第116話 そして少年は最期を迎える

「クソッ、たかが犯罪者如きが……!?」


 自室に戻ったユリウスは、大層腹を立てながらカウチに座っていた。

 目の前の高級なローテーブルにはロマネ・コンティ89年物のワインをボトルで直飲みしており、空になると乱暴にテーブルに叩きつける。

 この時のユリウスは一言申せば問答無用で宝石に変えられてしまうため、部下達は何もしないまま彼の怒りが静まるのを待つしかできない。


 お気に入りのワインを三本も開け、軽食として用意したブルスケッタを全て食べ切ると、ふぅっと息を吐いた。

 幾分か怒りがおさまったのを見計らい、茶封筒を持った部下がなるべく足音を出さないまま近寄る。


「ユリウス様、こちらが例の資料です」

「……ああ。ご苦労」


 去年の一二月に起きた事件は当然ユリウスも知っており、IMFが隠した情報も得ている。だがあれほどの男が何故、この事件にだけ顔を出した理由は分からなかった。

 これまでに『レベリス』が関与したと思われる事件は、『落陽の血戦』後から数えても億は優に超えている。どれもこれまで存在した魔導犯罪組織を隠れ蓑としたものばかりで、『レベリス』との関連性が徹底的に消されている。


 ただ一つだけ、『レベリス』が表舞台に立った事件がある。

 それが『灰雪の聖夜』だ。

 あの事件しか『レベリス』の幹部と【叛逆王】が姿を現していない。何か理由があるのだと勘付いたユリウスは、当時事件に関わっていた者――特に渦中のど真ん中にいた者の情報を集めさせた。


 茶封筒の中に入っていたのは、IMFの情報課が隠していた事件関係者の資料。

 個人情報が事細やかに記されているそれは、ユリウスにとっては興味がないものだ。彼の興味を引いたのは、資料と一緒に入っていた数枚の写真。

 どれもが粗い画像だが、ユリウスにとっては貴重な情報源だ。


 写真は現場であるレインボーブリッジに置かれた車のドライブレコーダーに記録された映像を切り取ったものだが、激務に追われ続けた情報課が見逃した小さなミス。

 たとえ画像鮮度が悪かろうと、ユリウスにとっては【叛逆王】のアキレス腱に成り得るものだ。


 ペラ、ペラと数枚の写真を眺めるように見つめていると、ふと気になる一枚を見つける。

 紅いローブのせいで顔は見えないが、フードから零れる髪は間違えなくあの男のもの。その男が仰向けに倒れている少女の前で跪いている。粗い画像からでも分かる琥珀色の髪を見て、ユリウスは先ほどの書類を手にする。


 右端に写真がプリントされたそれを何度も捲り、ようやく目当てのものを見つけた。

 一〇代らしい幼さを残しながらも、何故か目を離すことのできない魅力を持った少女。名前欄に『豊崎日向』と日本語で名前を書かれている。


「……なるほど。この娘が【叛逆王】のアキレス腱か」


 くつくつと小さく笑いながら、資料を見つめるユリウスの顔は冷酷そのもの。

 背筋だけでなく骨の髄まで凍らせそうな笑みを見て、その場にいた部下達は怯えた顔で主人を見守った。



 柱時計の針の音を聴きながら、【叛逆王】は手元にある本のページを捲る。天涯ベッドの端に腰かけている彼は、ユリウスに用意された部屋でくつろいでいた。

 自分の顔を冥途の土産として見たいと言った風変わりな少年によって案内された客間は、自室と比べてワンランク下がるが居心地は悪くない。


 右手首には魔導士用の拘束魔導具がつけられており、わずかに感じる重みすら煩わしい。

 だが拘束魔導具をつけられ、この部屋以外出入りすることは禁じられているが、人買いから買われた身としては中々の待遇だろう。


 客人の退屈しのぎのために本が本棚一つに収まるほどの量があり、その中で選んだのは何度も再版され、世界各国で翻訳されている魔導士の歴史書だ。

 数百年前、【起源の魔導士】アリナ・エレクトゥルムが魔法を発見した頃から始まり、『落陽の血戦』当時やその後などが事細やかに書かれている。聖天学園の魔法学でもこの本が利用されており、ほとんどの魔導士がこの本から歴史を学んでいる。


 それもそのはず、この原作者は四大魔導士が一人【記述の魔導士】ベネディクト・エレクトゥルムなのだ。当事者が書いたものの信憑性が高いのは当然だろう。

 左手で分厚い本を持ちながら、右手は時折腰のチェーンについたロケットに触れる。

 精緻な文様が刻まれたそれは、指で弄ぶたびにチャリ、チャリと小さな音を立てた。


「――随分と退屈な本を読んでいるな」


 ノックもなしに開けられた扉の向こうで、ユリウスがアンニュイな笑みを浮かべながらこちらを見つめてくる。

 その視線を感じながらも、【叛逆王】は片手で本を閉じた。


「魔導士にとって大切なバイブルを退屈呼ばわりするとはな」

「その本は私も幼少期からずっと読まされたものだからな。内容は頭に入っているし、何度読んでも退屈と言ったのも当然だろ」


 室内に屋敷の主人が足を踏み入れ、閉じられた扉の前を数名の部下が陣取る様子を見ながら、【叛逆王】はベッドから腰を上げると、そのまま持っていた本を本棚に戻した。


「……それで一日猶予を与えてやったが、やはり君の答えは変わらないのか?」

「ああ、今さらIMFを乗っ取っても我らにはなんの価値もない」


 ユリウスの問いにあっさりと答えると、彼はくつくつと肩を震わせながら笑う。

 その様子を訝しげに見ていると、ユリウスはおもむろに【叛逆王】の足元に何かを落とした。

 魔法をかけているのかゆっくりと下降し床に落ちたものを見て、【叛逆王】は息を呑んだ。


「どうやら君には意中の相手がいるそうだな。驚いたぞ、まさかそんなに年若い娘だったとはな」


 床に落ちたのは、隠し撮りされた一枚の写真。

 どこかの街並みを歩く琥珀色の髪の少女を見て、【叛逆王】は微動だにせず立ち尽くす。

 その反応を見て、これが彼のアキレス腱なのだと確信したユリウスは、己が優位に立つために挑発的な言葉を吐き出す。


「調べてみたら彼女は例の無魔法使いではないか。こんな貴重な人材をIMFの無能のために使われるなんて可哀想に。私ならば彼女の力を存分に活用する場を用意できる。大切な女性を想うのなら、君は私とここで組むべき――」


 言葉は、最後まで続かなかった。

 目の前でヒュンッと風切り音が聴こえたかと思うと、後ろでゴロッと何かが転がる音も聴こえてくる。

 恐る恐る後ろを振り向くと、扉周辺を陣取っていた部下達が――首から上がなくなっていた。


「なぁ……!?」


 足元を見ると苦悶の表情ではなく限りなく無に近い表情を浮かべた頭部が転がり、光を失った目がこちらを見てきた。

 ユリウスは頭部を失った首から湧き水の如く血を吹き出す部下の胴体が、重い音を立てながら倒れていく様を見て下手人である男の方へ顔を向けると、彼の右手には一振りの剣が握られている。

 角度によって紫色に煌めく黒い剣。鍔の中央には六芒星型にカットされたタンザナイトが青や紫など色を変えている。


 今まであの剣を持っていなかったことを考えると、恐らく魔法で出したのだろう。

 だが彼の右手首には拘束魔導具がされている。【叛逆王】の魔力値は知らないが、少なくとも一〇万台は軽く突破しているはずだ。


「な、何故魔法が使える!? その魔導具は今ある中でも効果が高いものだぞ!?」

「……ああ、このガラクタのことか」


 ユリウスの言葉に【叛逆王】が納得しながら左手で拘束魔導具に触れる。

 トン、と軽く指で叩くと拘束魔導具はパキンと音を立てて真っ二つに割れて床に落ちる。


「これは粗悪品だ。本来拘束魔導具に混ぜるはずのない材料まで混ざっている。裏に刻まれている魔法陣から感じる魔力が弱いのを見るに、どうやらお前を心底恨んでいる奴の仕業だろう。粗悪品を最高級だと偽って高値で売り出す……裏社会の人間が使う常套手段だ」

「そ、そんなバカな……!?」


 たとえ粗悪品を売りつけられても、普段のユリウスならばいい経験になったのだと言って余裕で笑い飛ばせただろう。

 しかしこの時ばかりは、この粗悪品を売りつきたあの貧乏人を百万回殺したい気持ちになった。

 そのせいで、自分は目の前の男に命を奪われかけている。この悪とは違う、おぞましい何かに。


「……さて、私もそろそろ帰るとしよう。だがその前に、私を知った者達の始末をしなければならない」

「ひいぃぃぃぃぃッ!?」


 コツコツと靴音を立てて近づく【叛逆王】に、ユリウスは錯乱し悲鳴を上げながら逃げだす。

 首無しの死体と頭部が転がる扉付近に近づき、ノブを捻るがガチャガチャと耳障りな音を立てるだけで開く気配がない。持参している鍵を使って鍵穴に挿しても、一向に回らない。


「な、なんで開かないんだ!? 開け、開けって言っているだろう!?」

「扉に向かって何を言ってるんだお前は」


 扉を蹴る屋敷の主人の醜態を見て、【叛逆王】は思わず呆れた様子でため息を吐いた。

 そもそもこの扉はユリウスと部下が全員室内に入った時、【叛逆王】が魔力の気配を察知する前に魔法で鍵穴の内部を変形させ、扉は近くの廊下にあった観葉植物で塞いでいる。

 それを知らない目の前の男は、自分以外誰も聞いていない罵声を扉に叩きつけている。


 この屋敷の所有者にして、全てを自分の手の平の上で転がっているのだと思い込んでいた哀れな男の首に、剣の切っ先を当てる。

 冷たい金属の感触を肌で感じたユリウスは、ブリキ人形のように動きを止めた。


「もう終わりだ。お前が何をしようとも結局は私の手によって殺される」

「な……なんだと……?」

「そもそも、おかしいと思わなかったのか? 『レベリス』のボスである私が、こうも易々と捕まえられたことに」


 そこまで言われ、ユリウスははっと目を見開く。

 そうだ。相手はIMFさえ危険視する魔導犯罪組織のトップ。それが魔導士崩れの誘拐屋に攫われることなんてありえないはずだ。

 なら何故? 何故彼はこんな簡単に捕まった?


「まさか――貴様の目的は私の財産か?」

「財産? あんなものには興味がない。私が欲しいのはお前が密かに蒐集したイギリス王室の国家機密情報だ」


【叛逆王】の目的を聞いて、ユリウスはようやく謎が解けた表情を浮かべる。

 たとえ警備が厳しい場所でも、金のために情報を売り渡す性根の腐った人間は少なからずいる。重役の中で金さえ与えれば思い通りに動く相手を探り、近づき、相手のアキレス腱である情報を高値で買い取る。

 これまでユリウスに対して報復する相手がいないのは、ひとえに蒐集した情報の力によるものだ。自分に逆らえば絶対に漏らしてはいけない情報が世間に流される。情報化社会である現代にとっては、それは致命傷になりえる。


「あの情報さえあれば、我々の計画は第三段階に入る。そのためにわざわざ私が前に出たのだ。理解できたか? 【宝石の創王】ユリウス・エーデルハイム」

「は……はは……なるほどな、確かに理解できた。だが……一つだけ納得できないことがある」


 ここまで相手が優位に立ってしまったら、自分はこれ以上何もできない。

 そもそも自分の魔法はあの首輪についた宝石と反応して発動するもので、首輪をしていない【叛逆王】には効果がない。

 前も後ろも全て詰み、自分は何もできない。ただこの男に殺されることしかできない。


 それでも、一つだけ知りたいことがあった。


「お前、あの娘の写真を見て反応したが……あの写真の相手は、お前にとってなんなんだ?」


 写真一つであそこまで反応したのを見るに、名前しか知らない少女はこの男にとってアキレス腱であると同時に逆鱗なのだろう。

 だからこそ、今知りたかった。地獄の階段を降りる一歩手前のいる、このあまりにも愚かな男の冥途の土産として。


 ユリウスの質問に【叛逆王】は沈黙する。

 だが剣を持つ手に力を込めた直後、【叛逆王】は答えた。


「あいつは、私が絶対に手に入れなければならい女だ」


 瞬間、ユリウスの視界は鋭い痛みと共に暗転した。



☆★☆★☆



 少年はいつも通り屋敷の廊下を歩く。部下の中で一番最後に入った少年の屋敷内の仕事は、主に雑用だ。ここの部下達は料理担当、掃除担当とそれぞれ担当を振り分けられている。

 ここには様々な経歴を持つ者がいるため、中には五つ星料理店のシェフだったり、腕利きの殺し屋だった人もいる。


 学もなく、大した経歴も自分にはゴミ捨てや洗濯物や食材を運ぶなどそれくらいしかできない。

 今日もそのゴミ捨てをするところだ。いつも通りの日常だが、今日は違う。


「あの人、どうなるんだろうな……」


 昨日から少年の頭の中を支配しているのは、あの【叛逆王】のことばかりだ。

 恐らくあの男のことだから提案を呑むことも奴隷になることも拒むだろう。だが、その結末は死のみだ。

 でも。


「おかしいな……昨日まで他人だったのに、あの人には死んでほしくないなんて思うなんて……」


 死んでほしくない。今までこんな感情、誰にも抱いたこともなかった。

 これまでの人生、いつも心配していたのは自分の命だ。

 今日は生きられたけど、明日は生きているのか? そんなことを考える毎日だった。


 他人なんて所詮他人。自分の身が無事ならそれでいい人生だった。

 だからこそ、初めて羨望を抱いたあの男には死んでほしくないと思えた。


(様子を見に行こう)


 仕事を遅れさせたら、ユリウスに宝石にされるまでにはいかないだろうが、骨が折れるまで殴られ蹴られるだろう。

 でも今なら、それくらいどうってことはない。清々しいほどそう思えた。


 毛足の長い絨毯が敷かれた廊下を走ろうとした瞬間、前方から歩いてくる人影が見えてきた。

 相手は昨日と同じ格好のままの【叛逆王】だと気づくが、同時に疑問に思う。

 あの部屋から出ることの許されていない彼が、どうしてここにいるのかと。

 その理由は、彼を見て一目で理解できた。


【叛逆王】の白皙の頬に、赤い血がついていた。

 右腕にも服にも血がついていて、靴底についた血は彼が歩く度に絨毯に染み込む。その右手には、真鍮製の鍵束が握られている。

 だがその鍵束がユリウスしか持つことが許されないものだと知っている少年は、驚愕と困惑を滲ませた顔でとある部屋の前で止まった【叛逆王】に問いかけた。


「なあ……あんた、それは……っ」

「ああ、君の主人のものだ」

「ユリウスは……? ユリウスはどうしたんだよ……」

「殺した。付け加えて言うと、君以外の人間はすでにあの世へ旅立った」

「!」


 殺した。あの邪知暴虐の王と、自分のようにクソったれな人生を歩んできた者を。

 その事実は少年に驚きをもたらしたが、それ以外の感情がこなかった。

 ただ一つ、例外があるとすれば――


「……った」

「?」

「あんたが死ななくて、よかった……」


 途轍もない安堵だった。

 少年の言葉に【叛逆王】が驚いた様子を見せるも、すぐに鍵束を使って鍵を開けてドアを開ける。

 重々しい音を立てながら開けた室内には光り輝く宝石や札束、有価証券ばかりだ。この部屋は一室まるごと金庫として利用しており、窓はなく床も壁ドアも分厚き金属で四方を囲んでいる。


【叛逆王】は強盗なら一目散で狙うものには手に触れず、一番端にあるいくつかの茶封筒を手に取る。

 軽く中を開けてぱらぱと見た後、目当てのものがあったのかそれを手に取って部屋を出た。


「それは……?」

「イギリス王室が所有する国家機密だ。これがあれば、我々はようやく次のステージに進める」


 バカ正直に答えた後、【叛逆王】はこっちに顔を向けた。

 無言で自分を見つめているが、少年には彼が何を言いたいのか分かっていた。


「――いいよ。俺、あんたになら殺されても構わない」


 少年の言葉に【叛逆王】はぴくりと肩を揺らした。

 彼は自分の存在を組織の人間以外に知られるのを嫌う。たった一日しか接点のなかった自分でも、彼にとっては見逃すことはできないのだろう。

 でも、さすがの彼にも情というものがある。恐らく彼が自分を殺すことを戸惑ったのも、きっとそれなのだろう。


「でもさ、一つだけ頼みを聞いてくれるか?」

「……分かっている。顔だろ?」

「ああ」


 冥途の土産として【叛逆王】の顔を見てみたい、と昨日零した自分の言葉を思い出してくれた彼は指を鳴らすと認識阻害の魔法を解いた。

 前髪で隠された目元さえも露わになり、最初で最後に見る【叛逆王】の顔を見つめ――少年は嬉しそうに笑う。


「なはは。あんたって俺の予想通りいい男だよ。顔を隠すのがもったいないくらいな」

「……そうか」


 少年の言葉を聞きながら、【叛逆王】は虚空から突然紅いローブを出現させる。

 恐らく魔法で出したそれを肩から羽織り、フードを被った【叛逆王】は少年を見つめながら言った。


「なら、私から一つ頼みがある」

「なんだ?」

「君の名前を、教えてくれ」

「――!」


 名前を訊かれたのは、本当に久しぶりだった。

 最後に名前を訊かれたのは、魔導犯罪組織の下っ端として働いていた時以来だ。

 それを最後に訊いてきたのがこの男で、少年は嬉しくて涙を溢れ流しながら言った。


「……ジャック。名字は忘れたけど……俺の名前は、ジャックだ」

「そうか。それが聞けて、私は満足だ」


【叛逆王】はそっと少年――ジャックの額に向けて右手を伸ばす。

 彼の細くて白い中指が額に触れた瞬間、ジャックの顔から血が噴き出した。

 目や口、耳など顔にある穴から血を流し、ジャックはそのままうつ伏せで倒れる。


 今日という日まで、ジャックの人生はひどいものだった。

 親に売られ、色んなところをたらい回しに買われ、心も体も綺麗なところがないくらい汚された。

 でも、目の前の男に殺される最期は悪くない。だって――。


(だって――あんたは俺にとっての救いだったんだ)


 このロクでもない人生を解放してくれた。それだけでもう充分だ。


(ああ……でも……俺も、あんたの、名前……、……知りたかった、なぁ……)


 そんなちっぽけな未練を残したまま、ジャックは息を引き取った。

 この世の誰よりもひどく穏やかで、幸せそうな死に顔で。



 物言わぬ死体となった風変わりな少年を見届けた【叛逆王】――主は虚空から小さなナイフを取り出すと、ジャックの髪をひと掬いすると毛先から数センチほどの長さのあたりで切った。

 指先に毛の感触を感じながら、主は腰のロケットを一つ開けるとそこに先ほど切った髪の毛を入れた。


「君のことは永遠に忘れないよ、ジャック」


 もう何も言わない少年に向けて別れの挨拶を告げると、主はロケットを閉じて立ち上がる。

 絨毯で足音が鳴らない廊下を歩くと、周りは自分が殺した人間の死体があちらこちらに転がっていた。

 どれもが胴体や首が斬られていたり、ジャックのように大量に血を流しながら絶命している。


 己の姿を見て、声を聞いた者を一人残さず殺した血臭と死臭のする屋敷を出た。

 外は春が近づいているがまだまだ寒く、分厚い灰色の空から小さい雪を降らしている。

 冬の残る空気を肺一杯に吸い込み、吐き出す。冷たく澄んだ空気を味わいながら、主はパチンッと指を鳴らす。


 直後、屋敷全体が炎に包まれる。

 赤とオレンジが混じった炎は、あの屋敷に残されていた家具も財産も死体も全て燃やし尽くすだろう。

 背後で高熱を感じながら、主はジャックの遺髪を入れたばかりのロケットを右手に触れたままその場を離れた。

 その身に染みついた、血臭と死臭を漂わせながら。



 数日後、イングランドのとある新聞の一面には、燃えた屋敷の画像と共にこんな記事が記されていた。


『三月九日未明、イングランド南西部デヴォン州にある港湾都市・プリマス郊外に住む資産家兼『三階位トレース』魔導士のユリウス・エーデルハイム氏の屋敷で火事が発生。

 地元住民による通報で市内の消防署が消火活動に当たり、発生時から約五時間かけて鎮火。現場にはこの屋敷で働く使用人五〇人とエーデルハイム氏本人の死体を発見されるも、頭部のみの死体や胴体だけの死体、もしくは胴体に裂傷痕がある死体などが発見されたことから、火事にみせかけた殺人と判明。

 プリマス市警察はエーデルハイム氏と魔導犯罪との関連性をみて捜査を進めています』


 その記事には、この惨劇を繰り広げた犯人のことも、社交的な顔に隠された残忍性を持つ屋敷の主のことも、そしてその場にいたとある少年の最期のことも載っていない。

 あるのは、表面的に受け止めた真実だけだった――。

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