第52話 夢と約束

 炎が燃え盛る。砂塵が舞う。

 空は黒が混じった灰色の雲に覆われ、煉瓦造りの建物は半分以上崩れ、鼻がもげるほどの血臭と死臭が漂う。

 右を向いても左を向いても死体の山しかないその場所に、男は立っていた。


 煤がついた騎士服を模した白い服を身に包んだ男の槍を持つ手や上半身の所々に血が付着しており、一見見ると致命傷を負っている印象を与える。

 だが、それは逆だ。

 男の体には傷一つついておらず、彼に付着している血は全て自身の手によって命を奪った者達の血だ。


 しかし、ここは戦場だ。

 武器を手にしなければ問答無用でこちらの命が奪われる。

 同じ国で生まれ育った民の命を奪うのは罪悪感で胸を締めつけるが、それでも男には生きなければならない理由があった。


 男の脳裏に浮かぶのは、長い時間を共にした大切な友二人と愛妹の姿。

 ――一人目の友は、少し前の戦いで首謀者に討たれこの世を去った。

 ――二人目の友は、別の戦場で多くの兵士を連れ立って今も戦っている。

 そして、愛妹はこの戦いの引き金を引き、愛すべき人を殺した首謀者と一人で戦っている。


 十も年が離れた妹は、慈愛と善に愛された娘だった。

 身分の隔たりなんてものを軽々と踏み越えて領民と接し、貧しい者がいれば無償で金や食べ物を配った。

 時にはその行いを『ただの善行の押し売りだ』と貶す者もいたが、妹のすることには父も母も自分も何も言わず、いつも陰ながら応援していた。


 ――だからこそ、神は彼女を気に入った。理不尽と悲嘆と悪に満ちた世界を変えられる救世主として。


 神が妹に教えた力は人の身にはあまりにも強大すぎて、彼女でもこの力をなんの対策もなしに振るうべきではないと思えた。

 いつもは遠慮しがちな妹が、聡明でかつ冷静な判断を持つ自分を頼った時は心の底から驚いたが、それ以上に神に教えられた力について話した時は思わず遠い目をした。


 本来なら信じることすら難しかったが、それでも妹が嘘をついているとは思えなかったし、証拠として神から教えられた力を見せられたこともあって信じられざるを得なかった。

 あの力を目にした途端、男は思った。この力を、妹一人に背負わせてはいけないと。


 そうして男は、妹と共に信頼できる二人の友にも事情を話した。

 彼らも最初は戸惑っていたが、神からの力を世界に広めようと尽力した。何度も失敗と口論を交わし、時には周囲からの白い目や心ない声にも耐えながら、その努力が徐々に国全土に広がった。


(その結果がこんな血生臭い戦場を生み出した、なんて……ひどすぎる)


 戦いが始まった当初、男だけでなく妹達も自分達がしてきたことが間違いだったのかと何度も悔やんだ。

 周囲はこの戦いの元凶は妹であると糾弾し、教会が彼女を異端者として裁こうとするのを男は友人と共に何度も防いだ。

 苦悩の末、妹はこうなった以上、責任は自分達が取るべきだと決め、男達も彼女と一緒に戦いに身を投じた。


 この手が血で汚れて行く度に何度も吐いた。度重なる奇襲で幾度も神経をすり減らした。特に妹は最愛の恋人であった友が死んだ時も悲しみに明け暮れることも許されず、傷も癒えきっていないのにたった一日で戦場に戻った時は、何もできない自分をひどく恥じた。


 それもようやく今日で終わる。

 妹が首謀者を討てば、この戦いは終結する。

 きっと今も戦っている兵士達はそう思っているだろう。


 だが、男は半分疑っていた。

 彼女が首謀者を――かつて自身に仕える従者だった男を殺すことができるのか、と。

 彼女は首謀者を殺すだろう。だがそれは、周りが想像しているとは違う殺し方だ。

 その時、彼女は一体どうなっている? そう考えるだけで男は居ても立ってもいられなかった。


 襲い掛かる敵を次々と薙ぎ倒し、倒壊した街中を疾走する。その間に空から大粒の雫が落ちてきて、何時しかこの国を焦土にしてしまう炎を消す雨となったそれに打たれながらも男は足を止めなかった。

 ようやく妹が戦った痕跡が多く残る場所へやってきて、男は自然と足を止める。目の前には半径一キロほどの円があり、その周囲には瓦礫と化した建物や死体が散乱していた。

 一歩一歩、ゆっくりと足を進める。まるで糸で引っ張られたかのように、男の体は円へと近づいて行く。


 徐々に近づくその円の中央に――男の大切な妹が仰向けで倒れていた。

 白を基調とした騎士服――特に左胸は赤い血で汚れており、彼女の全身は土と煤で汚れていた。

 妹の体から広がった赤い絨毯が、すでに魂が天に旅立ってしまったのだと嫌でも伝えてくる。

 友に続き最愛の妹がこの世を去ったという事実は、男にとって信じ難いものだった。


 恐怖で震える体で妹の傍まで近寄り、そのまま地面に膝をつく。恐る恐る白い頬に触れると、自身の手より低い温度が伝わる。

 妹の死を明確に伝えるそれに、男は両目からボロボロと涙を零しながら呟く。


「っ……なんて顔をしてるんだ、お前は……っ!」


 いつの間にか雨が上がり、分厚い雲の間から金色の光を浴びる妹の顔は、死人とは思えないほど穏やかで――いつも見る幸せそうな寝顔そのものだった。



「――ん、んんっ……」


 瞼を震わせて目を開けると、閉じたカーテンの隙間から朝日が差す。その眩しさで目が覚めてしまい、のっそりとした動きで上半身を起こした。枕元に置かれたスマホの画面をつけると、『05:20』といつもより早い時間に起きたことを確認する。

 カーテンを開けるとすでに太陽が顔を出し、外からは新聞配達のバイク音やスズメの鳴き声が聞こえてくる。

 夏の影響で日差しの強い光を浴びて目をチカチカさせながらベッドから降りると、部屋中央の壁に置かれた机に目を向ける。


 机の上には完全防水機能を搭載したノートパソコンを中央に、山のように積まれた紙やタブレット、筆記用具が散乱している。

 この紙には授業で使う大事な資料や口外してはいけない機密情報をまとめたものばかりだが、ハッカーの手でデータを奪われるよりこうして『紙』として残す方が処分の面倒だけど情報漏洩の心配がなくなる。


 だがいくら盗まれる心配がないからといって、さすがにここまで乱雑に置くのはまずい。

 朝食を食べたあとに片付けようと思いながら、寝間着代わりに着ていたノースリーブシャツとジャージボトムと脱いで、黄色のノースリーブシャツと黒のズボン、そして靴下を履いて両腕に指切りタイプの黒のアームカバーをつける。


「……さて、洗濯物と朝メシはワイがやらんとな」


 机の上に置かれたゴムで髪を一つに高く結い上げた男――豊崎陽は、寝起きは思えないほどの素早い動きで部屋を出た。



☆★☆★☆



 豊崎家の朝はいつも早い。両親を亡くしてから、彼ら兄妹の生活スタイルは平日の主婦と同じものになっている。

 毎朝六時に起きて洗濯物を干し、それが終わったら朝食を作る。朝食を摂り終わったら洗い物を済ませ、登校と一緒にゴミ出しをする。

 そんな生活スタイルはたとえ夏休みに入っても変わらず、身支度を済ませた陽がベタンダで洗濯物を干し終え、目玉焼きを作っているとバタバタッと忙しない足音が階段から聞こえたと思った途端、勢いよくリビングのドアが開いた。


「――洗濯物ッ!」

「おーおはようさん、日向。洗濯物はもうとっくにやったし、今朝メシ作っとるで」


 陽の妹である豊崎日向はパジャマ姿の寝癖のついたままで直立不動すると、「はぁああ~~」と深いため息をつきながらへなへなと床に座り込んだ。


「そっかぁ~……もうやってたかぁ~……、ごめん~……」

「別に構わへんで。それにしてもいつもより起きんの遅かったな。夜更かしか?」

「アラームの設定、間違えちゃって……」

「そか。ならちゃっちゃと着替えてきぃ。もう少ししたら朝メシできるで」


 サニーサイドアップの目玉焼き二つを二枚の大皿に盛りつけると、日向は「分かった~」と言いながら部屋に戻って行く。

 その間に一緒に焼いたベーコンを添え、目玉焼きに粗挽きコショウを振りかける。冷蔵庫から昨日作ったポテトサラダと水につけたレタスを一緒に添えて、トースターから出てきた出来立てのトーストを別の皿に乗せる。


 食卓の上におかずを乗せた皿とトーストを乗せた皿を置き、その中央にマーガリンが入った箱とイチゴジャムの瓶を乗せ、お箸置きの上にバターナイフを置く。

 最後に陽用のブラックコーヒーと日向用の砂糖とミルクたっぷり入ったコーヒー、デザートに蜂蜜をかけたヨーグルトが入った容器を置けば朝食の準備が完了。


 全ての準備が終わると、ちょうど身支度を終えた日向がリビングにやって来る。夏らしく胸元にレースがついた白のノースリーブシャツの上に袖口が膨らんだ半袖の水色の上着を羽織り、下は青みが強いハーフパンツ。

 脚にはふくろはぎ半分を覆う白い靴下を履いており、長い髪をガラスでできた白椿の飾りがついたゴムをうなじ辺りで一つにまとめているのを見るに完璧に外出用スタイルだ。


「今日どっか行くんか?」

「え? ああ、うん。今日は京子と一緒に図書館に行くの。一緒に夏休みの宿題しよって」

「まだ終わってへんのか?」

「うん、でもあとちょっとだから」

「そーか。んじゃ、そろそろ食べるか」


 そう言って陽が椅子に座ると、日向も一緒に椅子に座り、同じタイミングで手を合わせて「いただきます」と言い食べ始める。

 日向がイチゴジャムをトーストに塗っている横で、陽が食卓の上に置いてあったテレビのリモコンを手に取ってテレビをつける。


『おはようございます! 八月一一日、今日の天気予報をお送りします――』


 画面には笑顔が眩しいニュースキャスターのお姉さんが映り、今日の天気を教えてくれる。

 陽はそれを聞きながらコーヒーを飲み、横目で日向の方を見る。

 イチゴジャムをたっぷりと塗ったトーストをリスみたいに齧り、トーストを置くとフォークとナイフを使って目玉焼きを四等分にして口に運んでいた。


「そうや日向、ワイ今日は帰りが遅いから先に寝といてや」

「え? なんで?」

「んー……実は、学園からちょっとメンドい仕事が入ったんや。しかもワイが対処しなアカンやつがな」


 学園で置ける陽の立場は、大まかに二種類ある。

 一つは、教師だ。自身が担任を務めるクラスで魔法学を教え、時に優しく、時に厳しく生徒を輝かしい未来へ導く立場。

 もう一つは、学園を守る守護者だ。


 聖天学園の防衛システムの主幹の位置にいる陽は、時折学園に侵入もしくは破壊活動を行うとする魔導犯罪組織を捕縛する仕事がある。

 だがそれより前に聖天学園のセキュリティを担う変人魔導士、通称『管理者』と呼ばれる男が十手先の策を練っているおかげで陽が出張る場面はそうない。


 だが管理者も魔導士の力がなければただの一人の人間、つまり彼でも限界があるのだ。どんなに頭脳明晰な策士でも、体力がなければ高度な企みは生み出せない。

 つまり、今回の仕事は陽の力がなければ、聖天学園に大きな被害を出す可能性が高いのだ。

 詳細もまだ知らないためあやふやな物言いをすると、日向は少しだけ複雑そうな顔を浮かべる。


「……それ、危ない仕事だよね……?」

「まあ……危ない仕事っちゅーたら危ない仕事やな。それを込みでの仕事やからしゃーない」


 なるべく明るく笑うが、日向の顔は暗く曇っていく。それを見て陽は内心ため息を吐く。

 自分の身を心配してくれているのは、恐らく陽も日向の目から消えてしまうのではないのか、という恐れによるものだ。

 両親を亡くした時、日向は数日ほど飲まず食わず部屋に閉じこもったことがある。葬儀に関する書類処理がひと段落し、少し痩せてしまった妹を部屋の外に連れ出したことを思い出しながら、陽は日向の頭を優しく撫でる。


「――安心しぃ。ワイがそんじょそこらの連中に負けるわけない。それは知っとるやろ?」

「……知ってる、けど……でも……」

「それに、前に約束したやろ? 『何があっても、絶対に日向を一人にしない』って」


 その言葉に、日向ははっとする。

 両親を亡くしたショックで部屋に閉じこもり、何も口にしないまま膝を抱えていた自分に兄は力強く言ってくれた。


『死なんていつくるかそれはワイにも分からん。……でも、もし日向が望むなら、ワイは藁にでも縋って生き延びてやるわ。何があっても、絶対に日向を一人にしない』


 自分だって幼い日向にはできないことをして、心身共に疲れていたはずなのに。目の縁に隈を作り、少しだけ痩せていた顔で力弱く笑っていた。

 あの時の約束は今も日向を覚えている。そして、兄はその約束を違えることは絶対にしない人であることも。


 少しだけ顔を俯かせると、日向は顔を上げてにこっと笑う。その顔には心配事が一切なくなっていた。


「……分かった。仕事が終わったら陽兄の好物たくさん作ってあげるね」

「おう、期待しとるで」


 そう言って、陽は日向の頭を強くわしゃわしゃと撫でた。



 豊崎兄妹の自宅は父が中古で売りに出されていたのを買ったものだが、一昔前だが今のどの家庭でも愛されている設備やオートロック機能つきの玄関が備え付けられている。

 ガチャンッとドアが閉まるとオートロック機能が作動し、自動で鍵が閉まる。それをしっかり確認してから家の門を開けて外に出る。


「じゃあ行ってくるね、陽兄。くれぐれも怪我とかしないように!」

「はいはい、わぁーっとるわ。日向こそなるべく早く家に帰りや」

「はーい、いってきまーす!」


 筆記用具やテキスト、それに必需品を詰めたトートバッグを持って、日向は長い髪を揺らしながらアスファルトを駆けて行く。

 その後ろ姿を見送りながら、陽は思いっきり伸びをすると首を動かして軽く鳴らす。


「――ほな、行くか」


 それを合図に、陽もアスファルトを歩いて行く。

 妹と交わした約束を守るために、さっさと仕事を終わらせようというやる気と共に。

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