第58話 花の名は

 ロミオとジュリエット。

 ヨーロッパの有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアが執筆した、誰もが知っている悲恋の物語。

 そして、心菜が『恋愛』について知るために初めて読んだ本の名前。


 敵対する家に生まれたロミオとジュリエットは、密かに逢瀬を重ねて愛を確かめ合い、遂には結婚を果たすも、街頭の抗争で友人を殺された憎しみ出来ャピュレット夫人の甥を殺したロミオは大公エスカラスによって家を追放され、悲しみに暮れるジュリエットは大公の親戚との結婚を迫られる。

 ジュリエットは二人の幸せを願う修道僧ロレンスの策で仮死毒を飲むが、家を追放されたロミオにはその計画が伝えられず、ジュリエットは死んだのだと思い込んでしまう。


 ロミオは彼女の墓で毒薬を飲み自殺し、仮死状態から目覚めたジュリエットもロミオの短剣で後追い自殺をする。

 最後は二人の死の真相を知った家が互いの因縁に終止符を打つ、というのがこの物語の結末だ。

 これを読んだ時、心菜は心のなかで一つの疑問が生まれた。


 ――どうしてロミオとジュリエットは、敵対する家の人間に恋をしたのかな?


 最初から別の人を好きになっていればこんな悲劇は起きなかったはずだと、作者にケンカを売るような真似をしていると自覚するが、心菜はどうしてもそれだけは理解出来なかった。

 最初から親に決められた道を歩んでいれば、二人は命を落とすはなかったはずだと思っていた。


 でも、今なら分かるような気がする。

 ロミオとジュリエットは家や境遇関係なしに、ただ相手の心に惹かれたからこそ、あの悲劇が起きたのだと。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 日傘を抱きしめるように人ごみを走る心菜は、ズキズキと痛む胸を押さえつけるように服越しから握っていた。

 現在進行形で全力疾走しているのもあるが、北乃の言葉を聞いてから胸が痛くて痛くて仕方ない。

 それでも心菜は走る足を止めない。そうでもしなければ、目から涙が溢れ出てしまうから。


 心のどこかで自分は期待していた。樹の中で『神藤心菜』というパートナーが彼の頭の中に入っているのだと。

 たとえ卒業までの関係でも、少しでも彼の頭に自分の存在が入っていればそれだけで十分だった。でも、それは彼の友人の言葉であっさりと覆された。

 魔導技師を目指していることも、母子家庭で母親のために少しでも生活費の足しを稼ぎたいことも、心菜はここ数ヶ月友人と共に過ごしている内にそれなりに彼のことを知った。


 だからこそ、樹が色恋に目が眩む余裕なんてないことくらい分かっている。

 分かっているはずなのに、その事実がひどく悲しくて辛い。


「っ、あっ!」


 ガッと嫌な音がサンダルのヒールからした直後、心菜の体は派手に前に倒れる。

 ワンピースは石畳の敷石の砂で汚れ、右の膝頭は皮膚が擦りむけて赤い血が小さな粒となってじわじわと出てくる。

 何より右足に履いていたサンダルはヒールがギリギリくっついているのが奇跡なくらい外れかかっている。


 大通りで派手に転んだ心菜に周囲の好奇な視線が向けられるが、心菜はそんなことを気にする余裕はない。

 ただ肉体的からも精神的からも来る痛みを享受するだけで、少しも立ち上がろうとする気がない。

 膝頭の血がそこから伝って石畳の染みになるのをじっと見ていると、後ろから左腕を掴まれぐいっと強い力で引っ張られた。その拍子で心菜の体が少しだけ浮きあがる。


「何やってんだよお前は!?」

「……樹くん……?」


 全身汗だくになって、はぁっはぁっと荒い呼吸を繰り返すパートナーの姿に、心菜は呆然とその姿を瞳に映す。

 樹はいつまで経っても動かないパートナーにやきもきしたのか、左腕を掴んでいた手に力を込めて思いっきり後ろへ引っ張る。

 心菜の体は引力に従ってそのまま立ち上がるが、直後に彼女の体はぐらりと樹の方へ傾いた。


「あっ……」

「おわっ」


 思わず声を出して彼女の体を受け止めると、ふと足元を見る。よく見ると右足のサンダルのヒールがあと少しのところで外れかかっていた。

 ヒールが折れたことで左右の高さが違うそれを見て、樹はなるべく心菜の体を支えながら背中を向けて中腰になる。


「ほら」

「え……」

「おぶってやるよ。ここからだと俺ん近いし。ああ、汗臭いのはちょっと我慢してくれよ。我慢できないってんならそこのドラックストアで制汗剤買ってくるけど」

「そ、そうじゃなくてっ」


 突然の申し出でフリーズした心菜の頭がようやく動き出すと、慌てて首を横に振る。

 別に樹におんぶされるのは嫌ではない。汗臭いのも自分を追ったせいだと思えば我慢できる。

 だが、彼は友人達と遊んでいたはずだ。自分のせいで彼らの関係を気まずいものにするのは本意ではない。


「樹くん、さっきまでお友達と一緒にいたでしょ? いいの?」

「あ? ……ああ、大丈夫だ。あいつらは俺が勝手やっても笑って見過ごす奴らだ、気にしなくていい。それよりほら、早く乗れって」

「う、うん……」


 あっさりとした樹の言葉を聞いて、とりあえず彼の友好関係が壊れずに済んでほっとしながら恐る恐る樹の背中に体を寄せて両腕を首に回す。

 砂がついただけの左足を軽く上げると樹は膝裏に腕を回し、そのまま中腰から立ち上がる。

 今も血を流している足をゆっくりと膝裏に腕を回し終えると、そのまま人の流れに合わせて歩き始める。


 いつもとは少しだけ高い目線に驚きながらも、心菜は背中越しから感じる樹の鼓動と体温に自然と胸の鼓動を速くさせる。

 ここまで近距離なのは合宿の時に転びそうになった自分を樹が助けてくれた時以来で、自然と緊張で体が強張ってしまう。


 その緊張は心菜をおぶっている樹にも分かっているが、樹は何も言わずに時折背負い直しながら石畳を歩く。

 互いに無言でいるこの時間、緊張はあったがそれでも居心地はいつもと同じで落ち着くものだった。



☆★☆★☆



「ほら着いたぜ。歩けるか?」

「うん、平気だよ」


 樹の家は一〇階建ての中古のファミリー向けマンションだった。

 築四〇年経っているそのマンションは、外観は薄汚れていたが中は普段からこまめに掃除しているおかげで綺麗だ。

 ボードサイドには紙粘土で作った写真立てや牛乳パックのロボット、ウサギのパッチワークぬいぐるみが飾られていて、壁にはどこかの公園の風景画や若い女性の絵が飾られている。


 それを興味深そうに見ていた心菜は、濡れたタオルと救急箱を持って来た樹に訊いた。


「樹くん、これって全部樹くんが?」

「そうだぜ、俺が小学校の頃に作ったり描いたりしたやつ。母さんが勝手に飾ったんだけどよ、インテリア代わりでそのまんまにしてんだ」


 そう言って樹はリビングのソファーの前の床の上に救急箱を置くと、ぽんぽんと叩いた。


「ほら、こっちに座れよ。手当てしてやる」

「う、うん」


 促されて恐る恐るソファーに座ると、おもむろに樹は乾いた血がついた心菜の足を塗れたタオルで拭った。


「ひゃあっ!? い、樹くん!?」

「ああ、悪ぃ。後でいくらでも文句言っていいから今は我慢してくれ」


 突然冷たいタオルを当てられて驚いたが、それよりも自身の足が異性の手に触れさせたことは初めてなせいで心臓が早鐘を打つ。

 そもそも足なんて際どい部分は、見せることはあっても触らせることなど滅多にない。だがまるで壊れ物を扱うように、優しく丁寧に傷口に消毒液を湿らせた脱脂綿を当てている樹の目は真剣そのもので、驚きと羞恥で早鐘を打っていた心臓が徐々に落ち着いてきた。


 外から聞こえる車のクラクション音やバイクのエンジン音、それから部屋の壁にかけてある時計の音しか聞こえないリビングでは、互いの息遣いと樹が救急箱の中身を動かす音がとても目立つ。

 やがてガーゼをハサミでちょきちょきと傷口に合わせた大きさで切ると、それを医療用テープで止める。


「よし、これで大丈夫だろ」

「うん。ありがと」

「おう」


 心菜のお礼にそう返事を返した途端、二人は無言で口を噤む。

 話したいことがあるのに話せない、そんな気まずい雰囲気がこの場を支配しつつある。

 何度も口を閉じたり開いたりする心菜が樹から目線を逸らすと、さっきのボードサイドの端に飾られている写真立てが目に入った。


 茶色い木材で作られた、模様が彫られていないシンプルな写真立てには、壁に貼られている絵とそっくりな女性と精悍な顔立ちをした男性、そして幼い少年の三人が笑顔で映し出されている。

 心菜の視線の先が気になって同じ方向を見た樹が「……ああ」と言いながら納得すると、そのまま立ち上がって写真立てを手にする。


 樹はそれを心菜の前で差し出すと、心菜はそっと写真立てを手に取った。


「それ、親父がまだ生きてた頃の写真なんだ」

「生きてた……?」

「ああ。俺の親父、『一一〇イチイチマル事件』で死んだんだよ」


『一一〇事件』。

 心菜達がまだ五歳の頃、渋谷で起きた魔導士差別主義者による大量殺人事件。


 当時、魔導士差別主義者達――『差別派』は魔導士崩れによる犯罪で家族を失った遺族と共に、魔導士達の優遇された社会的地位を消すために度々デモを起こしていた。

 もちろん魔導士差別主義者に対して反感を持つ者も少なくなく、魔導士の存在を認め、差別主義者の行いを糾弾する者達――『共存派』も現れると、この二つは日を追うこと対立していった。


 そして一月一〇日、共存派が魔導士と一般人の交流会を開いたが、突如その会に乱入した差別派達は武器を手に、共存派と参加していた魔導士と一般人を殺していった。

 差別派にとって、魔導士だけでなく共存派や彼らの思想に賛同した一般人すらも自分達の敵と認識し、さらには魔導士の存在を『犯罪を起こす悪の種』というイメージを植え付けるためだけに関係のない市民にも手をかけ、死傷者一三九人も出した事件こそが、この『一一〇事件』だ。


「俺の親父はさ、その共存派の一員だったんだよ。俺が魔導士として生まれたことを知って、少しでも魔導士が生きやすい世の中に変えようしてくれたんだ」


 初めて聞いた樹の話に、心菜は写真に写る彼の父親を見る。

 金髪碧眼と日本人離れした容姿をしているが、『太陽のように眩しい笑顔』という表現が似合う人だ。顔もどことなく樹と似ている部分が多く、この人が樹の父親なのだと分かってしまう。


「でも『一一〇事件』で親父が死んで、おふくろはしばらく塞ぎ込んだ……。でもまた、いつものおふくろに戻ったんだ。明るくて、優しくて、元気なおふくろにさ……」


 そう言って樹は、心菜の手にある写真立てを見つめる。


「でもそれは、俺のためだったんだ。俺がこの世を信用せず、孤独のまま生きようとしないように、おふくろは魔導士差別主義者達の恨み言を一つも言わないでずっと一人で、俺の未来を守ってくれた」


 誰一人認められるわけではないのに、人知れず茨道を歩んだ樹の母。

 その覚悟と決意は、心菜には分からないがただ並大抵なものではないことは理解できた。


「それを知った俺は決めたんだ。俺のために頑張ってくれた親父とおふくろに恩を返したいって。それで思いついた恩返しが金を稼ぐことなんだ。ほら、魔導具技師は国家公務員と同じ給料がもらえるっつー話だろ?」


 確かに魔導具技師は年齢問わず国家公務員同等の給与を与えられる。

 魔導具技師は魔導士より人材不足だが、魔導具技師の資格は公務員試験と同じように難関な試験に合格しなければ手に入らない。

 技術はもちろん、魔導具の構造や機能、さらには専用の道具に関する知識も必要とする魔導具技師への道のりは茨道よりも遥に険しいものだ。


「もちろん魔導具技師になりたいってのは俺の純粋な夢だ、それは嘘じゃねぇよ。たとえ金目的で、俺にはこれしか思いつかなかった。たとえ誰かにバカにされても、貶されても、俺は……ここまで育ててくれた親父とおふくろに恩返しがしたい」


 魔導具技師の世界は、たった数回の試験を受けただけでその道を諦める者も、他者の技術と己の技術の差を悟り挫折する者もいる。

 普通に魔導士を目指すよりも厳しい世界へ、彼は両親の恩を返すためだけに進むのだ。

 全て理解した上で引き返すどころかどんどん前へ進もうとする樹の姿は、前へ進むか悩む心菜にとって目が痛いほど眩しく見えた。


「あー、なんか俺スッゲーこっぱずかしいこと言ったな! いきなりこんな話してごめんな?」

「う、ううん。全然! むしろ樹くんのことがもっと知れてよかった」

「そ、そうか……」


 心菜の言葉に樹は照れた様子で頬をぽりぽり掻く。

 すると心菜がワンピースのスカート部分を、しわができるほど両手で握りしめていることに気づいた。


「心菜……?」


 いつもとは違う様子のパートナーに樹が声をかけると、心菜は唇を震わせながら言った。


「……あのね、樹くん。私、今のままでいいのかな?」

「は? それってどういう――」

「私、治癒や防御は得意だけど攻撃はからっきしでしょ? いつも戦闘はリリウムや樹くん任せで、私自身は何もしていない」


 ぽつりぽつりと語る心菜の話を、樹は口を挟まず真剣な面立ちで耳を傾ける。心菜の話は、普段彼女が周りから言われていることと関係するからだ。

 魔物は物理攻撃も魔法攻撃も効かない魔的生命体。それを使役する魔導士――魔物使いは、陰では『卑怯者』と蔑まれている。


 魔物使いのほとんどは自身では戦わず、戦闘を全て魔物に任せっきりにすることが多い。

 己の腕で戦わず魔物を道具のように扱う彼らを、魔物を持たない魔導士にとっては不快な対象なのだ。

 だが魔物が術者から召喚された生命体だからといって、意思がないわけではない。


 自身を道具として扱う主には忠誠を見せず、見限って主を殺した後に魔物自らが召喚具を破壊して消滅する事例は少なくない。

 それを考えるとリリウムと心菜の関係はまさに魔物使いの理想そのもので、むしろんでないのに勝手に出てきたリリウムが自主的に心菜を守ったりしている。


 それを気に喰わなく輩が聖天学園にもいて、他のクラスと混合で行われた実技の時に心菜に向かって「魔物頼りで恥ずかしくないの?」「やっぱり魔物使いは『卑怯者』だな」と言ったのを聞いた。

 その時は何故そんな言い方をするのか分からず、陰口を叩いた同級生に噛みついたが、職員室で陽に注意されて出席簿で頭を軽く叩かれてから、初めて魔物使いの現状について知った。


 ちゃんと事情を知っても樹は納得出来なかった。攻撃魔法を苦手とする心菜のために、彼女の母親がそうさせたのであって、別に心菜自身が楽になりたいからしたわけではない。

 もちろん魔物使いの中には『卑怯者』と呼ばれて当然の魔導士もいるだろうが、心菜のように攻撃を得意としない魔導士だっている。


 そのことを知らないくせに他の奴らと一緒くたにすることが気に入らなかったのは、心菜とリリウムが強い絆で結ばれていることを知っていたから。


「私、このままじゃダメだって思ったの……。『卑怯者』呼ばわりされるのは気にしてないから別にいいの。でも……私が攻撃魔法を使えれば、みんなの足手まといにならなくて済んだのかなって思って……」

「だから、攻撃魔法を使えるようになりたいって?」


 樹の問いに、心菜は静かに頷いた。それを見て樹は心の中で納得した。

 心菜はずっと気にしていたのだ。何もせずただリリウムを使役する自身の立ち位置に。

 確かに心菜が攻撃魔法を使えるようになれば、きっと心強いだろう。苦手なものから逃げずに挑む姿勢も立派だ。


 けれど、ここで「お前ならできる」とか「頑張ればなんとかなる」とか常套句を言っても彼女には効果がないだろう。

 必要なのは、心菜が前に進むための『後押し』なのだ。


 だから言った。彼女にとっての『後押し』になる言葉を。たとえそれが荒療治でも。


「心菜。お前は今まで人が傷つくのが怖いから、攻撃魔法を苦手にしてたんだよな?」

「……うん、そうだけど……」

「俺から言わせればな、心菜。人ってのは簡単に傷つくモンなんだよ」


 直後、心菜の目が大きく見開かれた。気づいたのだ。樹が言いたいことを。


「人を傷つけるには、言葉と拳だけでも十分なんだよ。悪口を言われたら心が傷ついて、拳で殴られれば体が傷つく。ただそこに魔法っつー手段が加わっただけなんだよ」

「それは……」


 人を傷つけるのは怖いし、良くない。だが何気ない一言でさえも、人は傷つくことがある。

 たとえ魔法がなくても、人は人を傷つけることができる。

 今まで魔法だけが人を傷つける術だと思っていた心菜にとって、樹が話したことは完全に目から鱗が出るほどのものだった。


「もちろん心菜がどうしてもっつーなら、俺も日向も悠護もできる限り協力する。けど心菜、お前が本当に誰かを傷つけることの覚悟があればの話だ。なければこの話はなかったことになる」


 どうする? と樹のサファイアブルーの瞳が訴えかける。真摯にまっすぐに、決して心菜の瞳から目を逸らさない。

 その瞳を見ながら、心菜は静かに目を閉じる。

 思い浮かべるのは、心菜の大切な三人のこと。


 どんな困難にも立ち向かう覚悟を持った琥珀色の瞳が綺麗な親友。

 その親友を守るために戦う覚悟を決めた彼女のパートナー。

 そして、今目の前にいる親に恩を返すために厳しい道を進む覚悟を背負った自身のパートナー。


 心菜にとっての憧れであり、心の底から誇れる友人達。

 彼らを後ろから追いかけてその背中を見つめるではなく、隣に立って同じ歩幅で道を進みたい。

 一緒に戦って、自分達が愛おしく感じる日常を守りたい。


(――なら、私がするべきことは……)


 すっと心菜の瞼が持ち上がる。明るい黄緑色の瞳が樹の姿を映す。

 そして、樹の瞳には覚悟を決めたパートナーの姿が映っている。


「樹くん。私はきっと、誰かを傷つけることで色々悩むかもしれない」

「ああ」

「でも私、何もできないままの自分を変えたい。そのために……私に、攻撃魔法を教えてください」


 ゆっくりと心菜の頭が下に下がる。さらり、と亜麻色の髪が揺れる。

 普段見れないつむじをじっと見つめていた樹は、ニカッと効果音が出そうな笑顔を浮かべるとわしゃわしゃと心菜の頭を撫でる。

 驚きで目を見開く心菜を見て、樹は言った。


「――ああ、俺に……いや、俺達に任せろ」


 その一言を聞いて、心菜は嬉しそうに顔を綻ばせた。



「悪かったな、こんな時間まで」

「平気だよ。私のほうこそ色々と迷惑かけてごめんね」


 あの後、とりあえず夏休みの間は習得したい魔法を探すことに集中させて二学期から本格的に訓練することを決め、一緒に夕食を作って食べ終わった頃には、時計の針はすっかり夜八時を回っていた。

 ラウンドで遊ぶ時に帰る時間が遅くなる旨を家に伝えるとはいえ、さすがにこれ以上は補導される可能性がある。


 ヒールが取れかかったサンダルは瞬間接着剤で応急処置してくれたおかげで、なんとか家に帰るまで持ちそうだ。

 玄関から出ると空はすっかり真っ暗で、肉眼でも分かるほど星が輝き、半分近く満ちた月は煌々と夜空を照らす。


「……ああ、そうだ。お前、北乃になんか言われたか?」


 月を見ていた樹が思い出したように言われ、心菜はドキリとしながらも小さく頷いた。


「何言われたか聞かないでおくけどよ……あんま気にすんなよ」

「……うん」

「あー……それと、よ」


 気まずそうに首の裏を掻く樹に心菜が首を傾げると、彼は目元を赤く染めながら言った。


「以前の俺は魔導具と金のことしか頭になかったけどよ……、お前のことはちゃんと頭の中に入ってるから安心してくれ」

「……えっ……?」

「は、話はそれだけだ! 気ぃつけて帰れよっ!」


 早口で話を切り上げて、樹は玄関のドアを閉める。

 ガチャンッと金属音を立てながら締まるドアを見つめながら、心菜は先ほどの樹の言葉を頭の中で反芻した。


『お前のことはちゃんと頭の中に入ってるから――』


 その言葉の意味を文字通りに捉えると、樹の頭の中には心菜の存在がしっかりと入っていてるということで。

 つまり、樹にとって心菜は大切な人だという証明になるわけで――。


「~~~~~~~~~っ!!?」


 そこまで理解すると、心菜の真っ白な顔は一瞬で真っ赤に染まる。

 嬉しい。

 たったそれだけの感情が心菜の心を支配する。熱を持つ頬を両手で抑えながら、一刻も早くこの熱を覚ますために心菜は急いでその場から走り去る。


 ドアの向こうでカツカツとヒールの硬い音を聞きながら、樹は玄関に座り込んで頭を抱えていた。

 顔を髪と同じくらい真っ赤にした樹は、目をぐるぐると回しながら自問自答していた。


(俺なんであんなこと言ったんだ!? あんなの告白みたいじゃねーか! いやでも、あれは本心だし別に恥ずかしがる意味は……いやいやいやダメだスッゲー恥ずかしいぃぃぃぃ!!)


 自分でも分からずポロリと本音を出してしまったことに後悔しながら羞恥で悶える樹が正気を取り戻したのは、友人と飲みに行って深夜に家に帰ってきた母親が、玄関前の廊下で蹲る息子を見て驚きの声を上げてからだった。



 この日を境に、心菜と樹の心の中に一本の花が生まれる。

 美しい桃色をしたその花はまだ蕾のままで、開花の時はまだまだ長い時間が必要だ。


 それでも確かに、二人の間には花が存在する。

『恋』という、この世で最も美しく儚い花を――。

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