第63話 複雑な男心
――恋に落ちた。
あの日のことを日本語で表すならば、しっくりくるほど的確だ。
空が橙色と茜色に染まり、カラスの鳴き声がいつもより聞こえた日。
少年は校舎の廊下の窓から、一人の少女が花壇の周りに落ちている煙草の吸い殻をゴミ拾いトングで拾い、ゴミ袋の中に入れている。
今日は全校清掃の日ではない。なんの変哲もない平凡な一日。
なのに少女は、たった一人でゴミを拾っている。誰かに頼まれたわけでも、強要されたわけでもないのに。
本当だったら『変わり者』として少年の気にも留めなかったが、その少女が自身の姉の親しい友人であったせいだ。
琥珀色の瞳と髪が美しい少女は、姉が五年生に進級した頃に仲良くなった。
きっかけは些細なことだ。姉のクラスにリーダー格の女子グループに絡まれていたところを助け、何かと構ううちに仲良くなったのだ。
もちろん姉の弟である自分も紹介された。自己紹介をする少女に抱いた感想は、『姉よりしっかりした人』だった。
事実、少女はしっかり者だった。
両親を亡くし、一〇歳も離れた兄は魔導士として王星祭の選手として活躍しているが、そのせいで家のことを全部少女に任されている。
買い物も、掃除も、洗濯も、料理も少女一人がやっている。たまに近所のおばさんが様子を見てくれると言ったが、それ以外は全部彼女が一人でこなしていた。
なるべく人の迷惑をかけず、どんな仕事でも笑顔一つで引き受け、勉強も運動も人並みより少し上くらいでこなす少女を、ある者は憧憬を、ある者は嫉妬の念を抱いた。
特に後者は姉と仲良くなるきっかけとなった女子グループが顕著で、陰口を言ったりわざと水をかけたりと嫌がらせをした。
少年が窓から少女を見つめていた直後、少女の右横から冷たい水がかけられた。
驚いて水がかけられた方向を見ると、例の女子グループが何かを言いながらバケツを少女の足元に放り投げ、そのまま笑いながら立ち去った。
ずぶ濡れになった少女は、特に顔一つ変えないまま空になったバケツを持って校舎の中へ入っていく。
その先がちょうど自分がいる場所から昇降口に近く、急いで少女の元へ駆け寄った。
少女は息を切らして昇降口前にいる友人の弟に驚きながら、「どうしたの?」と問いかけてくる。
自分はずぶ濡れなのに、平然としている少女に微かな苛立ちを覚えた少年は息を切らしながら訊く。
「なんで……なんで平気そうな顔してるんだよ。あんな目に遭ってるくせに、なんで面倒事引き受けてんだよ! 引き受けてもなんの意味がないことなのに、どうしてそんなことができるんだよ!?」
それはただの八つ当たりだった。
近くにいたのに少女を悪意から守れなかった自身の憤りを、彼女にぶつけているだけの最低な行為。
だが少女は少しだけ考える素振りを見せると、小さく笑いながら答えた。
「 」
その時言った言葉は、彼の心に刻まれた。
そして少年――相模亮は、この日初めて恋に落ちた。
琥珀色の瞳と髪が美しい少女――豊崎日向に、淡い恋心を抱くこととなった。
☆★☆★☆
「ふぅ、今日も暑いなぁ……」
八月二八日。最高気温三七度を記録した今日、日向は白い無地の紙袋を持って商店街を歩いていた。
今日は地元にある神社で祭りが行われる。小規模な催しだが、小さい頃から何度もいっているため毎年楽しみにしている。
今年も親友の相模京子と弟の亮と共に行く予定なため、自前の着物を持って彼女達の家である定食屋『さがみ』に向かう真っ最中なのだ。
まだ昼前だというのに浴衣姿の女子や子供の姿が多く、コンビニでは唐揚げや枝豆が入ったパックやビールを店先で売っている。
祭りの終盤には花火があがるため、昼前から花火が見える場所を確保しようと躍起になっているのだ。
「今日は『さがみ』でご飯食べたら京子の宿題を見て、それから浴衣に着替えて……ん?」
浴衣姿や洋服姿の人がごった返す中、涼やかな色合いばかりの中に一際目立つ黒が視界に入る。
白い半そでのシャツの上にノースリーブの黒いパーカーを羽織り、下は黒のジーパン。靴も黒と白のツートンカラーのシューズと一見地味に見えるも、むしろ落ち着いた雰囲気を醸し出している。
だが日向が注目したのは、その服装ではない。
夜空を凝縮させたような艶やかな黒髪とジト目になっている目つき、そしてルビーを思わせる赤い瞳をした少年を見て、日向はぱっと花のように顔を綻ばせながら駆け寄る。
「悠護!」
名前を呼ばれた少年――黒宮悠護は、自分の名を呼ぶ聞き慣れた声にスマホから顔を上げると、きょろきょろと周囲を見渡す。
そこで後ろから駆け寄ってくるパートナーの姿を捉えると、軽く目を見開く。
「日向、お前なんでこんなところにいるんだよ」
「なんでって、ここあたしの地元だよ。悠護こそどうしてここに?」
まさかの片想いの少女に会えたことに驚きながらも喜ぶが、日向からの質問に悠護は気まずい顔をしながらも答えた。
「いやぁそれが……今日樹と遊ぶ予定だったんだけどよ、急に母親の知り合いの子供の面倒見ることになってドタキャンになったんだよ。で、ヒマだったから適当な駅に降りたら道に迷った」
「あはは、そっか。じゃあお昼とかまだ? これから友達がやってる定食屋さんに行くんだけど、一緒にどう?」
「え、いいのか? 助かったぜ、そろそろ腹が限界だったんだよ」
その言葉が証拠であるかのように、タイミングよく鳴った悠護のお腹の音を聴いて、日向は小さく笑い悠護は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
思わぬ偶然だったが、悠護とは中旬にやった魔法実技に参加して以来だったため久しぶりに会えて心なしか日向の気分が少しだけ上昇する。
油断しているとニヤけそうな顔をなんとかこらえながら、日向は大切なパートナーの少年の隣を歩く。
「そういえばさっきから浴衣姿の人とかいるけどよ、もしかして祭りがあるのか?」
「そうだよ。毎年この日にやってるお祭りがあってね、最後は花火が上がるんだ。あたしも友達と一緒に行くんだ」
「へぇー、そうなのか……」
興味深そうに周囲を眺める悠護に、日向は頭の中に浮かんだ疑問を恐る恐る訊いてみた。
「ねぇ悠護、……もしかしてお祭り一回も行ったことないの?」
訊かれた悠護は少しだけ悲しげに目を伏せると、小さく頷く。
「……ああ、行ったことない。家の関係でパーティーには何度も来させるんだけど、祭りは『不衛生』だとか『危険がある』とか言って禁止にさせられてたから行けなかったんだ。でもそっか、祭りがあるのか……」
浴衣姿ではしゃぐ通行人達を哀愁の目で見つめる悠護。
よく考えれば、悠護は聖天学園に来るまで人ごみを多い場所に行くのはおろか家事さえ初めてやったのだ。そんな彼が、人が多いかつ庶民の屋台が並ぶ祭りに参加する機会がないのは当然だ。
自分の失言に猛省しながらも、日向は持っていた紙袋の紐を握りしめるながら口を開く。
「……じゃあ、さ。悠護も一緒に行かない? お祭り」
「え? でもお前、今日友達と行くって……」
「でもせっかくお祭りに来たんだし参加しないと損でしょ? それに友達も事情話せば許してくれるから大丈夫だよ」
だから、と言い区切ると日向は悠護の右手を取る。
少し汗ばんだ手を掴まれビクッと小さく震えるが、日向は気にせずいつも通り笑いかける。
「悠護もお祭り行こうよ、ね?」
「…………」
本来なら友人と気兼ねなく楽しむはずの祭り。自分が一度も行ったことがないからと、こうして誘ってくれるのは悠護ももちろん嬉しい。
それでもこれ以上彼女に甘えるのは男としての矜持が許さない。断ろうと口を開こうとするが、
「いっとくけど、別に悠護に気を遣って誘ってるわけじゃないよ」
先手を打たれて言葉を詰まらせた。
うぐっと呻きながら言葉を呑み込む悠護に、日向はやれやれと肩を竦めながら言った。
「あたしが悠護と一緒にお祭りに行きたいの。でも悠護が嫌って言ったら諦めるよ。それで、悠護はお祭り行きたくない?」
「…………………………………行きたい」
まるで言いたいことが言えない子供を諭す母親みたいな口調で問われ、思わず自分の口調も子供っぽい言い方をした。
自分の言ったことに気づいて羞恥で顔を背けたが、嬉しそうに笑う日向を見てどうでもよくなってしまった。
「亮! 次、野菜炒め定食だ! ちゃっちゃと野菜切れ!」
「わぁーってるって!」
定食屋『さがみ』。商店街の外れにあるこの店は、『早い・安い・美味い』の定食屋三拍子を具現化したような場所で、地元の人から長年愛されている。
その店の長男として生まれた亮は、部活がない日は必ず店の厨房の手伝いをさせられている。もちろん客に出す料理は父の
姉の京子は給仕に徹しており、手際よく新しい客の注文を聞いたりお冷を出したりとその精錬された動きは舌を巻く。
いつもなら昼時と夕方が一番忙しくなる時間だが、今日は祭りがあるため夕方に店を閉める予定だ。
というか町内会の飲み会に両親と家のリビングにいる祖母と一緒に参加するからだけど、それでもこうして祭りを楽しめるのは普通に嬉しい。
(それに、今年の祭りも日向先輩と一緒に行けるんだ)
小学四年生の頃からずっと片想いしている姉の親友。今年の一月に魔導士として目覚め、聖天学園に入学してから前より中々会えなくなってしまった。
それでも家の様子を見るついでにここに立ち寄ってくれるだけでも嬉しいし、一緒にご飯を食べるだけでも心が浮き立つ。
それだけで今は充分だ。日向と恋人関係になりたくないと問われれば答えは否だが、何事にも真剣に取り組む彼女の負担になりたくなかった。
突然魔導士になって動揺しているのに、それでも悲観せず前向きに魔導士として取り組む姿勢はたとえ亮が同じ立場になってもできないだろう。
そんな彼女だから亮は好きになり、憧れた。
今のこの関係を崩したくなくて、告白出来ずにいることを姉が口煩く言ったが、ただそばにいてあの人の重荷にならない距離を保てればそれでいい。
「あ、いらっしゃーい! って、日向! やっと来たんだー!」
「っ!」
だからこそ、これは予想していなかった。
厨房から意中の少女が引き戸から現れた時は、クリスマスプレゼントを開ける子供みたい嬉しくなった。
「あれ、そっちの彼ってもしかして……」
「うん、そうだよ。あたしのパートナーの黒宮悠護くん。悠護、彼女が中学の親友の相模京子ちゃん。写真で見たことあるでしょ?」
「あ、ああ……どうも、黒宮悠護です」
彼女の後ろにいる黒髪の少年――自身が勝手に恋敵扱いしている日向のパートナーが姉に頭を下げるのを見て、手に持っていた包丁をまな板の上に落としてしまった。
☆★☆★☆
店に入って案内された席に座ると、現代ではすっかり数を減らした趣ある古民家の内装に前の席に座った悠護が興味津々で辺りを見渡している。
日向が壁に貼っているお品書きの中から料理を選ぼうとすると、『さがみ』のエプロンをした京子が両手に水が入ったコップを持ちならニヤついた顔でこっちを見ていることに気づいた。
これまでの経験上、京子のこんな顔をする時は大抵何か聞き出そうとしている時だと知っている。
「……何?」
「いやぁべっつにぃ~? まさか例のパートナーくんと一緒に来るとは思わなくてねぇ~。というかぶっちゃけ、二人って付き合ってんの?」
「「ぶっ!!?」」
京子の爆弾発言で目の前の席で悠護と、何故か厨房にいる亮が吹き出した。
厨房で厳が「食材の前で吹き出すなバカ野郎!!」と怒鳴っているのを聞きながら、日向はため息をつきながら目の前の親友を睨む。
「あのね……悠護はあたしの大切なパートナーだって何回言わせればいいの?」
「だって夏休みなのに二人一緒に行動するなんて絶対付き合ってるって思っちゃうじゃーん」
「そのニヤついた顔やめて無性に腹立つから」
お節介おばさんみたいな態度を取る京子に怒りを隠さない日向。
悠護はそれを物珍しそうに見ていた。学園では嫌がらせや陰口を叩く女子に対しては毅然とした態度で一蹴していたが、こういった反応は一度も見たことがない。
そんなパートナーの新しい一面を見ていると、悠護の視線に気づいた日向は咳払いをすると壁にかけてあるお品書きを指さす。
「そ、それより悠護。お昼まだなら早く頼みなよ。ここの看板メニューは野菜炒め定食だよ」
「へぇ、そうなのか。じゃあそれ頼むわ」
「京子、あたしはこのハンバーグ定食で」
「はーい! お父さあん、野菜炒め一つとハンバーグ一つ!」
京子の声に厨房から「応ッ!」と野太い声で返事を返される。
野菜を切る音とお玉と中華鍋がぶつかりあう音を聴きながら、日向はさっきのことを京子に話す。
「そうだ京子、今日のお祭りなんだけど悠護と一緒でいい?」
「え? うん、いいわよ」
「はぁあ!?」
日向のお願いに京子があっさりと答えた直後、厨房から亮の驚きの声が上がる。
亮は目を見開きながら厨房を出ると、頭には三角巾をつけて姉と同じエプロンをした姿で日向の前に出る。
「ど、どういう意味ですか日向先輩!?」
「どういう意味って……だから、今日行くお祭りに悠護を連れていいって意味なんだけど……ダメかな?」
「いやダメってわけじゃないですけど……いつもは俺達三人だけで行ってたのに……」
納得していない顔をする亮を見て、日向は戸惑いながらも説明することにした。
「あのね、悠護はお祭りに一度も行ったことないんだって。ここで会ったのも縁だし、初めてのお祭りを楽しんでもらいたいんだ。……もしかして、亮くんはそういうのダメな人だった……?」
悲しげに顔を歪ませる日向を見て、亮は今の自分がどれだけひどいことをしているのか気づく。
日向の性格上、学校生活で親しい友人を祭りに誘うのはあり得ることだ。それが祭りに一度も参加したことない人なら余計に。
今亮がしていることは、ただの嫉妬によるわがままだ。
いくら邪魔されたからって、それを日向と目の前にいる恋敵に当たるのは間違っている。
自身の未熟さに嫌気を差しながらも、亮はすぐさま頭を下げる。
「……いえ、全然大丈夫です。変なこと言ってすんません」
「う、ううん、気にしてないからいいよ。もういいから頭上げなよ」
深々と頭を下げる亮の姿に店内にいる客の視線を感じ、日向は肩をゆすって頭を上げさせる。
頭を上げた亮は三角巾をかけ直すと、「……じゃあ、仕事戻ります」と言って厨房に戻って行く。
「……何やってんのよバカ亮」
「うっせぇ」
途中、通りすがりに言われた姉の言葉にそう返すと、亮は厨房の奥へ引っ込んでいく。
そんな弟を見て京子が肩を竦め、いつもと違う様子に日向が心配する横で、
「……悪いことしたな」
色々と察した悠護が気まずそうに呟いた。
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