第146話 白手袋は決闘の合図

 ――今、俺は何をされた?


 あまりの出来事に、悠護の頭の中は真っ白になった。これは現実じゃなくて夢なんじゃないかと、全速力で逃避したい気持ちに駆けられる。

 だけど、自分の腕を掴む手の強さや唇に触れる柔らかさは本物だ。そう認識した瞬間、我に返った悠護はもう片方の手でアイリスを引き離した。引き離されたアイリスは唇が離れたタイミングで掴んでいた腕を放す。


「……お前、一体なんのつもりだ」


 ごしごしと右手でアイリスの感触が残る唇を擦ると、彼女はきょとんと首を傾げた。


「あれ? おかしいな、てっきり変な魔法にかけられてると思ったんだけど……」

「だから、どういう意味だ?」

「ほら、白雪姫とか眠り姫って王子様からのキスが鉄板でしょ? わたしを狙う敵キャラがあなたに呪いとかそういうのかけてると思ったの。だからわたしの愛のキスで解いてあげようかなって」

「敵キャラ……? 呪い……?」


 アイリスから出てくる言葉に、悠護はさすがに異常さを感じた。

 彼女の言葉を要約すると、自分には呪いがかけられていて、アイリスは自分からの愛のキスがその呪いを解くものだと思い込んでいる。

 想像するとあまりにもメルヘンチックな展開に吐き気がする。


「一応聞いとくけど、お前の言う『敵キャラ』って誰だ?」

「えー、そんなの決まってるでしょ? ヒナタ・トヨサキだよ。ヴィルが言ってたよ、その子がわたしを狙う悪い女だって」


 あの勘違い王子の言葉を鵜呑みにしているアイリスに、さすがの悠護も頭が痛くなる。日向にはアイリスを狙う理由はないし、そもそもこっちはお国の事情に巻き込まれた被害者だ。それを好き勝手に誹謗中傷する第二王子やその周囲の人間には呆れと共に怒りも湧いてくる。

 それに、この女は悠護の怒りの琴線に無遠慮に触れてくる。まるで自分は正しいんだと言わんばかりの反応に、無意識に嘲笑うかのように鼻から笑いが漏れた。


「はっ、随分とおめでたいお花畑脳だな。メルヘンすぎて痛いぜ」

「……えっ?」


 まさかそんな暴言を吐かれるとは思っていなかったのか、悠護からの言葉にアイリスは目を瞬かせる。


「悪いが俺はお前のいう王子様じゃない。それ以前にお前みたいな過剰妄想女、こっちから願い下げだ」

「なっ……!?」

「それとな、俺はあいつから呪いもなんにもかけられてない。俺は去年の夏からずっと、日向のことが好きなんだ。その気持ちは絶対に覆せない。たとえお前でもな!」


 暴言に続いての告白にアイリスは顔を真っ赤にして黙り込み、キッと悠護を睨みつけた。


「何それ……ヒナタ・トヨサキはギルベルト様にもプロポーズされたって話じゃない! あんな男に取り入る尻軽女よりわたしの方が――」

「黙れよ」


 いつも以上に低くドスの利いた声に、アイリスは「ひっ」と軽く悲鳴を上げる。真紅色の瞳を鋭くさせて睨みつける悠護は、くるっと踵を返して背を向ける。

 今は亡き幼馴染みの希美よりはマシな性格をしているが、その分性質たちの悪い性格をしたこの女とこれ以上一緒の空気を吸いたくなかった。


「とにかく、俺はお前のことなんか一生好きにならないしお前の王子様でもない。悪いが他を当たれ」


 冷たく言い放って立ち去る悠護の背中を、アイリスは痛みに堪える顔を浮かべながら見送った。



(くそ、気持ち悪ぃ……!!)


 自室に戻ろうとする間、ずっと唇に残った感触を消そうとしきりに擦っても中々落ちない。まるでフライパンにこびりついたコゲみたいにしつこくて、擦り過ぎて唇が熱くなっても擦り続けた。

 初めて会ったが、あのアイリスという女は悠護の勘にひどく触る女だ。しかも自分がおとぎ話の主人公だと思い込んでいる上に日向を勝手に敵キャラとして目の敵にしている。あんな夢見がちで過剰妄想女のどこがいいのか、すっかり虜になっているヴィルヘルムに小一時間ほど問い詰めたくなった。


 荒々しく歩く悠護の足を止めたのは、目の前で扉が開く音。そして、


「あれ、悠護?」


 ちょうどその扉出てきた日向の姿だ。

 ショールを肩にかけたネグリジェ姿で、お風呂に入ったばかりなのか石鹸のいい匂いがした。一日しか経っていないのに、ひどく懐かしさがこみ上がる。

 苛立ってささくれ立つ心に突き動かされて、衝動的に彼女の細い体を抱きしめた。突進紛いで抱きついたせいか体ごと扉から離れて、ゆっくりと閉じられる。


「……悠護、どうしたの……?」

「悪い……少し、このままいさせてくれ……」


 戸惑う日向の言葉にそれだけ返すと、彼女は何も言わずよしよしと背中を擦る。

 子供をあやす仕草だけど、今はそれが一番心地よく感じられた。


「お前、なんだよその恰好。不用心だぞ」

「ご、ごめん……お水貰いに行こうとしてたの」

「そんなの魔法で出せよ。できるだろ」

「あ、そっか」


 今気づいたとばかりに苦笑するパートナーにため息を吐くが、これくらいはまだ可愛いものだ。

 ふと顔を上に向いた日向が、擦り過ぎて軽く血が滲み始めた自分の唇にそっと指先を触れた。


「どうしたの、これ?」

「あー……その、さっき例のアイリス様に会ってな……」

「うん、それで?」

「その……なんだ……、キス…………された……」


 本当は言うつもりはなかったが、新学期の時に日向に隠し事された時は胸の中がもやもやとした。あんな気持ちを味わうのは自分だけで充分だ。

 だからこそ、馬鹿正直に話してしまったが……。


「……へえ」


 いつもより低い声に、思わずびくっと肩が震えた。

 口元を引きつらせながら日向の顔を見ると、いつもはぱっちりしている目は据わっていて、琥珀色の瞳は暗く陰っている。その表情に以前見た連続ドラマの浮気がバレる一歩手前の修羅場のシーン、二股された妻役の女優もこんな顔をしていたのを思い出す。


「い、いや向こうが無理矢理してきたからな!? 俺は好きでやったわけじゃ……」


 言い訳じみた言い方をした瞬間、再び悠護の唇に柔らかい感触が襲った。

 少しだけ湿った柔らかい感触は、さっきまでこびりついていたアイリスの唇の感触が徐々に消えていく。鼻をくすぐる程度しかしなかった石鹸の匂いが強くなるも、むしろ今の悠護にとっては酒を飲んでいないのに自然と酩酊させていった。


 だけど、その感触がゆっくりと離れていく。我に返ると、目の前には顔を真っ赤にした日向がそっぽを向いていた。潤んだ琥珀色の瞳を見て、今自分が何をされたのかを認識した。


「……その……こ、この前の仕返しだから!」

「はっ……?」

「前にキスしたことは許したけど、やり返さないとは言ってないから! だからこれは仕返し! 分かった!?」

「お、おう……分かった」


 あまりにも必死に言い訳する日向がおかしくて、思わず笑ってしまう。自分の反応が気に入らなかったのは頬を膨らませた日向を見て、また笑い声が漏れた。

 真っ赤な顔でぽかぽかと自分の胸板を殴る少女を、悠護は彼女の気が済むまで笑いながら宥めるように頭を撫で続けた。


 カーテンが閉じられていない窓の外から、一部始終を盗み見た不届き者の存在に二人とも気づかないまま。



☆★☆★☆



「うーん、こんな感じかな?」

「そうだね。いい出来だよ」


 宮殿の厨房で、日向は慎重な手つきで粉砂糖が入った茶漉しを軽く振る。それをイチゴの上に振りかけると、赤と白のコントラストが美しいパイが完成する。

 メイドが仕込んでいたパイ生地の余りを頂戴して作ったひし形のパイは、軽く焼き色のついていて、カスタードクリームは生地からはみ出さない程度にたっぷり入れている。最後にイギリスでは今が旬のイチゴを半分に切ってそのまま乗せる。

 冷凍パイシートで何度も作ったこともあって、出来栄えは完璧だ。


「ごめんね、いきなりで。決まったのが夜遅くだったから連絡するの忘れてた」

「ううん。大丈夫、私もちょうど予定なかったから」


 今朝、ルナとした約束を思い出して超特急で心菜のところに行って事情を話すと、彼女は笑顔で受け入れてくれた。すぐさま約束のお菓子を作るために、二人は急いで朝食を済ませて厨房に来たのだ。

 途中で片付ける時にメイドがボウルに残ったカスタードクリームやパイ生地の切れ端を食べたり、視線をこちらに向けていることに気づくも無視した。


 王族がいる宮殿では内部犯による犯行で食事に一服盛られた経験があったせいなのか、日向達が作るお菓子にも毒が入っていないかチェックしていたのだろう。

 生憎と日向達にそんなことをする理由はないため、いつも通りに作った。一服盛るんじゃないか懸念したメイド達が肩透かしを食らったのを横目に、出来上がったパイをピンクと白のチェック柄の布が敷かれた小型のバケットの中に入れる。


「これでよし、っと。後は持っていくだけだね、場所はどこだっけ?」

「確か宮殿の北西にある薔薇園だって言ってたよ」


 落とさないようにバケットを持ちながら、日向と心菜はルナに指定された場所へ向かう。

 ルナが指定された場所は、宮殿の中ではこぢんまりとした薔薇園がある場所だった。まだイギリスがイングランド王国と呼ばれていた時代にあった薔薇園を模したものらしく、白大理石でできた東屋は少し古めかしい外観をしている。


 その東屋のテーブルにはティーセットを万全に整えており、ルナとベロニカ、さらにアレックス、樹、悠護も来ていた。

 どうやらルナが男子陣にも声をかけたらしいが、ギルベルトは『継承の儀』の手伝い、ヴィルヘルムはアイリスの面倒、陽と怜哉は得意じゃないといって誘いを断ったらしい。だけど一昨日ぶりに見る樹の様子はいつも通りで安心した。


「お待たせ。待った?」

「いいえ、ちょうどよかったわ。そのバケットは?」

「さっき作ったイチゴパイが入ってます。急いで来たから形崩れてないといいけど……」


 念のため中を確認すると、バケットの中のパイは崩れていなくてほっと安堵の息を漏らした。


「そういえばベロニカ、今日も薔薇の手入れするの?」

「う、うん……そうだよ」


 アレックスの言葉にベロニカの方を見ると、彼女の足元には麻のトートバッグが置かれている。中を覗くことはできないが、恐らく軍手や剪定鋏が入っているのだろう。

 それにベロニカだけでなくルナの恰好も少し違う。女学生のようなジャンパースカートに似た衣装を着ている。


「ここって庭師はいないんですか?」

「いるんだけど……私が頼んでここの薔薇園の手入れをさせてもらってるの」

「ベロニカは園芸とピアノの腕は、他の令嬢より腕がいいんです。私もよく手伝いますけどベロニカより全然なの」

「そ、そんな! 腕がいいだなんて……、ただここにいると時間が結構余っちゃうから暇つぶししているだけで……」


 ルナの褒め言葉にベロニカが委縮するも、日向は改めて薔薇園を見る。

 赤、白、ピンク、オレンジと淡い色合いの薔薇が咲き誇り、虫食いされた枝はどこもない。枯れている枝もなければ黄色や茶色に変色した葉もない。

 こんなに綺麗に見えるのは、毎日怠らず丁寧に手入れをしてくれているベロニカの努力の賜物だろう。


「……ねぇ、ベロニカ。あたしにも薔薇の手入れに参加していい?」

「え?」

「あたしも学校の宿題片付けちゃって、やることないんだよね。それに花の手入れには興味もあったし……ダメかな?」


 日向が言ったことは本当だ。ノート一冊分だけでそれなりに量があるテキストは既に終わらせているし、魔法実技は終業式の日の内に特例として済ませてしまった。今まで植物の世話は水やりと雑草取りだけであまり手入れらしい手入れをして経験がない。

 広くはないが小さくもない薔薇園を毎日欠かさず手入れをしたベロニカの努力は、素直に賞賛するものだ。


「あ、えっと、構いませんが……ココナさんは?」

「迷惑でなければ私も付き合うよ」

「そう……じゃあさっそくやりましょうか。悪いけど三人とも、少し待っててもらえる?」

「いいよー」「別に平気だぜ」「俺も」


 ベロニカの言葉に心菜がにっこりと笑って承諾すると、ルナは椅子から立ち上がりながら男子三人に声をかける。

 男子三人から了承を貰うと、日向達はベロニカが用意した園芸道具を持って薔薇園へと向かった。



「う~ん、薔薇園を手入れする乙女達も結構絵になるよね~」

「ああ、それ分かる。特に惚れた女相手だとどんなことしても可愛く見えるっつーマジックかかるよな」

「そうそう」

「何言ってんだよお前ら……」


 アレックスと樹の発言に悠護は呆れながら紅茶を飲むが、二人の言いたいことが分かるためそれ以上は何も言わない。

 今日は日差しがそんなに強くないが、剪定鋏を片手に話し合う麗しい少女たちの楽しげな姿がとても眩しい。軍手を嵌めた手を泥だらけにして、花弁が痛んだ薔薇を剪定する様子は確かに絵にしてもおかしくはない。


「でも、ベロニカがあんなに楽しそうなのは久しぶりに見るかも」

「そうなのか?」

「うん。俺と一緒の時もあんな感じだけどさ~、他はそうじゃないでしょ? そのせいであまり公の場には出せなくて、寂しい思いさちゃってるんだよね……」


 マルム症候群は本来、発症率が極めて低い病気だ。

 その珍しい病気に罹ったせいで、周囲から奇異の視線を向けられるのは誰だって気持ちのいいものではない。家柄だけで私利私欲目的の嫌な目で見られるだけで気分を害するのだ、ベロニカだけでなく未だに完治していない同じ七色家の次期当主である赤城アリスも一緒だろう。


 それに、アレックスも王族の一人だ。王族としての責務がある以上、ずっと婚約者にべったりできるわけでもない。

 必然と彼女を一人にする時間が増えて、そのせいで寂しい思いをさせているのだと、彼自身が後ろ暗い思いをするのは当然だ。


「……そうだな。大事な女を守りたいっつーお前の考えは間違ってない。けど、孤独にしちまったらそれこそ本末転倒だ」

「うん……」

「――けど、その問題もちゃんと解決したお前は偉いよ」


 悠護の言葉に、いつの間にか顔を俯かせていたアレックスの顔が勢いよく上に上がる。

 その横でサンドイッチをつまんでいた樹は小さく笑う。


「そうだな。現にあんなに笑ってんだ、お前のしたことは間違いじゃねぇよ」


 樹に言われて、アレックスは薔薇園にいる己の婚約者の顔を見る。

 いつも自分といる時ははにかんだ笑みを浮かべるか、申し訳なさそうな顔をばかりしていた。

 でも今は、満面の笑みで笑っている。初めて会った時、自分が一目惚れした時と同じ顔で。


 たとえ自己満足なやり方だったとしても、それで彼女が笑っているなら自分がしたことは間違ってはいなかったのだろう。

 そう思って嬉しそうに顔を緩めた時だった。


「――いたぞ、ユウゴ・クロミヤッ!!」


  穏やかな雰囲気をぶち壊した兄の声が響く。いつもは冷静なヴィルヘルムの顔は憤怒で真っ赤に染まっていて、手には左手用の白手袋を握りしめている。

 予想外の来客の反応に誰もが息を呑んでいると、ヴィルヘルムが持っていた手袋を悠護の足元に向かって投げた。その行為がどんな意味なのか、イギリス国民だけでなく日本人である彼らも知っている。


 まさかの事態に悠護は目を丸くするも、すぐに理解したのかヴィルヘルムのことを静かに睨みつける。

 その態度さえ勘に障った兄は、右手で彼を指さすと大声で叫ぶ。


「――決闘だ! 至高たるアイリスの唇を奪っただけでなく、他の女火遊びし、彼女の心を傷つけた貴様をこの手で断罪してくれるっ!!」

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