土曜日
「茜? 大丈夫? まだ具合悪いの?」
土曜日の朝。布団の中でお母さんの声を聞く。お願いだから、もうほうっておいて。
昨日の夜、考えて考えた末、愛美にメッセージを送った。
『愛美、ごめんね。会ってちゃんと話したい』
だけど朝になっても、愛美からの返事はなかった。
「茜。入るわよ」
お母さんが無理やり部屋に入ってくる。わたしはベッドの上に起き上がって言う。
「大丈夫。なんでもないから入ってこないで。もうほっといて」
お母さんはわたしの前でため息をつく。
「茜。あんたがはっきりしないから、お母さん夏留先生に連絡しておいたわ」
「え?」
わたしはお母さんに顔を向ける。
「進学塾に行くから、一学期いっぱいで家庭教師を終わりにさせていただきますって」
そんな。わたしがまだ返事もしていないのに。
「どうして勝手に決めるのよ!」
わたしは思わず叫んでいた。お母さんが驚いた顔でわたしを見る。
「どうしてって……塾に行ったほうがいいからよ。実はもう、塾の申し込みもしてあるの。まだ締め切られていなくてよかったわ」
頭にかぁっと血がのぼるのがわかった。
お母さんが心配していたのは、わたしの体でも心でもなく、塾のことだったんだ。
「茜?」
わたしはお母さんの前で体を震わせていた。
どうしてこんな気持ちになるのかわからない。
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか……
よくわからない感情があふれ出し、わたしはそばにあった枕をつかむと、それをお母さんに向かって強く投げつけた。
「きゃっ」
枕をぶつけられたお母さんが、信じられないといった顔でわたしを見ている。
わたしだって信じられない。お母さんにこんなことをしたのは、生まれてはじめてだ。
わたしはお母さんから目をそらし、スマホをつかんで部屋を飛び出した。
「なにやってんのよ。こんなところで」
わたしがスマホで呼び出すと、蝶子はすぐに駆けつけてきた。
こんなときわたしが頼れるのは、蝶子しかいない。
いつもの歩道橋の上。国道を走る車は今日も長い列ができている。
「家にいるとさ、なんかいろいろ考えちゃって」
すると蝶子があきれたように言った。
「『死にたいな』とか?」
それもさっきまで考えていた。
わたしの頭の中に、水の中から見上げる青い空が浮かぶ。
「あのさ、これ、なっちゃんが言ってたんだけど」
わたしの耳に、蝶子の声が聞こえる。
「いなくなってもいい人間なんて、この世にはいないんだって」
わたしはその言葉を頭の中で繰り返す。
うん、たしかになっちゃんが言いそうな言葉だ。
わたしは後ろを向いて道路を見下ろした。頭の中にぼんやりと、さっきスマホの画面で見た文字が浮かんでくる。
「ねぇ、チョコの話したいことってなに?」
蝶子はなにも言わない。わたしは蝶子の顔を見ながら、永遠のことを思い出す。
「教室で、永遠とやり合ったんだって?」
わたしが聞くと、蝶子はパッと顔を上げてわたしを見た。
「えっ、なんで知ってるの?」
「昨日、あんたを迎えにいったとき、教えてもらった」
蝶子がぶすっとした顔をする。最近蝶子は、永遠の話をするといつもこの顔になる。
永遠が蝶子に、ひどいことを言うからだ。
だけど永遠は、わたしにそんなことを言わない。
どうしてだろう。永遠にとってわたしと蝶子は、きっとなにかが違うんだ。
「なにがあったか知らないけど……許してあげたら? 永遠にも一応、やさしいところあるしさ」
「は? 茜は永遠の味方なの? 茜は最近の永遠を知らないから、そんなこと言えるんだよ!」
たしかにわたしは永遠のことを知らない。きっと蝶子のほうが知っている。
わたしはそれを、うらやましいと思ってしまう。
「もういい。茜には相談しない」
蝶子が怒った声で言った。わたしはそんな蝶子に小さく笑いかけ、手すりにもたれて国道を見下ろす。
車の行き交う道路。並んだ建物。ぽっかり空いた空き地。
「あそこ、なにがあったか思い出した?」
わたしの声に、蝶子が答える。
「わかんない」
蝶子の声が、わたしの耳にぼんやりと響いた。
家に帰ると、お母さんが心配そうにわたしに寄ってきた。
「茜……」
だけどわたしはお母さんを無視して、部屋に入りドアをバンッと閉めた。
あれ、なんかこれって、誰かと似てる? ああ、そうだ。わたしの話を聞いてくれない、愛美と同じだ。
ベッドの上に、仰向けに倒れ込んだ。そのまますうっと手を伸ばし、背泳ぎするように動かしてみる。
少ししてその手を止め、目を閉じた。わたしの体が水の底に沈んでいく。ゆらゆら揺れる水面と、その向こうの青空が見える。
『いなくなってもいい人間なんて、この世にはいないんだって』
なっちゃんが言ったという蝶子の声が、水の上からぼんやりと聞こえた。
わたしはもう一度、腕を動かす。水をかいて、前へ進む。
溺れずに最後まで泳ぎ切ることができたら、わたしは少しでも変われるだろうか。
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