木曜日 2

 息を切らして家に帰ると、「おかえりなさい」とお母さんに迎えられた。

 そしてまた、朝の話の続きをする。

 一日中家にいるお母さんは、きっと一日中わたしのことを考えているんだろう。


 目の前に差し出された塾のパンフレットを見下ろしながら、お母さんの声を聞く。

 本当はそんな話、聞きたくない。いまはそれどころじゃない。そうお母さんに言ってしまいたかったけど、わたしにはそれができない。


 受験に失敗した日。お母さんは泣いていた。


「茜の体調管理ができなかったお母さんのせいだね、ごめんね」


 そう言って、わたしに何度も謝りながら泣いていた。


 お母さんが悪いんじゃないのに。お母さんはわたしが体調を崩さないよう、精一杯気をつけてくれたのに。悪いのは風邪をひいて、実力を発揮できなかったわたしなのに。

 いっそわたしのことを責めてくれれば、もっと楽になれたのに。


 あの日、お母さんを悲しませたわたしは、もう二度とお母さんを悲しませたくない。


「ごめんね、お母さん。その話はまた今度」


 お母さんの胸にパンフレットを戻し、わたしは制服のまま家を出る。


「茜? どこ行くの?」


 お母さんの声が聞こえたけれど、それには答えなかった。



 ひとりで歩道橋の上から国道を見下ろす。


『おれと……付き合ってくれないかな?』


 さっき聞いた西沢先輩の声。わたしが断ったあとの呆然とした顔。

 先輩には悪いと思っている。でもわたしは愛美のほうが大事だ。

 今日のこと、愛美に言ったほうがいいのかな。


『なんでもわたしに話してね?』


 愛美はそう言っていたけれど、でもなんて?

 わたしが西沢先輩に告白されたことを知ったら、愛美はきっと傷つくだろう。

 やっぱり黙っていよう。わたしの胸の中にそっとしまっておけばいいことだ。


 そんなことを考えながら、ぼんやりと道路を見下ろしていたら、階段をのぼってくる人の姿が見えた。


 あ……永遠だ。


 わたしは気づかないふりをして、道路の先を見つめる。


 永遠は近所に住む、同級生の男の子。小学生のころはよく蝶子の家に遊びに来ていて、わたしも一緒に遊んだ。だけど中学になってから、ほとんど永遠と話すことはなくなった。


 永遠はわたしに気づいているのかいないのか、黙って後ろを通り過ぎようとする。

 それがなんとなく寂しくて、わたしは永遠を引き止めるように思い切って振り返った。


「あ、ねぇ、永遠」


 なんでもないように言ったけど、少し胸がどきどきしていた。

 どうしてだろう。小学生のころは、こんなことはなかったのに。


「なんだよ」


 永遠がふてくされた顔でわたしを見る。


 わたしはちょっと困った。つい声をかけてしまったけれど、べつに永遠に話すことなんかない。

 仕方なくわたしは、すうっと指を伸ばして永遠に聞いてみた。


「あそこ。あそこの空き地。前はなにがあったか覚えてる? どうしても思い出せなくて」


 永遠が不機嫌そうなまま、わたしの指先に視線を移す。そして少し考えてから、つぶやく。


「なんだろ……」

「ね? 思い出せないよね?」


 ため息のような息をはいたわたしの隣に、永遠が立っていた。


 小学生のころはわたしより小さかったくせに、いつのまにかぐんっと背が伸びている。

 男の子、というより、男のひとに近づいた感じ。なんだかすごく不思議な気分だ。


「ねぇ、永遠にはさ」


 そんな永遠に聞いてみる。


「将来の夢ってある?」

「将来の……夢?」


 少し考えて、永遠が答える。


「そんなのねーよ」


 永遠はそう言ったけど、わたしはハッと思い出した。


「あ、でも永遠のなりたかったもの、覚えてるよ」

「え?」


 わたしは隣の永遠に笑いかける。


「正義のヒーロー、だったよね?」


 永遠の顔が赤くなった。


「バカか、お前。そういうことはどうして覚えてるんだよっ」

「だってさ……」


 わたしは忘れかけていた記憶をよみがえらせる。


「わたし、六年のころ、ちょっといじめられてたでしょ?」


 永遠の瞳が少し揺れる。


「永遠が助けてくれたんだよね。ひとりを大勢でいじめるなんて、お前ら卑怯だぞって。あの子たちに言ってくれたんだよね」

「そんなの……覚えてねーよ」


 本当は覚えているくせに。


「あのときの永遠は、カッコよかった。わたしにとっては、ヒーローだったよ」

「は? こんなおれのどこがヒーローなんだよ」


 永遠が照れたように後ろを向いて、手すりに寄りかかる。わたしはそんな永遠の横顔を見る。

 あのとき、本当に嬉しかったんだよ。つまずきかけていたわたしを、永遠が救ってくれた。


 わたしはあのあと思ったんだ。わたしも永遠みたいに、誰かを助けてあげたいって。

 だからいままで以上に、わたしはみんなの悩みを聞いてあげて、みんなの力になれるよう頑張ったんだ。


「じゃあな」


 永遠が逃げるようにその場から離れた。


「うん、またね」


 去っていく永遠の背中を、わたしは見えなくなるまで見送った。

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