第55話 兄の心、妹知らず

 怒声と硝煙、サイレン音から離れた陽は、自宅のある住宅街へと戻っていた。

 時間はすでに〇時を過ぎているが、深夜番組を見たり夜更かしをするために所々に電気がついている。


 見慣れた自宅に辿り着くと、家の門から普段真っ暗なはずのリビングの電気がついているのが見え、おや? と眉をひそめる。


(まだ起きとるんか? 先に寝ててもええのに)


 リビングの電気がついている理由が、河合妹が自身の帰宅を待っているのだと信じて疑わない陽は、なるべく音を立てずに門を開け、玄関も開ける。

 途中オートロック機能が大きく音を立てて肩を震わせたが、静かなところを見ると気づいていないようだ。


 そっとリビングのドアを開けると、ソファーの上で丸くなっているパジャマ姿の日向を見つけた。

 両膝を曲げ、両手を丸めているその姿は母親のお腹の中にいる胎児そのもので、すーすーと静かに寝息を立てるその姿に思わず口元に笑みを浮かべる。


 陽は床に置いていたブランケットをかけると、そのままソファーの前に腰かける。

 肘かけに頭を乗せた日向の髪をそっと撫でながら、幼さが残る寝顔を見つめる。


「それにしても、こぉんなに大きくなったんやな……。少し前まではまだ目が離せへん子供やったのにな……」


 今ではすっかり立派な少女へと成長した妹を見て感慨深く呟きながら、遠い過去を脳裏に想浮かべた。



☆★☆★☆



「ただいまー」


 両親の葬式から一週間が経って初めて降った雨の日、陽は濡れた学ランについた水滴を払いながら革靴を脱いで玄関を上がる。

 返事がない家と微かに香る線香の匂いに目頭が熱くなるが、なんとか我慢して脱衣所の棚からバスタオルを取り出し、ゴムを取った頭を拭く。


 ほんの少し前までは、びしょ濡れで帰って来た陽や父のために、母がバスタオル片手に玄関で待っていてくれた。

 だが、こうして自分からタオルを取り出している時点で、もう二度と母からバスタオルを受け取ることも、父と一緒にびしょ濡れで帰って来ることはできないのだと、改めて思い知らされた。


 久しぶりの学校からの帰りに降った雨はまだ降り始めだったため、そこまで濡れていなかった。

 学ランについた水滴とほんのわずかに濡れた髪を拭き終えると、陽は静かに階段を上る。

 自宅の二階は陽の部屋と両親の部屋、それと妹の日向の部屋がある。陽はそっと両親の部屋のドアを開ける。


 両親の部屋はそのままにしているが、部屋の角には買ったばかりの仏壇が置かれている。線香や花が添えられた仏壇の上に置かれた写真は、本当に亡くなったのか疑ってしまうほど生き生きとしている。

 部屋に入ると、引き戸から線香箱から線香を一本取り出すと半分に折り、火を点けた後その線香を香炉に差す。


 そのまま静かに目を伏せ、手を合わせること数秒。陽は目をそっと開けると、そこから立ち上がり両親の部屋を出る。

 そのままゆっくりと日向の部屋のドアまで来ると、静かに深呼吸するとドアをノックする。


「……日向、入るで?」


 部屋の主からの返事がないまま、陽はゆっくりとドアを開ける。

 中は曇り空も相まって薄暗く、床にはおもちゃやぬいぐるみ、お絵かき帳にクレヨン、それにお気に入りの絵本が散らばっており、五歳児にはいささか大きいシングルベッドの足元で日向は蹲っていた。

 服装は葬式に着ていた白襟つきの黒いワンピースのままで、前髪で隠された目元が真っ赤に腫れている上にひどくやつれている。


 久しぶり見た妹の姿に、葬式からずっと事務処理などに追われていた間、ここまでほったらかしにしていた自分をひどく責めた。

 思わず自分を殴りたい衝動に襲われたが、そこはぐっと堪えながら 床に散らばったクレヨンやおもちゃを踏まないように日向のそばに近寄る。 


「日向」

「…………………………」


 名前を呼ばれた日向は自分に近づいて来る気配にゆっくりと顔を上げると、久しぶりに見る兄の顔が視界一杯に入る。

 陽の顔も前に見た時に比べて少しだけ痩せていて、目の下には隈が出来ていた。


 そんな兄を見つめていると、そっと頬を撫でる。割れ物を優しく扱う丁寧な仕草だ。


「……日向、そろそろメシ食わなアカンで。もう一週間も食べてへんやろ? 日向の好物たっくさん作ってあげるさかい。だから――」

「いらない」


 間髪入れずに返された返事に、陽は無意識に息を詰まらせる。


「いらない。だって、もうおとうさんもおかあさんもごはん食べられないんだもん」


 だが大きな目からボロボロと溢れ出た涙を見て、陽の顔はくしゃりと歪んだ。


「ごはんなんていらない……ううん、おもちゃも絵本もお洋服もなんにもいらない……。おとうさんと、おかあさんに、会いたいよぉ……!」

「……っ!」


 嗚咽を漏らしながら零した言葉を聞いて、堪らず妹を抱きしめた。

 肩を震わせ、何度も「おとうさん、おかあさん」ともう二度と戻ってこない二人を泣きながら呼ぶ日向の痛々しい姿。葬式では一切泣かず、虚ろな顔のまま人形のように一切動かなかった妹の姿に、陽はさらに抱きしめる力を強める。


 本音を言えば、陽だって父と母に会いたい。

 いつもみたいに何を考えているのか分からない顔で微笑んでほしかった。

 いつもみたいに美味しい料理を食卓一杯に並べてほしかった。

 いつもみたいに「おかえり」を言ってほしかった。


 一度自覚してしまえば、自然と口から本音が出てきた。


「せやなぁ……ワイも親父とおふくろに会いたいわ……」


 けどな、と言葉を区切ると陽は日向を抱きしめる力を弱め、両肩に手を置いてしっかりと互いの目を見つめ合う。


「ここでワイと日向が死んだらそれこそ二人が悲しむ。ワイらは親父とおふくろの分まで生きなきゃアカン」

「でも……あたし、怖いよ……。おにいちゃんが、おとうさんとおかあさんみたいにいなくなっちゃうんじゃないかって……」

「兄ちゃんはそう簡単に死なへんで。知っとるやろ?」


 ニカッと笑う陽を見て、日向は頭を捻りながら必死に思い出す。

 自分と違って魔法の才能がある兄は、IMFが用意した特別講習で毎回一番の成績を出している。

 父からのお墨つきを貰うほどの魔法の腕前を何度も見て知っている日向は、兄が両親のように突然消えるとは思えない。


 それでも、いつか消えてしまうのではないか? という不安が消えない。

 顔を俯かせながら黙りこくってしまった日向を見て、陽は「う~ん」と呻いたかと思うと、右手の小指を日向に差し出した。


「そこまで不安なら約束しよか。ワイは、何があっても、絶対に日向を一人にしない。せやから日向、お前もワイを一人にしないで欲しい。……できるか?」


 陽の言葉に、日向は差し出された右手の小指と兄の顔を交互に見つめる。

 少し痩せてしまっても、見慣れた赤紫色の瞳からは真摯な気持ちが痛いほど伝わってくる。

 普段見せない真剣な面立ちに戸惑いながらも、日向は自分の右手の小指を陽の小指に絡めた。


「……分かった、約束する。だからおにいちゃん、あたしを一人にしないで。いきなり消えたりしないで」

「ああ、わぁっとる。絶対にお前を一人にしはしぃひんで、日向」


 陽の答えに満足したのか、日向は嬉しそうに笑う。

 一週間ぶりに見たその笑顔が眩しく見えて、陽は目を細めながら妹のまあるい頭を優しく撫でた。



☆★☆★☆



「あの頃は『お兄ちゃん』って言ってかわいかったなぁ~」


 思春期の突入したせいなのか、中学生になった途端自分のことを『陽兄』と呼んだ時は、思わずサイドボードの角に小指をぶつけてもんどりうったものだ。

 あの時はひどく動揺したが、今の呼び方もそれなりに気に入っているのもあって、特に気にしていない。


 クスクスと思い出し笑いしていると、「うぅん~」と声を上げたかと思うと、ゆっくりと瞼が持ち上がった。


「お、起きたか。おはよーさん」

「あー……陽兄おかえりぃー……」


 むくりと起き上がって目を擦っていると、いつの間にか隣にいた陽はニコニコ笑いながら挨拶する。

 対して日向は半分意識が目覚めていない状態のまま挨拶を返すと、ソファーから立ち上がって食卓の椅子にかけてあったエプロンを手にする。


「今からご飯作るねー……。今日は陽兄の好物のハンバーグだよー……」

「待て待て待て待て、そんな状態で作るのは危ないからやめい」


 目を擦りながらキッチンに向かおうとする日向を慌てて止めると、持っていたエプロンを椅子にかけ直す。

 うとうとと舟を漕いでいる日向の膝裏に腕を回し、そのまま横抱きにする。昔は片腕抱っこだけで運べた妹はすっかり大きくなり、一人前のレディへと成長している。


 それにまだ自覚はないが、今まで無縁であった『恋』が日向の中で生まれようとしていることを考えると、兄としては嬉しいと寂しいが入り混じって複雑な気分だ。


「……もし親父がおったら、一体どんなこと言ったんやろうな」


 もし今も父が生きていて、陽の反応見てなんて言ったのだろうか?

 記憶の中の父を思い出しながら、言いそうなセリフを必死に浮かべる。


『――お前は相変わらず過保護だな。そんなんじゃお前が結婚に行き遅れるんじゃないのか?』


「大きなお世話やっ!!」


 絶対に言いそうな台詞を脳内で言われて(しかも音声つき)、思わずツッコんでしまう。

 今ので起こしてしまったのではないかと思ったが、日向は腕の中で寝ていたが「陽兄うるさいよー……」と寝言を言っている。


 どうやらさっきのツッコみは、彼女の中では夢の出来事扱いになっているようだ。


「はぁ……起きてへんな。よかったわ」


 遅くまで自分を待ってくれた妹の安眠を妨害する真似はこれ以上したくなくて、陽は『父が言いそうなセリフ』を考えるのをやめると、その脚で日向の部屋に向かった。



 階段をゆっくりと上がり、肘を使って器用に日向の部屋のドアを開ける。カーテンを閉めていない部屋は、窓の外からの月明かりでなんとか目視できるほど部屋の中を照らしている。陽は日向をベッドの上に乗せて掛け布団をかけてあげると、改めて部屋を見渡す。


 部屋の中は一人部屋を宛がわれてから使っている収納棚のシングルベッド以外、中はすっかり変わっている。

 ベッドの隣に設置されている本棚には教科書やノート、お気に入りの小説や漫画が一切の乱れなく仕舞われており、スタンドにはポシェットや今日着ていたジャケットがかけてある。


 学習机の上には付箋がびっしり張られた『魔法全集』が置いていて、ノートには自身が使える魔法と使えない魔法について細かく書いてある。


「まったく、我が妹ながら勉強熱心やな」


 本人が望んだわけじゃないのに突然魔導士になって、誰よりも魔法の勉強が遅れているからと人一倍勉強して、パートナーや魔法のことで色んな人間から好奇な視線を向けられる。

 普通の人なら逃げ出したい環境なのに、日向はあまり弱みを見せないまま頑張って日々を過ごしている。


 いや、もしかしたら陽の知らないところで弱音くらい吐いているかもしれない。そして、その弱音を聞いてあげて、日向の隣で励ましてあげているのは、彼女のパートナーである黒宮悠護だ。

 そう考えてしまうと胃がムカムカとしてきて、思わず嘲笑を浮かべた。


「……はぁ、ワイってホントに筋金入りのシスコンやな」


 いくら妹が大切だからって、日向個人の人生をこれ以上干渉するのは良くないくらい自覚している。

 だが両親に変わって手塩にかけて育てた妹を、どこぞの馬の骨に奪われたくない。いや悠護は知らない相手ではないが、それとこれとは話は別だ。


 いつまでも日向が恋に無縁な純粋無垢な娘でいられないことくらい理解している。それでも、陽がここまで日向に対して過保護なっているのは――。


「多分、ワイの方が一人になりたくないんやろな」


 両親を失った時、心の中に大きな穴がぽっかり開いたような気がした。

 いくら友人に恵まれ、周囲から賞賛と喝采の嵐を浴びても、その穴は一向に塞がらなかった。


 だけど、日向といる時はその穴が嘘のように塞がった。血の繋がった兄妹であることも関係していると思うが、それ以上に陽は自分が驚くほど日向が大切なのだ。


 一〇歳も年の離れた妹と初めて会った時、まるで雪のように儚く、泡沫のように曖昧な存在だった。

 初めて抱っこした時は首がまだ据わってなくて、支えるだけでも精一杯だった。でも腕から感じるぬくもりと、自分の顔を見て笑いかけた時は嬉しくて涙が零れた。


 両親がいなくなり、二人で生きることを強いられた時は、日向が幸せな人生を送れるように守ろうと決めた。

 今にして思えば、両親がいなくなって一人になることを本当に恐れていたのは陽だったかもしれない。

 いくら自分が自覚していても、日向には過保護に接してしまう。一人になりたくないから。


「それでも、ワイは日向を守るって決めたんや」


 たとえ自己満足でも、日向を守る気持ちは嘘ではない。

 ここ数ヶ月で起きた事件のことを考えると、恐らく妹はこれからも危険な目に遭う。

 本当なら近くで守ってやりたい。だが教師である以上、陽が日向を正面から守れる日は中々こないだろう。


 幸い日向は優しい友人達に恵まれているし、その誰もが他の生徒には卓越した才能を持っている。

 だが今だけ、この夏休みの間だけは自分の手で日向を守ろう。

 たとえ自己満足だと言われても、この時だけは豊崎陽は【五星】でも聖天学園教師でもない、『豊崎日向の兄』としていられるから。


「日向」


 陽は日向の名を呼ぶと、ベッドで眠る妹の目線に合わせるようにベッドの前で片膝をついた。


「日向、ワイはあんたが大切や。あんたはワイの妹で、どれだけ長い間離れ離れでいても日向のことを忘れた日はなかった。今のワイは教師やから、きっとすぐに日向のもとに駆けつけられへんかもしれへん……。

 もしかしたら助けにいけない時もあるかもしれへん。けど、その時になったらワイはどんな策も制止も振り払って、あんたを助けにいく。……こんな重い兄ちゃんやけど、それでもええか?」

「……………いいよ……」


 思わず出た質問に、日向が静かに返事する。

 まさか起きているのか、と内心驚きながらもそっと顔を覗くと、瞼はしっかり閉じた状態で眠っていた。

 口元は時折むにゃむにゃと小さく動かしており、恐らく今の返事は寝言なのだろう。


「…………ったく、なんちゅーええタイミングで出る寝言や」


 これにはさすがの陽も苦笑し、掛け布団をかけ直すとそっと頭を撫でた。


「おやすみ、日向」


 最後にぽんぽんと掛け布団越しに軽く叩いた後、陽は部屋を出る。

 そして日向の部屋のドアの前で大きくあくびをすると、髪を留めていたゴムを外す。結っていた髪が落ちてくる感覚を味わいながら、陽はがしがしと頭を掻く。


「……さて、ワイもそろそろ寝るか。風呂は朝でもかまへんな」


 そう一人言を呟きながら、陽は日向の部屋から離れ自室へと足を向ける。

 明日、日向にとっての『優しく頼りになる兄』になるために、最強の魔導士の一人は己の部屋のドアを開けた。

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