の言葉が重しみたいに体の中にドスンと落ちた。
分かっている。この幸せはあくまで一時的なもので、〝目的〟を果たさなければ永遠の幸せを手に入れることはできない。
分かっていても、こうして突きつけられると心が苦しくなる。
無意識にルキアの体を強めに抱きしめる。まるでお気に入りのぬいぐるみを取られないように。
強くなった腕の中で息を詰めたルキアは、そっと自分の腕を彼の背中に回した。
「ごめんなさい、あなたが悪いのではないと分かっているの。でも……」
「……大丈夫だ。俺達が、ちゃんとやればいい」
そうだ。ちゃんとやればいい。
〝目的〟のために今までそうしてきたのだ。手を血で汚し、香水臭い女に媚びを売って、多くの権力者を甘言で惑わせ、命も魔力も奪ってきた。
これまでの悪行は、全て幸せと自由のため。長い間、
「ルキア、俺は〝目的〟を果たす。お前は俺のそばで支えてくれ」
「……そんなのは愚問よ。私はあなたのそばにいるわ、ずっと」
それを皮切りに、二人の唇が重なり合う。
甘くて、陶酔してしまいそうなキス。何度重ね合っても飽きることのない感触。
自然とラルムの体が動いて、再びルキアの上に乗る。
太腿を押し広げて奥へと指を滑らせると、甘くいやらしい声を上げる。
ぴくぴくと小さく痙攣させる恋人の額に唇を落とし、微笑む。
(愛してる、ルキア。お前は――俺の、生きる意味そのものだ)
再び起き上がる欲望に身を委ねながら、一際高く甘い声を出させる。
明日の朝、腰痛で苦しみながらも恨みがましい目を向ける恋人の顔を想像させながら。
☆★☆★☆
橙田は新幹線に乗っていた。
東京駅から金沢駅まで通じるリニア新幹線のおかげで一時間ちょっとしかかからないが、大小問わない規模の事件を担当した疲労が一気に押し寄せてくる。
隣を座る紺野の顔には僅かに疲労を滲ませているが、手元にある書類に集中している。いつもは柔和な目元が険しいのを見て、形容しがたい不安が押し寄せてきた。
「あの……本当に烏羽の家に押し入るんですか?」
「ええ。地元の警察を使うにはまだ懸念材料が揃っていませんからね、我々二人で出向きます」
目が疲れてきたのか資料から目を離した紺野は、買った駅弁の蓋を開ける。駅弁は紺野は深川めし、橙田は釜めしと個性が出るものを選んだ。
醤油や出汁の匂いがする駅弁を食べながら、橙田はお茶のペットボトルのキャップを取りながら言った。
「そういえば、烏羽の家ってなんで地方の方に行ったんですか? あいつの仕事ぶりを見る感じじゃ地方行きになりそうな家柄じゃないと思うんすけど……」
「ええ、灯くんの言う通り烏羽家出身の者のほとんどが温厚な性格をしています。ですが……異様に死産率が高く、跡取りがロクに育たなかったんです」
「死産……?」
あまり聞き慣れない単語に橙田は首を傾げる。
現代の医療が発展した今、死産する子供の数は激減している。それなのに死産が多い魔導士家系など聞いたことはない。
紺野は橙田の驚き具合に共感できたのか、駅弁を食べる箸の手を止めて話し続ける。
「昔はともかく現代では死産は絶対とは言い切れませんがあまりないです。ですが、烏羽家の者のほとんどが死産で亡くなっています。もちろん無事に成長した子共もいますが、『魔導士が産まれない家』と蔑まれ、何代か前の黒宮家当主の命令で地方行きに決まったんです」
「……」
紺野から語られる内容に橙田も無言になる。
現代だけでなく【魔導士大戦期】以降からは魔導士の確保に各国が尽力し始め、早婚なんてものが推奨されるようになってしまった。
魔導士家系で非魔導士が産まれれば、毎日のように嫌味を言われるのは誰だって嫌だが、『魔導士が産まれない家』と汚名を着せられる方もたまったものではない。
「それでようやく志紀さんが産まれ、家は復興し始めました。本人のすごく優秀ですし今まで疎遠気味だったのにこうして名を上げるのは目覚ましい成長だと思います。……ですが、私はどうも彼が善良な方だと信じ切れない」
「どうしてです? そりゃ最初はちょっとムカつく野郎でしたけど、今はそんなんじゃないでしょ?」
「ええ……そこは灯くんの言う通りなのですが、どうしても彼の人柄が本当にまっとうなのだと言い切れなくて……」
紺野も職業柄、善人と悪人の区別くらいつけられる。
人当たりのよさそうな人が性根が腐っていたこともあれば、ヤかマが最初につく自由業に就いていてもおかしくない人が善良すぎだったりと、これまで仕事を通じて橙田は紺野の後ろでずっと相手の印象を読み取る訓練をしていた。
だけど未だに容姿の方が印象強いせいか、見た目だけでだまされそうになったことも多々あった。
紺野は的確かつ冷静に相手を見分けるが、そんな彼でさえ烏羽は得体が知れないのだと思い知らされる。
「……ですが、それも烏羽家に着けば分かることです」
新幹線は目的地へと到着しようとしている。
そこから目にする〝真実〟に目を背けないと言わんばかりに、紺野の目は普段より鋭かった。
『
蔓草を模した壁紙、真鍮製の縁取りをした調度品、レプリカではなく本物の絵画に薔薇が生けられた花瓶と主人の好みに合わせたその空間は、部屋そのものが一つの芸術品になっている。
ティレーネの住居にいるのは主人である彼女と、彼女に忠誠を捧げた住み込みの使用人五人だけ。『時計塔の聖翼』のメンバーでも立ち入る際は厳重なボディチェックがなければ入れない。
魔法で疑似的に不老不死になっているせいで、身内に対する警戒心は誰よりも強い。それに使用人達の首には、『一度でもティレーネに関する情報の漏洩もしくは傷害を起こした場合は即自害する』という呪いをかけたチョーカー型の魔導具をつけている。
使用人達もこのチョーカーを身に付けるのを前提で従っているため、彼女への忠誠心の強さは岩よりも硬い。
それほどまでに、気高く美しい彼女に心を奪われたのだ。
――だが、今日の主人は少しだけ不機嫌だ。
ソファーに寝転んでため息を吐く様子さえ美しいのに、肘掛けに頬杖をつきながら眉間に軽くシワを寄せている。
使用人の中で長年執事としてそばにいるルティは紅茶を淹れると、すぐさまカップをソファーの前のテーブルの上に置く。ふわりと優しい香りが漂うそれに、ティレーネの眉間が柔らかくなった。
「今日は随分とご機嫌斜めですね。何かありましたか?」
「あのアイリスという娘から『継承の儀』で少し手伝ってほしいと頼まれたのよ」
「それは、バカらしいことですか?」
「ええ」
ルティの言葉にティレーネは肯定しながら紅茶を飲んだ。
ティレーネの立場上、政治家やIMFの重役から何かと後押しするよう頼まれることが多々ある。中にはティレーネが『バカらしい』と思える頼み事もあるらしく、そんな時は決まって不機嫌になるのだ。
「その内容はどんなもので?」
「意中の相手を伴侶にしたいから手伝えって」
危うくポットを落としかけた。
まさかの色恋沙汰関連の頼み事であることは驚いたが、今までの内容を比べると可愛らしいものだと思えた。
少なくとも『貧民街にいる魔導士を手に入れる』とか『上流魔導士家系の令嬢の婚約者を殺す手伝い』よりは。
「あなた様の様子を見るに……受けないのですね」
「そうよ。あの
紅茶を飲むティレーネの顔は、叶わない願いがやっと成就したかのようなものだった。
そばに仕えて初めて見るその表情にルティも頬を紅潮させた。
「……あの、ティレーネ様。好奇心でお尋ねしますが、アイリス様のことをどうお考えですか?」
王宮やIMFはアイリスが【起源の魔導士】の生まれ変わりだと証言されているが、【月の姫巫女】の解釈では違うと噂されている。【起源の魔導士】本人に出会ったことのあるティレーネならば、その真偽が分かると踏んだのだ。
ルティの質問にティレーネは佇まいを直すと微笑を浮かべる。
「あの娘はね、ルティ。正真正銘の偽者よ」
あまりにも美しい微笑みと共に告げられた残酷な答えに、ルティの呼吸が一瞬止まった。
いくらティレーネでもこの場で嘘をつく理由などない。ならば、彼女の答えは真実だ。
「な……なら、本物は一体どこに……? もしそれが真実なら他の方々が黙っているはずありません」
「大丈夫よ。ちょうど本物はここにいるわ。『継承の儀』には会えるから、その時にちゃんとご挨拶するつもりよ」
動揺する自分を落ち着かせるように笑う主人の顔に、激しい動悸を打っていた心臓が落ち着いてきた。
本物がこの国にいるということは大変喜ばしいことだが、もし『始祖信仰』の者達が知ったら小規模に収まっている暴動が活性化される恐れがある。
だけど、自分の心配を全て読んでいるティレーネはソファーから立ち上がると、よしよしとルティの頭を撫でた。真っ白な手袋に包まれた手からは、確かにぬくもりが感じられた。
「安心しなさい。わたくしも国民の血をこれ以上流させるような真似はしないわ。あの方が望むならば、わたくしはどんな無理難題でも解決するつもりよ」
「そうですか……なら、安心です」
「ふふ、それはよかった。ねぇルティ、今度の『継承の儀』に着るドレスは何時届くのかしら? ほら、今回のために久しぶりに特注した」
「ああ、それでしたら明日、無事に到着しますよ。デザイン画だけ拝見しましたがとてもお美しいものでした、ティレーネ様が着れば一層美しさが増すでしょう」
「ありがとう。今日は『一二の天使』達と夕食を共にするから、ナイトティーだけの用意をしておいて」
「かしこまりました」
優雅な仕草で去る主人を見送り、ルティはネクタイを締め直す。
最初は動揺していたが、今自分がするべきことは敬愛すべきティレーネのために紅茶を淹れることだ。
遠ざかる主人の姿を見送ったルティは、彼女の頼み事を叶えるために踵を返した。
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