金曜日 2
蝶子の家に荷物を届けてから、誰もいない家に帰った。
自分の部屋に入って、制服を着替えて、ベッドの上にどさっと寝ころぶ。
机の引き出しにしまったスマホは、もうずっと開いていない。
伊藤たちにはなくしたって言ってある。
『この動画、上げよう』
怖いから。自分が周りのやつらになんて言われているか、怖いから。
仰向けになって目を閉じる。遠くから原付バイクの音が聞こえる。
十六歳になったら、絶対バイクの免許を取ろう。そんでどこか遠くに行きたい。
家でも学校でもない、どこか遠くへ。
玄関のインターフォンが鳴った。おれはのっそりとベッドから起き上がる。
今日は金曜日。なっちゃんがうちに来る日だ。
「ああ、そっか。永遠はチョコちゃんのことが好きなんだな」
なっちゃんがおれの前で言う。おれと向かい合って。机の上にノートを広げて。いつもみたいに、虫も殺さなそうなにこにこした顔をして。
「はぁ?」
おれはそんななっちゃんに向かって、思いっきり「はぁ?」っていう顔をする。
「もう一度言おうか? 永遠はチョコちゃんのことが好きなんだよ」
いきなり意味わかんねぇし。このひと、頭おかしいんじゃないか?
「おれはあいつに、突き飛ばされたって話をしてんだけど」
「でもその前に、永遠が怒らせるようなことを言ったんだろ?」
「それはあいつが、いっつもこっちを見てるから……」
なっちゃんがにこにこしながらおれを見ている。
腹立つな。なっちゃんにこの話をするんじゃなかった。でももしかしたら蝶子がなっちゃんに話すかもと思ったから、その前に自分から話しておきたかったんだ。
なっちゃんから顔をそむけて、ノートに並んだ数字を睨む。
アンタニハココロガナインダ。
蝶子から言われた言葉が頭から離れてくれなくて、勉強どころじゃない。
「じゃ、そろそろ数学やろうか?」
「やだ。やりたくない」
「子どもみたいなこと言うなよ。あ、永遠はまだ子どもか」
そう言ってなっちゃんが笑う。おれはますます不機嫌になる。
そういうなっちゃんはどうなんだよ。大学生は大人なのか?
ひとのこと、からかいやがって……だったらこっちも言ってやる。
「なっちゃんは……彼女とかいんの?」
シャーペンをノートの上に転がして、ぶすっとした顔のまま聞いてみる。
なっちゃんは動揺もせずに、いつもと同じ口調で答える。
「いるよ」
「へぇ……どんなひと? かわいい?」
机に身を乗り出して、からかうように聞いてやる。
「もちろんかわいいよ。高校のときから付き合ってる、リスみたいな子」
「なんだ、それ。のろけかよ」
口を尖らせたおれの前で、なっちゃんは穏やかに笑って言う。
「まぁ、喧嘩もするけどさ。おれの……誰よりも大事なひとなんだ」
「はぁー? やってらんねー」
聞くんじゃなかった。数学の問題解いていた方がマシだった。
そのままごろんと床に寝転がる。見慣れた自分の部屋の天井が見える。
「大丈夫。いつか永遠にも、そういうひとができるよ」
なっちゃんの声は、天井から降ってくるように聞こえた。
「できねぇよ……そんなの」
上を見たまま、ぽつりとつぶやく。
「おれには心がないんだってさ……」
蝶子の放った言葉。あのときの蝶子の真っ赤になった顔。
「そんなやつに、大事なひとなんかできるわけねぇよ」
それにうちの親を見ていて思う。
周りからは良い夫婦、良い親子なんて言われているけど、とんでもない。
中身は冷え切っていて、心のないやつらの集まりじゃんか。
そんな家庭で育ったおれが、まともな大人になれるわけないんだ。
「そんなことないだろ?」
だけどなっちゃんはおれに言う。
「永遠はまだまだ変われるよ。これからまだ、どんなやつにだってなれる」
おれはゆっくりと顔を上げる。ニッといたずらっぽく笑うなっちゃんは、ときどきおれに手を差し伸べてくれるヒーローに見える。
キラキラ金色に輝いていて、未来は希望に満ちていて、愛するひとに愛されていて……沼の中でもがいているこんなおれにも、輝きの欠片をくれる。
「なっちゃん……」
「うん?」
数学の教科書をめくるなっちゃんに、おれは天井を見つめたままつぶやく。
「バイクの免許取ったら、なっちゃんちに遊びに行っていい?」
おれの声になっちゃんは笑う。
「二年も待ってられないよ。隣町なんだからさ、バイクがなくなって来れるだろ?」
そうか。この足があれば、いつだってここから抜け出せるんだ。
「いつでもおいで。待ってるから」
なっちゃんの声が、あるはずのないおれの心に、やさしく響いた。
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