木曜日 1
朝、制服を着て鏡を見ると、頭がひどいことになっていた。
ドライヤーで直さないと、さすがにまずい。
言うことを聞かない、ごわごわした真っ黒いこの髪が、わたしは大っ嫌いだった。
食事の並んでいる台所に行くと、隣の居間でお母さんがお父さんに鋭い言葉を投げつけていた。
「おばあちゃんが言うことをきいてくれない」
「昨日もデイサービスに行くのを嫌がった」
「わたしにばっかり押し付けないで、あなたも手伝って」
「あの人は、あなたの母親でしょう?」
わたしはその声を聞きながら、冷めてしまった朝食を食べる。お母さんの作ってくれた目玉焼きもウインナーもひやりと冷たい。
お父さんは困ったようにひと言ふた言言い訳をして、逃げるように会社へ行ってしまった。
「まったくもう!」
機嫌悪そうなおかあさんが台所へ来た。とばっちりを受けたくないから、わたしはさっさと食器を流しに運んで支度を進める。
「なんでわたしばっかり!」
お母さんはわたしのことなど見えないかのように、ため息と文句をひたすら繰り返す。
おばあちゃんが寝たきりになって、この家に笑顔が消えた。お母さんはいつもピリピリしていて、お父さんはそれが嫌で家に寄りつかなくなって、遊びに忙しいお姉ちゃんは知らんぷり。
おばあちゃんが悪いわけじゃないのにな……
「あっ」
リュックを背負って住宅街の道路に出たら、ちょうど近所の家から制服を着た男の子が出てきた。
永遠だ。サイアク。
永遠がじろっとわたしを睨む。わたしはぷいっと顔をそむける。
小学生のころは近所の子と登校しなければいけなかったから、ここから一緒に行ったけど、いまは永遠に会わないように家を出る時間を調整している。
だけど今日はいつもよりちょっと遅かったんだ。明日はもっと早く出なくちゃ。
わたしは永遠の前を通り過ぎ、足を速める。そんなわたしの背中に声がかかった。
「おい」
聞こえていたけど、聞こえなかったふりをする。
永遠とは関わりたくない。関わるだけ損をする。
すると突然後ろから、わたしの知らない強い力で腕をつかまれた。
「ひっ……」
「待てよ、蝶子!」
立ち止まって振り返る。永遠が機嫌悪そうな顔でわたしを見ている。
びっくりした。いつのまに永遠は、こんな力が出せるようになったんだ?
「な、なによ」
わたしはさりげなく、永遠の手を振り払う。
色素の薄い、永遠のやわらかそうな髪に、朝の日差しが当たってキラキラしている。
わたしが唯一好きだと思う、永遠の一部。
うらやましい。わたしの髪と取り換えて欲しい。
永遠は手を引っ込めて、顔をしかめた。
「なんでおれのこと無視すんだよ」
その答えは簡単だ。あんたのことが嫌いだからに決まってるでしょ。
心の中で吐き捨てて、わたしは永遠の髪から目をそむける。
「なんだよ。言いたいことあるなら言えよ」
「……べつに」
永遠の頬がかぁっと赤くなって、怒鳴りつけるように言う。
「だったら教室でこっち見んな! いちいちうぜぇんだよ!」
わたしの胸にまた、棘が刺さる。
永遠はわたしを押しのけるように追い越して、走っていってしまった。
「なんなのよ……」
その姿が見えなくなると、わたしは深くため息をついた。
あいつはどうしてあんなこと言うんだろう。その言葉で傷つく人がいるって、中二にもなってわからないのかな……
永遠は、バカだ。
永遠とわたしは、記憶のないほど小さいころからずっと、ここに住んでいる。
永遠のお父さんは大学教授。ちょっと年をとっているけど、真面目そうで頭も良さそう。
いつもカッコいいパンツスーツのお母さんは、なんとかカウンセラーだかなんとかアドバイザーだかで、いろんなところで講演会をやっている。「リコン問題」とか「子育てアドバイス」とかを話しているらしい。
「すごいよねぇ、永遠くんのお母さん。この前もテレビに出てたよ」
テレビの前でおせんべいをバリバリかじりながら、うちのお母さんが言っていた。
そんなわけで、永遠のお父さんもお母さんも昔から忙しかったから、小学生の永遠はよく、わたしの家に遊びに来ていた。
ヒーロー番組が大好きだった永遠の憧れは、正義のヒーロー。たしか六年生ごろまで、あいつは本気でヒーローに憧れていた。わたしはそんな永遠のことを、ガキだなぁって子ども心に思っていたけど。
それが中学生になって、もううちに遊びに来なくなったころから、永遠は人に言ってはいけない言葉を使うようになった。
それは笑いながら意味もなく言うこともあったし、本当に誰かに向けて言うこともあった。
わたしはそんな永遠の声を耳にするたび、いつも胸がひりひりと痛む。
永遠は全然、正義のヒーローなんかじゃない。むしろわたしにとって、悪役でしかなかった。
「茜ー、蝶子ちゃんが来てくれたわよー」
茜の家に寄ると、茜のお母さんが出てきて茜を呼んだ。パーマのかかった髪を、ふわふわと揺らして。茜のお母さんは、いつもお花のような匂いがする。
「ちょっと待っててね、蝶子ちゃん」
「はい」
うなずいたわたしに「ああ、そうそう」と、おばさんがなにかを思い出したように言った。
「蝶子ちゃん、塾に行く気はない? 茜と一緒に」
「え?」
「オススメのところがあるのよ。おためしだけでも行ってみない?」
わたしはおばさんの前で苦笑いをする。塾なんて行きたくなかったし、きっとうちのお母さんも、「まだいいわよ」って言うと思う。
「お母さん」
そんなわたしたちの後ろから、制服を着た茜が現れた。
「どうしてチョコまで誘うのよ」
「だって茜。蝶子ちゃんと一緒なら心強いじゃない?」
「大丈夫。行くときはひとりで行けるよ」
そう言って茜はわたしを外に出し、「行ってきます」とドアを閉めた。
茜の家のドアにぶらさがっている、木でできた、『MIYAZAKI』とかかれた可愛らしいプレートが、カランと揺れる。
「ごめんね、うちのお母さん、しつこくて」
「ううん」
わたしは茜と歩きながら首を横に振る。
「茜、塾行くの?」
「うーん、考え中。でもそろそろ受験対策したほうがいいって、お母さんが」
茜が小さく笑って言う。
「お母さんはなっちゃんの家庭教師も、そろそろやめようかって言ってるの」
「えっ、やめるの?」
「最初から、塾に行くまでの間って約束だったし」
茜はやめるかもしれない。茜はお母さんの言うことに絶対逆らわない。
小さいころからずっとそうだった。そうやって成功してきた。
ただ一度だけ、中学受験をのぞいては。
茜は完璧だったから、あの失敗をまだ引きずっているのかもしれない。
だからもう、絶対失敗しないように頑張って、頑張って……でもそんな張りつめている心がぷっつり切れて、「死にたい」なんて言い出すようになっちゃったのかな。
学校へ向かって歩道橋を渡る。今日も朝から交通量が多い。あの空き地には、まだなにも建つ気配がない。
茜の少し後ろを歩きながら、どこまでも続く道路を眺めた。
車は一定の方向へ、順序良く並んで走っていく。
わたしもあの車と同じだな。
みんなと同じ方向へ、同じスピードで走っていく。ひとりだけスピードを上げたら事故に遭うか、警察に捕まる。
今日は木曜日。なっちゃんが来る月曜日まで、まだ四日もある。
わたしは今日もあの教室のあの席に座って、決められた授業を決められた時間まで、息をひそめて受けるだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます