第46話 誕生パーティー
「う―――ん、う―――――ん……」
「……おい日向、そろそろ決めろよなー」
「ご、ごめん……もうちょっとだけ……!」
「そう言ってもう三〇分は経ってんぞー」
「樹くん、もう少し待ってあげよう。ね?」
「そうです。もう少し待ってあげるのが男なのです」
「へいへい」
平日でも夏休み効果のおかげで、多くの若者で賑わっているアクセサリーショップ。その一角にある陳列棚の前で、日向はひとしきり唸っていた。
八王子市にある大型ショッピングモール。品揃えは市内一と評判があるそこに、日向は樹と心菜を連れて悠護の誕生日プレゼントを買いに来た。
ここ数日、誕生パーティーのせいで黒宮邸は皆連日忙しく、朱美や悠護もその準備に追われている。
ただ鈴花は準備にも参加できないため寂しそうにしているのを放っておけず、準備期間の間は夜まで日向が面倒を見ている。朱美も日向に任せるのは安心できると太鼓判を押してくれたため、こうして遠出をする許可も得ている。
高橋が運転するリムジンに乗ってショッピングモールに来た日向達は、さっそく悠護の誕生日プレゼントを探し始めたが、日向以外の三人はすでに何をプレゼントにするか選んでいたのかさっさと目的があるエリアへ行ってしまった。
樹は上級者向け料理本『クッキング・タイムズ』全三冊、心菜は安眠・リラックス効果のあるラベンダーのお香、鈴花はファミリー向けのボードゲームを選んだ。
まさか出鼻を挫かれるとは思っていなかった日向は、朝のんびり選ぼうとなんて考えていた自分を恥じて焦って近くのアクセサリーショップに走った。
アクセサリーなら男でも女でもプレゼントとして渡されても嬉しいことは雑誌で読んでいるため知っているが、肝心の悠護が好みそうなものが分からなかった。
以前椿島で上げたガラス玉のブレスレットは気に入っているのは知っているが、こういったアクセさあの類になるとどれを選べばいいのか悩んでしまう。
京子や亮の誕生日の時はこんなに悩んだことがないだけ、真剣に考えてしまう。
(うーん、こっちのペンダントはちょっとゴツいよね……あ、こっちのイヤリングは似合いそう。ああでも悠護、耳に穴開けてないよね。っていうかそもそも魔法的に金属類ってアウトじゃ……)
悠護が得意とする金属干渉魔法は、文字通り金属に干渉し自在に操る魔法だ。もし自身の身につけているアクセサリーも対象になってしまうなら、もしかしたら意味がないかもしれない。
嫌な考えに脳がぐるぐると回り出し、さらに悩みの渦へと身を沈め始めた日向を現実に引き戻したのは、首筋に当てられた冷たい何かだった。
「ひゃあっ!?」
突然の冷たさに思わず悲鳴をあげると、店内にいる客や店員は『なんだ?』という目を一斉に日向に向ける。
視線を向けられた日向は口元を手で隠しながら、キッと後ろに立つ犯人を睨んだ。
犯人――樹の右手にはキンキンに冷えたオレンジの炭酸飲料の缶を持っており、左手にはプルタブを開けた缶コーラが握られている。
「ちょっと樹! いきなり何すんの!?」
「そろそろ昼だって言ってんのにお前が返事しねーのが悪ぃんだろ」
「え、嘘? もうお昼なの?」
慌ててポシェットの中からスマホを取り出すと、時刻は『12:06』と表示されていた。
「ご、ごめん。あたしってばつい夢中で」
「……まあお前が一生懸命なのは知ってるから文句はねぇよ。心菜と鈴花が席取って待ってるからさっさと行くぞ」
「うっ、うん」
まさかそこまで夢中になっていたとは思わず申しわけなさで頭が下がってしまうが、樹は特に気にすることなく日向をフードコートへ連れて行った。
このショッピングモールの二階は、フロアの半分をフードコートにしている。世界展開しているファーストフードチェーン店や和食に洋食、中華はもちろんうどんや蕎麦、パスタにピザ、クレープやアイスクリームもあれば異国情緒溢れるエキゾチック料理も提供している。
四人用テーブルに座っている心菜と鈴花は楽しそうに会話をしており、姿を現した日向と樹を見つけると二人はこっちに向かって手を振る。
「ごめん、夢中になり過ぎた」
「大丈夫だよ。それよりお昼食べよう、そろそろ混み始めたし」
「だな。何食おうっかな~」
「鈴花ちゃんは何がいい?」
「えっと……あのハンバーガー? を食べてみたいです」
それぞれ興味がある食べ物を求め一旦バラバラに行動すると、ほどなくして先ほどの席に戻る。
樹はインドカレー、心菜はエビとアボカドのサンド、鈴花はおもちゃつきのハンバーガーセット、日向は普通のハンバーガーセットを頼んだ。
「……それでで、悠護くんへのプレゼントまだ決まんないの?」
「うん……というか、悠護って意外と物欲ないから余計に悩むっていうか……」
「あー、あいつって意外とそういう感覚が庶民っぽいもんな。まあブランド物ばかり身につけるいけ好かない野郎よりマシだけどよ」
学園での悠護しか知らないが、思い返すと彼はあまり何かを欲しがるような人間ではない。
高価なものには興味なく、食事も格式高いものが嫌い。むしろごくありふれた家庭料理を好み、物も普通の学生でも変えるリーズナブルなもの選ぶ。本や漫画のジャンルは興味があるものしか選ばないからバラバラで統一感がない。
詰まる所、悠護は世間一般の男子高校生のようにおしゃれを気にしたり、ある一点のものに興味を持つようなタイプではない。そのせいか彼へのプレゼント選びの難易度が高くなっているような気がする。
贈りたい気持ちがあるのに、肝心のプレゼントが決まらなければ意味がない。
早く決めなければと気持ちが焦る日向の隣で、フライドポテトをちょこちょこと食んでいた鈴花が日向の服の裾を引っ張る。
「あの……」
「ん? どうしたの、鈴花ちゃん?」
「あの、多分なんですけど……悠護お兄ちゃんは、別に『物』じゃなくても喜ぶと思います」
「物じゃなくても……?」
「あー、確かにな。むしろお前からのプレゼントならその辺に落ちてる石でも喜びそうだな」
「それはさすがにないでしょ」
樹の冗談にツッコみを入れると、樹はカラカラ笑いながら水を一気に飲み干した。
「要するに、別に『物』にこだわんなくていいんだよ。大事なのは相手を想って選んだものってだけだ。それさえあればどんなもんでもいいって俺は思うぜ」
「相手を想って選んだもの……」
「ああ。ほら、そこのコーナーとかどうだ?」
そう言って樹はフードコートから離れたある一角に向けて指をさす。
樹が指さした場所は、天井と壁が木造になっている小さなショップ。看板には『Only Letter』と彫られており、手紙を扱う店であることは一目で分かった。
「あそこ、シーリングワックス――簡単に言ったと封蝋とか専用のスタンプも扱ってる店らしくてよ、古風だけどかなり評判がいいみたいだぜ」
「へぇ、そうなんだ。封蝋もあるなんてすごいね」
樹の話に乗っかって心菜が目を輝かせている横で、日向はその店から目が離せなかった。
すると残っていたハンバーガーやフライドポテトを一気に食べ、カップに入っていたオレンジジュースを一気に飲み干すとトレイを持って立ち上がる。
「あたし、ちょっとあっちに行ってくる」
「おう。俺らここで待ってるからな」
「分かった」
そう返事を返してパタパタと走っていく日向は、さっそくそのお店へと足を踏み入れた。
店内には様々な絵柄の便箋や封筒があり、樹が言っていたシーリングワックスがスタンプとセットで売っているものもある。
「あ、これ香りつきなんだ」
ふとシーリングワックスの前にテイスティングとして用意された紙があり、王冠のシーリングスタンプが捺されたそれを鼻に近づける。
赤いシリンダーワックスから香る甘い薔薇の香りに思わず息を吐く。
「いい匂い……。これいいかも」
自分好みのものを見つけてすぐさま赤いシーリングワックスを手にすると、六種類のモチーフが付属しているシーリングスタンプも見つけたためそれも手に取る。
「あとは便箋だよね。うーん……あ、この黒猫のとかいいかも」
さっきのアクセサリーショップとは打って変わってあっさりと決まり、個人用に白ウサギや花の絵柄がある便箋と封筒も購入した。
レトロな紙袋に入れられてホクホク顔になっている日向は、フードコートで待っていた樹達の元に戻った。
「お待たせ。買ってきたよ」
「おかえり、結構早かったね。いいのがあったの?」
「まあね」
「よかったじゃねぇか。……で、悠護になんて書くんだ?」
にやにやと面白そうに笑みを浮かべる樹を見て、日向はきょとんとするがすぐに小さく、でも意地悪そうな笑みを浮かべた。
「そんなの内緒に決まってんでしょ、バーカ」
☆★☆★☆
グランドホテル『ローズガーデン』。
事件の現場になったそのホテルで今日、悠護の一六歳の誕生日パーティーおよび黒宮家次期当主お披露目会が行われる。
あの二五日の事件――メディアでは『多国籍魔導犯罪者襲撃事件』と呼んでいる――の影響のせいで最初会場の貸し出しを渋ったホテル側だったが、徹一が派遣したIMFの魔導士の魔法によって庭園が修復され、損害賠償として三〇〇〇万を支払ったおかげで最上階を貸し出すことができた。
最初は見事な手の平返しだと思ったが、窓際と壁際に設置されたテーブルに置かれている料理はどれも損害賠償金を全部使ったのではないかと思うほど豪勢なところを見るに、仕事はきちんとやっているようだ。
招待客は豪勢な料理に舌鼓を打ち、シャンパン片手に会話の花を咲かせている。
会場にいる招待客の中には他の七色家の人間もおり、香音以外は全員パートナーもしくは伴侶を連れていた。暮葉は奈緒と一緒にノンアルコールカクテルを呑んでおり、アリスは夫に始終べったりと貼りついている。
怜哉は自身のパートナーらしい女子といるらしいが、あそこだけ空気の温度が低いのは互いに興味がないからだろう。
そして、今回の主役であり黒の礼服を見に包んだ悠護は、壁に背をもたれさせながら少し離れた先でIMF関係者や分家の人間と話す徹一と朱美の方を遠目で見ていた。
徹一は相変わらず黒いスーツをかっちりと身に包んでいるが、朱美はまあメイドラインの黒いドレスのおかげで普段の穏やかさとは打って変わって妖艶さがある。
鈴花も以前日向が庇った少女と共にご馳走の数々に目を輝かせてながらも、食後のデザートに手をつけている。
両親の周りにいる連中が今回の事件で不祥事を起こしてしまった徹一を冷やかしにきたり、墨守がいなくなったことで空席になった倫理委員長を利用して私腹をこやすために自薦しに来ていることは明白だ。
それは徹一も朱美も理解しているのが、顔色一つ変えずに受け答えをしている辺りはさすがとしか言いようがない。
(俺もポーカーフェイスとか身につけたほうがいいかもな……)
次期当主に昇格した今、悠護の周りにも父のように多くの人間がまとわり始める。その中には敵意や害意を持った人間や、我欲目的で近づいて来る人間がいるのは間違いない。
だが、それは承知の上で次期当主になることを選んだのは他でもない悠護自身だ。
(そうしないと、俺は日向を守れない)
七色会議のおかげで日向の処遇が一般魔導候補生扱いになったが、それでも無魔法を持つ彼女の力を狙う輩は日本だけでなく海外にいる可能性も高い。
彼女を守るためにはたとえ政府要人でもロクに手を出せない力――それこそ七色家の力が必要だった。
会議の時では勝手に決められて憤ったが、今となってはそうしてくれてよかったと本気で思った。
『悠護、お前にだけは伝えたいことがある。先日、私は日向くんをお前の正式な婚約者に決定したことを全七色家本家と分家に伝えた』
『へー、そうかよ。…………って、はあっ!?』
――一昨日、スピーチの練習中に聞き流すほどあっさりと言われ、生返事した悠護は言葉の意味に気づくと素っ頓狂な声をあげた。
確かに日向が黒宮家に来た初日に『徹一から信用を得たら正式な婚約者にする』という話が出たが、まさか本当にするとは思ってなかった。
そもそもあの時の悠護はそれさえも父の悪ふざけだとばかり思っていた。
『ちょちょちょちょっと待て! それ本人には……』
『伝えていない、というより伝える気はない。これは彼女の身を守るための『保険』だ。もし日向くんが本気で悠護と生涯を添い遂げたいと決めた時に言ったつもりだ』
『しょ、生涯って……!?』
『なんだ? お前は彼女と結婚したくないのか?』
『んなもんしたいに決まってんだろッ! ……あ』
思わず大声で反論するが自身の失言に顔を真っ赤にしながら黙り込む悠護。そんな息子の反応に微笑しながら徹一は話を続けた。
『ともかく、婚約者の地位は黒宮家の後ろ盾のようなものだ。今後彼女にちょっかいを出す人間が出てこない可能性がないからな。そう考えているから悠護も次期当主になることを受け入れたのだろう?』
『……ああ』
『それでいい。権力も地位もそれを手にした人間が何かの目的のために使うだけの道具だ。お前はそれを正しく使っている。今ある力を存分に使え、決して私と同じ道だけは歩むな』
『親父……』
その言葉を聞いた直後、悠護は徹一の瞳の奥に哀愁が宿ったのを見逃さなかった。
父はずっと後悔していた。手にした力を使っても大切な人を救えなかったことを、そしてその力を上手く使えず数年も家族の絆をバラバラのままにしたことを。
己の後悔ほど自戒に値するものはないことが身を以て知っている徹一だからこそ、今の言葉はどんな言葉よりも重くのしかかる。
なら、悠護がするべきことはただ一つだ。
『――俺にとって、黒宮家の力はただ自分を苦しめるだけのものだった。でも、今は違う。俺は自分の力も家の力も今あるもの全て使ってあいつを守る。俺が望む未来を掴み取るために』
『……そうか』
かつての過ちを犯した自分とは違う、多くの困難が待ち受ける茨の道を自らの意志で進もうとする息子の姿に徹一は眩しそうに目を細めた。
初めて愛した女が残した宝物の成長ほど喜ばしいものはないのだと、徹一は初めて自分が『父親』という自覚を持てた。
『なら、うっかりで玉砕されないように気をつけろ。お前はどこか詰めが甘いからな、精々嫌われないように努力しておけ』
『うるせぇ!! 余計なお世話だクソ親父ッ!!』
(ああクソ、余計なことまで思い出しちまった)
思わず余計なことも思い出してしまい、頭を横に振って振り払う。
パーティーは昔から苦手だ。煌びやかな会場の中に渦巻く欲望がはっきりと見えてしまい、それを見ないためにあれこれ思い出してしまう。
こういう時は何かと理由をつけて外に出たり、ホテル内をウロウロするのだが今回からはそういうわけにはいかないだろう。
まだ立食が始まったばかりだというのに疲労感を感じてしまい深いため息を吐くと、誰かが近づいて来る気配がする。
俯きかけていた顔を上げて気配がする方を見ると、悠護の顔が自然と強張った。
「久しぶりね、ゆうちゃん」
頬を紅潮させて蕩けた瞳を向けてくる希美はホルターネックタイプの藍色のドレスを身に包み、ドレスと同じ色をした髪は高く結い上げてお団子にしてある。
髪飾りに赤いリボンを使っているのは相変わらずだが、普段隠れているうなじや背中、大胆に露出している胸元は思わず男の目線をいやらしいものに変えてしまう色っぽさがある。
悠護にとってはその姿は見慣れたもので、いまさら邪な感情なんて
「久しぶりだな、希美。親父さん達は?」
「お父様とお母様ならおじ様達にご挨拶してるわ。そんなことより、これ誕生日プレゼントよ」
希美はハンドバックと共に手にしていたプレゼントを両手で持ちながら悠護に向けるが、悠護は受け取らずそのプレゼントを静かに見つめるだけだ。
「一応聞いとくけどよ、中身は?」
「ネクタイよ。ゆうちゃんにぴったりなものを選んだわ」
それを聞いて、悠護は微かに眉をひそめる。
女性が男性にネクタイを贈る意味は『あなたを縛ってあげる』という束縛的なものだ。それを希美が故意で贈ったのかそうではないかと問われると、間違いなく前者であると確信できる。
そもそも、実母の死後から希美が贈ってきたものはそういった類の意味を持つものばかりだ。だが、さすがにワンパターン過ぎて呆れてしまう。
「……まあ、一応受け取っとく。サンキュ」
「ええ。気に入ってくれると嬉しいわ」
それでもプレゼントは受け取るのは止めなかった。
ただ習慣として染みついているだけなのか、それとも同情心なのかは分からないが、どちらにせよ悠護はいつも通り重い愛を向けてくる幼馴染みのプレゼントを受け取った。
ひとまずプレゼントを自分の近くで待機していた高橋に預けると、希美がきょろきょろと誰かを探すような仕草を取っていたことに気づく。
「? 誰か探してんのか?」
「え? ……ああ、そうね。ねぇゆうちゃん、あの女はいるの?」
『あの女』と憎しみを込めて言った希美に、悠護はその相手が誰なのかはっきりと理解した上で伝える。
「日向なら来てるぞ。今はまだ準備中だ。ちなみに樹も心菜もいるからな」
「……そう」
悠護の答えに苛立たしげに顔を歪ませる希美。その表情は昔嫌というほど見てきたもので、彼女がその表情をする時は必ず手を下す前だ。
だが暮葉の厳重注意がある以上、希美もこのことで『罰則』は喰らいたくないはずだ。
せめてパーティーくらいは穏やかにいたいものだと嘆息を漏らすと、見慣れた赤髪と亜麻色の髪が視界に入った。
「よお悠護、誕生日おめっとさん。桃瀬もゴンバンワ」
「誕生日おめでとう、悠護くん。桃瀬さん、こんばんわ」
「おう」
「……どうも」
開口一番に祝いの言葉と挨拶をかけてくれた樹と心菜。後半の挨拶に希美はそっけなく返す横で、悠護は二人の恰好を見る。
黒のタキシード姿の樹は前髪をかき上げ、普段よりワイルドさが拍車をかけている。手に持っている皿の上の乗った肉料理のせいで余計にそう見える。
心菜はウェーブヘアを鈴花のように二つ結びにし、水色のシュシュで留めている。アメリカンアームホールと呼ばれる首の根元から袖ぐりの下まで斜めに大きくカットしたノースリーブをした水色のイブニングドレスは、右腰に同色の大きなリボンと白薔薇のコさあジュがついている。
白のストールをかけているおかげか、普段から感じる気品さがさらに濃くなっている。
「ほらこれ、誕プレだ。受け取りな」
「私もあるよ。気にってくれると嬉しいな」
「ああ、ありがとな。……ところで日向はどうした? 一緒なんだろ?」
「あー、あいつなら今から来るぜ。着替える前に便所に行ったから俺らより着替えんの遅かったからよ」
「そうかよ」
いくら事実とはいえ、公共の場での『便所』の単語を使うのはあまりにも下品だ。現に樹の言葉を聞いて白い目を向けている招待客が何人もいるが、樹は素知らぬふりで分厚く切られたローストビーフを頬張る。
横で心菜が代わりに頭を下げていると、悠護の耳にヒソヒソと話す声が聞こえてきた。
「見ろ、桃瀬家のお嬢様と神藤家のお嬢様だ」
「おお、本当だ。相変わらずお美しい二人ですな」
「確か桃瀬のお嬢様は黒宮家の第一婚約者候補でしょう? 確かに悠護様の伴侶としては相応しい方だ」
「知らないのか? 彼女は四月に第二に下がったらしいぞ。代わりに悠護様のパートナーが第一になったと聞いた」
悠護達から離れた場所で会話をしていた男達の一人が、話し相手の一人の話を聞いて驚きで目を見開いていた。
「そうなのか? じゃあ一体誰が第一婚約者候補になったんだ?」
「聞いて驚くなよ? なんとあの【五星】の妹君だそうだ」
「【五星】だと!? ……なるほどな、確かにあの御仁の身内なら納得だな」
「だが所詮は庶民の出だ。たとえ兄が有名人でも、悠護様に見合う女でなければ話にはなら――」
日向のことを何も知らない男達が勝手にほざいたが、それは突然中断された。
言葉が途切れた男が目を見開いて出入り口の扉の方を凝視しており、周りもつられてそちらに目をやる。
悠護も同じように扉の方に視線を向けた直後、その理由を理解すると同時に全身が硬直した。
扉を通り、顔つきで会場へ足を踏み入れた一人の少女。少女の細身をまとっているのは、スカートの裾と胸周りに細やかな白い刺繍がされた黒のカクテルドレス。
この場で黒色のドレスと礼服を身に包むことが許されているのは、黒宮家本家の人間とその本家のパートナーとなった者のみだ。
ベアトップネックという肩紐のないネックデザインのおかげで胸元と肩、そして背中が大胆に露出されている。腰まで長さのある琥珀色の髪はハーフアップにしており、白いレースリボンがついた黒薔薇のコさあジュで留めている。
首にはパールのネックレス、右手首にはパールのブレスレットとシンプルなアクセサリーだがそれが逆に美しさを際立たせた。素材を活かしたナチュナルメイクのおかげで野暮ったさはなく、淡い色の口紅をつけた唇はいつもより艶やかだ。
右手に黒のクラッチバッグを持ちながらきょろきょろ辺りを見渡すと少女――日向は悠護の姿を見つけるとぱっと顔を明るくし、黒のパンプスを履いた足で悠護の方へ駆け寄る。
会場にいる何人もの男達が日向に視線を向けると悠護と同じで硬直する者がいれば、見惚れて頬を赤らめる者もいる。
そのことに気づかないまま日向が悠護の前まで来ると、
「――悠護、誕生日おめでとう!」
太陽のような笑顔で祝いの言葉をかけてくれた。
その笑顔を見ただけで、悠護の顔は自然と熱がこもっていく。さっきまで目を見開き、言葉を失い、ただパートナーの美しい姿を見つめることしか出来なかった悠護は、そこでようやく無意識に息を止めていたことに気づいた。
一瞬自分でも気づかないまま息を止めていたことに驚いたが、それは無理もないと思った。
(――綺麗だ)
それこそ息を止めるほどの。数日前のお茶会で見たドレス姿と同じ、いやそれ以上の美しさ。それに魅了されたと思えば納得するし、心臓が早鐘を打ってもおかしくはない。
固まって何も言わない悠護を不審に思ったのか、日向は悠護の顔を覗き込むとクラッチバッグを持っていない手を彼の前で左右に振る。
「悠護ー。おい、どうしたのー?」
「……あ、ああ、いやなんでもない。ちょっと驚いてな……」
「驚くって、何に?」
「何って、そりゃ……」
お前のドレス姿が綺麗過ぎて驚いた、と言えればどれだけ楽なんだろうか。
だが今の悠護にはそれを言った勇気がない。「あー、えーっと」と口をごもらせるパートナーに日向がさらに不審そうに首を傾げると、樹が自分の方に腕を回してきた。
「日向、お前見違えたな! 一瞬誰かと思ったぜ」
「え、そんなに? あたし、変かな?」
「いやいや変じゃねぇよ。むしろここにいる誰よりも目立ってるぜ。なあ?」
「そうだね。綺麗だよ、日向。本物のお姫様みたい」
「えー、本物は言い過ぎだよー」
二人の褒め言葉に日向が照れ臭そうに頬を掻くと、ようやく落ち着きを取り戻した悠護は小さく微笑みながら言った。
「……いや、心菜の言う通りだな。似合ってんぞ、日向」
「そ、そうかな……なら嬉しいかな」
えへへ、と笑いながら頬を紅潮させる日向。その反応さえも今の悠護にとっては愛おしく見える。
第三者が簡単に踏み入れない空気に乱入したのは、小さな咳払いだ。
「――コホン。あら豊崎さん、お久ぶりね」
「……そうだね。久しぶり、桃瀬さん」
憎しみを込めた瞳を向ける希美に気づいた日向は、微かに顔を強張らせるがそれも一瞬で、口元に笑みを浮かべながら希美と向き合った。
そこで悠護達は気づく。二人の目が、全然笑っていないことを。
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