水曜日 1

『先に出かけます。今日は東京で仕事をしたあと、しばらく大阪に泊まりです。冷蔵庫の中のもの、食べてください』


 キッチンのテーブルの上に置かれた、一枚の紙きれを手にとる。


「今日のゲストは家族問題カウンセラーの瀬戸口智子さんです」


 リビングにつけっぱなしのテレビから、アナウンサーの声が勝手に流れてくる。


「瀬戸口さん、おはようございます」

「おはようございます」

「瀬戸口さんにはのちほど、『夫と会話がない』『子どもがいうことを聞かない』などのお悩みについて、アドバイスをしていただきましょう」


 ちらっと見えた画面にうんざりして、リモコンでテレビを消す。それから紙切れをぐしゃっと丸めて、ゴミ箱の中に放り投げた。


「ああ、永遠。父さん、行ってくるからな。母さんは、今日から泊まりだそうだ」

「知ってる」

「じゃあな。戸締り頼むぞ」


 玄関のドアが閉まる音。おれは深く息をすって、それをはく。

 なにがアドバイスだ。父さんとの関係は冷え切っているし、自分の子どももまともに育てられないくせに。


「あーあ、学校行きたくねー!」


 ひとりで叫んで、リビングのソファーにどさっと沈み込む。最近母さんが気に入って買った、ひとをダメにするソファーだ。沈み具合が気持ちよくて、ますます学校に行きたくなくなる。


 リビングの大きな窓から、花の植えられた庭と緑の垣根が見える。その向こうを歩く人間の姿が、ちらりちらりと見え隠れする。

 そろそろあいつが通り過ぎるころだ。最近おれを避けるように時間をずらしているみたいだけど、そんなのこっちはお見通しだ。


 外へ出て、ばったり会ったふりをしたら、あいつはどんな顔をするだろう。

 ゴキブリでも踏みつぶしたような苦い顔で、おれのことを見るんだろうな。



 教室の中は今日も騒がしい。本当は耳を塞いで一日中寝ていたいけど、そういうわけにはいかせてくれない。


「あ、永遠! 来た来た!」

「こっち来いよ! 早く!」


 登校すると、おれの机の周りには、すでに何人かの男子が集まっている。その中心で手招きをしているのは、小学校からつるんでいる伊藤と溝渕だ。


「ほら、お前もサイン書いてやれよ」

「サイン?」


 背中のリュックをおろしながら、自分の机の上を見る。そこに広げられているのは、誰かの国語の教科書。黒いペンで、ひどい落書きがされている。


 一瞬、喉の奥がひりっとした。おれのじゃないよな? 違うよな?

 教科書を見下ろすおれに、油性ペンを差し出しながら伊藤が言う。


「米倉ヒロトのだよ」

「ああ……」


 米倉は二年ではじめて同じクラスになったやつだ。背が低くて、色が白くて、やたら細くて、もやしみたいなやつ。いつも自分の席にじっと座っていて、声を聞いたことがない。

 一年のころから伊藤たちに、いじられていたらしい。


「ほれ、はよ書けよ。お前、得意じゃん、こういうの」


 溝渕がへらへら笑いながらあおってくる。伊藤からペンを持たされる。ごくんと飲みこんだつばが、ひりひりする喉を通り過ぎる。


 米倉の教科書に書かれた文字。

 バカ。ハゲ。クソ。

 くだらねぇ。小学生か? お前ら。


 キャップをとり、ペンを紙の上に押し付ける。じわっと黒いインクが、印刷された文字の上に滲み出る。そのまま強く、紙が破れるほど強く、文字を書く。


「ひゃはは! 出た! 永遠の『死ねよ』」

「おれたちそこまで言ってねーからな。マジで死んだら、お前のせいだからな」

「死ぬわけねーだろ」


 ペンにキャップをつけて、伊藤の胸に押し返す。開いていた教科書をぱたんと閉じると、同じような黒いペンで名前が書いてあった。


 米倉宙翔――よねくらひろと。宇宙を翔る。


「だっせぇ、名前」


 おれと同じだ。

 閉じた教科書を溝渕の胸に押し付ける。


「ほら、返してきてやれよ。米倉くん、喜ぶだろ?」

「なんでおれがー?」


 溝渕がギャーギャー騒いでいる。予鈴が鳴って、他のやつらが笑いながら散らばっていく。


 まわりに誰もいなくなると、おれは小さく息をはいて自分の席に座った。椅子の背に寄りかかり何気なく斜め前を見たら、こっちを見ている蝶子と目が合った。

 なんだよ。こっち見んな。そんな、ゴキブリ踏みつぶしたような目で。


 蝶子がふいっと顔をそむける。教室に先生が入ってくる。

 視線をゆっくり動かし、廊下側の席を見る。

 そこに米倉が座っていた。細い背中を丸めて、息を殺すようにして座っていた。

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