水曜日 2
「ただいまぁ」
家に着くと同時に、お母さんが飛び出してきた。
バタバタバタバタ、うちのお母さんはなにをするのもうるさい。少しは茜のお母さんの、おしとやかさを見習えばいいのに。
「蝶子、おかえり。お母さん買い物行ってきたいから、おばあちゃん見てて」
「え、今日デイサービスじゃなかったの?」
靴を脱ぎながらそう言うと、お母さんがわかりやすく顔をしかめた。
「嫌なんだって。あそこに行くのが」
「えー?」
「とにかくおばあちゃん頼むね」
わたしの返事も聞かないまま、お母さんがマイバッグをぶら下げて、逃げるように外へ出て行く。
いや、もしかしたら本当に逃げ出したのかもしれない。このまま家に帰ってこないんじゃないかってほどの勢いだった。
わたしはふうっと息をはき、リュックを背負ったままおばあちゃんの部屋へ行く。
「おばあちゃん、ただいま」
窓のそばの介護用ベッドで、おばあちゃんが横になって外を見ている。ガラス窓の向こうの狭い庭には、緑の葉っぱがぼさぼさに生い茂っているだけ。
前にお母さんが茜のお母さんのマネをして、ガーデニングなんてものをやってみたけど、すぐに飽きちゃったみたい。
つまんないだろうな、おばあちゃん。こんな景色ばかり見ていても。
「おばあちゃん。た・だ・い・ま!」
近寄って、耳のそばで言ってみる。おばあちゃんのしわしわな耳たぶが目の前に見える。
おばあちゃんはなんかの動物みたいにゆっくりと首を動かして、細い目でわたしを見た。
「ああ、おかえり。ハナちゃん」
胸の奥の深いところが、ちくりと痛む。
「違うよ。お姉ちゃんじゃないよ、蝶子だよ」
「ああ、チョコちゃんか、おかえり」
おばあちゃんがわたしの前で、くしゃっと顔をゆるめる。
おばあちゃんは最近、わたしとお姉ちゃんの
大学生のお姉ちゃんは遊びに忙しくて、いつも帰りが遅い。帰ってくるのはおばあちゃんが寝たあと。だからこうやっておばあちゃんに「ただいま」って言うのは、いつもわたしなのに。
転んで骨折して入院してから、ほとんど寝たきりになってしまったおばあちゃん。最近は認知症の症状も出てきて、お母さんはパートを辞め、おばあちゃんの介護をすることになった。
家での介護はとても大変で、週に何日かデイサービスに通っている。だけど時々おばあちゃんはそれを嫌がる。今日もそうだったらしくて、そういう日のお母さんはすごく機嫌が悪い。
「おばあちゃん、どうしてデイサービス行かなかったの?」
おばあちゃんは少し間を置いてからゆっくりと答える。
「あそこは嫌いだよ。行きたくないよ」
「……そっか」
嫌いなところに無理やり行かせるのはかわいそうだ。
わたしは床に座って、おばあちゃんのしわしわの手に触れる。
小学生のころ、学校から帰ってくると必ずおばあちゃんがいた。お母さんはパートに行っていたから、遊び相手はいつもおばあちゃんだった。
「おばあちゃん、お手玉やって」
わたしはおばあちゃんのお手玉を見るのが好きで、いつもそうねだった。おばあちゃん手作りの、赤い生地と黄色い生地で作ったお手玉だ。
「いいよ。こっちにおいで」
おばあちゃんはわたしの目の前で、器用にふたつの玉を放り投げた。赤と黄色の玉が宙を舞って、くるくると入れ替わる。
「わー、すごーい!」
「チョコちゃんもやってごらん」
おばあちゃんの手からお手玉を受け取りやってみる。だけど上手くできない。
「チョコの下手くそ」
漫画を読んでいるお姉ちゃんが、横から口を出す。わたしはぎゅっと唇を噛む。
「大丈夫。チョコちゃんもできるようになるよ。一緒に練習しよう」
おばあちゃんはそう言って、根気よくわたしにお手玉を教えてくれた。
やさしくて、わたしの知らないことをたくさん教えてくれたおばあちゃん。
大好きだった。もちろんいまでも……
「おばあちゃん」
骨と皮だけのような、おばあちゃんの手をさすりながら呼びかけてみる。だけど返事はない。おばあちゃんは、うとうとと眠ってしまったみたいだ。
最近のおばあちゃんはよく眠っている。その代わり夜中に騒ぎ出したりして、お母さんは眠れなくて困っている。
わたしはおばあちゃんの手をさすりながら、静かに目を閉じた。
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