木曜日 2

 その日の放課後は、伊藤たちのぐだぐだした会話に付き合っていて、帰りが遅くなった。


「あ……」


 ひとりで歩道橋の階段を駆け上げると、橋の真ん中に茜がいた。茜は手すりにもたれて、ぼんやりと車の行き交う国道を見下ろしている。


 茜は近所に住んでいる、優等生だ。中学受験をしたけど落ちて、仕方なくおれたちと同じ学校に入った。

 家が近いから小学校のころは遊んだりもしたけれど、最近はクラスも違うししゃべっていない。


 おれがなにも言わないまま後ろを通り過ぎようとしたら、突然茜が振り向いた。


「あ、ねぇ、永遠」


 急に名前を呼ばれて驚いた。まさか声をかけられるとは、思っていなかったから。


「なんだよ」


 ふてくされた顔で答える。

 すると茜が、すうっと指を伸ばしておれに聞いた。


「あそこ。あそこの空き地。前はなにがあったか覚えてる? どうしても思い出せなくて」


 茜の隣に並んで、その指先を見る。たしかにそこだけぽっかりと、更地になっている。

 あそこにあったもの……コンビニでもないし、ファミレスでもない。


「なんだろ……」


 たしかに少し前までそこにあったはずなのに。なにがあったのか思い出せない。

 ひとの記憶なんて、そんなもんだ。


「ね? 思い出せないよね?」


 ため息のような息をはき、茜がまた道路を眺める。おれも茜の隣に立ったまま、同じ方向をぼんやりと見つめる。


「ねぇ、永遠にはさ」


 また茜が聞いてきた。普段口もきかないのに、今日はやたらと絡んでくる。


「将来の夢ってある?」

「将来の……夢?」


 少し考えて答える。


「そんなのねーよ」

「そっかぁ、わたしもさ、ないんだよね。蝶子に聞いたら、そんなのみんなないんじゃないのって」

「だろうな」


 野球選手とか、サッカー選手になりたいっていうのは、小学生までだ。中学生になったおれたちは、自分の限界を知っている。


「あ、でも永遠のなりたかったもの、覚えてるよ」


 茜がおれの顔を見て、ニッと笑う。


「正義のヒーロー、だったよね?」


 急に顔がほてってきて、どうしようもなく恥ずかしくなった。


「バカか、お前。そういうことはどうして覚えてるんだよっ」

「だってさ……」


 茜がまた、道路を眺めながらつぶやく。


「わたし、六年のころ、ちょっといじめられてたでしょ?」


 ああ、そういえば……それはほんのちょっとの短い間だったし、たぶんほとんどのみんなは知らないだろうけど。

 だって茜は勉強ができて、運動神経もよくて、いつもクラスのまとめ役で、友だちもたくさんいて……でもだからこそ、そんな茜を妬むやつもいて。


 ある日の放課後、女子グループが茜を囲んで文句を言っていた。それをたまたま通りかかった俺が気づいて……


「永遠が助けてくれたんだよね」


 乾ききった唇を、ざらついた舌で舐めた。


「ひとりを大勢でいじめるなんて、お前ら卑怯だぞって。あの子たちに言ってくれたんだよね」

「そんなの……覚えてねーよ」


 苦し紛れにそう言うと、茜がふふっと笑った。


「あのときの永遠は、カッコよかった。わたしにとっては、ヒーローだったよ」

「は? こんなおれのどこがヒーローなんだよ」


 くるっと後ろを向いて、手すりに寄りかかる。茜はくすくすと笑っている。


 茜はクラスが違うから知らないんだ。いまのおれがどんだけ卑怯で、どんだけ汚いことをしているかって。

 そう思ったら、わけもわからず涙が出そうになった。


「じゃあな」

「うん、またね」


 逃げるようにその場から離れると、おれは一度も振り向かないで、家まで突っ走った。

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