第95話 叛逆の時はまだ遠く
恋というのは、我が身を成長させる薬にもなれば、その人の本質すら歪める毒にもなる。
それが、フォクスが抱く『恋』の持論だ。
恋の深さによって人は悪逆非道を問わなくなり、むしろ自身の悪事が正しい恋の行いなのだと開き直ってしまう。
それほどまでに、恋というのは人を狂わせてしまう。
逆に言えば、その愛に深く酔い、溺れた者ほど扱いやすい『駒』になりえる。
今までフォクスが『駒』として使ってきた人間は、全て常軌を逸した恋を持つ者だった。
恋のためならば、実の家族と想い人の家族を生贄として捧げる者がいた。
恋のためならば、警察からも裏社会からもマークされるほどの犯罪に手を染める者がいた。
恋のためならば、あの世で結ばれるために想い人と共に自らさえもこの手で殺した者がいた。
誰もが悲惨と嘆く結末を、フォクスはまるで舞台を観覧する客のような態度で見続けた。
役者を操る脚本家であり舞台監督でもあるはずの彼女は、己の存在を秘匿したまま第三者の立ち位置にいる。
それはただ純粋に、フォクスが恋に狂った人間の結末に見せる顔を見て愉悦を感じる悪趣味な女だからだ。
後悔と罪悪感が入り混じった涙でぐちゃぐちゃになった顔も。
手錠をかけられパトカーに連れて行かれながらも狂ったように笑い続ける歪んだ顔も。
愛しい人とあの世で結ばれる喜びに歓喜の涙を流して自身のこめかみに突きつけた銃の引き金を引く甘く蕩けた顔も。
全てはフォクスが楽しむための娯楽だ。
仲間からも『趣味が悪い』と言われているが、それでもフォクスは止められなかった。
愛という原動力で動く人間の人生と言った名の舞台を何度も見たい。
何度も見た結末も、何度も聞いた台詞も、ずっと一人占めし続けた。
そのためならば、彼女はなんだって用意するのだ。
衣装も、脚本も、セットも、スポットライトも。フォクスという観客を楽しませるための舞台に必要なものは全て揃えて。
そして今、彼女は新しい『駒』となった少女を最高の役者として育てている。
目の前に広がるのは、目視できるほどの白い冷気が漂う氷達。
薄水色に輝くそれには魔導人形が突き刺されていたり、中に閉じ込められており、もし人間ならば高確率で凍死に至っているだろう。
百を超える氷柱が無造作に生えているその場所で、少女――桃瀬希美は口角を三日月のように吊り上げていた。
「ふっ、ふふふっ……あははははっ」
桜色の唇から漏れる哄笑は、憎悪の炎でどす黒く見える桃色の瞳の不気味さをより一層引き立たせる。
機械の体である魔導人形だからまだマシだが、もしこれが生身の人間ならば無残な死体が転がり、濃厚な死の匂いが充満する血の海が広がっていただろう。
(それにしても……ちょっと魔法の使い方を教えただけでここまでとは……。分家とはいえ、七色家の血筋を引いているだけあるわ)
とはいえ、とフォクスは目の前の惨状を見て熟考する。
確かに学園に通う魔導士候補生より、彼女の腕はとうにそれらを超えている。だが、
無論それが日向を殺しえる力のことも指しているが、フォクスが密かに狙っているものにも関係がある。
だがそれを『駒』である彼女に言ったつもりはないが、最高の役者にさせるために必要な指摘しなくてはならない。
パチパチと拍手をしながら、希美の方へ歩み寄る。
「素晴らしい才能ね、希美。もし私がそこらの魔導士だったらあなたに負けるでしょう」
「お世辞は結構よ。それで、これならあの女を殺せるのかしら?」
「いいえ、殺せません」
きっぱりと即答したフォクスに、希美の周囲で猛々しい冷気が襲う。
その冷気で氷に霜が生まれ、ただでさえ分厚い氷の上にさらに分厚い氷が重なる。
肌を刺すどころか凍りそうな冷気を浴びているはずのフォクスは、『話が違う』と訴えかけてくる視線すらもろともせず微笑む。
「ごめんなさい、言葉が足りなかったわ。正確にはまだ彼女を殺せる領域にまで達してないのよ」
「どっちも一緒だわ。あなた、もし私を騙そうって言ったんなら最初に殺すわよ?」
「うふふ、怖い怖い。最近の若者はキレやすくていけないわ。……でも、そうね。ここまで頑張ったから、いいものをあげるわ」
そう言ったと、フォクスは自身に右隣にある氷柱を歪ませた。
ぐにゃりと氷が渦を巻いて歪むが、不思議なことに溶けている様子はない。希美が出す魔法の冷気が関係していると思うが、これはそうでなはい。
硬い氷が粘土のように形を変えていき、キンッと澄んだ音と共に一本の槍が生まれる。
杖の部分は白に近い青をしているが、穂先に向かって徐々に色を濃くしている。
刃の部分はスペードに見える形をしており、丸みを帯びた部分には竜の鱗のように重なり合った氷が出来ていた。
「ねぇ、『ブリュンヒルデ』って知ってる?」
「……? ああ、愛した英雄を殺して自分も死んだ戦乙女のこと?」
「まあその解釈も間違いではないわね」
希美の答えにフォクスはくすくすと笑った。
ブリュンヒルデ。英雄の子供であるシグルドと結婚の約束を交わすも、王妃の策略によって彼女を忘れた挙句に王女と結婚した彼を殺し、その後自ら炎で焼かれて死んだ戦乙女。
何故このタイミングでその話が上がったのか首を傾げていると、フォクスは氷の槍を優しく撫でた。
「この槍は、私が生み出した魔導具。あなたの中の恋の炎が燃え続ける限り、あなたが殺したい相手を殺す力を与えてくれる。いわば、強化アイテムなのよ」
くるりと氷の槍を半回転させると、改めて両手で持つとそのまま希美の方へ腕を腕を伸ばした。
「そして、この槍の名は《ブリュンヒルデ》。恋に落ちて狂った戦乙女と似たあなたが、そうならないように願いを込めてこれを与えましょう。この槍があれば、あなたは必ず豊崎日向を殺せると約束します」
妖艶に微笑むフォクスの顔を見て、希美の視線は《ブリュンヒルデ》に向けられる。
氷から作られたとは思えないほどの美しい槍。これさえあれば自分は目的を叶えられると頭では理解しているが、この槍を作った本人をどうしても信じきれなかった。
こうして誰にも知らない特訓場を用意したり、魔法を教えてくれたりと何かと世話を焼いてくれたのは事実。だが、それ以上に萌黄色の瞳に潜む何かのせいで、フォクスに対し猜疑心を抱いてしまう。
(でも)
それでも、身元も正体も怪しい彼女から教えを請いたのは希美自身だ。
この身に何が起ころうとも、日向さえ殺せればそれでいい。きっと悠護は自分のことを今以上に嫌うかもしれないが、それでも構わない。
どんなに嫌っても、第二婚約者候補である自分が彼のお嫁さんになるのは覆さない事実。
たとえ唾を吐きかけられ、罵声を浴びせられ、暴力同然のまま抱かれても、希美は悠護を愛し続けられる。
それほどまでに、桃瀬希美は黒宮悠護を愛しているのだ。愛する人と結ばれるためならば、彼女は喜んで悪魔に魂さえも売る。
そっと、金髪の女が持つ《ブリュンヒルデ》を手に取る。氷から作り出されたその槍は、陶器のようにつるりとした感触がしたが不思議と温かくて軽い。
バトンのように回し、手に収める希美を見て、フォクスは小さく微笑む。
美しいその顔に刻まれたその笑みは、嬉しさも混じっていたが己の才略に嵌った彼女を嘲笑うかのようなものだった。
☆★☆★☆
「相変わらず趣味が悪い女だな」
居城に戻ると、自室である診療室から出て来たアングイスが突拍子もなく言い放った。
一瞬だけ呆けた顔をするフォクスだが、彼の言葉の意味を理解するとくすくすと笑う。
「あら、私の悪趣味はすでにご存知でしょ? というか、あなたが口を出すとは珍しい」
「単なる気まぐれだ。それより、今度の『駒』は七色家の人間なのだろう? どうする気だ」
アングイスの問いに、フォクスはニィと邪悪さを秘めた薄笑いを浮かべる。
「愚問ですね。――もちろん、ちゃんと処分しますよ。愛に狂った女に相応しい末路を」
くすくすと笑いながら階段を上っていく女狐の背中を見送りながら、アングイスは小さく嘆息するとすぐに別の廊下を歩き始める。
この居城は広大ゆえに複雑な構造をしている。だがここに長らく住んでいる身としては、地図がなくても簡単に目的地に着くことができる。
ふかふかの毛の長い絨毯が敷かれた廊下を歩き、ある部屋のドアの前に辿り着く。
コンコンとノックすると、ドアの向こうからドタッ!! と何か重たいものが転がり落ちる音が聞こえてきた。
「入るぞ」
部屋の入室許可を待たずに部屋に入ると、そこには天蓋ベッドの足元で腰をさすりながら蹲る我が『レベリス』のボスである主がいた。
「また寝ぼけて落ちたのか?」
「ああ……アングイス、これはどうにかならないのか?」
「無理だ。魔導士の命と魔力を喰らい続けたければ、それくらいの副作用は許容しておけ」
主からの言葉をばっさりと言い切ると、アングイスは持っていた黒革製の鞄から診察道具を取り出す。
この組織の幹部を含む自分の担当医である彼に意見することができないのか、主は子供のように憮然とする。
『レベリス』の幹部に与えられている『
鳥籠の中に入っているベルを鳴らすと魔導具が自動で発動し、相手の命と魔力をそこに集める仕組みになっている。そして、それを対となるグラスに注ぐことで液体となった命と魔力をまるでワインを飲むかのように摂取することができる。
ただし、その副作用として奪った人間の怨嗟の声を幻聴として聞き続けなければならない。
今回、主がベッドから転がり落ちたのも、レム睡眠状態という無防備な時にその幻聴を聞いて驚いてしまったからだ。
本当ならそろそろ慣れろと言いたいのだが、誰だって眠っていたのに突然耳元で話しかけられれば驚く。
そう思っていると、ベッドに腰かけた主が着ていたシャツのボタンを外して、白いシャツと同じくらい白い裸体を晒した。
ここ長らく外に出ていないせいで、軽く日に焼けていた肌は
シャツから覗く上半身は年相応に筋肉がついているが、薄茶色に変色した醜い傷跡が至るところに残っていた。特にひどいのは、心臓に近い部分にある細長い菱形の跡だろう。
切り傷、刺突傷、火傷……数え切れないほどの傷を残す体を、アングイスは顔色一つ変えずに聴診器を当てると、主はふっと小さく苦笑する。
「相変わらずだな、お前は」
「それはお互い様だ。そもそも、医者である僕が患者の肉体を見ただけで顔色一つ変えるわけがないだろう」
「……そうだな、お前はそういう男だったな」
テキパキと血圧を測り始めるアングイスを見ながら、主は再び苦笑を浮かべる。
何か思い耽る主を余所に、アングイスは口の中や目の充血具合を確認すると、道具を鞄の中にしまっていく。
「終わったぞ。結果は相変わらずだ」
「そうか」
医者からの診断を聞かされた主は、一言告げるとシャツのボタンを留め始める。
カチャカチャと音を立てながら診察器具を戻していると、ふとアングイスが口を開く。
「そういえば、フォクスが好き勝手やってるがいいのか?」
「問題ない。あいつの単独行動は今に始まったことじゃない。……ただまあ、私すら看過できない問題を起こしたら罰を下すつもりだ」
「その時はちゃんと息がある状態で僕のところに運んでおけよ」
主の口にする罰の内容を思い出して顔を顰めたアングイスは、ため息をつきながら鞄を持って主の部屋を出て行った。
主の部屋を出てて再び廊下を歩いて自室に戻ろうとしていると、おどおどとした青年が廊下の端でうろちょとしていた。
幹部の証である白いレースがあしらわれた紅いローブを羽織っており、そこから見えるくすんだ茶色い髪を見て、その正体の名前を呼んだ。
「――アヴェム」
アヴェムと呼ばれた青年はビクゥ!! と肩を震わせるが、アングイスを見るとほっと息を吐いた。
毛先が外側に跳ねたくすんだ茶髪にペパーミントグリーン色の瞳をしたアヴェムは、気弱な面立ちでアングイスに駆け寄った。
「ああああよかった、助かった!」
「なんだ、またレトゥスにいじめられてるのか?」
「そうなんだよ! あのクソガキ、相手が俺なのをいいことに、あの手この手とエグい魔法ばっかり使って来やがって……ッ!」
自分より年下の少年に弄ばれるのは屈辱的なのか、ギリギリと爪を噛みながら歯軋りするアヴェム。
これが元一国の王子だったなんて、未だに信じられない。というか、政略と陰謀渦巻く王宮でよく生き延びたなと素直に褒めたい気持ちになった。
「……今、足りない薬の調合をしている。それを手伝うというなら匿ってもいい」
「! あああありがとう! もちろんそれくらいやってやるよ!」
心底嬉しそうな顔をして犬みたいに後を追うアヴェムを連れながら、自室がある地下へと階段を降りて行く。
火がある限り永久的に灯りを灯し続ける蝋燭の魔導具を刺した燭台を壁に均等に埋め込まれた階段を降りていると、ふとアヴェムが声をかけてきた。
「……なあアングイス、フォクスのことどう思う?」
「あの女狐の悪趣味は今に始まったこじゃないだろ」
「そ、そうじゃない! 俺達、今主からなんも命令されてないだろ? でもあいつ勝手に七色家の人間を『駒』にしてるし……何をする気なんだ?」
「さあな。少なくともあの女は主のためになる行動しかとらない、恐らくあいつの狙いは『錠』の開錠だ」
『錠』の開錠。それは、『レベリス』が二番目に優先するべき目的。
以前は三つの『錠』でガチガチに固められていたが、ここ一年近くで二個外すことができた。残すことはあと一つ、つまりそれが成功すれば第二目的が達成される。
「で、でもよ……あの女が『錠』を外しただけで力を取り戻させるような真似をさせると思うか?」
「思わん。あの女の勘は神がかかっているレベルだ。多分だがそれは主も気づいているだろう」
「じゃ、じゃあどうするんだよ! 『錠』を開けるだけで一年もかかったんじゃ、完全に力を取り戻すまであと何年かかるんだよ!?」
淡々とした口調で告げるアングイスの後ろで、声をあらげるアヴェム。
だがアングイスは冷静な態度で話を続ける。
「落ち着け。主もまだ本調子ではないし、『アレ』の調整もまだ最終段階ではない。焦りは禁物だ」
「っ……ああ、そうだったな……」
アングイスの言葉にアヴェムは冷静さを取り戻し、気まずそうに顔を俯かせた。
普段は小心者のビビリで年下のレトゥスに毎日いじめられているが、元王子というのもあって頭は悪くはない。
それにアングイスの言ったことは本当だ。
主の調子は少しずつ全盛期を取り戻しているが、やはり過去の傷が原因なのかどれだけ魔導士の命と魔力を喰らっても、それでも力がかなり制限されている。
『アレ』に関しても必要な道具がない以上、最終調整の段階に入るのは難しいのも事実。
アヴェムも納得しているだが、それでも今のこの状況にはやきもきしているのだろう。
彼自身、早くこの窮屈な身から解放されたい。それはラルムもルキアも同じだ。
レトゥスとフォクスと違って、育った環境のせいで『レベリス』に身を置くことした選択肢がなかった彼らにとって、早く行動に移したくて仕方ない。
アングイスはそのどちらでもない。正確にいうと根っからの医者という性分のせいでここまで付き合っているのが正しい。
彼自身は『レベリス』の悲願達成も世界の変化も興味はない、自分はただ与えられた仕事をこなせればそれでいいのだ。
だが、ここは先輩として後輩の鬱蒼とした気持ちを楽にしなくてはならない。それが半分義務でもう半分が気まぐれであることを自覚しながら。
『レベリス』の幹部なのに『傍観者』の立ち位置にいて、組織全体を主よりも見通している蛇は、後ろで心の中で愚痴っているだろう鳥に向けてアドバイスを告げた。
「『果報は寝て待て』。今は時機を待て、そうすればすぐにその時が訪れるさあ僕達の〝叛逆〟の旗を掲げる日が」
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