第43話 幕引き

「ちいぃっ!」


 自身の身長より数倍ある岩の拳を回避する。すかさず受け身を取り、樹は分かりやすい舌打ちをする。

 ゴレムの打ちつけた拳は地面にクレーターを作り、ゆっくりと拳が持ち上げられる。ゴレムが体勢を元に戻す前にリリウムがその腕を切り落とした。


 岩の腕は重力に従って地面に落ちるが、近くに散らばる石と共に震えると同時に逆再生したビデオのように腕が元の位置へ戻って行く。

 腕が切られた跡さえも消えると、ゴレムは切れた腕の手を閉じたり開いたりしている。それを見てアリスはうんざりした顔になる。


「あーもー! あれ結構メンドくさいー!」

「うっせぇな、いいから攻撃しろ! 少しでもあいつの動きを止めとけッ!」

「分かってるよ! 『停止スプシスト』!」


 肺一杯に息を吸い、マウスピース越しで息を吐くと《ハピネス》は重低音を響かせる。中級呪魔法は音と共に発動し、赤い魔力を纏いながらゴレムへと襲い掛かる。

 魔法が直撃したことでゴレムの鈍い動きが止まる。だがゼーハーとアリスの激しい息切れを起こす。


「っ! 大丈夫ッスか!?」

「だ、大丈夫……少し魔力が不足してるだけだから……」


 アリスの青い顔をスコープから見ていた暮葉は、車の横でも深呼吸する心菜も見て舌を打つ。

 右藤の魔物であるゴレムは再生能力を有している。悠護の魔法も金属がある限り武器を作り出すのと同じように、岩であるゴレムも岩がある場所なら何度でも再生する。


 アリスの魔法やリリウムの力でなんとか進行を塞いでいるが、魔力の消耗が激しい魔物を使役する心菜と上級魔法を使うアリスの魔力は減り続けている。


「神藤、大丈夫か?」

「は、はい……、なんとか……」

「辛かったら言えよ。魔力切れを起こしそうになる前にリリウムを下がらせろ、いいな?」

「分かりました……」


 頬から汗を伝わせながら頷く心菜。遠目からそんなパートナーを見た樹は、強く歯を食いしばると足に力を入れて疾走する。

 地面を蹴り上げながら走り、ゴレムと樹の間合いがわずか十数センチ――樹がこのデカブツに拳を叩きこむのに十分な距離だ。


「『硬化インドゥリティオ』ッ!!」


 魔法名と共に青い魔力が樹の拳を包み込むように纏い、そのままゴレムの右足へと叩きこむ。

 筋肉と骨の硬さを強化された拳は、ゴレムの足にクレーターができる。パラパラと小石が落ちるのを見ながら、すぐさま後退する。

 叩きこんだ場所は零れ落ちた小石と共に元に戻って行くのを見て、樹は忌々しげに顔を歪め、「チィッ!」と舌打ちをする。


「何度やっても無駄ですよ。ゴレムは岩のある場所ならば再生を繰り返す魔物、彼を倒すことはたとえ七色家でも厳しいでしょう」


 冷笑を浮かべる右藤は余裕な態度を見せながら、ゴレムの足をそっと優しく撫でる。

 右足が傷一つない状態に戻ると、暮葉は引き金に指を当てたまま問いかける。


「右藤、そろそろ吐きやがれ。テメェは本気で墨守を七色家入りさせんのか?」

「ええ、本気ですよ。それが主の望みですからね」

「……俺には理解できねぇな。あのクソったれのブタ野郎にそこまでするテメェの忠誠心が」

「理解出来なくて構いません。たとえ何と言われようとも、私の意志は揺らぎません」


 右藤のサフランイエローの瞳が妖しく輝く。その瞳が彼の意志がどれだけ固いのか思い知らされる。

『墨守米蔵』という絶対的存在が彼の心を縛りつけている以上、他者の言葉など右藤にとってはただの戯言だ。

 そもそもの話、墨守が七色家入りできる可能性はゼロに等しいのだ。


 暮葉とアリスはそれが分かっていたため、米蔵が七色家入りを目論んでいること自体はあまり重く考えてはいなかった。

 かつて七色家の初代当主達が決めた七色家入りの条件に『現七色家の過半数からの了承を得る』がある。

 たとえ黒宮家を滅ぼしても、逆に他の七色家から反感を買うはずだ。にも関わらず、米蔵はこの計画を実行した。ただの向こう見ずなのか、それとも何かしらの強力な後ろ盾を得たかの――。


(――まさか)


 瞬間、暮葉の額から冷や汗が流れ落ちる。

 この時代において、七色家より強力な後ろ盾となる存在は魔導大国イギリス王族か各国に存在する七色家と同等の地位を持つ魔導士集団だ。

 だがいくら彼らでも他国にケンカを売るような真似はしないどころか、メリットさえないのだから聞く前に断っているはずだ。


 なら、米蔵は一体どこの後ろ盾を得たのか? あの狡猾なブタ爺ならば、正規の組織からではないはずだ。

 裏世界の中で一番危険で、今回の件のような派手は騒ぎを起こしてもデメリットを食らわない組織――そんなのは、一つしかない。


「……右藤、最後の質問だ。お前――いや、お前らはと手を組んだのか?」


 暮葉の核心に迫る静かな問いかけに、右藤は微かに目を見開く。

 厳しい顔つきのまま自身を睨みつけるエメラルドグリーンの瞳を見つめながら、右藤は静かに微笑んだ。


「―――――――」


 右藤は何も言わない。

 だが、それが『肯定』を意味することくらい、暮葉は子供ではない。


「………………………そうか。なら、俺はテメェを躊躇なく殺せるなぁ!!」


 その叫びを皮切りに、暮葉の体から一気に魔力を放出する。

 日差しを浴びた若々しい葉のように美しいエメラルドグリーン色の魔力は、交差するリボンみたいに《疾風》に絡みつく。

 スコープのレンズには裏切り者が余裕綽々と立ち、静かに微笑んでいる。その姿さえも今の暮葉にとっては、胸糞悪くなるものでしかない。


「『流星メテオルム』ゥウゥウゥッ!!」


 叫びと共に発動した魔法は、引き金を引いた直後に銃口から魔力弾となって発射される。

 発射された魔力弾はゴレムと右藤の頭上で滞空し、そのまま数百を超える玉に変わり、一人と一頭の頭上に降り注ぐ。

 鼓膜が破れるほどの轟音と衝撃、そして自分達がいる場所から後方一五メートル先まで濃い砂煙で覆われる。


 爆風と細やかな砂のせいで足が震え、目が開けられない。顔や手に砂が当たり、チクチクとした痛みが樹達を襲う。

 しばらくすると爆風が収まり、腕で顔を守った体勢を解く。


「……おいおい、マジかよ」


 目の前の光景に樹は口元を引きつらせる。

 東京都と埼玉県を繋ぐ道は数十メートル先までなくなり、あるのは業務用の照明器具でさえも深さが確認できない巨大な穴だけ。その穴周辺には拳大のクレーターが点在し、この惨状を一目見ただけで隕石が墜落したと言われても信じてしまうほどだ。


 遠目からでは分からなかった威力に樹と心菜が息を呑む中、バンッと金属を叩く音に我に返る。音をした方を振り返ると、暮葉が息切れをしながら《疾風》にもたれかかっていた。


「くれちゃんセンパイッ!」

「うるっ……せぇ……、ただの、魔力切れだ……。騒ぐんじゃねぇよ、クソったれ……」


 魔力切れは魔導士にとっては死に関わるものだ。現に暮葉の顔は病人のように青白くなっており、顔にはじっとりとした脂汗が流れている。

 ただでさえ援護射撃のせいで魔力量が半分もない状態だったのに、魔核マギアに蓄えられていた搾り滓のような魔力を使ったのだ。これ以上魔法を行使するのは危険すぎる。

 やや魔力が回復して顔色が幾分かマシになったアリスが暮葉を車内へ引きずり降ろしていると、穴の方から地響きが聞こえてくる。


 ズシン、ズシン、と巨大な何かが近づく音が徐々に大きくなり、樹と心菜は後ろを振り返る。

 タイミングよく鼠色の太い指が穴から現れる。のっそりと鈍い動きをしながら地の底から這い上がって来たのは、驚異的な再生能力を有する岩の巨王。彼の左手の上には右藤が立っている。

流星メテオルム』の余波を受けたのか、右藤のスーツは所々破けており、頬や腕からは血が流れている。レンズにヒビが入ったモノクルをかけ直しながら、右藤は小さく笑う。


「ふふっ……今のは本気で危なかったですね……。ゴレムの右半身を盾にしなければ、さすがの私も死んでいたでしょう」

「化け物かよ……」

「いえいえ、これでも結構重傷ですよ? あばらの方が特に」


 そう言って右胸あたりを摩る彼の顔は、笑みを浮かべながらも苦痛に歪んでいる。

 ゴレムのようにサイズの大きい魔物は威力が高い分、動きが鈍くなる。たとえ主人から『守れ』と命令されても、動きが鈍いせいで主人が怪我を負うのは致し方ない。

 じわじわと右胸辺りの白いワイシャツが血で赤く染まるのを感じながら、右藤は歪んだ笑みを樹達に向ける。


「ですが、大怪我をした甲斐はありましたね。暮葉様は魔力切れ、アリス様はそこそこ回復していますが戦力としては心もとないでしょう。それにお二人はそこまで経験がないようですね、これなら今の私でも楽勝……とまではいきませんが、大丈夫ですね」

「くっ……!」

「さて、では誰から消しましょうか――」


 直後、頭上で琥珀色の光が右藤達を照らした。



 琥珀色の光に包まれたメリアの腕が、緑色の翼から真っ白な細い腕に変わる。黄色い鳥の足は人間の足に、臀部に生えていたトカゲの尻尾は粒子となって消える。

 異形の姿から均等の取れたプロポーションをした全裸のメリアが、日向の腕の中に落ちていく。艶のない金髪が日向の頬をくすぐらせながら、メリアの唇がゆっくりと耳元に近づいて行く。

 しばらく言葉らしい言葉を出していなかったか細い声が、小さく言葉を紡ぐ。


「……あ、り……がと、う……」


 ――私を助けてくれて、ありがとう。

 絶望だけしかない日々を終わらせてくれた少女へ向けられた感謝の言葉は、日向の鼓膜を震わせた。

 そのまま意識を失い、氷のように冷たいメリアの体をぎゅっと抱きしめる。


減速レタルダトゥス』をかけた体はゆっくりと降下していき、トンッと軽い音と共に地面に着地する。

 首から下の体に残る縫合跡を見て顔をしかめると、そのまま地面に仰向けに寝転ばせる。


「日向! 大丈夫?」

「大丈夫だよ。それより心菜、この人のこと見といてくれる?」

「う、うん……」


 車からブランケットを取って来た心菜が日向に駆け寄るが、途端に怯えた顔をする。

 その顔を特に気にすることなく右藤の方へ足を向ける。右藤はどこかうんざりしたような顔で日向を見ていた。


「……まったく、あなたは本当に余計なことをしますね。おかげで計画が台無しです」

「そんなの知らないよ。あたしはただ、彼女を助けただけ」

「それが余計なんですよ。……本当に、あなたは立派な偽善者だ。自己満足のためだけに無償に手を差し伸べるだけしか能がない。まったく反吐が出る」


 侮蔑を込めた顔で睨みつける右藤。だが日向は顔色一つ変えずに右藤を見据える。

 なんの反応もない彼女に右藤は小さく舌打ちすると、ゴレムの左手の平から飛び降りる。少しだけ高さがあったせいで肋骨からズキリとした痛みが走り顔を歪めるが、なるべく平常心を装いながら顔を上げる。


「……ですが、こうなった以上仕方ありません。まずは、あなたを排除することにしましょう。――ゴレム、彼女を殺しなさい」


 主人の命令に従い、ゴレムの左腕が上に持ち上がり、拳が握られる。

 友人が目の前で殺されそうとする場面に、樹は血相を変えて駆け走る。対して日向はそこから一歩も動かず、静かに左腕を持ち上げた。

 拳を振り下ろす重低音と風圧を真正面に受けながら、日向の左手の人差し指がゴレムの拳に触れる。

 その瞬間、ピタリと止まったゴレムの姿が、日向が触れている指の先から少しずつ粒子となっていく。


「ゴレムッ!? 今すぐ彼女から離れなさい! ゴレム! 言うことを聞け!!」


 右藤が叫びを上げながら命令を下すが、ゴレムの体は少しずつ消えていく。まるで時間が止まったかのようにゴレムはなんの痕跡も残さないまま消えていくその光景に、暮葉やアリスだけでなく、樹や心菜さえも思わず息を呑んだ。

 今まで日向が無魔法を使うところは授業でも訓練でも見てきた。ある時は防御として、ある時は攻撃の手段として駆使するその姿は、女である心菜でさえも『カッコいい』と思ってしまうほどだった。


 だが、今のは違う。攻撃でも防御でも、ましてや反撃ではない。あれは、ただの略奪だ。

 武器を、力を、手段を、策略を、目の前の敵から全て奪うだけの行為。

 だからこそ恐ろしかった。どんなに凄腕の魔導士でも、もしかしたらこの少女の前ではただの凡人に成り下がってしまうのではないかと。


 バキンッと甲高い金属音と共に、右藤の右手首につけていた腕輪が二つに割れてコンクリートの上に落ちる。

 それを見て、右藤は顔を青ざめながら後ろへ二歩下がる。


「ば、バカなッ! 私とゴレムとの契約を切っただと……!?」


 魔物を召喚するためには、媒介となったものの中に必ず召喚の合図である『物』を用意する必要がある。

 心菜がロザリオであるなら、右藤は鈴のついた腕輪だ。俗に『召喚具』と呼ばれている物の破壊は、魔物との契約を切るのと同義だ。再び魔物を召喚し、契約するには媒介を新しくする必要がある。


 そして、本来なら術者ではない第三者が契約を切ることも召喚具を破壊することはできないのだ。


「ありえない! ありえないありえないありえない! こんなの、絶対にありえないッ!!」

「――なんで、ありえないの?」


 混乱状態にある右藤を黙らせたのは、背筋が凍ってしまうのではないかと錯覚するほどの冷たい声。

 目の前にいる少女の姿をした化け物――日向は、琥珀色の瞳を爛々と輝かせながら右藤を直視する。『右藤英明』という罪人を目に焼きつける日向の姿に、ぶわっと右藤は体中の穴から汗を吹き出す。


「あたしは無魔法を使う魔導士。魔物との契約の仕組みはあんまり詳しくないから分からないけど……この魔法ならそれすらも無にしてしまう。それくらい、あなたも知ってるでしょ?」

「ひ、ひぃ!」


 氷より鋭く冷たいのに、瞳の中の炎は強く燃え上がる。情けない悲鳴をあげながら足をもつれさせる右藤は、魔導士崩れが乗って来たと思しき車へ駆け寄る。

 黒いフォルムをしたそれは、所々凹んではいるが原形は保っている。早く車に乗ってあの化け物から逃げたい一心で無防備に背中を向ける右藤に、日向は彼に向けて銃口を向ける。

《アウローラ》の銃口が右藤に向けられた直後、日向は彼の体――より正確に言えば心臓付近に一際輝く宝玉を


 その宝玉は右藤の瞳と同じサフランイエロー色で、目が眩んでしまいそうなほど輝いている。

 日向の目に映る宝玉が一体なんなのか彼女自身も分からない。

 だが、あれさえ消せば全てが終わると直感した。


「――『00エラド』」


 魔法名を紡ぎ、引き金を引く。銃口から琥珀色の魔力弾が発射され、その弾は右藤の心臓がある位置へ直撃する。

 その時、日向だけでなくその場にいる魔導士達はバキンッと何かが割れる音が聞こえた。


「あっ、がぁっ……!?」


 襲い掛かる痛みに酸素ごと吐き出した声をあげながら、ぐらりと右藤の体は左へ傾いていく。

 傾いた体の先にあるのは、暮葉が空けた大穴。右藤は悲鳴をあげることも、体のバランスを保つこともできないまま、暗闇が支配する大穴へと落ちていく。

 あまりにも呆気ない幕引きに呆然としていると、日向の体が左右に動いたかと思うとそのまま膝から崩れるようにコンクリートの上に倒れた。


「日向ッ!?」

「おいっ、大丈夫か!?」


 真っ先に日向の元へと駆け寄った心菜と樹は、慌てて体を起こすとすーすーと小さな寝息が聞こえてきた。

 樹が思わず「へっ?」と声を出すほど穏やかなその寝顔に、二人は深いため息を吐いた。


「もう、日向ってば……」

「ったく、ひやひやしたぞ」


 思わず肩を竦めながらも小さく笑う二人を余所に、アリスは険しい顔のまま暮葉の方を見る。

 少しだけ魔力が回復した影響か先ほどより顔色のいいが、初級魔法すら使えない状態だった。


「……暮葉くん」

「言うな。俺も正直どう説明すればいいのか分かんねぇよ」


 アリスの言いたいことが分かっている上であえて言葉を止めさせると、暮葉は緑色の髪をぐしゃぐしゃに掻く。

 あれがただの魔力の暴走によるものなら話が早いが、そういった次元の話ではないことくらい暮は自身も分かっている。

 せっかく七色会議で日向の身が一般の魔導士候補生扱いになったのに、この件を話してしまったら間違いなく要監視対象になる。それだけはなんとしても避けたかった。


「今見たものは、俺とお前だけの秘密だ。それでいいな?」

「……分かった」


 アリス自身も暮葉と同じ意見なのか、小さく頷くと日向を背負ってきた樹とその隣を歩く心菜の方へ駆け寄る。

 暮葉は車から降りて、ブランケットに包まれているメリアを横抱きにして持ち上げながら空を見上げる。

 空の青は濃さを増し、白い雲は綿菓子のような形をしながら浮いている。自分の心とは違ってあまりにも清々しいそれに、暮葉は舌を打ちながら吐き捨てる。


「クソったれ」



☆★☆★☆



「がふっ! げほっ、ごほごほっ!?」


 ビチャビチャッと汚い音と共に口の中に入った薄汚れた水を吐き出し、何度も深呼吸する。国道16号の地下深くある下水道、その両端にある壁で両手をついて咳き込んでいた右藤は下水が混じった涎をスーツの裾で拭う。


「クソッ、あの女……! 今回は失敗したが、次はこんなヘマはしない。必ずこの手で殺してやる……ッ!!」


 右藤の脳裏に残る憎い少女の姿。あの顔をぐちゃぐちゃに引き裂き、喚き泣きながら許しを乞おうと問答無用であの細い体を踏み潰し、殴りつけたい衝動に駆られる。

 その衝動をなんとか抑えながら、ふらふらとバランス感覚が定まっていないまま通路を歩こうとすると、バシャバシャと水音が聞こえてきた。

 思わず動きを止める右藤を余所に水音はどんどん近づいて来る。水音に紛れて何かを引きずる音も聞こえ、右藤の警戒心が強くなる。


 バシャッと水音が一際大きくなると、右藤の目の前に何かが投げられる。

 最低限の電灯しかないそこでは最初何を投げられたのか分からなかったが、よく目を凝らして見るとそれが人であるのが分かった。

 背中に虎の刺繍がされたスカジャンを来た男が、カラスや野犬、それにドブネズミを使って爆破行動を起こさせた協力関係にあった魔導士であることは数秒の時間を有した。


「――あんたが右藤英明さんか?」


 暗い通路から投げかけられた声に、右藤は鋭い目で通路の先にいる人物を睨みつける。

 水音を出しながら姿を現したのは、顔が整った細身の男性。だがその顔は右藤にも見覚えがあった。


「……これはこれは、【五星】ではありませんか。せっかくの長期休暇なのにお仕事ですか?」

「これは完全にプライベートやから気にせんといてや。それよりなんでワイがいるか聞かへんのか?」

「いいえ、そんなのは時間の無駄ですからね」


 そう言いながら右藤はスーツのポケットから、サフランイエローの魔石ラピスを取り出す。

 この魔石ラピスには『転移メタスタシス』、空間干渉魔法を宿している。これを使い、悠々と主がいる家に帰るのが今の右藤にとっては最善の手だ。

 口元を歪ませながら魔石ラピスを握りしめながら魔力を送り込む――


「…………?」


 そこで、違和感が起きた。魔力を送り込む感覚がない。それどころか魔力を作り出すための感覚さえも。

 気のせいか? と思いながらもう一度魔石ラピスを握りしめるが、何度やっても同じ。徐々に焦りを見せる右藤に、豊崎陽は静かに言った。


「無駄や、何度やっても同じやで。あんたは、

「なん、だと……?」


 陽から告げられた言葉に、右藤は理解することが出来なかった。いいや、したくなかった。

 魔導士が魔導士で無くなることは、彼にとっては存在価値が失われたのと同じ。つまりそれは、主に捨てられるのと同義だ。


「ふ、ふざけるなッ!? 私が魔導士ではなくなった? 一体何を根拠に……!」

「無魔法は、全ての魔法を無効化する。それは半分正解や。でもな、あの魔法の神髄はそこやない」


 静かに、陽は告げる。彼だけしか知らない、無魔法の真実を。


「――無魔法は、【起源の魔導士】アリナ・エレクトゥルムが『魔法』という呪縛から解放されるために創り出した魔法。魔法の無効化なんてその力の一端に過ぎんのや」

「なっ……!?」

「まあなんにしても、あんたはワイが捕獲したるわ。可愛い教え子に手を出した罪は高いで」


 語られた真実に右藤は言葉を失う。その直後、陽は彼の顔に冷たい水をかける。

 微かにラベンダーの香りがするそれが直撃すると、右藤は咳き込みながら顔を拭う。


「げほっ、お前、一体、何を……」


 言葉の語尾が弱々しくなるのと同時に、右藤の体は下水へと仰向けで倒れる。

 一応溺死しないように二人の上半身を起き上がらせて壁にもたれかかせると、陽はコルクを外した試験管をぶらぶらと揺らした。


「失敗作でも結構効果あんな、コレ」


 試験管の中に入っていたのは、終業式前日の授業で日向が失敗した睡眠薬。ここに来る前に拝借した中身のないそれを下水に向かって投げ捨てると、タイミングよくズボンの後ろポケットに入っていたスマホが震える。

 スマホを取り出し画面を確認すると、『管理者』の三文字を見てすぐに電話に出た。


『もしもーし、そっちはどう?』

「もう終わったで」

『さっすが豊崎くん、仕事が早いね。あとは墨守米蔵のところに行けば事件解決だよ。今から墨守米蔵の現在地をメールで送るね』

「……いや、そっちはええわ」


 当たり前のように米蔵の現在地情報を送ろうとした管理矢の指がピタリと止まる。


『……なんで? 墨守米蔵も君にとっては殴り飛ばしたい人間でしょ?』

「そうなんやけどなぁ……多分もう遅いわ」

『遅いって?』


 管理者の問いを聞きながら、陽は右藤を一瞥しながら告げる。

 陽にとっては最早どうでもいい、右藤にとっては最重要な真実を。


「――墨守米蔵は、もう死んどるで」



 時は少し遡る。外観にも内装にも金をかけた墨守邸は不気味な静寂に包まれていた。

 屋敷の主の強欲さを体現したような豪華な廊下には、黒と白を基調とした仕事着を見に包んだ使用人達が白目を剥きながら倒れており、一目で事切れているのは明白だった。


「な、なななな何故、何故こんな真似を……!?」


 特注で作らせたバカみたいに大きなベッドの上で、米蔵は脂汗を流しながら腰を抜かしていた。

 雇った用心棒達は廊下にいる使用人達と同じように白目を剥いて倒れており、目の前にいる紅いローブのフードを目深く被った青年は、この屋敷の主を冷たく見下ろしていた。


「何故? 理由は分かってんだろ。俺達が協力したにも関わらず計画を失敗した。これからお前にはを支払わなくてはならない」

「だ、代償だと? 金か? いくらだ? 一億でも十億でも用意する。だ、だから!」

「悪ぃが、そんな紙切れには用はねぇよクソジジィ」


 無様な命乞いに侮蔑な視線を向けながら、青年は右手に持っていたものを米蔵に向ける。

 それは、精緻な細工がされた手の平サイズの細長い鳥籠。中には小さなベルがついており、左右に揺らすと澄んだ音が部屋を支配する。


 思わずうっとりと目を瞑って聞きたくなるその音は、青年以外の人間にとっては死の音。

 ベルの音が数回部屋を震わせると、苦悶に満ちた表情を浮かべた米蔵は服の上から肉が抉れるほど指を喰い込ませる。


「ぐぅううっ、ごぉああああ……ッ!!」


 喉を潰さんばかりの悲鳴を上げながらベッドの上で芋虫のように体をばたつかせ、しばらくするとぶらんと腕がベッドの上から落ちる。

 口から泡を吹き出しながら白目を剥く米蔵を一瞥すると、青年は手に持つ鳥籠へ目をやる。


 鳥籠の中にあるベルの下に、虹色に輝く光が淡い輝きを放っている。それを見つめるとそのまま鳥籠をベルドについていたポーチに仕舞い込む。


「ったく、結局こいつらも使えねぇ駒だったな。まあいい、今回のは所詮ただの確認だからな。さっさと帰って主に報告しねぇと」


 踵を返し、フードの裾を翻る。『死』という空気が充満する屋敷を悠然と歩く青年は、廊下の窓から降り注ぐ太陽を眩しそうに目を細めながら見上げる。

 地上を燦々さんさんと照らす太陽の光を浴びた青年の瞳は、ルビーのような真紅色に煌めいた。

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