第101話 絶望は少女を天から堕とす

(――何故?)


 桃瀬希美の頭の中を支配しているのは、純粋な疑問。だが彼女がそう思ってしまうのは無理ではない。

 事実、彼女は大きな力を得た。この世で一番大っ嫌いな女を、確実にこの手で殺せる力を。

 なのに、どうして。


(何故、私が押されているの!?)


 海へと突き落とした女――豊崎日向はふてぶてしくも地上に戻り、見たことのない剣を持って対峙している。

 でも、それ以上に理解できないのは、先ほどよりも力が上がっていることだ。


「私は剣。悪を退け、討ち滅ぼす一振りの剣」


 謳うように、祈るように、願うように紡がれるのは祝詞に似た詠唱。

 詠唱に応じるように、鋼色の剣が琥珀色の魔力を帯びていく。


「一度の剣戟は山を抜き、水を割り、空を裂く」


 日向は剣を体の前で垂直に立てる。たったそれだけの動作なのに、全身が悪寒に襲われる。視界に煌めく何かが入ったと気づいた直後、希美の四方を黄金の刃で囲まれていた。

 いつの間に、と思ったが、この攻撃を避けることは不可能だ。


「それでもこの身は、不変の心を持って砕かれることはない」


 直後、黄金の刃が襲いかかる。怒涛の雨の如く襲い掛かる剣戟を、氷槍を振るい切り砕くが、刃が当たった場所にヒビが入っていく。

 ピキ、ビシリ、と嫌な音を聴きながら、希美は大きく舌を打ち、睨みつける。


「この、死にぞこないがぁ……ッ!!」


 死にぞこない。まさに今の日向には当てはまる言葉だ。

 一度落ちたら生きているわけがない場所から海に落とされて、自分自身でさえ理解できない力を振るう姿は、今の希美にとっては悪夢よりも最悪なものでしかない。

 それでも、日向はどんなことを言われても死ぬわけにはいかない。


 目の前の、狂った〝恋〟を絶対と信じる少女を救うために。

 そして、自分の中にある〝愛〟が間違いではないと証明するために。


「どうして、どうして私の邪魔をするの!? 私は間違ってない! 私の〝恋〟は、全部ゆうちゃんへの想いからくるもの。あんたのそれは、ただの薄汚い独占欲よッ!!」

「違う、あたしの〝愛〟はそんなものじゃ一括りにはできない。あなたが何度言ったおうとも、桃瀬さん……あなたの〝恋〟は間違ってると言い続ける」


 正しいと信じた一途な想い。覆すことを許さない主張。

 己の中で絶対だと決まっているからこそ、それを譲ることはできない。

 譲ってしまったら最後、自分の中にある名前の知らない大切な物が壊れ、二度と元に戻れなくなる。


「一括りにはできないってことは、独占欲もあるってことでしょう!? それを〝愛〟と言い張るなんて、頭おかしいんじゃないの!?」

「それは桃瀬さんだって同じだよ。悠護を誰にも渡したくないから、誰かを傷つけることも壊すことも厭わない。でも、そんなのはただの独善だよ」


 再び黄金の刃が襲いかかるも、《ブリュンヒルデ》で叩き切る。

 刃に亀裂が走るも、希美は日向を睨み続ける。


「私がゆうちゃんを一人占めしてそんなに悪いの? 私は小さい頃からずっとゆうちゃんのそばにいた。どんな時でも、何かをしている時も一緒だった。だからこそ、ゆうちゃんを傷つけるゴミの存在が許せなかった! 愛しい人のために害意を駆除する、それが本当の〝恋〟よ!!」

「――違うッ!!」


 今まで冷静に、静かに説いてきた日向が大声を出して否定する。

 初めて見せた激情に、希美は目を見開いて固まる。


「そんなこと、悠護は望んでいなかった。彼は昔の……誰にでも優しかった桃瀬さんと一緒にたくさんの友達に囲まれることを望んだ。でも、そんな彼の気持ちとは正反対に、悠護は孤独になった」


 悠護の口から語れる昔の希美は、今とは真逆だった。

 裕福なことを鼻にかけず、隔てなく誰とでも接し、迷い込んだ野良猫にも好意的な態度で示す心優しい少女だったと語っていた。

 誰もが羨むほど心も美しかった少女は、悠護の実母の死を境に変わってしまった。大切な人に近づく者はあらゆる手段で駆除し、自分と彼だけの世界を作ろうとした。

 それが、彼の孤独を癒す方法なのだと信じて。


「今、あたしが悠護にしているのは、きっと昔の桃瀬さんがしてた、もしくはしようとしたことだと思う。今のあなたにはそれがただの媚びに見えるかもしれないけど、あなたが悠護に本当にしたかったのは、こういうのじゃないの?」


 悩んでいたら素直な気持ちで話し合い、自分が行きたいところを言い合ってから街に出かけ、一緒に料理をして互いに作ったものを食べさせ合う。

 まるで恋人同士がするような日常。でもそれが、悠護が心から望んでいたものだと日向は知っている。


 たとえ一年近くしか一緒にいなくても、同じ時間を共有し合ったからこそ、彼の望むものを理解できた。

 なのに、一〇年以上も一緒にいた希美が理解出来なかったのか。理由は単純だ、それは――。


! !!」

「黙れ、黙れ、黙れぇええええええええええええええええええええええッッ!!」


 声を高らかに、希美自身さえ知ることが出来なかった事実を突きつける少女日向の白く細い首を、左手で掴む。

《ブリュンヒルデ》の付与魔法エンチャント効果で握力も強化され、軽く掴んでいるはずなのにギリギリと音が鳴るくらいの強さが出て、僅かだか体が地面と離れた。


「かっ……はぁ……!?」

「私は! ただゆうちゃんの笑顔が見たいだけ! 笑顔になってくれればいい! ただ、それだけで! それだけのために、私は――!」

「――ッ!」


 動揺で乱れた言葉を紡ぐ希美を見て、日向はなんとか力を込めて剣を振り下ろそうとする。

 その前に危険を察知した希美によって首から手が離れ、地面に足をついた。一瞬だけ体をよろめかせるが、気力で踏ん張る。


「そんなに悠護を笑顔にしたいなら、最初から泣かせるような真似をするな!」

「っ……!?」

「守りたい、そばにいたい、傷つけさせたくない、笑顔にしたい――それは桃瀬さんの偽りない本心だ。けどっ、そこには悠護の心の傷が入っていない! 彼は、あたし達の好きな人は、初対面の誰かが傷ついてそれを無視する人だった!? 理不尽に傷を作り、流したくもない涙を流す人を見て、石みたいに何も感じない人だった!?」


 ――違う。


 心の奥底に追い込まれた『白』の理性で否定する。

 氷槍によって精神が汚染され、今最も現れている『黒』の理性が耳を塞ごうとするも、『白』の理性がそれを阻ませる。


 日向の言う通りだ。

 悠護は、自分達が好きになった人は、故意に傷つけられる人を見るのを嫌った。

 目の前で転んだ子供を泣き上げる前に起こして、「大丈夫?」と優しく声をかけて、何回か言葉を交わして泣くのをやめた子供の頭を撫でながら「偉いぞ」と言って微笑みを見せる――そんな優しい人だ。


 なら、その優しい彼が、希美の所業を見てなんとも思わないだろうか?

 答えは、否だ。

 現に彼は何度も希美に言ってきた。


『もうこんなことはやめてくれ』


 ――思い出す。彼の苦痛に堪える顔を。


『俺は、こんなことは望んでない。俺のせいで誰かが傷つくのも、傷つけられるのも嫌だ』


 ――思い出す。今にも泣き声をあげそうな声を。


『だから……頼む、もうやめてくれ。希美、お願いだから昔のお前に戻ってくれよ……』


 ――思い出す。昔がかけ離れるほど変わってしまった自分を制止する姿を。


「あ……ああ……あああ……!」


 一度自覚した瞬間、希美の中の記憶が濁流となって押し寄せる。

 己の美しさを偽物と弾劾した少女の顔をカッターで切りつけた日が、好きな人の私物を刃物で滅茶苦茶にした少年達を心が折れても殴り続けた日が、希美の所業を聞きつけて何度もやめるよう懇願する悠護を見つめた日が鮮明に思い出してくる。


 今まで己の所業が魔導士界の表舞台で広まらなかったのは、『桃瀬家』という家柄の力だ。

 悠護が嫌う家の力を使って、自分は今まで彼の害意を排除してきた。

 それが余計、悠護の家の確執と魔導士嫌いを悪化させたことに気がつかないまま。


(じゃあ、じゃあ、私がしてきたことって――!?)

『分かってるくせに』


 心の中で自問した直後、『黒』の理性が嘲笑う。


『全部無駄だったんだよ。徒労、無駄骨、余計なお世話。あなたがしてきたことは、結局はただの自己満足』


 ゲラゲラと。

 ゲタゲタと。


『黒』の理性が嘲笑を上げる。認めたくない真実を告げる。

 必死に否定したかった。でも『黒』の理性も、残り滓のような『白』の理性も、全部『桃瀬希美』を構築する機関。

 己を動かす存在が教える言葉を否定することなんて、できない。


『――あなたのそれは、〝恋〟じゃない。傲慢と強欲と独善と貪欲で塗れたものが〝恋〟なはずがないでしょ!?』

「やめて……お願い、言わないで……っ!?」

「……桃瀬さん?」


 頭の中から真実を突きつけようとする『黒』の理性を制止する声が、現実にいる日向にも聞こえるが、何が起きているのか分からない日向は首を傾げるだけ。

 だが、残酷にも『黒』の理性は――真実絶望突きつけた。


『あなたが〝恋〟と信じてものは――ただの『』。この世で最も汚らわしくて、犯した罪によって穢れたあなたには大変お似合いのものよ』


 所有欲。

 希美が悠護に抱いた感情は、恋情ではなかった。

 この手にこの世で最も大切なものを手に入れたいという醜悪な欲。


 それが、希美が信じ続けた〝恋〟の正体。

 絶望を突きつけられ、『白』の理性が『黒』の理性に呑まれていく。

 まるで底なし沼に引きずり込まれる感覚と、『絶対』と信じたものの全否定。


 一人の少女が与えられるには重すぎる絶望を前に――希美の心は、砕かれた。


「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」


 全てを否定され、巨大すぎる絶望を与えられた少女の慟哭が、東京都内全体に響き渡った――。



☆★☆★☆



 初めて彼女と出会ったのは、本当に偶然だった。

 たくさんの生徒が行き交う食堂。全生徒が入れるように二階構造になっているそこで、私は恋敵となる女と出会った。

 きっかけは、本当に些細なものだった。それこそ、日向向こうの記憶に残らないほどの。


 己の家の力に媚びへつらう女子達どの子も将来的に利用価値がある家柄出身だ――と、親睦という名のコネ作りのために一緒に昼食を摂ろうとしていた。

 唯一お弁当持参である腰巾着の一人が自分の代わりに列に並ぶと申し出たので、私は自分が選んだ食券をその子に渡して、人数分の席を取ろうと行こうとした時だ。


 とんっ、と目の前から来た人物と軽く肩同士がぶつかったのだ。

 互いに少しだけよろめくと、私はぶつかった相手の顔を見る。腰まである琥珀色の髪と同色の瞳、顔立ちは可愛い寄りだがどこか目が離せない魅力を放っていた。

 聖天学園の制服をきちんと着て、白いスカートのポケットからは白い猫のマスコットがはみ出ていて、ぶらぶらと揺れている。

 己を美少女と自認してきた少女は見てきたが、この少女だけはどこか違う雰囲気を醸し出していた。


「あ、ごめんなさい。大丈夫?」

「いえ……平気よ。気にしないで」


 少女は私の身を案じてきてくれたけど、何故かこれ以上関りたくないと思った私はすぐにその場を立ち去った。

 少女は腕で包み込むように四本のペットボトルを抱えていて、恐らく誰かにパシられたのだろうと推測した。


 だが、少女が向かった先を視線で負っていた私の推測は、大きく覆された。

 少女が向かった場所には、愛しい幼馴染みがいた。他にも亜麻色の髪の少女や赤髪の少年もいたが、私の目には彼しか映らなかった。


「お待たせ。はい、飲み物」

「サンキュー……って、おいこれ激マズで有名なカロリーゼロのコーラじゃねぇか! なんの嫌がらせだ!?」

「昨日の魔導具の授業であたしに爆発寸前の失敗作を押しつけてきたからそのお返し」

「あれ結局お前の無魔法でなんとかなったろ!?」

「そうだね。なったね。でもそれとこれとは別。全部飲みなよね、それで昨日の件チャラにしてあげるから」

「てめぇは悪魔かよちくしょう!?」

「自業自得」


 ぷいっと顔を背けた少女の非情な宣告に、本気で泣き叫ぶ赤髪の少年。その隣で亜麻色の髪の少女は口元を引き攣らせながら苦笑していた。

 でも、何より私の目を引いたのは、幼馴染みの顔。


 ――笑っていた。子供の頃みたいに、大きく口を開けて、楽しそうに。

 噂以上のマズさをしたコーラを初めて青汁を飲む子供みたいな顔で飲もうとする赤髪の少年を見て、幼馴染みが笑い過ぎで喉を痛んだのか咳き込んでいた。

 どこにでもある、他愛のない日常の一幕。本当ならば、彼の隣にいたのは自分のはずだったのに。


 自分ではなくあの少女と同級生達によって幼馴染みを笑顔にさせた事実は、私の頭の中で怒りがマグマとなって生まれた。


 ――何故……どうしてなの!?

 ――あんなにあなたのために尽くしたのに!

 ――何故あなたは彼女達に笑顔を向けるの!?

 ――私が、世界で一番あなたのことが好きなのに!!


 許せなかった。悔しかった。憎かった。

 あの少女のことも、赤髪の少年のことも、亜麻色の髪の少女のことも。


 でもそれ以上に――ずっとあの笑顔を見ていたい、と思ってしまった。

 それが、桃瀬希美が初めて少女――豊崎日向に負けたのだと認めないまま。



「ああああああああああああ! あああああああああああああああああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

「桃瀬さん! 桃瀬さん!?」


 突然独り言を言ったかと思うと、絶望に染まった慟哭を上げた希美。

 叫びに呼応するように、黒く濁った桃色の魔力が彼女の周りで竜巻の如く荒れ狂う。

 物理的な風圧によって近づくことも出来ず、剣を道路に突き刺して吹き飛ばされないように耐えるしかなかった。


(一体、何があったの!? これ、魔力の暴走とかそういうレベルじゃない! こんなの、まるで――!!)


 ――まるで、堕天のようだ。

 頭の中で生まれた言葉を紡ごうとした瞬間、竜巻と化した魔力が霧散する。

 風圧も収まり、支えだった剣を道路から引き抜く。

 魔力の竜巻が起きた場所、つまり希美がいた場所はあの威力の魔力の影響を受けたせいでボロボロだ。


 そして、言葉を失った。

 その場に立つ少女のあの美しさはもはやなく、醜い化け物に変わっていた。

 全身を薄紅色の管のような物体が葉脈や血管のように肌を蹂躙し、目は落ち窪み、瞳はひどく濁った桃色に。

 透き通った白い肌は病人のような青白くなっていた。


 持っていた氷槍は刃の穂先が黒く、そこから徐々に青系統の色に薄くなっている。

 先ほどまでとは違う変貌に、日向は驚愕を禁じ得なかった。

 魔導士の暴走例は授業で何度も教えられたり、過去の映像記録を見たこともある。その姿は完全な人型を保つか、目に入れることすらおぞましい生き物と化していた。


 だが、この希美の姿はまさに日向が思い浮かべた『堕天』が一番しっくりきた。

 純白の翼を持つ天使が、神からの赦しさえも与えられないほどの罪を犯し、ついには黄金の光が照らす天から堕とされる。

 昔、中学校の課外授業で見た宗教画のように。


「違う……違う、違うわ……」

「桃瀬さん?」

「私のゆうちゃんへの気持ちは〝恋〟なの……そう、絶対にそうなの……。所有欲なんかじゃない……」


 苦しげに髪を掻きむしる希美の目が、日向の姿を捉える。

 するとすぐさま《ブリュンヒルデ》を両手で構え、震える唇で叫ぶ。


「私の〝恋〟は間違いでも所有欲でもない! それを認めないゴミは全部、全部全部全部ッ!! 私の手で排除してやるんだからぁあああああ―――――――ッ!!」


 突きつけられた絶望を否定し、抗おうとする堕天の少女は氷の槍を携えながら直進してくる。

 悪鬼の如く迫りくる希美を見て、もはや後戻りはできない察した日向は、歯を軋ませながら剣を握る手を強めた。

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