第44話 不器用な愛はわだかまりを解かす
雀の鳴き声が聞こえてくる。ふるりと瞼を震わせながら、日向はそっと目を開く。
赤いビロード生地の天井が視界に入り、顔を右へ動かす。目の前には黒宮家から宛がわれた日向の部屋があり、眠気眼のままそれをぼーっと見つめる。
しばらくするとのっそりとした動きで上半身を起こし、枕元にあったスマホを手に取り電源ボダンを押す。スマホの画面の時刻には『12:38』、日付には『7月26日 日曜日』と表示されている。
(……二六日……?)
スマホの画面を見て、日向は首を傾げる。
おかしい、今日は二五日のはずだ。そんなに早く一日が経つなどありえない。壊れたのか? と、思考があまり働いていない頭でそう考えたが、机の上に置かれた綺麗に畳まれたドレスを見つける。
ベッドから降りて机の前まで近づく。机の上に置かれたドレスは、朱美主催のお茶会で切る予定のドレス。だが左肩部分には赤黒い染みがついている。
思わず手に取って鼻を近づけると、鉄臭い臭いがする。その臭いを引き金に、日向の脳裏に昨日の出来事が一気に思い出す。
PMCからの襲撃。カラス爆弾。緑色の羽を持つ異形。右藤英明。そして、暴走した悠護の姿。
昨日の出来事がまるで濁流のように押し寄せ、一気に思い出したせいでぐらりと足元が覚束なくなる。
慌てて机に手を置いて態勢を整えると、両手を机の上に置いて深呼吸する。持っていたドレスは手から床に滑り落ちたが今はどうでもよかった。
「そうだ……あたし、悠護を助けるために心菜達と一緒に右藤さんを追ったんだ。で、そのあとメリアさんを無魔法で元の姿に戻して……それから……」
そこから先の記憶を思い出そうと、靄がかかったかのように中々思い出せない。
ただ覚えているのは、右藤の心臓部分で輝いていたあの宝玉のことくらいだ。
(そういえばアレ、なんだったんだろう……)
世界中にある宝石の中で一番美しい輝きをした宝玉。日向が撃った魔力弾によって粉々に砕け散ったが、あの輝きを見て何故だか壊してはいけないものを壊してしまった罪悪感に襲われる。
罪悪感が黒い靄に襲われるのを感じながら、日向はそれを払うように首を横に振る。
(……ううん、今はそれどころじゃない。悠護の様子を見に行かないと)
メイドが着せてくれただろうパステルピンクの花柄が可愛らしい白のパジャマワンピースの上からストールをかけて部屋を出ようとした途端、ドアからノック音が三回聞こえてきた。
「……どうぞ」
もしかしたら悠護が来たかもしれないと思い、微かに緊張しながらも入室許可を出す。
ギィッと木材特有の軋み音と共にドアが開かれ、その先に立つ人物に目を見開いた。
短い黒髪と鋭い目つき、身に包むのは堅苦しいスーツ。大切なパートナーを連想させる真紅色の瞳は、目の前の日向を映していた。
「徹一、さん……」
「すまない、少し時間をくれないか。話がしたい」
初めて会った時と同じ真剣な面立ちをした徹一を見て、日向は静かに頷くと彼は静かに部屋に入る。
そのまま椅子に腰かけると、おもむろに頭を下げた。
「今回の件、私の力不足のせいで多大なる迷惑をかけた。すまない」
「い、いえ、大丈夫です。首を突っ込んだのはあたしの勝手ですし……」
まさか開口一番に謝罪されるとは思わず、日向は慌てながら首を振る。
「それで……あの、右藤さんはどうなったんですか……?」
「ああ、首謀者の墨守は自宅で発見したがすでに死亡していた。恐らく彼らに手を貸した者が口封じのために殺したと見て妥当だろう。実行犯である右藤は君の兄によって捕縛されたようだ」
「陽兄が?」
「そうだ。どうやら妹が心配で裏でコソコソと調べていたらしい。まあ、そのおかげで迅速に収束したのだから文句は言うつもりはない」
前々から陽の自分に対する接し方が『シスコン』と呼ばれてもおかしくないほど過剰になっているのは分かっていたが、まさかここまでとは思わなかったせいで頭痛を感じる。
眉をひそめながらこめかみを押さえる日向に、徹一はフッと小さく笑う。
「その仕草は暁人に似ているな、やはり親子だな」
「……お父さんに?」
突然出た父の話に日向が喰いつくと、徹一はスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出し、それを日向に渡す。
角が擦れて古ぼけたそれを受け取ると、写真に写っている人物達を見て目を見開いた。
どこかのバーを背景にした写真に写っていたのは、忘れもしない父と母。そしてその間に挟むようにぎこちない笑みを浮かべているのは、目の前にいる男性だ。
「昔、晴が『仲良くなって一ヶ月記念日』などと言って無理矢理撮らされたものだ。今となってはいい思い出だがな」
「……そうなんですか、お母さんならやりそうですね」
意外と押しが強い母を思い出し、くすくすと笑う。日向の笑みを見ながら、徹一は懐かしさと哀愁を滲ました瞳で語る。
「二人は、私にとっては地位とは無関係な友人だった。……恐らく、私は二人の傍がとても居心地がよかったのだろう。生まれた時から黒宮家当主として育てられ、私個人という意思がほぼゼロに等しくなった私にとっては、二人といる時間は全て新鮮で眩しいものに見えた」
「…………」
「私の父、つまり悠護の祖父にあたる前当主は、個の感情・人格よりもこの世界の秩序を優先する
そう言ったと徹一は日向の手にある写真を手に取ると、そのままスーツの内ポケットにしまう。
「……けれど、やはり私には無理だった。千咲が死に、朱美と再婚してからは悠護とどう接すればいいか昔と比べて分からなくなった。それを聞いてくれる友人もいなくなった……だからこそ、こんな家庭環境になったんだろうな」
自嘲気味に笑う徹一を見て、日向は思わずその姿を悠護と重ねる。
今の徹一の顔が魔導士嫌いのことを告白した時の悠護と同じ見え、胸が締めつけられる痛みが日向を襲う。
ぎゅっと服の上から胸元を握りしめてその痛みを和らげると、日向は静かに息を吸う。
「……確かに、そうかもしれません。でも、悠護はもちろん朱美さんや鈴花ちゃんも変わろうと頑張っています。なら、父親であると同時に黒宮家当主であるあなたが一番変わらなければならないと思います。
もうこの際、父親とか黒宮家当主とかそういうのは抜きにして、一回ちゃんと話し合った方がいいですよ。そんな風にウジウジ悩み続けるよりはマシでしょう」
「フッ……確かにな」
意外と素直に日向の言葉を聞いた徹一は小さく笑うが、再び気難しい顔をする。
「……だが、話し合うにしても私は悠護が何故朱美との再婚を了承していないと言ったのか未だ分からないんだ。それをどうにかしなければ……」
「あー……それなんですけど――」
再婚の話が出ると日向は静かに挙手し、お茶会で導き出した推測を徹一に話した。
その時見せた徹一の顔は、『鳩が豆鉄砲を食ったよう』という表現が一番ピッタリなものだった。
☆★☆★☆
何かに舐められている。心地よい眠りを妨げる感触を感じ、悠護は気だるく瞼を開ける。
まず一番に視界に入ったのは、首に金色に輝くプレートがついた赤い首輪をした一匹の黒猫。それなりに成長した黒猫は、目覚めた悠護を見て「にゃあ」と鳴く。
黒猫の名前は『クク』。悠護が中学二年の九月九日に拾った猫で、以来この家で面倒を見ている。聖天学園に行ってからはメイドに飼育を頼んでいるが、どうやら二年前から悠護がしている飼育方法をちゃんと守っているらしい。
悠護は自分の頬にすり寄ってくるククを見て口元を緩ませると、優しくその頭を撫でる。そのまま上半身を起こすとククは悠護の足の上に乗っかり、「うみゃ~ん」と甘えた声を出す。
昔から猫好きな悠護は可愛らしい反応をするククを見て、再び頭を撫でる。
「……おはよう、クク」
頭を撫でられたククは嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らすと、そのまま軽い足取りでベッドから降りる。それに合わせて悠護もベッドから降りると、机の上に置いてあるスマホの日付と時間を確認する。
時間はすでに午後一時半を過ぎており、それを見ながら髪を掻いた。
(あれからもう一日も経ってんのか……。結局、俺は場を乱しただけで何もできなかったな……)
日向が傷つけられたことで目の前が真っ赤になるほど正気を忘れ、右藤を殺すこと以外に考えられずに暴れ、そして本当なら助けるべき少女に助けられた。
我ながら情けなさ過ぎて乾いた笑いが出てしまう。ふと、悠護は自身の頬にそっと指先に触れる。
眠りにつく前、日向の唇は兜越しだったが確かに自分の額に触れていた。
冷たい金属を伝って感じた柔らかい感触とぬくもりを思い出してしまい、一気に血が逆流したかのように熱くなり、そのまま頭を抱えながら蹲った。
(そ、そういえば俺、あいつにキッキキキキスされたんだよな!? 助けようとしたのに逆に助けられただけでも情けねぇのに、その上キスまで……ッ!!)
情けなさよりも羞恥が上回る。顔の熱が全然引かない。だがたとえ額でも彼女にキスされたことは本人が驚いてしまうほど嬉しくなる。
そもそも無魔法を発動させるくらいなら、手を握った時にでもできたはずだ。何故あの方法を取ったのか分からないが、少なくとも日向が自分に対して特別な感情を抱いていると思えば嫌な気はしない。
(なんだよコレ……どうして俺、あいつのことを考えるとこんなにドキドキするんだよ……?)
――声が聞きたい。顔が見たい。笑顔を見せて欲しい。名前を呼んで欲しい。
体中がそんな欲求で駆け巡る。日向の顔が脳裏に浮かぶたびに心臓が早鐘を打つ。
今まで味わったことのない感覚に思考がぐるぐると回る。自分でも制御できない感情に戸惑いを隠せない。
(…………いや、それよりまずは日向に会うのが先だろ。あいつに言わなきゃいけねぇことあるだろ)
この感情をどうにかする前にやるべきことを思い出し、まだ赤らむ顔を誤魔化すのと気合を入れる意味を込めて両手で頬を叩く。
「うっし」と言いながら立ち上がった途端、ドアが三回ノックされた。
「? 誰だ?」
「私だ、話がある」
その声を聞いた瞬間、悠護の体は硬直する。
ドアから聞こえてきたくぐもった男の声、それはまさしく父のもの。何故この時にやって来るのか理解出来なかったが、今の悠護には徹一と顔を合わせる勇気がなかった。
指先が冷たくなり、喉が急激に乾いていくのを感じながら、なんとか声を振り絞って言葉を出そうとしたが、口を閉じる。
(…………まただ、また俺は逃げようとしてる)
自分の悪い癖だと思う。本当なら真っ先に話し合うべき相手と向き合うことを恐れ、逃げ腰になってしまう。特に父親の前だとその逃げ腰が顕著になり、色々と理由をつけてはなるべく話をしないよう避けていた。
だが、今のままではダメだ。今こそこんな情けなく、逃げ腰ばかりな自分を変えるべきだ。
『――大丈夫、悠護ならできるよ。自信持って』
その時、後ろから日向の声が聞こえてきた。思わず振り返るがそこには誰もいない。
何故この時にそんな幻聴が聴こえたのか分からないが、少なくとも今の悠護にとってはそれが背中を押すきっかけになった。
深く深呼吸をし、心を落ち着かせる。
そしてゆっくりとドアに近づき、ドアノブを捻る。ドアを少しだけ開けると徹一が少しだけ驚いたような顔をしていた。恐らく出るつもりはないと思っていたのだろうが、少し前までそうしようとした手前何も言えない。
「……入れよ」
「……ああ」
素っ気ない返事だったが、徹一にはそれだけで十分だった。ゆっくりと部屋に入ると「みゃ~ん」とククが鳴きながら徹一の足元にじゃれついてきた。拾った時から人懐っこい性格をしているが、まさか巌のような父にも甘えるのは予想外だ。
徹一は微かに目元を緩ませるとその場に座り込み、ククの頭を撫でる。
「中学の時にお前が拾ってきた猫か。随分と大きくなったな」
「そ、そうだな……。親父って猫好きなのか?」
「ああ。だが猫の方があまり寄って来なくてな、いつも猫とじゃれあう千咲を何度羨ましがったことか」
「親父が、母さんに……?」
初めて聞く両親の昔話に悠護が目を見開くと、徹一は軽く苦笑しながら立ち上がる。
「意外か?」
「あ、ああ……まあな……」
「私とて好きなものくらいある。お前が思っているほど仕事人間なわけじゃない」
「でも……あんたは、滅多に会ってくれなかったじゃねぇか……。俺にも、母さんにも」
思わず責めるような口調で言ったと、徹一は瞼を半分伏せた。
「……そうだな、それは事実だ。いまさら弁解するつもりはない。だが、少しだけ話を聞いてはくれないか? それくらいなら許されてもいいはずだ」
「まあ、別にいいけど……」
「そうか」
悠護が素っ気なく返事を返すと、徹一は小さく苦笑しながらベッドに腰かける。
「お前も知っての通り、千咲は生まれつき体が弱かった。いくら第一婚約者候補でもあいつが無事子供を産めるかどうかは分からない、そう考えた父は私が学園を卒業すると同時に別の婚約者候補を伴侶に当てようとした。……だが、それだと学園であらゆる仕打ちを受け続けた千咲の努力が報われない。
何より私自身がそうしたくなかった……、だから私は父に頼み込んだ。『二〇歳までには必ず日本支部長なってみせます。その代わり、千咲との結婚を認めて下さい』、と」
「………………」
初めて聞く父の過去に、悠護は何も言ったことができない。
今まで父を冷静沈着で、合理的で、家庭を顧みない男だと思っていた。だがそれは、大きな思い違いだった。
――黒宮徹一という男は、本当はこんなにも深い愛を持つ不器用な人だった。
「父がその約束を呑んでくれてなんとか千咲と結婚できたが……私は卒業と同時に父の元で多くの仕事をすることになった。中には機密保持で言えないものもあり、そのせいで千咲とはまともな新婚生活を送ることは出来なかった。
……本当は寂しかったくせに弱音もわがままも一つも吐かなかった千咲は、なんとか無事にお前を産んだ。それからは体調を崩すことが多くなったが、それでも千咲は私のこともお前のことも愛してくれた。
……なのに、私は何もできなかった。彼女がくれた同等の愛を返すことも、お前とどう会話を交わすことも。仕事を理由にお前達を蔑ろにした結果、千咲の体調は悪化した。回復の見込みがないまま亡くなった後、私は千咲の遺言通りに朱美と再婚した」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんでそこで義母さんとの再婚が遺言と繋がるんだよ」
聞き捨てならない単語に反応し、慌てて話にストップ入れる悠護。
目を見開きながら自身を見る息子の姿に、徹一は右手を額に当てながら顔を俯かせる。
「……その反応……なるほど、彼女の推測通りだったな……。だが、まさかこんな単純なことに気づかないのはあまりにも……」
「お、親父……?」
突然ブツブツと何か呟き始めた父親に訝しげに眉を顰めると、やがて静かに息を吐くと俯いていた顔を勢いよくあげる。
いつも険しい表情を浮かべていたその顔には確固たる決意を感じ、思わず息を呑みながら言葉の続きを待った。
「……千咲が他界する数日前、私はあいつから遺言としてあることを頼まれた。『もし再婚するつもりなら、私の親友の朱美と再婚して欲しい。彼女も徹一くんのこともゆうくんのことも大切してくれるから』と」
「なっ……」
「事実、朱美は千咲の死後はしばらく家の面倒を見てくれた。葬式のあとも多忙だった私を温かく迎えてくれた彼女に、私は朱美も千咲と同じくらい想ってしまった。さすがにお前の意思を無視したままではできないと思って、再婚する数日前に話したはずなんだが……」
「……ちょっと待て、今思い出すから」
手の平に『STOP』と書かれてもおかしくない右手を前に突き出し、左手をこめかみに当てながら悠護は必死に記憶を掘り返す。
そもそも父の過去話を聞くだけでもお腹いっぱいなのに、さらに再婚前にそんな会話をしたことも初めて聞いたのだ。なんとかぐるぐると回る頭をどうにか落ち着かせながら、思い出そうとする。
(……いつだ? いつ親父はそんな話を俺にしたんだ?)
記憶の中にある幼い自分と父が話す場面など、それこそ手の指で数えられるほどだ。それ以外だと母との優しい思い出とこれまで遭った辛く惨めな日々だけしかない。
さっきの過去話が全部嘘という可能性も考えたが、徹一の性格上それはありえないと断言できる。必死に頭を抱え、ついには唸り出す悠護はふと徹一の顔を見た。
今の徹一の顔はまるで迷子になった子供のような不安げで、でも口は小さく微笑んでいて。今まで見てきた顔の中では初めて見る――
(……あれ? この顔、どこかで見たことが――)
その時、窓の外からポツポツと水滴がガラスに当たる音がした。
音をした方を見ると、清々しい青空が鼠色の雲に覆われ、そこから透明な水が降り出し地面に染み込んでいく。
ザーザーと激しい雨音を出す通り雨を、悠護はその光景から何故か目が離せなかった。
(……そうだ。確かあの顔を見たのは、こんな通り雨が降った日だった)
その言葉を引き金に、悠護の記憶の扉の錠が外れた。
――その日は、激しい通り雨が降っていた。
悠護は部屋の片隅で、毛布を頭からすっぽりと包まりながら蹲っていた。何か悲しいことが起こるたびにそうしていたが、毎回母が毛布を取っ払って笑顔を向けて来てくれた。
だが、その母はもう二度と会えない。三日前、花に囲まれた白い棺の中で眠る美しい人がすでに骨となり、今は仏間に置かれた後飾り祭壇に花やお供え物と一緒に安置している。
母の部屋はすでにメイドがチリ一つ残らず綺麗に掃除してしまったせいで残り香もなく、まるで『母の部屋』というジオラマを見ているかのようだった。
母の面影も匂いもなくなった場所にいたくなくて、ずっとその場で蹲り続けた。やがて耐え切れずうとうとと舟を漕ぎはじめた悠護の耳にドアが開く音が聞こえてきた。
その音に反応してゆっくりと顔を上げる。視界が毛布で半分覆われても分かる黒のズボンと革靴を見て、父が来たのだと理解した。
(……父さんが来るなんて珍しいな)
いつもは自分から執務室へ来るせいで、徹一が自室に来ることは滅多にない。
すると徹一は悠護の目の前に跪き、床に皮が剥かれたリンゴを乗せた皿を置くと静かに口を開く。
「……悠護。私は再婚することにした」
「……再婚……?」
「千咲以外の女性と結婚することだ。相手は朱美……母さんの友人だ。お前も知っているだろ?」
朱美の名を聞くと、悠護が思い出したのは母とは違う優しさを持った女性。
いつも会うたびに自分に頬擦りしてきた人の名前だと思い出すと、肯定の意味で小さく頷いた。
「彼女は、どうやら学生時代から私に好意を持っていたらしい。その話も千咲から初めて聞かされて驚いたが……正直、私は彼女のことも好ましいと思っている」
「…………それって、父さんはもう母さんのこと好きじゃないってこと……?」
「違う。私は今も千咲を愛している。だが、それと同じくらいに朱美のことも愛してしまった。自分勝手だと分かっている、だが母親は必要だ。……少なくとも今のお前にとっても」
そう言って徹一はリンゴと一緒に皿の上に置いてあったフォークを手にすると、それでリンゴの一つに刺した。
刺したリンゴはまだ時期じゃないため白味が強い黄色をしているが、リンゴ特有の瑞々しさは目視だけでも分かった。
「私は千咲のことも、朱美のことも愛している。もしお前が許してくれるなら、どうか朱美と再婚することを許可してくれ。お前に何度も冷たくした私の言葉では信用できないかもしれないが……私は、お前のことも愛している」
「……ほんと?」
「当然だ。お前は千咲が頑張って産んでくれた、私の宝物なんだ」
真摯に伝えてくる父の言葉に、悠護はその日初めて徹一の顔を見た。
口元を小さく微笑んでいるのに、まるで迷子になった子供のように不安げな顔。初めて見る父とフォークに刺されたリンゴを交互に見つめて、悠護はゆっくりとフォークを手に取りリンゴに齧りつく。
久しぶりに食べたリンゴは瑞々しくも酸っぱいがほのかに甘い。シャクシャクと音を出しながら咀嚼し嚥下すると、ゆっくりと口を開いた。
「……いいよ」
「本当か?」
「うん、父さんがそこまで言うなら」
思わず素っ気ない返事で言ってしまったが、徹一にはそれだけで十分だった。
受け取ったフォークに刺したリンゴをリスのように齧る息子を見ながら、徹一は毛布越しから悠護の頭を撫でた。
「――ありがとう、悠護」
そこで、記憶が終わる。
ポロポロと静かに涙を流す悠護を見て、徹一は息を呑む。
「――思い、出した……」
「悠護……?」
「俺、確かに言った……いいよって……、なのにそんなことすっかり忘れて、俺は……!」
ずっと裏切られたかと思っていた。父は母のことも自分のことも愛していなかったのだと。
だが、それはとんだ大間違いだ。父は、ちゃんと自分も母も愛していた。だたそれを口に出すことも態度で示すことも出来なかっただけだ。まさか父がこんなにも不器用な人だなんて思わなかった。
(でもそうだ。親父はちゃんと、俺のことも母さんのことも想っていた)
母の体調がいい日でもなるべく部屋に出るなと何度も言い聞かせたり、自分が熱を出して寝込んでいる時は夜遅くに来てくれた。出勤する時に首に巻いたマフラーは母が無茶をしない範囲で編んだものだったし、執務室に追い返されて悠護が摘んだ花をメイドに処分するよう言っていたのに、翌日にはその花が執務室の机の上の花瓶に挿してあった。
あまりにも分かりにくい愛情表現だったが、それでも愛してくれた事実は変わらない。
(俺はなんて大バカ野郎なんだ。親父の嫌なところしか見てなくて、大切なことは見てなかったな)
あまりにも情けなく涙が中々止まらない。何度も服の裾で目元を擦る悠護を止めたのは、他でもない目の前にいる父。
無骨な太い指が優しく目元の涙を掬い取ると、小さく呆れたように笑う。
「お前のその涙もろいところは千咲に似たな。あいつがマリッジブルーになった時は、毎日のように泣いていて私も困り果てたものだ」
「……そうかよ……」
「ああ。だが、そんなところも私は今も愛している」
愛おしげに紡がれる言葉は徹一の偽りない本心。ぎゅっと優しく抱きしめられ、思わず涙が止まる。
こうして抱きしめられたのは、確か初めて参加したパーティーで迷子になった時だ。どこに行っても知らない人ばかりで不安で泣きかけた自分を見つけたのは父だった。
その時の徹一は整った髪を乱し、顔に汗を浮かべながら必死の形相をしていた。徹一を見つけた時は安堵で涙が出てその場で大泣きしたが、父はほっとした顔で抱きしめてくれた。
過去を思い出したことを皮切りに次々と思い出が溢れ出てくる。ゆっくりと頭を撫でる感触に悠護は我に返った。
「……悠護、今まですまなかった。いまさら遅いし許されないかもしれない。だが、私は……お前ともう一度『家族』をやり直したい。輸すしてくれるなら、どうか返事をしてくれ」
「……っ、そんなのっ……」
懇意するかのように問いかけられ、再び涙が零れ出る。
本当に自分の父はなんて不器用な男なのか。答えなど、とっくに出ている。
「……いいに決まってんだろ、それくらい分かれよアホ親父……ッ!」
「……そうか」
アホ呼ばわりしたのに小さく笑って返事を返す徹一。優しさに満ちた父の声を聞きながら、悠護は彼の肩口に顔を埋めながら声を我慢しながら嗚咽を漏らす。
窓の外は雲が風に流れて行き、その間から金色に輝く日差しが草露と共に地上を照らしていた。
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