木曜日 1

 木曜日の朝。朝食の並ぶテーブルの上に、進学塾のパンフレットが並んでいた。


「そろそろ通ったほうがいいと思うのよ。もう二年生なんだし。早めに受験対策しておかないとね」


 ほら、やっぱりきた。わたしはぼんやりとお母さんの差し出すパンフレットを見下ろす。


「お母さんのオススメはここよ。難関校の合格率がダントツに高いし、すごく評判もいいの」


 わたしは黙って、朝食の前に腰をおろす。


「塾に通いはじめたらまた忙しくなるから、夏留先生の家庭教師もお断りしなくちゃいけないわね」


 嫌だ。と思ったけど、それは口に出せなかった。その代わり、精一杯それを引き延ばす言葉を口にする。


「うん……考えとくね」


 けれどお母さんは顔をしかめた。


「でも早めに行動したほうがいいから。塾もね、定員いっぱいになると断られちゃうのよ?」

「うん……」


 はっきりしないわたしを見て、お母さんがため息をつき、そのあと家に寄ってくれた蝶子を塾に誘ったりしていた。

 蝶子が行けば、わたしも素直に行くと思ったのだろう。


 おっとりしているように見えるお母さんだけど、わたしのことになると恐ろしくせっかちで困ってしまう。



 その日の放課後は、委員会の活動があった。二学期に行われる体育祭の実行委員に、わたしは選ばれていて、その顔合わせがあったのだ。


 今日は蝶子と帰れない。きっとひとりで帰っただろう。蝶子は教室の中でもだいたいひとりだ。

 蝶子と同じクラスだったらよかったのにな。そうしたらわたしの毎日は、もっともっと楽しかったはず。


 そんなことをぼうっと考えているうちに、委員会はいつの間にか終わっていた。

 机の上を片づけ教室へ戻ろうとしたら、後ろから男のひとの声がした。


「宮崎さん」


 驚いて振り返ると、そこには三年生の先輩が立っていた。


「あの……どうしてわたしの名前……」

「えっ、だってさっき自己紹介したでしょ?」


 そういえばそうだった。恥ずかしくなったわたしの前で先輩が笑う。


「じゃあおれの名前も、覚えてないかな?」

「いえ……知っています」


 わたしはこのひとを知っていた。

 このひとは愛美が告白した、バスケ部の西沢先輩だった。



 西沢先輩は、なぜかわたしの教室までついてきた。にこにことどうでもいいことを話しかけながら。

 わたしは一応笑顔でうなずきつつ、どうやって西沢先輩から離れようかと、そればかり考えていた。


「あの、わたしこの教室なので」


 自分のクラスに着いてホッとする。

 教室の中は誰もいなかった。みんなもう部活に行ったか、家に帰ったのだ。わたしの机の上に、わたしの荷物だけが残っている。


「それでは、失礼します」

「ちょっと待って!」


 教室に入ろうとしたわたしを、先輩が引き止めた。

 先輩はバスケ部だけあってすごく背が高い。わたしはそんな先輩の顔を見上げる。


「よかったら途中まで……一緒に帰らない?」

「え……」

「すぐに荷物持ってくるから! ちょっとここで待ってて!」


 わたしが返事をする前に、西沢先輩はわたしの前からあっという間にいなくなった。



 西沢先輩と一緒に、校舎を出る。

 どうしてこんなことになったのか、意味がわからない。

 頭をひねっているわたしの隣で、先輩が口を開く。


「実はおれ……ずっと前から宮崎さんのこと知ってたんだ」

「え? わたしのことを?」


 横を向くと、西沢先輩はほんのり頬を赤くしてうなずいた。そして突然立ち止まり、わたしに向かってこう言った。


「いきなりこんなこと言ったら、驚くと思うけど……おれ、宮崎さんのこと、ずっと好きだったんだ。おれと……付き合ってくれないかな?」


 わたしは言葉を失った。西沢先輩の好きな子って……わたしだったの?

 思いもよらない事態に、頭の中がパニックになる。


 いや、落ち着け。落ち着けわたし。わたしが答えるべき答えは決まっている。もちろん「NO」だ。

 わたしは先輩のことを好きではないし、愛美の好きなひとと付き合えるはずなんてない。


「宮崎さん……」


 先輩がわたしをせかす。


「宮崎さんは……好きなひと、いるの?」


 好きなひと……その言葉に一瞬、胸の奥がどきっとする。

 だけどわたしに好きなひとなんていない。わたしは首を横に振る。


「だったら……」

「ごめんなさい!」


 わたしは先輩の前で思いっきり頭を下げた。


「先輩とは付き合えません! ごめんなさい!」


 顔を上げると、呆然とした顔つきの先輩がいた。

 ああ、わたしはいま、このひとを傷つけている。そう思ったけど、どうすることもできない。


 わたしはもう一度頭を下げると、その場から走って逃げ出した。

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