月曜日

 月曜日。お母さんとしゃべらないまま、蝶子と一緒に登校する。


 教室に入ると、愛美を囲むように女の子たちが固まっていた。

 わたしは汗ばむ手をぎゅっと握りしめてから、まっすぐ彼女たちのところへ向かう。


「お、おはよう」


 笑顔を作ったつもりだったけど、うまくできなかった。

 女の子たちはなにも言わずに、すっと顔をそむける。


「あ、あのっ……愛美。本当にごめんなさい!」


 愛美の前で頭を下げる。

 わたしたちの周りだけが静まり返って、勇気を振り絞って言ったわたしの声が、不自然に浮かぶ。

 顔を上げると、うつむいた愛美が唇をぎゅっと引き結んでいた。


「ま、愛美? どうしたらわたしのこと許してくれるの? わたし愛美と元通りになりたいよ。だってわたしは愛美のこと、友だちと思ってるし……」

「だったら」


 愛美がわたしの前で口を開いた。


「だったらもう、わたしのことはほっといてよ! わたしは茜の、そういういい子ぶったところが嫌なの!」


 愛美の言葉がぐさりと胸に刺さった。

 席を立ち上がった愛美が、また教室を出て行く。周りのみんなもわたしの顔をちらりと見たあと、愛美のあとを追いかけていく。

 わたしはその場に突っ立ったまま、そんなみんなの背中を見送る。


 わたしのことはほっといてよ、か。わたしがお母さんに言った言葉と同じだ。

 そう思ったら、なんだかおかしくて笑えてきた。


 背中のリュックをおろして、自分の席にすとんと座った。

 誰もわたしに近づかない。みんな遠くから、わたしの様子をうかがっている。

 教室って、こんなに息苦しかったっけ?


 わたしはぼんやりと窓の外を見る。

 校庭の隅に、濁った水のプールが見えた。あんな濁った水の中に沈んでも、青い空なんて見えるわけない。

 美しく死ぬことなんか、できるわけないんだ。



「茜、おかえり」


 家に帰ると、お母さんがわたしを待ち構えていた。

 わたしは黙って靴を脱ぐ。


「茜、いつまでそうやってるつもりなの? お母さんが勝手に決めちゃったのは悪いと思ってる。でもあなたがちゃんと話してくれないからでしょう?」


 わたしは立ち止まってお母さんを見る。

 話したくても話してくれない愛美。このままでは仲直りもできない。


「茜。お母さんに言いたいことがあるなら言って?」


 お母さんに言いたいこと……


「言いたいこと、あるんでしょう?」


 わたしはぎゅっと手を握る。


 ぐるぐると頭の中を、いろんなことが駆けめぐる。

 そしてたどり着くのは、いつだって受験に落ちたあの日のこと。


『茜の体調管理ができなかったお母さんのせいだね、ごめんね』


 謝りながら泣いていた、お母さんのこと。


「茜……」


 お母さんがわたしの手をとって、ぎゅっと握った。

 大好きだったお母さんの手。そのお母さんを、わたしが悲しませた。


「どうして怒ってくれないの……」

「え?」


 わたしの吐いた言葉に、お母さんが驚いた顔をする。


「怒ってよ、わたしのこと。受験に落ちたのはわたしのせいだって。わたしを責めてよ」

「茜……なに言ってるの?」


 ずっと吐き出したくて、吐き出せなかった。

 どんなに勉強を頑張っても。どんなにクラスのために尽くしても。わたしはお母さんを泣かせるダメな子なんだって気持ちが離れなかった。


「お母さんのせいなんかじゃない。受験に落ちたのは、わたしが実力を出せなかったから。そうでしょう? そう言ってよ。そう言ってくれないとわたし……ずっとあそこにつまずいたままなんだよ」


 なっちゃんは言った。


『つまずいたことないひとなんて、いるはずないだろ?』


 そうかもしれない。なっちゃんだってつまずいて、大好きな先生に助けてもらった。

 でもわたしは……あそこにつまずいたまま、ずっと前に進めないでいる。


「悪いのはわたし……全部わたし……」


 受験に失敗したのも。愛美を怒らせてしまったのも。全部悪いのはわたしだから。


「だからわたしのことをもっと怒って。お母さんが泣いたりしないで」

「茜……」

「お母さん……ごめんなさい」


 声を震わせたわたしの背中を、お母さんがやさしく抱き寄せた。


「茜。あなたそんなこと考えてたの?」


 お母さんの胸の中はあたたかい。


「バカね……」


 その声を聞いたら、喉の奥につっかえていたものが、すうっと楽になった気がした。

 そんなわたしの体を、お母さんがそっと離して言う。


「話してくれてありがとう。話してくれなかったら、お母さん、茜の気持ちがわからないままだった」


 お母さんがわたしの前でやわらかく微笑む。


「お母さんも茜の気持ちを考えないで、なんでも勝手に進めすぎたかもしれないね。反省してる。これからはもっと茜と話し合って決めるから」

「お母さん……」

「だって茜はもう子どもじゃないものね」


 そうなのかな。わたしはまだまだ子どもだと思っていたけれど。


「夏留先生のことも、塾のことも、もう一度ちゃんと話し合おう?」


 わたしは少し考えて、首を横に振る。


「ううん。もうわたしは決めてるの」


 首をかしげるお母さんに、わたしは言う。


「わたしはなっちゃんの家庭教師を辞めて、進学塾に行く」


 自分で考えて、わたしが決めたことだ。

 つまずいて起き上がれなかったあの場所から、一歩進みたいって思ったから。


「そう……でも、いいの?」

「うん。家庭教師辞めても、なっちゃんには会えるから」


 お母さんが静かにうなずく。


「そうね。これからもずっと、茜の先生でいてもらいたいわね」


 なっちゃんが家庭教師じゃなくなっても、なっちゃんはずっとわたしの先生だ。


「それからもうひとつ、やりたいことがあるの」

「やりたいこと?」


 わたしはうなずいて答える。


「もう一度、スイミングを習いたいの。もちろん勉強と両立するから」


 お母さんは少し考えてからこう言った。


「わかったわ。茜がやりたいのなら、やってみなさい」



 久しぶりにお母さんと話して自分の部屋に戻ったら、蝶子からメッセージが届いた。


『なっちゃん、まだ来ないんだけど』


 わたしは時刻を確認する。たしかにもうなっちゃんが来ている時間だ。


『連絡してみれば? あ、でもバイク運転中だったら出れないか』

『そーだね』


 蝶子とのメッセージを閉じたあと、わたしは少し考えてから、なっちゃんへのメッセージを入力する。


『とりあえずやりたいことが決まりました。次の水曜日に教えるね』


 ちょっと迷ったけど、文字の最後にハートマークをつけてみた。

 ふふっと笑ってから、それを送信。


 なっちゃんはなんて言うだろう。

 ほら、おれの言ったとおりだろ? やりたいことなんて、のんびり待っていれば生まれてくるんだから。


 わたしはいつだってひとの顔色を気にして、考えすぎたり、あせりすぎたりしてしまうのかもしれない。


『わたしは茜の、そういういい子ぶったところが嫌なの!』


 わたしは愛美の言葉を思い出しながら目を閉じる。

 自分が悪くないことを早く証明したくて、わたしは愛美の気持ちなんか考えずに、あせっていたのかもしれない。

 心のこもっていない「ごめんね」なんか、愛美の心に届くわけない。


 もう少し、ゆっくりと時間をかけて、愛美とまた仲良くなれたらいいと思う。

 それまで学校に行くのは、ちょっとつらいかもしれないけど。


 わたしはクローゼットを開けて、スイミングスクールで着ていた水着を取り出した。

 鏡の前で体に当てると、ずいぶん小さい。


『だって茜はもう子どもじゃないものね』


 少しはわたしも、成長しているのかな。

 スクールに入る前に、まずは水着を買いに行かなくちゃ。


 わたしは目を閉じて、水の中を泳ぐ自分の姿を想像する。

 きっといまはうまく泳げないかもしれないけれど……いつか気持ちよく泳げる日が、きっと来る。

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