第45話 自覚する想い
「……落ち着いたか?」
「ああ……」
徹一の言葉にズビッと鼻をすすり、俯きながら頷く悠護。
人前で泣くなんて過去に何度があったが、父親の前で泣くことは初めてだからか羞恥で微かに頬が赤い。
それを必死に隠そうとする息子の姿に徹一が微笑ましげに見つめていると、無機質な着信音が部屋に響く。その音に徹一は一つため息を吐くと、上着のポケットからスマホを取り出し電話に出る。
「……私だ。ああ、やはりそうか。北アメリカ支部からは私自ら伝えておこう。……ああ、ご苦労」
何回かのやりとりの後に電話を切った徹一はまたため息を吐くのを見て、悠護はあの電話の内容を察してしまった。
「……昨日の件か?」
「ああ。今回の事件を起こしたのは墨守だ。黒宮の分家である以上、こういった不祥事は本家も責任を取らなくてはならない」
「ったく、ホントあのクソジジィは面倒事しか起こさねぇな」
「そうだな。だが、墨守のことはもう気にしなくていい」
「はあ? なんでだよ、俺はあのジジィに一発入れないと気が済まな――」
「墨守米蔵の死亡がすでに確認されている」
徹一の口から出た言葉に、一瞬息が止まった。
最初は冗談かと思ったが徹一の性格上、こういった手の冗談を言わないことを知っている。静かに深呼吸をし、なんとか平常心を取り戻す。
「……死んだって本当なのか?」
「そうだ。IMFの職員が墨守邸に突入したところ、その屋敷に使える使用人及び墨守米蔵が死体で発見された。どの死体にも外傷も血痕もなく、魔法による殺人と見て調べている途中だ。ただ、犯行時刻は昨日の正午頃なのは確かだ」
「なるほどな。まあ魔法なら凶器とかそういう小道具なしで簡単に人を殺せるからな、殺された時間が分かっただけでもいい方だな」
「右藤や動物を使った爆発行為を及んだ魔導士はすでに捕獲済みだ。捕獲したのはお前もよく知っている豊崎陽氏だ」
「先生が?」
「だが、右藤の捕獲に何かしたのか……右藤が国道16号から逃走し捕獲されるまでの記憶がひどく曖昧なんだ。本人は『少しやりすぎた』と証言している」
今度は深いため息を吐く徹一を見て、悠護はなんとなく陽が何をしでかしたのか察してしまう。
入学してから彼の日向に対するシスコンぶりは学校生活ではその気配を潜めているが、休日になると見ているこっちが反応に困るほどの溺愛ぶりを見せている。
そんな彼が妹に関わる問題に首を突っ込むのは自然なことで、本人の言った『やりすぎ』をしてしまうのは仕方ないと思う(正直そう言っていいのかさえ分からないのは秘密だ)。
「右藤の尋問は私自ら指揮をして執り行うつもりだ。その後は『カルケレム』に収容されるだろう」
魔導士刑務所『カルケレム』。
凶悪犯罪を行った世界中の魔導士を収容する刑務所は、世界各国の上層部のみその存在を極秘機密としている。
収容された魔導士には特殊な鍵がなければ絶対に外せない『
もし施設内で一度でも揉め事を起こしたら、その魔導士は地下にあるコールドスリープ装置で一生飼い殺さらなければならない。
そうした仕組み上、『カルケレム』を出所どころか脱獄することは〇パーセントで、かつて一度収監されたら二度と外には出られないと言われたロンドン塔のような場所なのだ。
「これからしばらく、私は支部で仕事をしなくてはならない。できるだけお前の誕生パーティーに間に合うように終わらせよう」
「え? いや、別にいいってそんな無茶しなくても」
「私がよくないのだ。こうして長年のわだかまりが消えたというのに、いつもの生活に戻っては意味がない」
「そ、そうかよ……」
真顔で告げる徹一の言葉に、悠護はすぐさまそっぽを向いた。
これまであった二人のわだかまりが解けた影響なのか、先ほどから父親の発言がどれもあの頃の冷たいものではなくなっている。今まで関わらないようにした分、父の真っ直ぐな言葉はくすぐったい気持ちになせる。
「じゃあ頑張って仕事終わらせろよ。でないと義母さんと鈴花も悲しむからな」
「もちろんだ。それより悠護、もし日向くんに会うつもりならなるべく早く風呂に入れ。臭うぞ」
「うるせぇ! 俺もこれはちょっとダメだなって思ってたところだッ!」
まさか自分の行動が読まれているとは思っておらず、父親の指摘に思わず反抗的に言い返した。
いくらメイドによって着替えがされて軽く身を綺麗にされていても、昨日の騒動でついた硝煙や汗の臭いは一度嗅ぐだけでもすごく目立った。
クローゼットの中から着替えを取り出すと、大股で部屋のドアの前まで行くとドアノブに手をかけながら徹一の方に振り向く。
「いいか、絶対俺の誕生日まで仕事終わらせろよ! じゃねぇと今度親父の嫌いなものを作ってやるからな!」
まるで三流の悪者の捨て台詞を吐いて部屋を出て行った息子を見送った後、軽く肩を竦めながら徹一も部屋を出る。
そのまま玄関に向かおうとした直後、ふとあることを思い出して足を止めた。
「……そういえば、彼女も昼食後に風呂に入ると言っていた気がするが……。もう上がっているのか?」
☆★☆★☆
「はぁ~、気持ちいぃ~」
実家の一階分以上広い浴場、日向はその六割を占める湯船を思わず顔がにやけるほど気持ちよさそうに浸かっていた。
徹一との会話の後、日向はリビングルームに寄ってみたらそこにいた朱美と鈴花から強烈なタックルを喰らった。どうやら昨日から目を覚まさない自分を心配していたらしく、タックルされて床に倒れた後に、今度は背骨が折れると思うほどの力で抱き着かれながら泣き始めてしまった。
なんとか二人を宥めた後、メイドが作ってくれた胃に優しいようにくたくたに煮込んだきつねうどんを食し、磁石のようにくっついて離れない二人の話し相手をした。
そして今、昨日の戦闘でついた硝煙や汗の臭いを落とすためにこうしてお風呂に入っている。昨日のうちにメイドがある程度体を綺麗にしてくれたが、やはりそれでも限度があった。
「それにしてもすごいお風呂だなぁ。掃除とか大変そう」
今日向が入っている浴場は地下にあり、脱衣所に続く引き戸に近い場所に一〇個の蛇口がついた洗い場があるシンプルな造りだ。
左の壁に設置されたライオンを模した湯口は、本物みたいな口からドバドバと滝のようにお湯を流している。そのお湯も疲労回復の他にも筋肉痛や関節痛、肩こりなどにも利く入浴剤を混ぜているため、お湯は薄緑色をしている。
背後にある大窓には観賞用として長方形をした空間があり、そこには太い笹が数本刺さっている。地面は白玉砂利で埋め尽くされているが、両端に設置した照明機器で白く輝いている。
自分の家とはまるで違う浴場にそんな感想を言いながら、思いっきり足を伸ばした。
白い湯気が充満する中、日向はふと天井を見上げると小さく呟く。
「徹一さん、悠護とちゃんと話せたかな……」
徹一は悠護が目を覚ました時に話すと言っていたが、正直あの二人が面と話せているのか知らない。
本当なら二人の仲介人をしたいところだが、さすがに家族同士の問題に他人の自分がこれ以上首を突っ込むわけにはいかない。
(でも、きっと大丈夫)
悠護も徹一も、今を変えようと前に進もうとしている。
彼らの背中を押すことが自分の役目であり、そこから先は当人同士の問題だ。
そう、自分はできる限りのことをしたはずなのに――。
『……本当に、あなたは立派な偽善者だ。自己満足のためだけに無償に手を差し伸べるだけしか能がない。まったく反吐が出る』
昨日の、右藤のあの言葉が耳から離れない。
自分は周りが思っているほど立派な人間じゃないってことくらい、痛いほど理解しているはずなのに。
「……………………」
日向の顔が、俯いた同時に水面に映る。そこから見える自分の顔は、本心を突かれたくせに傷ついた顔をしている。
心に黒い靄がかかる感覚に顔を顰めると、カラカラッと脱衣所から外に繋がる引き戸が開く音が聞こえた。
音につられて顔を上げると、すりガラスの引き戸の前で服を脱く人影が目に入った。
(……? 誰か来たのかな?)
いくらまだ明るいからって、今の季節は夏。しかも本日の最高気温は三八度。外に出るだけで汗が出るほどなら、たとえどんなに早い時間でも一度汗でベタベタになった体を綺麗にしたい気持ちはすごく分かる。
この浴場は誰でも使用できるため、大方朱美か鈴花、そしてメイドの誰かだと思っていた。だが、目の前のすりガラスの引き戸が開いた直後、その考えは吹っ飛んだ。
引き戸を開けた人影――悠護は、湯船に浸かっている日向を見た直後石のように硬直した。それは脱衣所から現れた悠護を見た日向も同じだった。互いに目を見開き、ぽかんと口を開け、相手を見つめ合う二人。
この時、浴場は湯気で遠目でもあまり互いの裸が見れなかったのは単に運がよかった。だがそれでも、浴場で鉢合わせた二人にとってはそれどころではなかった。
しばらく固まった二人は、ようやく事態を飲み込み、一気に顔どころか耳までも真っ赤になる。
「きゃああああああああああああっ!?」
「わわわわわわわわ悪ぃっ!?」
日向は叫びながら無意識に胸元を両腕で交差すると首半分まで湯船に沈め、悠護はピシャンッ! と引き戸が壊れるのではないかと思う音で勢いよく閉めて背中を向けた。
王道なラブコメ展開に、二人は早鐘を打つ心臓とぐるぐると回る脳を回転させながら状況を整理していく。
(なななななななんで悠護が!? いやここは悠護の家だし、自分ン家でお風呂に入るのは普通だよね! っていうか、悠護って意外と鍛えてるんだ……ちょっと男らしかったな――ってぇ! 何考えてるのあたしぃぃぃっ!?)
(な、なんで日向が風呂に!? つか、あいつがいるなんて聞いてねぇぞ! それにしてもあいつ、結構肌白いしスタイルも正直俺好み…………っていやいやいや!? 何言ってんだよ俺は変態かっ!?)
遠目かつ湯気でぼやけてあまり見えなかったが、互いの裸の感想を心の中で言った二人は脳内に刻まれた記憶を消そうと頭を横に振る。
先に冷静さを取り戻した悠護は何度か深呼吸をすると、なるべく平常心を装いながら口を開く。
「よ、よお、なんか久しぶりだな」
「そ、そそそそ、そうだね。ゆ、悠護もこれからお風呂なのっ?」
「あ、ああ、まあな。でもお前が入ってるなら、一回出直すわ。上がったら俺かメイドに言ってくれ」
女は入浴が長いことは男の中では一般常識化しているため、さっさと脱衣所から出ようと籠に入れた服を手に取ろうとする。
「っ、待って!」
「え?」
だがその手は、浴場の日向の声でピタリと止まる。
一方で日向は何故自分が彼を止めたのか分からず、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりの繰り返し。しばらくすると緊張で震える声で言った。
「……その、あたしちょうど悠護と話したいことがあって……。でも家の方だと中々話せなくて……つ、つまり……。…………こっちに、来てもいいよ…………」
「――――」
一体何を言われたのか理解出来なかった。それも言葉の意味を理解してしまったさすがの悠護も言葉を失った。
何故彼女がそう言い出したのか分からない。でも、悠護自身も話したいことがあるのは事実だ。すっと服を取ろうとした手を下し、引き戸の前まで近づくとその一歩手前で止まる。
「…………分かった。なるべくお前の方は見ないようにするから」
「う、うん……。あたし、後ろ向いとくね」
バシャバシャと水を切る音が数秒後に止むと、悠護はゆっくりと引き戸を開ける。
湯気の向こうの湯船には日向が真っ白な背中をこちらに向けており、普段見えないうなじは髪を高く結い上げているおかげではっきりと見える。
彼女の肌のあまりの白さに驚きながらも目を逸らし、ゆっくりと湯船に足をつける。お湯の温度は四〇度と熱すぎないちょうどいい温度だが、今の悠護にとってはそれすらも熱く感じる。
ゆっくりと体を湯船に沈めながら、後ろを振り向き少しずつ日向に近づき、そして互いの背中が触れるか触れない距離で腰を下ろした。
背中を合わせながら体育座りの態勢で湯船に浸かる日向と悠護。一見おかしな恰好かもしれないが、服という遮るものがない肌同士の密着に耐性のない二人にとっては十分恥ずかしくて、自然と顔の赤みが増す。
湯口のお湯を出す音と、湿気で天井にできた水滴が湯船や床に落ちる音が浴場に響く。緊張のせいで話したくても話せないもどかしい気分に、二人はなんとか話を切り出そうか必死に考える。
ピチョンッと天井の水滴が湯船に落ちたと同時に、最初に悠護が口火を切った。
「……さっき、親父と話した」
「そっか……。どんなこと話したの?」
「昔話とか再婚の時の話とか……。なあ、一応確認だけどよ日向は親父となんか話したか?」
「え? どうして?」
「いや、なんとなくお前がそうさせたのかなって思って。違うのか?」
「う、ううん。違わないよ。お昼くらいに徹一さんが部屋に来て、その時に昨日のお茶会で再婚のことを樹と心菜と出した推測を話したよ」
「……そうか」
日向の説明にあの時の父の呟きの意味がすんなりと納得すると、悠護は顔を天井に向けた。
「……俺さ、その時に全然親父のこと知らなかったって思い知らせた。嫌な部分しか見てないクセにデカい口を開いて、ロクに話さないまま一方的に嫌っていた。……今考えると、自分でも呆れるほどのバカさ加減だよな」
「そんなことは……」
「でも今は違う。これからはちゃんと向き合うつもりだ。そうじゃないと、せっかくお前の努力をムダにしちまうからな」
その悠護の言葉に、日向の心にかかった黒い靄が濃さを増した。
思わず叫びたい気持ちを抑えながらぎゅっと胸の上の乗せた右手を握りしめると、悠護の声のトーンが低くなった。
「……でも俺は、そんなお前を守れなかった」
バシャッと水が音を鳴らす。その音につられて後ろを振り向くと、悠護は膝の上で組んだ腕に額を置いた状態で顔を俯かせていた。
日向がいる位置からでは悠護の顔は見れない。だが、後悔を滲ませる声で彼の顔は悲しみで歪んでいるのは分かった。
「俺はお前のことを傷つけたくない、守りたいって思ってる。でも……そんなのは口ばかりで現実じゃお前を守れなかった。挙句の果てに勝手に暴走してお前や樹達に迷惑をかけた。俺は、お前を守りたかったのにっ! 孤独から救い出してくれたお前を、俺は何も出来なかった――!」
「――違うっ!!」
悲痛に叫ぶ悠護の声を遮るように、日向は浴場を反響するほどの大声を上げる。
日向の声に驚いて目を見開いた悠護は後ろを振り向くと、今度は彼女が顔を俯かせながら自身の両手を見つめていた。
「違う、違うよ悠護……あたしは、そんな立派な人間じゃない……」
「日向……?」
「あたしは、自己満足のためだけに無償に手を差し伸べる偽善者――右藤さんの言う通りの人間だよ。そんな、そこまで感謝されたり言われたりするような人間じゃない」
これまでだって『偽善者』だと何度も言われた。それは今まで『自分にできること』を探していた日向にとってはただの雑音に過ぎなかった。
だが『魔法で悲しい目に遭う人を笑顔にする魔導士』というかつての夢を思い出してからは、『偽善者』という言葉は雑音ではなくなった。
自分が『偽善者』だと認識したのは、合宿で『獅子団』のリーダーである
あの時、彼が手を伸ばさなくてもこっちが無理矢理でも手を掴んでいれば救い出せたはずだ。それでも日向が堂島の手を掴めなかったのは、心のどこかで彼を『悪人』だからと切り捨てたからだ。
心がそう切り捨ててしまったから、堂島は死んでしまった。悠護を助ける時は全力だったくせに。
「……本当のあたしは、ひどい人間なんだよ。手を差し伸べる相手を善人と悪人で区別して、中途半端な気持ちだけで助ける女。現に堂島を救わなかったのは、あたしが彼を悪人だからって心のどこかで思ったからだよ」
ポタリ、と湯船に水滴が落ちる。それはただの水滴ではない。水滴の正体が日向の涙だってことは横顔から見えた悠護にはすぐに分かった。
「あたしは、周りに褒められるほどの女じゃない! 相手が悪人なら簡単に切り捨てられるヤツなんだよ!? それこそあの夢を目指してもいい人間じゃ――」
「っ――!」
直後、日向の体は突然反転したかと思ったら温かい何かに抱きしめられた。その何かが悠護だと気づいた時、日向は目玉が零れ落ちそうなほど大きく見開いた。
対して悠護は、自分達が今生まれたままの姿であることを忘れて彼女の体を抱きしめる。肩に日向の涙が落ちる感触を味わいながら、悠護は自分の気持ちを伝えるために口を開く。
「違う、お前は偽善者じゃない。もし本当の偽善者なら堂島が死んだ時に涙なんか流さない。たとえ今までのお前の行動が自己満足だったとしても、それで救われた奴だっているはずだ。現に俺だってそうだ、俺は日向の言葉で救われた」
「でも、でもあたしは……」
「もし他の誰かがお前をまた偽善者だって言っても、俺は何度だって言った。お前は偽善者じゃない、お前は自分の夢を目指してもいい奴なんだって!」
「悠護……」
「だから……泣くなよ。言ったろ? 俺はお前のパートナーだって。パートナーなら、相棒の夢を応援しなくてどうすんだよ」
パートナー。それは悠護にとって自分の気持ちを誤魔化せる魔法の言葉。
彼自身の気持ちは、その魔法の言葉を使わなければ誤魔化せなかった。
気づいてしまった。いや、気づかないフリをしていた。いつか自分の取り巻く環境のせいで日向を傷つけないように。でも――もうこれ以上誤魔化せない。ウソをつけない。
(――ああ、そうか。俺は日向のことが好きなんだ。明るくて、優しくて、何事にも一生懸命で、そして自分の行いに涙を流して後悔するコイツが――パートナーとしてではなく、一人の女として)
最初は居心地の良いパートナーだった。でも時間が経つにつれて笑顔が見たい、名前を呼んで欲しいと欲が叫んだ。でも自分の問題には巻き込みたくなくて、ずっとその欲の声を無視した。
それももう無意味だ。黒宮悠護は、豊崎日向のことを愛している。その事実は悠護の中で電気が通るように伝わってくる。
今この時、彼女の体をずっと抱きしめていたい。それこそ、この先の未来でも――。
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………悠護?」
何故か自分を抱きしめたままピタリと止まったパートナーに、日向はそっと声をかける。
だがいつもなら名前を呼ぶだけで反応するのに、悠護は無反応のままだ。さすがに心配になってきたのか、日向はそっと悠護の肩に触れる。
「ねえ悠護、一体どうし――」
日向の手が悠護の肩に触れた直後、彼の体はぐらりと横に傾く。
バッシャーンッ! と大きな水音と水柱と共に、悠護は湯船の中に倒れた。
「悠護!? 悠護――ッ!?」
日向は知らなかった。悠護は長湯が苦手で一時間未満ですぐのぼせることに。
そのせいで顔を真っ赤にして目を回しながら湯船に浮く彼を見て、日向は顔を真っ青にしながら叫んだ。
☆★☆★☆
「悠護、大丈夫?」
「……ああ、なんとかな……」
「あ、無理に起きなくていいよ」
食堂の厨房を借りて簡単なものを作り、悠護の部屋に戻った日向はベッドから起き上がろうとする部屋の主に制止をかける。
悠護は額の上に乗せていた濡らしタオルをどかして上半身を起こそうとするが、日向の制止を聞いて再び上半身をベッドに沈める。
あの後、なんとか悠護を湯船から出した日向は、脱衣所にある内線を使って高橋とメイド二名を呼んだ。
彼らはすぐさま駆けつけると、手慣れた手つきで悠護を介抱しそのまま部屋に運んでくれた。高橋によって着替えさせられ自室のベッドに寝かされた悠護が目を覚ましたのは、午後八時を回った頃だった。
湯あたりに加えて昨日の魔力の暴走による影響で体のバランスが崩れているらしく、今回早くのぼせてしまったのはそのせいであると言っていた。
だがそのことを知らなかった日向はひどく落ち込んでおり、罪滅ぼしとして悠護の看病を買って出たのだ。
「それよりお腹空いたでしょ? 茶碗蒸し作ったから食べてよ」
そう言って日向は手に持つお盆の上に乗っているマグカップを見せる。マグカップの中は薄黄色をした表面はつややかで、出汁のいい匂いが鼻腔をくすぐる。
湯あたりのせいで食欲のない悠護のために作ったのは、豊崎家特製の時短茶碗蒸し。日向の家では即席お吸い物を使って作るのだが、悠護の家には作り置きのカツオと昆布の合わせ出汁があったため今回はそれを使わせてもらった。
出汁と卵をマグカップに入れて混ぜ、それを電子レンジで五分温めるだけ簡単なものだが、よく風邪を引いた時や食欲がない時に作ってくれた思い出深いものだ。
その匂いを嗅いで食欲が出たのか、悠護はマグカップとスプーンを手にする。スプーンを差し入れ掬うとそのまま口の中に入れる。
茶碗蒸し特有のなめらかな舌触りと、玉子と出汁が口の中に広がって自然と胃の中へ入っていく。
優しく、どこか懐かしい味に思わず口元が緩んだ。
「……これ、ウマいな。今度作り方教えてくれよ」
「それくらいならいつでもいいよ。もう大丈夫みたいだし、そろそろ部屋に戻るね。明日から大変らしいし」
今日はゆっくりとしていたが、明日からはしばらく黒宮家は忙しくなる。
右藤の事件の後始末はもちろん、七月三一日には悠護の誕生パーティーが開かれる。そのパーティーで次期当主になることが決定したことの報告やこれからの目標などを大勢の前でスピーチしなくてはならない。
明日から始まる準備に参加できない自分はそろそろお暇しなくてはならない。そう思って日向は部屋を出ようとするが、目の前にいる悠護が右手首を掴んだせいで動けなくなる。
「行くな」
「……悠護?」
「行くなよ。俺はまだ言いたいことがあるんだ」
今まで見たことのない真摯な眼差しで見つめられ、日向は無意識に頬を紅潮させる。
見慣れた真紅の瞳が自分の姿を映していると思うと鼓動が少しずつ早くなる。
(何、これ……?)
緊張と似た、どう言えばいいのか分からない感情に戸惑う日向。顔を俯かせ、目を逸らす日向を見て、悠護は掴んでいた彼女の右手首をぐいっと引っ張る。
「うわっ!?」
突然の行動だったために咄嗟に動けなかった日向の体は、そのまま悠護の方へ倒れ込むとボスンッとベッドの上で跳ねた。
ギシギシとスプリングが鳴るのを聞きながら、悠護は自分の隣に倒れ込んだ日向の腰に腕を回し、もう片方の腕には彼女の頭を乗せて腕枕にする。
あまりにも大胆な行動と至近距離に耳まで真っ赤にさせた日向は、急いでどけようとするがホールドされた腕が逃がしてくれなかった。
「なんで逃げるんだよ」
「だ、だってっ、近い……!」
「そうか? いつもこんなだったろ?」
「そ、そうなんだけどっ」
「それよりほら、ちゃんと俺の話聞けよ。いいな?」
「っ……」
耳朶に唇が触れるか触れない距離で囁かれ、口から出た吐息がくすぐったくて首をすくめてしまう。
初々しいその反応に悠護は愛おしげに見つめながら、腰をホールドしていた腕を上に移動させるとそのまま日向の頭を優しく撫でる。
「風呂でも言ったけど、俺はお前の言った偽善のおかげで救われた。それは嘘偽りない事実だ」
「悠護にとってはそれでいいかもしれないけど、あたしは……」
「まあ落ち着け、ちゃんと最後まで聞けって。……確かに偽善ってマイナスイメージを抱きやすいけどよ、そもそも完全な善人なんていねーんじゃね?」
「え?」
「だってそうだろ? もし純度一〇〇パーセントの善人がいるとしたら、それこそ小説や漫画で出てくる『完全無欠のヒーロー』って奴だろ。でも俺達がいるのは理不尽溢れる現実だ、理想通りに物事が運ぶわけじゃない」
悠護は知っている。この世界は自分が望む結果を起こしてくれるほど優しくないことを。
たとえ周りがどんな善人でも悪人でも、サイコロを振って目が変わるように何かをきっかけにその人個人の性質が変わる。
そんな風に人が変わるところ嫌というほど見てきた悠護にとって、たとえ偽善だろうと性質どころか本質も変わらない人間の方が好ましく思える。
「日向だって普通の女だ、どれが良くてどれが悪いのかを区別することはある。それにできるクセにやらない偽善より出来なくてもやる偽善の方がまだマシだしだと思うぜ」
「……それは、そうかもしれないけど……」
「それによ、堂島は最期にお前になんて言ったんだ?」
静かに優しい声で問われ、日向はあの時を思い出す。堂島が最期に向けてくれた、あのどこか子供っぽいけど穏やかな顔を。
そして、遺言として伝えてくれた言葉を。
「――『……その手は、自分の大事な奴のために伸ばせ。俺は……最期に俺を助けてくれようとするお人よしがいるってことが分かっただけで、充分だ。――じゃあな、幸せになれよ』って、言ってくれた……」
「だろ? なら堂島も最期はお前に救われたんだよ。たとえその命が失っても、心が救われただけでもあいつは幸せだったんだ。――だから、もうこれ以上自分を責めるな。日向はこれからも日向らしくいてくれ、な?」
優しく囁かれながら頭を撫でられ、日向の目の縁に自然と涙が溢れ零れ出る。
醜いと思っていた自分の汚い部分をさらけ出したのに、目の前にいる少年はそれを肯定してくれた。その事実が今は泣きたいほど嬉しかった。
「ふぅっ……ひっく……」
「ああもう、泣くなよ。これじゃまるで俺がお前を泣かせたみたいじゃねぇか」
「ゔぅ~、だっでぇえ~」
「ったく、しょうがねーな。泣きやむまでこうしててやるから」
そう言って再び頭を撫でられる。自分の頭を撫でるその手は優しくて、温かい。
何度も往復するように撫でられていく内に、自然と眠気が誘っていく。
(まだ、ダメなのに……あたし、悠護にお礼を言ってない……。それに……今度の誕生日、プレゼント……何が、いいのか……聞き……たい、のに……)
それを最後に、日向の意識は優しい眠りへと誘われた。
すーすーと小さく規則正しい寝息が聞こえ、悠護は顔を下にずらした。
腕の中にいる少女は目元に涙を浮かべながらもぐっすりと眠っており、その子供のようにあどけない寝顔を見てくすりと笑う。
「泣きながら寝るとかガキかよ。……まあそういうところも可愛いけどな」
起こさないように目元の涙を指で拭う。そっとブランケットをかけてやり、その寝顔をじっと見る。
白い繭のような瞼に長い睫毛、鼻筋はすっとしていて柔らかな唇はほんのり桜色に色づいている。本人は自分の顔や体型を平凡だと言ったが、これまで見た目麗しいかつ七面倒臭い令嬢を相手にしてきた悠護の目から見ても、日向は心菜と同じくらいどの令嬢にも引けを取らないほど美しい。
(……恋って不思議だな。自覚するだけでこうも見方が変わるなんてな)
今まで恋なんて経験したことのない悠護にとって、今の変化は劇的と言える。
今はまだ想いを伝えるのはできないけれど、いつか伝えたい。自分の嘘偽りない気持ちを。
悠護は軽く上半身を起こし、顔を日向の顔へと近づける。そのまま自身の唇を彼女の額へとそっと落とした。
これは昔、母が良い夢を見られるようにとしてくれたおまじないだ。それを自分が彼女にやるなんて変な気持ちになるが、今だけは少しでも多く日向に触れたかった。
小さなリップ音と共に唇を離すと、起こさないように慎重に体を自身の方へ寄せる。
「おやすみ、日向」
――良い夢を。
心の中でそう呟き、悠護も優しい眠りへ落ちていった。
☆★☆★☆
「――それでは手筈通りにメリア・バードは回復次第本国へ帰国させます。今回の不祥事の原因であるレッドスターの解体もよろしくお願いします。では」
ガチャッと受話器を固定電話本体へ置くと、徹一は静かに深い息を吐いた。
東京都千代田区霞ヶ関にある国際魔導士連盟日本支部。六〇階建ての高層建築物の五八階にある支部長室で、徹一は昼間から仕事に追われていた。
右藤の事件はイギリス本部だけでなく北アメリカ支部まで届き、彼らはメリア・バードの身柄を早急に本国に返すよう通達してきた。だがこの事件にはレッドスターも関係しているため、身柄を返すのを条件にその研究所の解体も要求した。
北アメリカ支部はさすがにレッドスターの不祥事をもみ消すことはできないと思っていたのか、その要求はすんなりと通った。
また二〇三条約で禁止されていなかったキメラ製造も、今回の件をきっかけに禁止する方針だとイギリス本部から通達があった。
徹一自身も魔導士を素体にすることを厭わないキメラ製造の禁止は賛成で、他国からも異論の声は上がるだろうがキメラ製造禁止が決まるのはそう遠くないだろう。
「……さて」
徹一はワイヤレスマウスを操作し、メールを開く。
宛先に全七色家の本家および分家宛のメールアドレスを入れ、本文に内容を打ち込んだ。
『本日を以って黒宮家第一婚約者候補・豊崎日向を正式な黒宮家婚約者に決定する。
尚、このメールの内容は他者には他言無用とする。
第47代目黒宮家当主 黒宮徹一』
実に簡素なメールを送ると、徹一はリクライニングチェアの背もたれにもたれかかる。
今回のことで日向は徹一に信用を獲得し、その上今までの家庭環境を変えてくれた。だが無魔法という強力な魔法を持つ彼女は、一般の魔導士候補生扱いになったとしても狙ってくる輩が多い。
この通知は、いわば徹一からの
(まだ分からないが悠護は日向くんのことを好いていた。それが友としてか、女としてかは分からないが……彼女を守る手段の一つとして有効的に使うだろ)
まだはっきりとしていないが、少なくとも自分達とは違う幸せな道を歩んで欲しいと心か強く思う。
徹一はスーツの内ポケットから写真を取り出す。暁人、晴、そして自分が映った大切な思い出を切り取ったそれを見つめながら、静かに微笑んだ。
「どうかお前達も、天国で二人の幸せを願ってくれ」
その小さな願いに答えるかのように、写真の中の暁人と晴の口元が微笑んだような気がした。
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