水曜日 2

「なっちゃんは、将来の夢とかあるの?」


 今日は水曜日。家庭教師のなっちゃんがわたしの家に来る日だ。


 わたしは開いたノートから視線を上げて、隣に座るなっちゃんに聞いた。

 なっちゃんは一瞬不思議そうな顔をしたあと、すぐにいつものにこやかな顔で答える。


「うん。あるよ」


 想定どおりの答えで、ちょっとつまらない。

 都内の有名大学に通うなっちゃんは、うちのお母さんのお気に入りだ。


「夏留先生なら卒業後も、一流企業に入れるんでしょうね」


 お母さんはそんなふうに、なっちゃんの就職先の予想までする。そして必ず付け加えるんだ。「茜も夏留先生を見習いましょうね」って。

 だからたった週に二時間の家庭教師を、まだ続けさせてくれる。でもそろそろお母さんとしては、なっちゃんの家庭教師を辞めて、進学塾に通って欲しいみたいだ。


「いいな。なっちゃんは将来有望だって、うちのお母さんも言ってるよ。大学だって現役合格だし、なっちゃんは人生につまずいたことなんてないんじゃないの?」


 お母さんの期待を裏切って、入試に失敗したわたしのように。するとなっちゃんはおかしそうに笑って言う。


「つまずいたことないひとなんて、いるはずないだろ?」


 そして持っていた問題集をパタンと閉じた。


「おれさ、小学生のころ、ずっと学校に行ってなかった時期があるんだよね」

「え?」


 それは初耳だった。きっとうちのお母さんも知らないだろう。


「どうして?」

「うーん、どうしてだろう。勉強が嫌いだったわけでもないし、いじめられてたわけでもない。しいて言えば給食食べるのが遅くて、一度注意されたのが嫌だったのかなぁ」

「そんなことで?」

「うん。そんなことで」


 なっちゃんはケロッとした顔でうなずく。


「お腹痛いって言って一日休んだら、そのままずるずる休んじゃって。そしたら学校より家のほうが居心地良くなっちゃってね。ずっと部屋に籠ってゲームしてたな」

「うそぉ」


 そんなの、うちのお母さんだったら絶対許してくれない。というより、心配して病院に連れていかれるかも。


「そのころ、いつも家に寄ってくれる先生がいて。その先生さ、学校に来いって言わないし、勉強の話もしないで、ただくだらないことしゃべって帰るだけなんだ。たまに一緒にゲームやってくれたり」

「へぇ……」


 わたしはなっちゃんの話に興味を持ち、シャーペンを机の上に置いた


「そのうちおれ、その先生のこと好きになって、先生がいるなら学校行ってもいいかななんて思うようになってさ。まぁ、単純だよな、小学生なんて」


 そう言ってなっちゃんは、はははっと笑う。


「でもそんな先生になれたらいいなって、いまでも思ってる」

「なっちゃん、学校の先生になりたいんだ」

「うん」

「なれるよ、絶対! なっちゃんだったら、いい先生に!」


 思わず身を乗り出してそう言ったら、なっちゃんは「ありがと」って笑った。


 いいなぁ、先生か。わたしも教師という職業は、ちょっといいなと思っている。きっとお母さんも賛成してくれそうな気がする。

 でももしお母さんが反対したら……わたしはその夢をあきらめるんだろうか。


「将来の夢なんてさ、考えてもすぐに答えなんか出ないんだよ」


 そんなわたしになっちゃんが言う。


「茜ちゃんもさ、そのうちなりたいものや、やりたいことが生まれるだろうから、それまでのんびり待っていればいいんだよ」


 わたしはなっちゃんの顔を見る。なっちゃんはわたしに笑いかけてくれる。

 いいのかな、それで。のんびり待っていれば、わたしにもなりたいものが生まれてくるのかな。

 でもお母さんは、そんなわたしを待ってくれるだろうか。

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