第111話 偶然の出会いは健康ランドで
ゆっくり
東京都内の商業施設の七階と八階に建設された唯一の健康ランドで、一二種類の温泉と三種類のサウナが設備されている。
冬休みも間近だが平日ということもあり、利用している客は少ない。悠護は、親友の樹と一緒にその客の一人になっていた。
「あ~~~、いい湯だなぁ~~~」
「そうだなぁ~~~」
今、二人が堪能しているのは、微弱な電気が風呂全体に流れ、筋肉を収縮させ血行を促す作用がある電気風呂。
普段の授業でもアスリート並の運動量を使っているため、この風呂の効果はまだ一〇代であるはずの二人にとってはオアシス同然なのだ。
「……つか、なんで健康ランドなんだよ」
「いやぁ~、ほんとは伊豆とか草津に行きたかったんだけどよ。主に事件の後始末と予算の問題がありまして……」
「ああうんもう分かったそれ以上は言うな」
冬というのは旅館業界では一番の稼ぎ時シーズン。今ならば外の冷気と温かい温泉の二重効果で、気持ちよくかつのんびり過ごせるだろう。
本当なら夏と同じように出かけたかったが、『灰雪の聖夜』での取り調べや学生一人が持てる資金の問題のせいで断念したらしい。
だが偶然樹の母親が会社の社員特権で得た健康ランドの招待券を二枚譲ってもらい、こうして悠護と一緒に満喫しているのだ。
「つか、そういうのは俺じゃなくて心菜を誘えよ」
「いやいやいや女誘うのに健康ランドは趣味悪ぃだろ。それにいいじゃねぇか、よくよく考えればお前と二人きりで一緒に出かけるとかあんまなかったし」
樹の言葉にそうか? と首を傾げるとが、気になって記憶を手繰り寄せた。
必死に休日の記憶を思い出すと、大半は部屋でゴロゴロしているか、自分達のパートナーと一緒に遊びに行っているかのどれかしかない。
「……あれ? 何度思い返してもマジでねぇな」
「だろ?」
今更だが、自分達の交友関係は恐らく他と比べたら少し異常かもしれない。
仲の良い友人でグループを作るのが普通だが、自分達の場合はお馴染みのメンバーで完全固定されている。たまにクラスメイトから誘いを受けて行くこともあるが、それでも両手の数ほどしかない。むしろ樹の方が多い。
(マジかよ……俺達、どんだけ狭い関係で満足してたんだ?)
まだ学生の身だから問題はないが、卒業して社会に出る時は今のままでは支障が出る。
健康ランドで己のコミュニケーション能力を問われてしまい唖然としていると、湯船の向こう側から声をかけられた。
「――あ? お前ら、なんでこんなところにいやがる」
聞き覚えのある声に反応して顔を上げると、そこには訝しげに顔を歪める緑山暮葉、頭に長方形に畳んだタオルを乗せた白石怜哉、それからお風呂道具が入ったカゴを持った紫原霧彦という七色家の次期当主と現当主が勢ぞろいしていた。
まさか知り合いがこの場にいるなんて想像できなかった悠護は、思わず浴槽から立ち上がった。
「お前らこそなんでいるんだよ」
「僕の家が契約している新聞屋からここの招待券を三枚もらってね。両親は都合が悪かったからこの二人誘ったんだ」
それと、と一度言葉を区切ると、怜哉は岩盤浴の方に指を指す。
「あそこで陽先生爆睡してるよ」
「あ、ほんとだ!」
立ち込める湯気のせいでよく見えなかったが、身に覚えのある髪をした男が目元にタオルを置いたまま爆睡していた。
頭の近くにミネラルウォーターのペットボトルが置かれているが、表面についている水滴を見る限りあの様子じゃぬるくなっているだろう。
「つか、あれそろそろ起こした方がいいんじゃね? 脱水症状になんぞ」
「だな。俺、起こしてくる」
いくら下にタオルを敷いているとはいえ、爆睡している様子を見ると三〇分以上はいるだろう。
さすがに担任が脱水症状を起こすという事態は避けたい。電気風呂の浴槽から出て岩盤浴まで辿り着くと、陽の隣にしゃがみ込んで肩を揺らした。
「おい、陽先生ー。起きろー」
「んんっ……あれ、黒宮……? なんでここにおんねん……」
「俺だけじゃなくて樹も怜哉も暮葉も霧彦もいますよ」
「あー……? あー、ホンマや……」
眠り眼で辺りを悠護が指差した方を見て、半覚醒状態のまま陽はゆっくりと上半身を起こす。
普段結い上げているせいで長さが分からなかった髪は、寝るのに邪魔だったのか背中までなびかせ、数本が汗と一緒に首筋についている。細身ながらも鍛えられ汗の筋が浮かぶ肉体とこちらに向けられた流し目は、もし悠護が女ならその色気でノックアウトにさせられただろう。
ペットボトルと一緒に置いてあったゴムで髪をお団子にして結び、ペットボトルのキャップを取ってそのまま呷る。
ごくごくと喉仏が動き、水が渇いた喉と汗をかいた体を潤していく。一気に全部飲み干した陽はそこで意識がはっきりとしたようだ。
「ぷはっ、あー生き返ったわ~。それにしても、まさか七色家の子らがまさかここ揃うとはなぁ」
「まあ、それに関しては俺も同感だ。というか、先生はどうしてここに?」
「ん~? ああ、実は今朝愛莉亜に家から蹴り出されてな……行くとこなくて困ってたら、ちょうどサイフにここの割引券あったのを思い出してな」
そう言って陽が腰辺りを擦った。よくよく見ると、そこには何かにぶつかった痣があり、少し青黒く変色している。
(というか、自分の家から追い出されたのかこの人?)
家主であるはずの陽を蹴りで追い出した人物に軽くドン引いていると、出入り口の上に設置されている時計を見て陽は自分の体の下に敷いていたタオルを手に取った。
「そういやこれからどうすんや?」
「え? そうだな……風呂から出たらお昼は取る予定ですけど」
「ならちょうどええな。実はここの宴会場を一つ借りてるんやけど、一緒にメシどうや? もちろんそこにいる連中もな」
「えっ?」
突然の担任からの誘いに、悠護は目をぱちくりとさせた。
☆★☆★☆
二階分の敷地を持っているこの健康ランドでは、宴会できるスペースだけでなく宿泊施設も設備されている。
突然の出張延期や都合で帰れなくなった人にとっては救いの場所であり、風呂を堪能した後にわざわざ寒い外に出て居酒屋を探したくない人にとってはうってつけのシステムだ。
陽はちょうどドタキャンで予約がなくなった宴会場を借りてもらい、そこで夜まで過ごす予定だったらしい。案内された場所は一〇畳の広さを持った個室で、お昼は飲み放題パックがついた宴会プランを頼んだ。
料理は前菜三種類の他にサラダ、刺身や天ぷらの盛り合わせ、鰆の西京焼き、キノコ餡かけの焼き厚揚げ、鶏肉の釜めし、茶わん蒸し、甘味など食べ盛りの男子高校生の腹も満たす品々ばかりだ。
「和食って見てるだけでほっとするよな」
「あー、それは分かる。どこ行ってもフレンチばっかり食ってるせいかもな。ったく、あんな格式ばったメシにこっちは飽きてんのによぉ」
「だねー。フレンチは胃もたれするし、中華料理も結構味が濃いから舌がおかしくなる。やっぱりこういうのが一番だよね」
さり気なく金持ち談話をしている悠護達の横では、樹は遠慮なく刺身を頬張っていた。新年になってから獲れたマグロはどれも味が濃厚で、きっと当分はこの味には会えないだろう。今しか味わえない贅沢を満喫することにした。
成人組はさっそくビールを頼んでおり、陽と霧彦は『大人』らしい雰囲気を醸し出している。
「まさかあの【五星】とこうして酌を交わせるなんて夢みたいですね」
「ははっ、今のワイはただの教師や。日本総合魔法研究所の所長さんの方が一番上やろ?」
「いえいえ、あそこは魔法の神秘に魅入られた者が最後に行きつく場所です。それ以上も以外もありません」
ちびちびと飲みながら話を交わし合い、味の感想を言い合いながら騒ぎ合う。
その光景を黙々と料理に手をつけながら見ていると、襖の外から何かが割れる音と悲鳴が聞こえてきた。
「なんだ? 喧嘩か?」
「ちょっと見に行ってくる」
「あ、俺も行く」
首を傾げる暮葉の隣で悠護が立ち上がって宴会場から出て行くので、樹はその後を追った。
騒ぎの元は居酒屋風の食事処で、野次馬で囲まれている場所ではいかにも最初の文字がヤかマがつく自由業らしき男が、大泣きしている子供二人を背中で隠しながら口元から血を流す男を睨みつけていた。
「テメェ!! よくも俺の服を汚しがったな!? どうしてくれんだ、せっかくの一張羅を!」
「も、申しわけありません! どうか許してください!」
いかつい男が自身の服についているソフトクリームを指さすと、怪我人の男は必死に頭を下げる。
よく見ると片方の子供の手にはソフトクリームが少ししかないコーンを握っており、大方の予想がついた。
「たかが服汚したくらいで大袈裟だなぁ。大人なら少しは余裕持てよな」
「それについては同感だけど、これマズいんじゃないか?」
悠護の言葉に樹がいかつい男の方へ目をやると、彼の右手は血管が浮き上がりそうなほど握りしめている。
いかにも殴る準備をしている体勢を見て、樹は小さく舌打ちをした。
「くそっ、あいつまだ殴る気だ。ちょっと待ってろ、今俺が――」
「――何をしている」
樹が前に出ようと準備をし始めた途端、食事処に無視することができない声が響く。
人がモーゼの海割れのように割れて、開いた道のど真ん中を歩くのは見覚えのある金髪の少年。店側で貸し出している浴衣をきっちりと身に包み、毅然とした態度が彼の美しさを際立たせている。
ぶっちゃけていうと、何故か庶民がたくさんいる健康ランドに、イギリスの第一王子ギルベルトご本人がいた。
「おい、なんでここにいるんだよあの王子は!?」
「知るか! そんなのこっちが知りてぇよ!」
まさかの知り合いの登場で二人が小声で言い合っていると、ギルベルトは二〇も上の相手すら怯む眼光で睨みつけながら、床に座り込んでいる親子を庇うように前に出た。
さすがのいかつい男もその行動を見て我に返ったのか、唾を吐き散らす勢いで怒鳴る。
「な、なんだテメェは!?」
「通りすがりの者だ。それよりも、貴様は謝罪をしている親子を過剰に責め立てているようだな。往来の場で恥ずかしいとは思わないのか?」
「う、うるせぇな! テメェみたいなガキには世間の厳しさを知らねぇからそう言えるんだよ!」
「ほお? その世間の厳しさとやら、こうして子供を泣き喚かせ、謝罪のために地べたに頭を垂れる者を痛めつけるのを容認するのか? 貴様の頭の中では随分と暴力思考なのだな。――ああ、胸糞が悪くなるほどに」
ギルベルトのガーネット色の瞳が獰猛に輝き、男だけでなくこの場にいる全員がその威圧感に呑まれてしまう。
いかつい男は彼の迫力を至近距離で受けたせいなのか、目をぐるりと裏返しするとそのまま全身を痙攣させながら倒れる。まるで見本のような失神ぶりだ。
思わず感心してしまうが、これ以上は周囲の人間を失神だけでなく、心臓に負担をかけさせてしまう。
ただでさえギルベルトが『概念』として操っているのは『雷竜』なのだ。幻想生物の中で頂点に君臨する存在の気配など、人間にとっては天災に等しい。
悠護はため息を吐きながら人ごみから出ると、そのままギルベルトの頭にチョップを落とした。
「いたっ」
「なぁにやってんだよお前は」
後ろで樹が例の親子や人だかりに声をかけて解散するよう言っている中、ギルベルトは自分を叩いた張本人である悠護を見てぱちくりさせた。
「……悠護? それに樹まで。なんでここにいる?」
「それはこっちの台詞だ。王子にとっちゃ健康ランドなんて縁遠いはずだろ。つか、冬休みの間はどっかのホテルに泊まるって言ってなかったか?」
冬休みの間、聖天学園は全面立ち入り禁止になっている。管理者と呼ばれる人物が唯一敷地内に残れるが、それ以外はたとえ教師であっても立ち入ることはできない。
無論、イギリスの王子だが今は学園の生徒であるギルベルトも例外ではない。そのため冬休みの間は都内のホテルで泊まっていたはずなのだが……。
「ああ、どこかの魔導士崩れのバカがオレのいるホテルとその周辺の水道管を凍らせてせいで水が使えなくなった。それで風呂を入るついでにメシも済ませようとここに立ち寄ったのだ。まあ、今はもう復旧していると思うけどな」
「なるほど……」
いくら魔導士崩れとは言え、悠護達と同じで魔法が使えることは変わりない。彼がここにいる理由を聞いて納得していると、事態を収束させた樹がこっちに戻ってきた。
「おい、終わったぞー」
「ああ。すまない、手間をかけさせたな」
「別にいいって。それよりギル、昼は食ったのか?」
「いや、これから食べるつもりだが……」
「それなら、ちょうど怜哉達もいるからあっちで食おうぜ。そっちの方が楽だろ」
ほら行こうぜー、と言いながらギルの腕を引っ張る樹。
顔は笑っていて、態度はいつも通りなのに、どうしても空元気に見える。
九月から様子がおかしかったが、学園祭の事件でその様子は嘘みたいに消えた。だが、『灰雪の聖夜』から再びまた様子がおかしくなった。
あの事件以来、より正確に言えば取り調べを終えてからの久しぶりの再会だ。その間に樹の様子がおかしくなってしまったことが起きても不思議ではない。
それに、あの事件で様子がおかしくなったのは悠護自身も同じなのだ。
右手についている黒い金属のブレスレット。あの少年の幻を見てから、今まで夫婦剣だった《ノクティス》が粒子として消えないままこうして形を保ったまま実在している。
事件後も家で何度も《ノクティス》の可変を試し、この武器は様々な姿に変えるものだと発覚した。
今まで剣として使っていないせいで未だ別の姿をした武器で戦うことには慣れないが、これからを考えると他の武器も扱えるようにならなければならない。
「……っ」
そう思った直後、ズキリと頭が痛んだ。
よろめきながら壁に体をつけて、小さい疼痛をどうにかやり過ごそうとする。
ズキズキと痛む頭を抱えながら、悠護は小さく舌打ちした。
「クソ、またかよ……」
この謎の頭痛も、事件後に時折起るようになったものだ。
最初は体調不良だと思っていたが、いくらかかりつけの医者に診てもらって頭痛薬を飲んでも、一向に良くならない。心因性のものだと考えられたが、直感的にそれは違うと思えた。
(なんかこれ、痛みを与えるっつーより、
だが、一体何を思い出そうとしているのか?
生憎と自分には忘れた記憶はあまりない……と思う。覚えている範囲でも思いださなければならない記憶はない。
だけど、心の声が『思い出せ』と訴えかけてくるのも事実だ。
「なんなんだよ、ほんとによ……」
思い出そうと記憶をほじくり返しても、一向に思い出したい記憶がない。
それなのに心と頭が『思い出せ』と訴えかけ、痛みを与えてくる。
自分自身さえ分からない謎に苛々が募る。
ふと、思わず自分の唇に指先を触れる。指先が触れた薄い唇が、あの日初めて日向と交わしたキスの感触を思い出していく。
柔らかくて、甘くて、涙の味がしたキス。本人の同意なく勝手に交わした、独りよがりの行為。
最終的には受け入れて自分が満足するまでその唇を貪ったが、やはりあれは最低な行いだ。
それでも、あの時は頭より体が先に動いてしまった。あれ以上、己の罪に押しつぶされそうな彼女を見ていられなくて。
彼女を病室に送る時、「さっきのことは忘れてもいい」と言ったが、あの様子ではきっと忘れないだろう。
あと数日すれば、学校が始まる。その前にどうにかしなければならない。
「……はぁ」
いつの間にか抱え込んでいた問題の数々に、悠護は人知れず深いため息を吐いた。
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