土曜日 1

 翌朝は土曜日で学校はお休みだった。


「おはよう」


 わたしが台所へ行くと、お母さんが目を丸くした。


「おはよ。あんた、早いね」


 昨日は夕方からふて寝してしまい、気づいたら朝だった。さすがにもう眠れない。


「目、覚めちゃったんだもん」


 わたしは居間に行き、なんとなくテレビをつける。

 お母さんは困っているのか、安心したのか、よくわからないため息をつく。


「ああ、そうだ。あんた昨日寝ちゃったみたいだから起こさなかったけど」


 そう言って、お母さんがどこかからわたしのリュックを持ってきた。


「これ、昨日の夕方、永遠くんが届けてくれたよ」

「えっ」


 驚いた。なんで永遠がわたしの荷物を?


「あんた休み時間に、なにも持たないで帰ってきちゃったでしょ? だから永遠くんがわざわざ届けてくれたんじゃない」

「と、永遠……なにか言ってた?」

「べつに。これから夏留先生が来るからって、すぐに帰ったよ」


 ああ、昨日は金曜日。なっちゃんが永遠の家に来る日。

 わたしはお母さんからリュックを受け取る。ずしりと重たい。中を開けるとわたしが机の上や中に置きっぱなしだった、教科書やノートや文庫本なんかが全部入っていた。


 これ、永遠が入れてくれたのかな。

 いや、きっと先生に頼まれて、嫌々届けに来たんだ。そうに決まってる。

 あいつにやさしい心なんか、あるわけないんだから。


「あともうひとつ、昨日あんたに言いたかったんだけど」


 リュックを持って突っ立っているわたしに、お母さんが言う。


「おばあちゃん、今度施設に入ってもらうことになったから」

「え?」


 わたしは顔を上げてお母さんを見た。


「まだこれからいろんなところに相談していくんだけど。お父さんと決めたんだよ」

「な、なんで?」


 わたしの声に、お母さんが不思議そうな顔をする。


「なんでそんなことするの? おばあちゃんが邪魔だから? おばあちゃんなんかもう死んでもいいって思ってるから?」

「なに言ってるの? そんなこと思ってるわけないじゃない」


 嘘だ。この前そう言ったくせに。お母さんはずるい。

 呆然と立つわたしの前で、お母さんがため息をつく。


「あのね、おばあちゃんを施設に入れるのは、追い払うわけじゃないんだよ? おばあちゃんのためなんだから」


 ちがう。嘘だ。お母さんは嘘つきだ。

 リュックを抱えて背中を向ける。


「蝶子?」


 お母さんがわたしの名前を呼んだけど、無視しておばあちゃんの部屋へ駆け込んだ。



 おばあちゃんは今日もベッドに横になっている。


「おばあちゃん」


 わたしは襖をそっと閉めて、おばあちゃんに近づく。おばあちゃんはのっそりと首を動かし、わたしを見て頬をゆるめた。


「ああ……ハナちゃん、おかえり」


 カチャンとわたしの中で、なにかが割れた音がした。


 小学生のころ。ランドセルを背負って家に駆けこむ。お母さんは仕事でいなかったけど、うちにはおばあちゃんがいる。


「チョコちゃん、おかえり」


 わたしを呼ぶ、おばあちゃんの声。

 わたしの名前をつけてくれたのは、おばあちゃんだった。


『蝶のように美しく育ってほしい』


 おばあちゃんの願いどおりになっていなくて申し訳ないけど、わたしはこの名前が好き。

 おばあちゃんに「チョコちゃん」って、かわいく呼ばれるのも好きだった。


「おばあちゃん……どうしてよ」


 おばあちゃんのそばに近づいて言う。


「どうしてお姉ちゃんと間違えるの? わたしは蝶子だよ! なんでわかんないの!」


 言葉が、勝手にあふれ出る。


「間違えないでよ! なんで間違えるのよ! なんでなんにもしてないお姉ちゃんと間違えるのよ!」


 手を伸ばし、おばあちゃんの細い肩を揺らす。

 わたしはおばあちゃんのそばにいた。前みたいにお手玉ができなくなっても。ベッドに寝たきりになっても。トイレに行けなくなっても。


「なのにどうして、わたしのことわかんないのよ!」

「蝶子!」


 いつの間にか入ってきたお母さんが、おばあちゃんの体をゆさゆさ揺すっているわたしを止めた。

 おばあちゃんは、はあはあと息をはいている。


「やめなさい! あんたなにしてるのよ!」


 わたしは手を止めて、唇を噛む。

 おばあちゃんの目が、あてもなく彷徨っている。

 おばあちゃんはわたしを見ていない。わたしの顔も、わたしの名前も忘れちゃったんだ。


『もう死ねばいい』


 お母さんの言葉はわたしの言葉。わたしだって本当はそう思っていた。

 綺麗じゃなくて、お手玉もできなくて、トイレにも行けなくて、子どもみたいにわがままを言うおばあちゃんのこと……わたしはもう見たくなかった。


 アンタニハココロガナインダ。


 心がないのは永遠だけじゃない。わたしにもないんだ。

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