水曜日 1
「死ねよ、お前」
尖った言葉が背中に刺さる。
細くて鋭い棘みたい。体の中にじわじわ食い込む。
教科書をしまおうとしていた手を止めて、わたしはゆっくり後ろを振り向く。
斜め後ろの席で、ふざけ合いながら笑っている男子たち。その中で一番大きな声を上げているのは、
ウザい、キモい、死ね――永遠の口から飛び出す言葉は、たとえわたしに向けられていなくても、聞こえるだけでひりひりする。
だからわたしはあいつが嫌い。大嫌い。
小学生のころはちょっと騒がしいくらいの、よくいるおバカな男の子だったのに、中学に入ってあいつは変わった。
ひとを傷つける言葉を、平気で使うようになった。
一年のときも二年になってからも同じクラス。家も近所。親も知り合い。サイアク。
そんなことをぐるぐる考えていたら、机の上に腰かけている永遠がこっちを向いた。
あわてて目をそらそうとしたわたしより早く、永遠の口が歪に開く。
「なに見てんだよ、
「……べつに」
冷たい目でわたしを睨んだ永遠が、大げさなほど首を振って顔をそむける。
「うぜぇんだよ、お前。こっち見んな」
教室のざわめきの中、永遠の放った棘がわたしに刺さる。
わたしは前を向き、持っていた教科書を乱暴にリュックの中に押し込んだ。
わたしだってあんたのことなんか、大っ嫌いだよ。
リュックを背負ってひとりで廊下に出ると、長い黒髪の女の子が壁を背に立っていた。
わたしの唯一の友だち、隣のクラスの宮崎茜だ。
茜の前を通り過ぎる男子が、ちらちらと茜のことを横目で見ている。
「お待たせ、茜」
わたしが近づくと、茜が長い髪をさらりと揺らして、あきれたような口調で言った。
「チョコのクラス、あいかわらず騒がしいね」
茜はわたしを「チョコ」と呼ぶ。「蝶子」なんて名前、綺麗すぎて照れくさいから、わたしは「チョコ」でちょうどいい。
「うん。うちってほら、うるさい男子ばかりだから」
「ああ、永遠もいるしね」
茜の声に、わたしは何度もうなずきながら訴える。
「そうなんだよ、あいつもうサイテー。さっきだってわたしのこと、うぜぇって言ったんだよ?」
「そんなの気にすることないよ。男子って女子より成長遅いからさ、きっと頭の中、まだ小学生なんだよ」
それは言えてる。ていうか永遠は、成長しないというより退化している。このまま幼稚園生まで戻っちゃえば、少しはかわいいのに。
「ほんと、男子ってガキだよね」
わたしの声に、茜がにこやかにうなずく。
成績優秀、運動神経も抜群で、モデルみたいに綺麗な茜。五年生まで通っていたスイミングスクールでも、かなりいい成績を残していたらしい。友だちもたくさんいて、いつもクラスのまとめ役だった。
いまでも隣の教室をのぞくと、茜はたくさんのひとに囲まれている。
反対にわたしは、成績は中の下、運動も得意ではなく、顔もたいして可愛くない。
小さいころから人付き合いが苦手でのろまだったから、気づくといつも、まわりにできあがった女子グループに入れずにいた。
それでも小学生のころは茜がいたから、なんとかやっていけたんだ。でも中学生になって茜と離れ離れになると、わたしはうまくクラスに馴染めず、教室の片隅で息をひそめて一年を過ごした。
そして今年もやっぱり、新しいグループに入りそこね……ぼっち確定。
もし茜と同じクラスだったら、わたしの中学校生活も変わっていたと思うのに。
「茜ー、バイバイ!」
「バイバイ、またね」
茜が女の子たちに手を振っている。わたしはそんな茜の横顔をちらりと見ながら考える。
茜はなぜか、いつもわたしと一緒に帰る。一年のときからずっとそうだ。
もちろん家が近いっていうのはあるけれど、人気者の茜だったら、絶対誰かに声をかけられるはず。
スポーツだって得意だから、運動部にも誘われていた。
それなのに茜は部活もせず寄り道もせず、必ずわたしと一緒に帰る。
なんでだろう。ぼっちのわたしに気を使ってくれているのかな。
「あ、そういえばさ」
昇降口で靴を履きかえるとき、わたしは茜に聞いた。
「茜、三者面談の希望日、いつにした?」
「三者面談? あー、いつだったっけかな」
靴を履き、つま先で床をとんとんっと叩いている茜が顔を上げる。
「進路のこととか聞かれるんだって。親と一緒に」
わたしの言葉に、茜はふうっと小さくため息をついた。
「そんなのまだ、わかんないよ」
小学生のころから進学塾に通っていた茜は、中学受験を失敗してしまい、わたしと同じこの公立中学にきた。
だけどすぐに立ち直り、学年でも常に上位の成績をキープしている。
きっと高校も、このあたりでトップの学校を目指すんだろうな。
昇降口を、茜と並んで出る。
朝から降っていた雨はお昼過ぎに上がり、わたしたちは丸めた傘を持ち、水たまりを避けながら歩く。
一匹の蝶が春風に乗って、わたしたちの前を横切るようにひらひらと飛んでいく。
「わたしさ、なりたいものも、やりたいことも、なんにもないんだよね」
わたしの耳に、茜のちょっと硬い声が聞こえた。
「将来の夢も希望もなくてさ。わたしってなんのために生きてるんだろうね」
「そんなの……わたしだってないよ」
たぶんクラスのほとんどの子が、そう思っている。思っているけど、あんまり深く考えない。考えたくない。
すると茜が前を見たまま、ふふっと笑った。
「だったらさ、生きてる意味なくない? わたしなんかもう、明日死んじゃってもよくない?」
わたしは心の中でつぶやく。「またか」って。
オレンジ色になりはじめた空を見上げて、茜が口を開く。うっとりとした顔つきで。
「死にたい……」
その言葉は茜の、最近の口癖だ。
「アイス食べたい」「ジュース飲みたい」それと同じように茜は口にする。「死にたい」って。
「わたしは嫌だな。死ぬのってきっと痛いか苦しいよ。わたしそんなの嫌だもん」
わたしが言うと、茜は声を上げて笑い出す。
「そうだね。わたしも痛いのも苦しいのも嫌。苦しまなくて死ぬ方法ってあるのかな? 今度ネットで調べてみよ」
死ぬつもりもないくせに、どうしてそんなこと言うんだろう。
茜はたぶん、自分で自分に酔っている。
そしてわたし以外のひとに、こんなことは言わない。
学校での茜は、絶対に弱音なんか吐かない、誰からも頼りにされる存在だから。
茜の長い髪が風になびく。まるでシャンプーのCMみたい。
すれ違った数人の男子高校生が、にやけた顔で茜のことを見た。茜はその視線に気づいているのかいないのか、ただまっすぐ前を見つめている。
茜は中学に入ってちょっとだけ変わった。どこがって言われても困るけど、なにかがちょっとだけ変わった。
住宅街から国道に出て、古い歩道橋を渡る。うちの学校の生徒でここを通るひとは、あんまりいない。その真ん中で、ふと茜が立ち止まる。
「あれ、あそこ」
わたしも足を止め、振り返る。茜は歩道橋の手すりに手を置いて、車の行き交う車道を見下ろす。
片側二車線の直線道路は、排気ガスと騒音にまみれて、どこまでもまっすぐ続いている。
落ちかけた夕陽がそんな雨上がりの街を、ほんのりオレンジ色に染めていく。
「あそこなんにもなくなってる」
茜の指さす国道沿いに、一か所だけ空いた土地が見えた。
ビルとビルの谷間。そこだけぽっかりと、異次元に続く穴ぼこみたいに。
「ほんとだ。でもあそこ、前はなにがあったっけ?」
「うーん……ファミレスでもないし、コンビニでもないし……思い出せない」
茜と一緒に国道を見下ろし、頭をひねる。たしかに更地になる前は、なにかが建っていたはずだ。それがなんだか思い出せない。
街はめまぐるしく変わっていく。わたしの友だちも変わっていく。
わたしだけが、ひとり置き去りにされたような気持ちになる。
「帰ろ。今日水曜日だった」
茜が思い出したようにそう言った。
「あ、なっちゃんが来る日だね」
「うん」
うなずいて歩き出す茜のあとを、わたしは黙ってついていく。
なっちゃんは、わたしと茜と永遠の家庭教師だ。
本名は
お母さんにはちゃんと「先生」って呼びなさいと言われているけど、わたしたちは「なっちゃん」と呼んでいる。なっちゃんも「べつにいいよ」って言うから。
家庭教師を紹介してきたのは、教育熱心な茜のお母さんだ。
中一になって茜が進学塾を辞めることになり、どこか別の塾に入るまでの間、週に一回二時間だけ家庭教師に来てもらうことになった。それでわたしと永遠の家にも、お宅もどう? と勧めてきたんだ。
最初は戸惑ったけど、わたしは部活も塾も行ってなかったし、中学の勉強は不安だったし、週に二時間だけならいいかなって思った。永遠もたぶんそんな感じだろう。
月曜日がわたし、水曜日が茜、金曜日が永遠。
そして今日は水曜日。なっちゃんが茜の家に来る日だ。
わたしも茜も、たぶん永遠も、なっちゃんと話すのが楽しみだった。
なっちゃんはわたしたちより少し大人で、でも完全な大人じゃなくて。
先生なんだけど、先生っぽくなくて。
そんなところがいまの中途半端なわたしたちに、ぴったりはまったんだと思う。
また住宅街の中に入って、茜の家の前で立ち止まる。茜は小学生のころに、ここへ引っ越してきた。
おっとりした印象のお母さんは、遊びに行くといつも家にいて、手作りのお菓子を作ってくれた。
海外出張の多いお父さんにあまり会ったことはないけれど、たまに日本へ帰ってくると、「いつも茜と仲良くしてくれてありがとう」と、わたしにまでお土産をくれる。
ひとりっ子の茜と、やさしいお父さんとお母さん。愛情をたっぷり受けて、不満なんかなさそうなのに、「死にたい」なんて言う理由がわからない。
きっと茜も永遠も、「死」というものを身近に感じたことがないんだろうな。だからこんなふうに軽々しく口にできるんだ。
そういうわたしだって、身近なひとが亡くなった経験なんてないけれど。
「じゃあ」
声が聞こえてハッとする。可愛らしいカントリー風の茜の家には、オレンジ色の灯りが灯っている。
「うん、じゃあね」
いつものようにそう言って、手を振り合ってわたしたちは別れた。
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