【後日談】桜、春の豚汁、虹を見る (『ちどり亭にようこそ』)
『ちどり亭にようこそ』1~4巻(KADOKAWAメディアワークス文庫)の後日談。
本編のネタばらしをしていますが、あまり支障はないかも。
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埼玉のおばあちゃんからもらった野菜を送ります。
莢ちゃんがちゃんとお料理するようになって、お母さんはうれしく思っています。
女の子はやっぱり料理ができないとね。
お正月に莢ちゃんが帰ってこなくて、おばあちゃんが寂しがっていました。夏休みには帰ってきてね。またメールします。
お母さんより
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じゃがいも、にんじん、アスパラガス、玉ねぎ、スナップえんどう。
発泡スチロールの箱に詰まった野菜の中央に、巨大なキャベツが丸ごと鎮座している。
手紙の二枚め以降にびっしりと書かれたレシピには、「ロールキャベツ」「アスパラとにんじんの肉巻き」「キャロットラペ」の小見出し。名前だけで面倒だとわかるラインナップ。
手紙を手にしたまま、しばらく呆然としていた。
時代錯誤な昭和のジェンダー観は、今に始まったことじゃないけど。
ひとり暮らしの娘のところに、キャベツひと玉はないだろうと思う。青虫じゃないんだから。
冷蔵庫に移して、野菜たちの死を罪悪感とともに待つ。それがこれまでのパターンだったけど、食べきれるわけもない丸ごとのキャベツを見ると、その気も起こらない。
発泡スチロールのふたを閉めて、見なかったことにしよう……と思い、だけど、思い直して再びふたを開けた。
携帯端末で中身の写真を撮って、メールを送る。
「親に干渉されたくないなら、自立したところを見せろ」
🍚 🍚 🍚
春休みのうちからもうすでに、キャンパスは賑やかだった。
声と形容するには曖昧な、人の気配のようなものが満ちている。
植物育成棚の水やり当番だったのを思い出し、十時くらいに研究室に行くと、暖房なしでも平気なくらい部屋の中が暖かい。
窓の外では桜が散っているのが見える。新入生や勧誘にいそしむサークルの団体の姿も。
「あっ、村上さん、またゼリー食ってる!」
窓際でチューブ入りの栄養補助食品を立ち食いしていたら、研究室に入ってきた後輩が声を上げた。
「あげないよ」
ロッカーにあるストックを狙っているのかと思って答えたけど、彼はあきれたように言った。
「いりませんよ。ってか、まじで倒れますよ。ちゃんと食わないと!」
「食べてるよ。昼は学食でちゃんと食物繊維とタンパク質、ビタミン摂ってるし。ゼリーは朝晩だけだよ」
「そこまで栄養意識するなら、ちゃんと食べましょうよ……。コンビニ飯でもゼリーよかマシですよ」
「買い物にいくのも、面倒」
「……村上さん、白衣でごまかしてるつもりかもしれませんけど、下、パジャマですよね? ちゃんと顔洗いました?」
「うるさいな……お母さんか!」
水やりも終わったことだし、小言もわずらわしいので帰ることにする。
パジャマはその通りだけど、顔はちゃんと洗ったのだ。
研究棟から出ると、風に吹かれて桜がすごい勢いで散っていた。
なんとなく、大学に入った当初を思い出した。
かつて親密だったような気がしなくもない白河くんと会ったのは、入学して間もないころだった。
たまたま帰り道にキャンパスで行き会い、「あ、この前ナントカの会で会った顔のきれいな人!」という程度の認識で、門までの道を歩いていた。当時は私もまだ、ちゃんと毎朝着替えて、化粧をしていた。
「桜は一斉に散るなあ」
桜吹雪に目をやって、彼は感慨深げに言った。
「だってクローンだもん」
私は何の気なしに答えた。
「あれ、みんなソメイヨシノでしょ。交雑で生まれたけど、ソメイヨシノ同士では交配できないんだよ。結実しても発芽しない。この世にあるソメイヨシノは、みんな一本の原木から接ぎ木で増やされたクローンなの。同じ遺伝子だから、土壌や気温や日当たりなんかの条件が同じなら、一斉に咲いて一斉に散る」
彼は私の顔をまじまじと見た。
「いや……儚いとか、淋しいとか、切ないとか……『花の下にて春死なむ』とか、『君とし見てば我恋ひめやも』とか」
どうしてそこまで、というくらい、彼は動揺していた。
彼がちょっと特殊な家の生まれだというのは、ずいぶん後になってからわかったことだ。
抒情の世界、様式美の世界にいた彼は、散る桜を「だってクローンだもん」で片付ける人間がいるなんて、思いもしなかったのだった。
「情緒の話? プログラム通りに一斉に開花して一斉に散っていくのは美しいと思うよ」
リカバリのつもりで言うと、白河くんは感心したように答えた。
「……なるほどなあ。そういう感性もあるのか」
彼は花が好きらしかった。
アパートに来るようになると、勝手に花瓶を持ち込み、牡丹や百合を飾っていた。
私だって後には植物のシグナル伝達の研究をすることになるのだし、花はきれいだと思った。でも、興味があるのは生体メカニズムであって、切り花を愛でる習慣はなかった。
それでも、面倒くさがりな私にしてはこまめに、花瓶の水を替えていた。
来たときに花が枯れていたら、彼が気の毒だと思って。
🍚 🍚 🍚
まだ二回しか会ったことのない人を白衣とパジャマで迎えるのはさすがに失礼かと思い、帰宅してからワンピースに着替えて化粧もした。
やってきた
水色に白いすずらんの柄の入った着物に白と銀色の格子柄の帯を締め、レース模様のコートを着ていた。
「アスパラは、根本の方を持って、折り曲げるようにするでしょ。そうすると、一か所でぽきんと折れる。ここが柔らかい部分と硬い部分の境目ね」
コートを割烹着に替えた彼女は、アスパラを折ってみせる。
「根本は、今回は捨てずにごはんと一緒に炊くわ。これはごはんにアスパラの風味をつけるためね。あとね、そんなに頻繁に使わないなら、割高でもバターは小分けのものを買うのがいいわ。すぐに使わない分は、保存袋に入れて冷凍しちゃえばいいのよ」
気がつけばいつの間にか、自宅の狭いキッチンで料理をするはめになっていた。
「あのー……私、『野菜を引き取ってくれない?』ってメールしたんだけど」
ピーラーでにんじんの皮を剥きながら、控えめに抗議してみる。
野菜を箱ごと譲ろうと思っていたのに、やってきた彼女は
「バターと豚肉と干しエビを買ってきたわ!」
と嬉々として言った。
その場でいっしょに料理する気満々だった。
花柚さんは目を丸くして、私の顔を見た。
「あら。ちゃんと自分で料理しているところを見せて、『自分で食材を買ってるから、もう送らなくても大丈夫だ』って思わせる作戦なんでしょ?
美津くんというのは白河くんのことだ。
彼女は彼の親戚なのだ。「いとこ」だか「またいとこ」だか、忘れたけど。弁当屋兼仕出し屋をやっている。
「そうだけど、やっぱり面倒くさいからね……」
「今日いっしょに作ったら、しばらくは温めるだけでごはんが食べられるわよ。お母さんに嘘をつかずに済むし、ちゃんと料理してますってことになるわ。……もちろん、心底嫌ならやめるけど」
彼女は少し心配そうに私を見た。
「前にお料理したとき、嫌だった?」
秋に私が風邪で寝込んだとき、白河くんに呼ばれた彼女が、お母さんから送られてきた野菜を全部下処理してくれた。
その好意を無下にはできず、しばらく自炊していたのだ。
私はしばし考える。
「……あれは、花柚さんが切ったり皮剥いたりしてくれてたし。フライパンとかお皿を洗うのは面倒だったけど。……嫌で仕方ないって感じではないね。進んでやりたいわけじゃない、ってくらい」
どちらかと言えば、気分は落ち着いていた。
野菜を腐らせずに済んだし、まともな生活をしている感じもあって。
下処理してもらった野菜と、買い足した食材を使い切るまでは、二週間くらい自炊していたのだ。やっぱり億劫で、続きはしなかったけど。
「じゃあ、やりましょう! 大丈夫よ。調味料をひとつかふたつしか使わないレシピを選んだの。下ごしらえも最低限よ」
花柚さんは、キャベツを持ち上げた。
「これもね、大きく見えるけど、使いはじめたらあっという間よ。春キャベツだから、巻きがゆるくて、中身が詰まってないの。甘くて柔らかくておいしいわよう」
お米を洗い、もどし汁といっしょに干しエビを入れる。アスパラの固い部分を置いたら、炊飯器にセットする。
にんじん、じゃがいも。
私がピーラーで皮を剥いた野菜を、花柚さんが包丁でカットした。
正直にいうと、花柚さんのことはちょっと苦手だ。
会う前には、「こんな手の込んだ弁当を作るなんて、うちのお母さんみたいにストレスをため込んでいるにちがいない」と思っていたし、今もちょっと怖い。
いい人だし親切だとは思うけど、完全に異文化の人だという感じがする。
顔見知りレベルの私の家に、どうして二回も料理しにくるのか。行動原理が本当にわからない。
「うちのアルバイトの
アスパラを1センチ角に刻みながら、花柚さんは話した。
彼女や、その兄弟子だという松園さんの語る白河くんは、怠惰でひねくれ者で、子どもっぽい。完全に末っ子の扱いだった。
私の知っている彼とは、少しちがう。
「朝起きられないし、大学もよくさぼってたけど……白河くんは出歩くのが好きなんだと思ってた」
手渡されたキッチンばさみでキャベツを切り、私は言った。
一回生から二回生にかけての一年ほどは、頻繁に外へ連れていかれた。
吉田山の東側にある大正時代の街並みとか、観光客のいない場所の青紅葉とか。
出不精の私は「結構面倒くさい人だな……」と思っていたのだ。
家に持ち込まれる花の水替えと同じで、親密な時期だったから文句は言わなかったけど。
それを話すと、花柚さんは目に見えてうろたえた。
「え、え、あの、ちがうと思うわ」
アスパラを耐熱容器に移す手を止め、手を開いたり握ったりしてそわそわする。
「ああ~! どうしたら」
うめいたあとで、ふるふる頭を振っていたけれど、突然、両手をパン! と打って目を閉じた。
決意したように、私のほうに顔を向けて言う。
「お花も青紅葉も、家業の関係で好きだと思うけど。美津くんは出不精だし、面倒くさがりだし、うちにお花なんて持ってきたことありません!」
はい、この話は終わり!
切り口上でそう言って、耐熱容器に塩を振り、小分けになったバターを落とした。
しばしの沈黙。
さっきまでの狼狽が嘘みたいに、花柚さんは声を弾ませた。
「アスパラは炊飯器でいっしょに炊いちゃうと、熱の通しすぎで食感が悪くなるの。本当は、バターで炒めて水分を飛ばしたほうがいいんだけど。今日は『できるだけ手間を省いて、最大限においしく!』がテーマだから、電子レンジでチンしちゃうわ」
アスパラ以外の野菜を鍋に放り込み、火にかける。
「お母さんがレシピに書いてたアスパラの肉巻きもおいしいのよ。にんじんといっしょに巻けば、彩りもいいし、手間のわりに豪華に見えるし、ちどり亭でもよく作るわ。アスパラをフライパンで蒸し焼きにして、ゆで卵で作ったタルタルソースをかけるのも、春らしい色合いですてきよね」
花柚さんはキッチンばさみや包丁を洗いはじめる。
食後の洗い物は面倒くささ倍増だから、できるだけ食べる前に片付けておくのだそうだ。
「料理が好きで、うらやましい」
私は言った。
心底、そう思った。
偏差値の高い大学に入っても、研究者になっても、そんなのはお母さんにとっては価値のないことだ。
親の望むように生きようとはまったく思わないけど、期待に応えられないことが平気なわけじゃない。
「面倒くさくならないの?」
チューブに入っただし入り味噌を受け取りながら、尋ねた。
「そりゃあ、なるわよ。『揚げ物が食べたい気分!でも揚げたり油を片づけたりするのが面倒!』って日もあるわ。そういうときは、お店で売ってるものを買ったり、外に食べに行ったりもするけど。でも、ふだんのごはんはね、自分で作ったものを食べるほうがおいしいのよ」
「それは、料理のプロだからでしょ」
「わたしが天才だってことは否定しないわ。でもたぶん、他の人でも同じ。大失敗しなければ、作り立てのものってたいていおいしいの」
この人、自分で自分のこと天才って言った……。
「それにね、おいしいものができるとハッピーでしょ。わたし、『天才の味! 感動!』って思っても、自分ひとりしかそれを知らないのがもったいないと思ったの。家族に食べさせたりもしたけど、まだ足りない。『これ、すごーくおいしいですよ! 食べて!!』って全人類に食べてほしいと思ってたわ。お料理を仕事にしようとしたのは、それもあるのかも」
言いたいことはわかった。
「おいしさをだれかと分かちあいたい」ということなのだろう。
似た体験を自分の中からひっぱり出すことはできなかったけれど、理屈はわかった。
彼女は少し考えてから、言葉を付けたした。
「お外を歩いているときに、虹を見るとうれしいじゃない。近くにいる知らない人に『見て! 虹ですよ!』って教えたくならない? それと同じ」
それなら少しわかる気がした。
めったに見られないうえに、美しい。虹は心をときめかせる。
きれいなもの、優しいもの、めずらしいもの。
ひとりで見ても、いい。だけど、ひとりで味わうだけでは得られない喜びがあるのだ。
だれかと「きれいだね、すてきだね」と共感しあうことでしか感じられないことが、確かにある。
🍚 🍚 🍚
アスパラと干しエビの混ぜご飯と、春野菜の豚汁。
花柚さんが持ってきてくれただし巻き卵と、わかめと筍の煮物もあわせて、写真を撮った。
セットした折り畳みテーブルで、花柚さんとふたり、手を合わせて「いただきます」。
まずは豚汁。
春キャベツはやわらかく甘く、じゃがいもはほっくりとして、味噌ともやわらかい豚バラ肉ともよくあった。にんじんのオレンジとスナップえんどうの緑色が彩りを添えている。
ごはんと一緒に炊き込んだピンクの小エビは、香ばしい食感を残しつつも水分を含んでふっくら。
炊き込まずに後から混ぜ込んだアスパラは、鮮やか緑色としゃきしゃきとした歯ごたえを残し、噛むと春らしい青い香りと塩気、バターの風味が混ざり合う。
「おいしい」
私が言うと、花柚さんも顔を明るくした。
「電子レンジフル活用でも、天才的な味がするわね!」
身もだえせんばかりに言う。
「お味噌とじゃがいもは相性抜群ね! 今回はアスパラごはんでバターを使ったから入れなかったけど、シンプルに白いごはんといっしょに食べるときは、豚汁にバターやチーズを入れてもおいしいのよ。春野菜がいっぱいだから、洋風スープみたいになって」
話しながら、だんだん興奮してきたらしい。
「結婚してから、まだ家で豚汁は作ってないの。
白河くんの仏頂面の友だちのことを思い出す。
彼は、妻のこの妙なテンションの高さを前に、いったいどんな顔をしているのだろう……。
私はまったくついていけないけれど、少なくとも彼は、食事の時間が苦痛ではないだろうと思った。
おいしいものが好きな人が、「あなたのため」でなく「わたしのためにシェアしたい」で作ったものだからだ。
実家での食事を思う。
きちんと箸置きにセットされた箸。スープか味噌汁。ごはんに、海藻をメインにした小鉢。メインディッシュは魚か肉で、野菜や豆類を使ったおかずが四品か五品。
真面目で、家族思いのお母さん。
「天才的」ではないかもしれないけれど、たぶん、料理上手だし、栄養のことを考え抜いていた。
でも、私はおいしいと思った記憶がない。
食事の時間は、楽しいものではなかった。
お母さんは「主婦たるもの、家族のために健康的な食事を作らなければならない」と気負って疲れ、ぴりぴりしていた。私も父も兄もそれに応じて「残さずに食べなければならない」と義務感に駆られていた。
「家族のために」が空回りしていた。
なんて不幸なことだろう。
よかれと思ってやっているのに。
「うちのお母さんも、たまにはさぼったり手抜きしたりして、『すっごくおいしいんだから食べて!』って思えればよかったのにね」
言いながら、淋しくなった。
白河くんが言ったように、人を変えることなんて、できないのだ。
お母さんはきっと、これからも「~しなければならない」と思いながら生きていく。
そして、その義務感にしたがって小言を言ったり、自分の思うルートに子どもをのせようとしたりすることでしか、愛情を示せない。
思いあがっているのかもしれないけれど、痛ましい、と思った。
母親を、初めてひとりの人間として客観的に見たような気がした。
「そうねえ。でも、人を変えようとしても変えられないけど、相手が影響を受けて勝手に変わることはあるから」
おいしい! 革命的! と自画自賛しながら筍を食べていた花柚さんは、屈託なく言った。
「いいじゃない、莢子さんは『虹を見て!』の気持ちでやっていれば。お料理に限らず、研究の話でもね。『すっごくおもしろいの、聞いて!』って楽しそうにやっていたら、お母さんもいつか『そっちのほうがいいな』って思うことがあるかもしれないわ」
🍚 🍚 🍚
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野菜をありがとう。
料理を仕事にしている人に教わって、送ってもらった野菜でごはんを作りました。
手前のアスパラと小エビの混ぜごはんと、春野菜の豚汁がそれです。
アスパラは、火を通してバターと塩で味付けしてから混ぜるそうです。
夏休みはどうなるかわかりませんが、予定が決まったら連絡します。
莢子
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花柚さんが帰ってから、お母さんに写真付きのメールを送った。
久々に化粧をしてまともな服を着たので、大学以外の場所にも行ける。
アパートから坂道をくだって、大通りへ出た。
賀茂大橋の向こうにある種苗店へ行こうと思ったのだ。
鴨川の上は空が広い。
左岸にも右岸にも桜が咲いて、シートを広げて花見をしている人がたくさんいた。
上流側には、陽光の中、はしゃぎながら飛び石を渡る人々。
日が少し傾きかけて、西の空は乳白色を帯びた色合いになっていた。春特有のとろとろとした空気の質感。
川風に髪がさらわれる。桜がどんどん散っていく。
――美津くんは出不精だし、面倒くさがりだし、うちにお花なんて持ってきたことありません!
桜からの連想で、花柚さんの言葉を思い出した。
そして、本当に唐突に、理解した。
牡丹も百合も青紅葉も。
十九歳の彼の「虹を見て!」だったのだ。
私は幼稚で自分のことしか考えていなかったから、きれいなものを人に見せてあげようなんて発想がなかった。当然、彼がそうしてくれようとしていたなんて、考えもしなかったのだ。
時間が経ちすぎていて、後悔の気持ちは起こらなかった。
ただ、気の毒だなあ、と思った。
徒労を感じ続けたであろう白河くんも、気づかなかった私も。
🍚 🍚 🍚
奇跡のようなタイミングで白河くんに会った。
種苗店からの帰り道、賀茂大橋を渡り切ったところで、道の向こう側を彼がこちらに向かって歩いてきたのだ。
秋に会ったきりだから、半年ぶりだった。私のアパートは大学の東に、彼の家は西にあるので、遭遇するのがまれなのだ。
彼も気づいたらしく、眉を上げる。
ネイビーの薄手のコートを着ていた。
パジャマで大学に行く私とちがい、彼は怠惰なようで、いつもきちんとした服を着ていた。
横断歩道の信号が青になるのを待って、私は道路を渡った。
彼は、私の鎖骨に目をやって笑った。
「まともな格好をしてると思ったら……ヤク中が堂々と外を歩くな」
私がつけていたペンダントトップは、テトラヒドロカンナビノールの構造式の形をしていた。
大麻に含まれる向精神薬だと、以前教えたことがある。
「花柚さんは、『変わった形のペンダントね』って」
「ん? 花柚と会ったのか」
事のいきさつを簡単に話した。
もう彼が家に花を持ってくることはないし、きれいな風景を見せてくれることもない。
私がお返しに「虹を見て!」をやるには、機を逸しすぎている。
それは淋しいことなのかもしれないけれど、思った。人生ってこういうものなんだなあと、事実として。
時間は戻らないし、後でしかわからないことはあるし、タイミングが合わないこともある。
そういうものとして、経験をフィードバックして生きていくしかないのだ。
「私、豚汁って冬にしか食べないものだと思ってた」
私は言った。
せめて、あなたがつないでくれた縁は私を助けていますよ、と伝えたいと思ったのだ。
「具はごぼうとにんじんと大根じゃないといけないと思ってたし。キャベツとじゃがいもの豚汁もおいしかったよ」
彼は両手を広げた。
「それは
「どこへ」
「花柚がお前の家へ来て、わざわざ一食分だけ作らせて帰るはずがない」
「ごちそうするなんてひとことも言ってないけど」
「実は、俺は花柚の雇用主になった。従業員の指導した料理は俺のものだ」
「めちゃくちゃすぎる。……雇用主ってどういうこと? あなた、お金持ってないでしょ」
「ははは。それがそうでもないのだ」
白河くんが大股で歩いていく。
まあ、いいか。
幸い、親愛の情だけは残っている。
「ね、おいしいでしょ」と言うのも悪くない。
ただの知人や友人にだって、虹を見せてあげることはできるのだ。
〈了〉
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