金曜日 1

 金曜日。長かった一週間がやっと終わる。

 今日も廊下側の席に、米倉は座っている。


「あいつよく学校来れるよな」


 休み時間、伊藤が言った。


「頭、おかしいんじゃね?」


 溝渕はにやにや笑っている。

 米倉はどうして学校に来るんだろう。来なきゃいいのに。頼むからもう来ないで欲しいのに。


 机の上に座っているおれのことを、伊藤と溝渕が見た。きっとこいつら、おれの言葉を待っているんだ。


「ほんとマジでムカつくわ」


 喉の奥から声を絞り出す。それから息を吸い込んで、廊下側の席に向かって言う。


「キモいんだよ、お前! さっさと死ねよ!」


 細くて小さい背中は、まったく動かない。聞こえているはずなのに、動かない。


 ああ、そうか。無視されてるんだ。おれたちみたいなバカなやつらのこと、米倉は相手にしてないんだ。

 そう思ったら笑えてきた。笑いながら斜め前の席を見る。見慣れた背中がゆっくりと振り返り、蝶子と目が合う。


「こっち見んなって言っただろ?」


 蝶子が顔を歪める。だからそういう目で、おれのこと見るな。


「うぜぇんだよ、蝶子。死ねっ」


 ガタンっと椅子と机がぶつかる音がした。立ち上がった蝶子がおれのところへ向かってくる。


「な、なんだよ?」


 一瞬ひるんだおれの襟元を、蝶子がぐっとつかみ上げた。


「なんでそんなこと言うのよ!」


 蝶子の声が耳に聞こえた。そばにいた溝渕が驚いた顔をして、後ずさりしたのがわかった。


「そんなこと言ったら、相手が傷つくってわかんないの!」


 すぐ目の前に、蝶子の顔が見える。


「あんたには心がないんだ!」


 ぎゅっと強くつかまれたと思ったら、次の瞬間、思いっきり体を突き飛ばされた。バランスを崩したおれの体は、机の上から床に転げ落ちた。


 教室の中が凍りついたように静まり返る。おれは呆然と蝶子の顔を見上げながら、いま言われた言葉を頭の中で繰り返す。


 アンタニハココロガナインダ。


 グサリと言葉が胸を抉った。


「こっえ……」


 ぽつりとつぶやく伊藤の声。ぎゅっと唇を結んだ蝶子が、教室を飛び出して行く。


「うっわ、マジか!」

「まさかの森本からの逆襲!」


 急に周りが騒ぎ出し、次の授業が始まるチャイムが鳴った。


「ちょっとー、森本さん、出て行っちゃったじゃん」

「あんたたち、なにしたのー?」


 女子の声を聞きながら、ゆっくりと体を起こす。


「知らねーし。永遠が怒らせたんだよ」


 立ち上がったおれの肩を、伊藤がポンッと叩いた。


「なっ? そうだろ? 永遠」


 そうだよ。悪いのはおれだよ。


「それよりさ、今夜、米倉やっちゃわねぇ?」


 伊藤の声に、溝渕も乗ってくる。


「いいね。永遠も来るだろ?」

「おれは……」


 出て行った蝶子の背中を思い出しながらつぶやく。


「今日は……」

「ああ、金曜日はなんかあるんだっけ?」

「あっ、家庭教師の日だろ?」

「家庭教師ねぇ……永遠はお坊ちゃまだもんなぁ?」


 伊藤がぐっとおれの肩を抱え込んでくる。


「でもさ、そんなのサボっちゃえばいいじゃん。お前が来ないとつまんねーし。それともかーちゃんに怒られるの、怖い?」


 耳元でささやく伊藤の声。


 わかってる。どうせおれを加害者にしようとしてるんだろ。それでお前らは見ているだけ。おれが米倉を痛めつけて、米倉が苦しむのを見て楽しむだけ。

 そしてそれを断ったらどうなるか……そんなのもとっくにわかってる。わかってるけど――


「悪い。今日は無理だわ」


 伊藤の手を振り払って、席に座る。


「なーんだよ、つまんねーの」


 溝渕がふてくされたように口を尖らせる。


「だな。マジでクソだわ。こいつ」


 背中を向けた伊藤の声が、おれに残した言葉だってわかった。


「ほらー、席につきなさーい」


 入ってきた担任教師が、か弱い声を上げている。

 ガタガタと椅子に座る生徒たち。おれはぼんやりと斜め前の席を見る。


 蝶子はそのあともずっと、教室に戻ってこなかった。



「じゃあな、あとで絶対来いよ!」


 伊藤が米倉の机を蹴飛ばして、溝渕と笑いながら教室を出て行く。

 米倉は席に座ったまま、あいかわらず背中を丸めている。

 おれは小さく息をはくと、斜め前の席に向かった。


 いつも蝶子が背負っているリュックに、教科書やノートを放り込む。机の上に出しっぱなしだったシャーペンと消しゴムもペンケースに入れて、文庫本と一緒にリュックに突っ込む。


 荷物も持たずに帰るって、ありえねえだろ。授業が終わるころやっと、蝶子がいないことに気づいた担任はおろおろするだけで、荷物のことまで考えてないみたいだし。

 そういえば茜はいないのかな。あいつらいつも一緒に帰ってるから、茜がいたらこの荷物を渡そう。


 そう思って廊下のほうを見たら、のろのろと立ち上がる米倉の姿が見えた。

 おれは自分のリュックを背中に背負って、蝶子のリュックを胸に抱えると、米倉の前に立った。


「あ……」


 米倉は消えそうな声を出してから、すぐに固まった。おれの顔を見て、ビビッているんだ。


「行くなよ」


 放課後の教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。女子の笑い声が耳に響く。

 そんなざわめきの中、米倉はおれの前で真っ白な顔をしている。


「行かなくていーから。あいつらのところなんて」


 行ったらどうなるか、わかってるだろ? まぁ行かなくても、ボコられるだろうけど。


「とにかく行くな。そんでもう学校来るな。しばらく休んでろ」


 米倉はなにも言わない。わかってんのかな、こいつ。イライラする。


「そんだけ!」


 米倉から視線をそむけて、教室を出る。

 ふたり分の教科書がやけに重くて、とにかくもう周りは見ないで、ただ蝶子の家に向かって足を動かした。

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