木曜日 1
「永遠。先に行くからな。戸締り頼むぞ」
父さんが家を出て行く。おれは返事もしないままソファーに座って、テレビのリモコンでチャンネルを次々変える。
観たい番組なんかなかった。朝ご飯も食べたくなかった。スマホの画面も……昨日家に帰ってから一度も開いてない。
『この動画、上げよう』
伊藤のふざけた声が耳に聞こえて、吐きそうになる。
「あー! 学校行きたくねー!」
なにげなく窓の外を見ると、家の前を歩いている人の影が見えた。
「もしかしたらそろそろ……」
おれは制服の上着をはおり、リュックを背負うと、鍵をかけて外へ飛び出した。
「あっ」
門の外へ出たら、ばったり蝶子と出会った。蝶子はあからさまに嫌そうな顔をして、ぷいっと顔をそむける。
ざまあみろ。残念だったな。お前の考えてることくらい、わかるんだ。
蝶子が足を速めて、おれの前を通り過ぎる。そんな背中に声をかける。
「おい」
蝶子は無視する。腹が立ったから、後ろからその腕をつかんでやった。
「ひっ……」
「待てよ、蝶子!」
蝶子がおどおどと振り返って、おれを見る。
「な、なによ」
さりげなく手を振り払われ、おれは仕方なくその手を引っ込める。
「なんでおれのこと無視すんだよ」
蝶子がおれから目をそむける。
「なんだよ。言いたいことあるなら言えよ」
「……べつに」
こいつ、マジでムカつく。だからおれは今日も、行き場のない怒りを蝶子に向ける。
「だったら教室でこっち見んな! いちいちうぜぇんだよ!」
蝶子が赤い顔でおれを見ている。おれはそんな蝶子を残して走り去る。
最悪な気分で教室に入ると、一番に廊下側の席を見た。
いた。今日も米倉宙翔は、あの細い背中を丸めて、薄暗い席にぽつんと座っている。
なんでだよ。なんで学校来るんだよ。頼むから来ないでくれよ。
「あれ、どうした? 永遠」
ポンッと背中を叩かれた。伊藤の声だ。
「あ? もしかして米倉見てた?」
「ああ……あいつ学校来てるんだって思って」
「だよな。よく来れるよな? お前にあんなことされて」
伊藤が「お前に」を強調して言う。あくまでもひとのせいにするかのように。
「ほら」
自分の机の前で突っ立っているおれに、伊藤が一冊の教科書を押し付けた。
「書いてやれよ。今日も」
教科書と一緒に、伊藤が油性ペンもおれに持たせる。
数学の、教科書。米倉宙翔の。
顔を上げると、口元を歪ませている伊藤と目が合った。その周りにいつの間にか、他のやつらも集まっている。
「書いてやんなよ、永遠。米倉くん、喜ぶって」
溝渕のにやけた声が響く。
書かないっていう選択肢はないんだな。だったら書くしかないだろ?
机の上に、数学の教科書を開く。
わけのわかんない数字が、新しくて綺麗なページに並んでいる。
折れるほど強くペンを握って、ページの上に押し付け文字を書く。
いまの自分が思いつく限りの、ひとを傷つける言葉を、次々と並べていく。
机の周りに、ふざけた連中が集まってきた。にやにや笑いながら、その文字を眺めている。
そしてその中のひとりが、こっちにスマホを向けていることに気がついた。
ああ、そうか。そうだったんだ。
最初から全部、仕組まれていたんだ。
自分たちは手を汚さずに、楽しいことをしよう。
バカなひとりを加害者にして、あとのやつらは傍観者。
被害者が苦しむ姿を見て、楽しめればいい。
そんなことにいまさら気づいた自分にあきれ果て、ふっと口元がゆるむ。
「これでいい?」
自分が書かれたら泣きたくなるくらいの、残酷な言葉を並べて伊藤に渡す。
伊藤は満足そうにうなずくと、それを溝渕の胸に押し付けた。
「米倉くんに返してこいよ」
「えー、またおれ?」
「ちゃんと永遠が書いたって言っとけよ」
溝渕が「へいへい」なんて言いながら、米倉のところへ行く。周りにいたやつらが、今度はそっちに視線を向ける。
「お前さぁ、よくそんなひどい言葉をスラスラ書けるよな? しかも笑いながら」
ひとり残った伊藤がおれに言う。
「悪魔かよ」
ははっと乾いた笑い声が耳元をかすめて、おれも小さく笑う。
溝渕が米倉の机に教科書を放り投げ、なにか言ってからこっちに戻ってくる。背中を丸めたままの米倉は、ピクリとも動かない。
「あいつクセーの。制服生乾き」
「あー、昨日トイレで水ぶっかけられたもんな、永遠に」
伊藤と溝渕の声が耳に聞こえる。教室に女教師が入ってきて、みんながガタガタと席に座る。
そこでやっと、自分がまだペンを握りしめていたことに気づく。
「おれって、バカ過ぎ」
そのままペンで、自分の机に文字を書く。
『死ねよ』
片足を突っ込んだ沼は底なし沼で、気づいたときはズブズブ体まで沈んでいて、誰もおれのことなんか助けてくれない。
このまま死んでしまえばいい。ヒーローなんか、どこにもいない。
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