第七章 最近なんだか明るいじゃん

     1

「はあ、それでそのぬまなんとかってのにネチネチやられているうちに、いつしかその嫌悪感や恐怖がお母さんの件とぐちゃぐちゃに絡み合ってしまってたってことか」


 津田沼でなく津田である。

 たかふたは横になったダルマのようにあぐらをかいた体制のままずっと床に背をついていたが、よっこいしょと声を掛けて器用に起き上がった。

 テーブルの対面にいるしんどうりようは、元気なげに頷いた。


「そういうこと、だと思っている。他人事みたいだけど、深く考えたくなんてなかったから。でも入部してすぐに自分自身との付き合い方にも慣れて、開き直ることも出来て、まあ下手で笑われてもいいから楽しもうって上手にやれていたつもりではいたんだけどね。……とはいえ、家に帰るといつも一人でめそめそ泣いていたんだけど」


 良子は少し口をつぐんだが、すぐにまた口を開き、続けた。


「その反動なのか、こっちに越してきてからは毎日がほんと楽しくてね。やり直すぞ、取り戻すぞ、生まれ変わるぞって。でも、こっちに来ようとも家庭でのことが解決したわけじゃない。その問題に触れそうになってしまう度に、あたしはお母さんがいなくなったあの時のどうしようもない気持ちを思い出してしまって……。あの時に戻れればいいのに、って考えても仕方のないことを考えてしまって……」

「そんなに自分を責めることなんかないってのに。別にそれ、良子だけの問題じゃないでしょ。というか完全に両親二人だけの問題じゃないか」


 力強く弁護するあしに、良子は淋しそうな笑みを返したのみで、言葉を続けた。


「この前のことなんだけどね、うちでまたお母さんの話が出てしまって……家族はすぐにあたしの状態を察してやめてくれたんだけど、でもあたしの気持ちはなかなかもとに戻らなくって……そんな、気持ちが弱っている時に、中学の友達から津田先輩が関東に越してきたって話を聞いちゃってね。タイミング最悪だよね。あたし、なんだか震えが止まらなくなっちゃって……」


 力ない笑みを浮かべつつ、良子は続ける。


「別に先輩が佐原南に転校してきたわけじゃないだろうし、気にする必要なんかないと分かってはいるんだけど、でも、考えるなというのは無理な話で、考えると身体が震えちゃって……もうどうしようもなくぶるぶると震えちゃって……寒くなって、頭が真っ白になっちゃって……気がつくと泣きわめいていて。考えたくなんかないのに……思い出したくなんかないのに!」


 良子はどんと乱暴に両肘をついて、頭を抱えた。呻き声を上げ、がりがりと頭を掻いた。


「良子、辛いんなら無理に話そうとしなくてもいいんだよ」


 芦野留美は、優しい声を出しながらそっと腕を伸ばし良子の背中をなでた。

 ぽんぽん、と軽く叩いた。


「ありがとう、留美ちゃん。……でも、大丈夫……昨日、部室で、主将に全部、話した、ことなんだから。話したら、ちょっとだけすっきりして、ちょっとだけ落ち着いて、これなら、留美ちゃん、双葉ちゃんにも、話せるかなと思って、こうしてうちに来てもらったんだ」


 良子は荒く呼吸をしながら、切れ切れに言葉を絞り出した。


「そうだったんだ……」


 留美の表情には、明らかな同情の色が浮かんでいた。


「友達の方が主将より後回しか」


 双葉がなんだかおかしそうに、ぼそりと声を発した。


「双葉!」


 留美は、不謹慎であろうとうという批難の視線を双葉へと向けた。

 双葉はにやりとした笑みを、おずおずとした捨て犬のような視線で自分を見つめる良子へと向けた。


「ああ、気に触ったんなら謝るわ。でも、どうせうちのことやから独り言でいってしまう思て先にいった。発言取り消すつもりはないで。水臭いのは、ほんまやん。これ親友や思うとるから、いえることやで」

「……ごめんね。双葉ちゃんも、留美ちゃんも、こんな心配してくれていていたというのに、ずっと内緒にしていて。本当は誰にも話したくなかったんだけど、でも、あんな騒動になってしまったからには主将にだけは話しておかないといけないと思って」

「ちょい待ち。良子がそんな責任を感じる必要なんかないやん。ムクチのバカが勝手に大騒ぎして、あんなことになったんやから」


 そう、くちが良子の過去を探り、フットサルで活躍する良子のことが掲載された記事コピーを突き付けて自白を強要した。それが発端となって、部員同士殴り合いの喧嘩にまで発展してしまったのだ。


 正確には殴り合いと呼べるものではなく一方的な暴力であったが。

 双葉が、武朽恵美子に馬乗りされて顔に拳骨による乱打を受けたのである。

 それはまだ昨日のことであり、いまも顔面は痣だらけだ。


 状況から考えて武朽恵美子が一番悪いのは明白だが先に殴ったのは双葉である、という主将の大岡裁きにより武朽恵美子が先に頭を下げ、双葉も謝り、それですべておしまい、顧問には報告しないということで落ち着いた。


 お互いに納得しているのだし、こんなことでいちいち報告などしていたら青春の一ページも作れやしないから。というのが、主将のいい分であった。


「主将のあの顔で青春という言葉が出てくるのも、なんか違和感あるけどな。まあとにかく、いったん謝ったらムクチ先輩もなかなかさっぱりしたとこあったしな。うち、ちょっとだけあのゴリラのこと好きになった気がするわ。あんなにあのフットサル部のことを好きやったんやなって。……良子は、どうなん?」

「え、どうって?」


 いきなり話を振られて、良子はちょっとだけ驚いたような表情を浮かべた。


「神様のいたフットサル部、好きなんか?」


 その問いに良子は即答出来ず、考え込むようにしばらく沈黙した。

 やがて、俯いたままおもむろに口を開いた。


「……好きだよ。だからそんな部に入れて、本当に嬉しかった。ずっとここでみんなとフットサルやってられたらな、って思った。でもあの日以来、頭の中で色んなことがぐるぐる回っちゃって。震えが止まらなくて……」

「まあ、家族の問題があるからなあ。うちんとこもごたごたしとるけど、可愛いもんかもなあ。あんな最低人間とはいえ、仕事もきちんとしておるし、家にいるだけましや」


 浮気常習犯であった母のことである。


「そんなことない。双葉ちゃんだってとっても辛くて大変だと思うよ。こっちの方こそ本当はたいした問題じゃないんだ。ただ、あたしの心が弱いだけ。だからこそ、元気だけなら誰にも負けないぞっと自分を騙して、これまでなんとかやってきていたんだけど……」


 そこまでいうと、良子は続けにくそうに口ごもった。


「それも限界で、もうフットサルからは離れたい、退部の決意は変わらない、ってこと?」


 察した留美の問いに、良子はゆっくりと頷いた。


「ごめん」


 小さく頭を下げ、謝った。


「気にすることないよ。フットサルを辞めたって友達は友達」


 留美は少し寂しげに微笑んだ。


「ありがとう。……ほんと、ごめんね」


 良子は滲んだ涙をそっと指で拭った。


「ごめんは禁句! もういったらあかんで! 留美も、そんな暗くなっていてもしゃーないやろ。良子は一学期一杯やねんで。その間に大会だってあるんやし、うちらも一生懸命頑張って良子にたくさんええとこ見せて、元気づけて送り出さな。違うか?」

「そうだね。……そうだ、双葉のいう通り。めそめそしてても始まらない」

「せや、成層圏同盟は不滅やあ!」


 双葉はいきなり立ち上がると窓を開け、腰に手を当てて大声で笑い始めたのであった。


     2

「集合!」


 花咲蕾主将の号令に、部員全員がそそくさと集まり整列した。


「全フェスの、日程と対戦相手が発表された」


 みなが静まり返るのも待たず、主将は唐突に話を切り出した。

 全フェスとは、全国高校生フットサルフェスティバルのこと。六年前に創設されたばかりでまだ歴史の浅い、全国の高校を対象としたフットサル大会である。


 七月に行われるため、三年生が完全燃焼して心置きなく引退していくためという大事な要素も持っている。選抜であるため、ほとんどの高校には関係のない大会ではあるが。


 前年度の成績から選ばれた関東や東北などの地域代表による予選大会があり、突破を決めた学校同士で全国大会を戦い、日本一を決めるのである。


 予選初戦から全国決勝まで、すべてが一発勝負のトーナメントであり、負ければ即敗退。


 予選大会は勝ち続ける限り一日で五試合を行うという恐ろしく苛酷なものであるが、ここを一位突破しない限り全国大会への出場権利を得ることが出来ない。


「初戦の相手は埼玉県のすぎ商業に決まった。そこの次は、群馬県のまえばしもりこし学園と茨城県のおおあらいせんしや高校との勝者と当たる。おそらくは、前橋森越が勝ち上がってくるだろう」

「どういう相手なのかは、分かっているんですか?」


 一年生のいばさきゆうが、若輩が作戦会議に参加しても良いのだろうかといった感じの弱々しい態度で尋ねた。


「みな地元の強豪ではあるものの、うちにすれば遥かに格下だ」


 主将の隣に立つ、アラジン先輩ことあらがみ副主将の代わりに答えた。


「単純にランク付けをするならね」


 と、また花咲主将が続ける。


「なにが起こるか分からないのが真剣勝負の世界だけど、でもやっぱり確実に予選を突破するためにもうちの主力は温存させたい。なにせ一日に五試合も行なわれるのだから。だから、この二試合は一年生だけで戦ってもらうことにする」


 主将は眼鏡の奥の切れ長の目を一年生たちへと光らせ、こともなげにいった。


「えーーーっ!」


 一年生たちから驚きの声が漏れ、ざわざわと一気に騒々しくなった。

 良子も、試合に出るつもりなどないとはいえ(どうせ登録されるはずもないだろうけど)、さすがに驚きを隠せない表情であった。


 反対に、二年生三年生の表情にはまるで変化がなかった。自分たちが一年生の時に、このような試練を潜ってきているということなのであろう。


「試合に出られるんだ。なにが不服だ?」


 主将は動揺している一年生たちの顔を、さも不思議そうに眺めていた。不思議そうといっても基本無表情な彼女であり、普段とほとんど変化はなかったが。


「だってだって、あたしたちまだ一度も公式戦に出たことがないんですよお」


 たかが、不安そうな眼差しを主将へ向けた。


 確かに真矢のいう通りで、五月に行われた春の選抜関サルは、一年生はまだチームワークが成熟していないという理由で一人も使われなかった。余談であるが、その大会で佐原南は優勝して関東女王になった。


 六月に行われる予定だった東葛チャンピオンシップは、主催者側の不祥事発覚で中止になってしまった。


 だから一年生たちは、この佐原南高校では一度も公式戦に出場していないのだ。


 他校との練習試合でも出来ていれば覚悟も違ったかも知れないが、いくつか予定されていた試合のすべてが先方の調整がつかずにキャンセルされている。


 負ければ即敗退のトーナメントで、まがりなりにも他地域の強豪を主力抜きで戦うのだ。一年生が動じるのも、無理のないことであろう。


「だが、中学では公式戦に出ただろう」


 試合勘などそれで充分だろう、という主将の口調であった。


「そんなの、もう半年以上も前なのに……」


 すず鹿すみの不安と呆れが混じったような声。

 中学生には受験勉強というものがあるわけで、だから通常は三年生の途中で引退してしまう。

 個人で練習は続けられても、公式戦には出ることは出来ない。

 だから高校生が始めて公式戦に出るまでには、相当なブランクが出来てしまうものなのだ。


「決定事項だ。それともう一つ、伝えておくことがある」


 主将はそれだけいうと口を閉ざし、ちょっと俯き加減に考え込むような表情を作った。

 別に効果を狙ってということではなく、ただ単にいいにくそうにしているだけにも見えた。


 いわれてみてその態度も納得の、衝撃的な発言が飛び出したのは、口を閉ざしてから約二十秒後のことであった。


「新堂良子……シャクを中心としたチーム作りをして、戦ってもらう」

「ええーーーーーーーーーーっ!」


 今度は二年生も三年生も含む全員が、あまりの驚きに体育館の天井にぶつかるのではというくらいに飛び上がっていた。


「おい、蕾い!」


 副主将の荒上真子までが動揺して、主将の肩をガクガクと揺さぶった。


「ゲームキャプテン及び、監督代行。戦術指導から、すべてシャクにやってもらうから。その二試合だけね」


 揺さぶられながらも淡々と話し続ける花咲主将であったが、部員一同すっかり騒然となってしまって誰も聞いてなどいなかった。


 名指しされた当人である新堂良子は、なにがなんだか分からないといった呆然とした表情で、ただ主将の顔をぽけーっと見つめ、ただ立ち尽くしているばかりであった。


     3 

「そこでテバちゃん下がって! 空いたとこへ出して、キザちゃんが受けに出る」


 しんどうりようはピッチの外から精一杯の声を張り上げた。といっても元気全開であった頃と比べれば、数分の一、心象としては百分の一にも満たないような声量に過ぎなかったが。


 テバちゃんこといばさきゆうは良子の指示通りに下がったが、すでによしに間隔を詰められてしまってパスどころではなく、強引に通そうとして引っ掛け、奪われてしまう。


「ごめんね。指示出すタイミングが遅かった。もう一回やろう」


 良子はプレーを一時中断させると、少しでも場を盛り上げなければという責任感から笑みを浮かべ手を叩き仲間を鼓舞しようとしたが、それはなんだか頼りなく、みなをますます不安にさせるものでしかなかった。


 そんな主将代行の元でフットサル練習を続けることに対して、一番先に忍耐の限界に達したのはさきさくらであった。


「もう三回目だよ。そんなやって欲しいんならまず良子ちゃんが実践してみせてよ」

「キザ! 良子は……」


 芦野留美が慌てたように須賀崎桜のこれ以上の言動を制止しようとした。


「だって、このままじゃあ埒があかないよ! こんなこといつまでも続けてたってさあ!」


 桜は構わず、怒鳴るような、大声を出していた。

 その瞬間、我に返ったようにはっと目を見開いて、口元を押さえた。


「分かった」


 良子は観念したような表情で、ビブスを身に着けた。


「あ、あの、ごめん、良子ちゃん、あたし……こんなこというつもりじゃあ」

「謝るのはこっち。あたしがダメダメなのが悪いんだから」


 良子は元気のない笑みを浮かべると、桜に代わってピッチに入った。


 そうだ、どのみちいつまでもピッチ外に立っているというわけにはいかないんだ。


 良子は覚悟を決めていた。


 だって主将が求めているのは、自分を監督とするのみならず戦術の中心に据えたチーム作りなのだから。

 でも、これまでは上級生もいて怒号飛び交う中での練習だったけど、今日は一年生だけでの練習であることだし、少しくらいはまともに蹴れるのではないだろうか。


 そう願ってピッチに入ったのだが、しかしそれは、良子の勝手な思い込みに過ぎなかった。

 上級生に怒鳴られながらやっていた以前と、なんら変わらなかったのである。


 トラップはまともに出来ないし、出来たとしてもパスはキック空振りで繋がらない。

 運よく空振らず当てたとしても、とんでもない方向に転がってしまう。いやいや転がるならまだいい方で、ちょこんと蹴るだけでいいところを豪快に宇宙開発してしまったり、散々もいいところであった。


「自分がそれじゃあ、人に指示出来ないじゃない」


 先ほどの須賀崎桜に続いて、今度はすず鹿すみが痺れを切らしてしまったようであった。


「ごめん」


 良子は返す言葉なく、謝るしかなかった。


「元天才少女だか知らないけど、いま普通に蹴ってよ。別に天才じゃなくていいから」


 俯いたまま無言でいる良子へ、澄子は体内に大充満した気持ちの噴出を続けた。


「あたしたち真面目にやってんだ。ふざけてやられちゃ迷惑なんだ。三年生にとって最後の大会なのに、初戦で負けでもしたらどう責任取ればいいの? 取れないでしょ? じゃあ真面目にやってよ! 少しくらいはさあ」

「良子だって誰より真面目にやってるよ! こんな役目押し付けられて、大変だってのに」


 芦野留美が、悔しそうな表情で声を荒らげ良子を庇った。


「あたしは良子ちゃんと話してるんだ」

「なんも知らないくせに……」

「なにが? なんか内緒にしてることがあるんならいってみればいいじゃない。でもね、そんなことあたしたちには関係ない。あるのは、このままじゃあ大会は初戦で終了って危機感だけ」

「終了かどうか分からんわ、勝負事なんか!」


 高木双葉が留美の助太刀に入って、澄子をきっと睨みつけた。


「戦えてないのに勝負事になんかなるはずない。絶対に負ける」

「だから戦えるよう練習しとるんやんか!」

「してないでしょ! なに一つ練習なんかしてないも同じでしょ。勝てるはずない」

「だから、分からへんやろ」

「相手もふざけていれば勝てるかもね。そんな不戦勝みたいな試合に価値はない」

「なんでうちにからむんや!」

「だから最初から良子ちゃんと話させてよ。誰があんたと話したいなんていった? いちいちしゃしゃり出てこないでよ。親友だかなんだか知らないけど、二人揃ってさあ」

「うぎーーーっ」


 双葉は秘密を抱えるジレンマに耐え切れず、身体を大きく震わせるとどんと床を踏み鳴らした。


 先日の部内騒動により、良子が小学生時代に神童と呼ばれるほどの天才的なフットサル少女であったことは部員みんなの知るところとなった。しかしボールの蹴り方を忘れてしまった理由についてはごく一部の者しか詳細を知らない。

 良子の家庭の問題や、受けてきたいじめに触れることになるためだ。


 精神的なショックが原因ということだけは、主将が全員に説明をしている。


 良子は一種同情の対象となったわけであるが、しかしどのような正等な事情があろうとも、他の一年生たちにとって現状の不安と不満が拭えるはずもなかった。


 最初の二試合を、公式戦出場経験ゼロの一年生だけで戦わなければならない。この重圧だけでも相当なものであるというのに、さらにはまともにボールを扱うことも出来ない素人同然の者を中心としたチーム作りをしろなどと。


 良子はかつて個人技において優秀な選手であったというだけでなく、戦術眼もなかなかにしっかりしており、そうしたセンスを見抜いた上での主将による大抜擢ということなのだが、現在はそちらの面においても完全に自信を失ってしまっていた。


 そんな弱々しい態度の指揮にほとんどの者がまともに従ってくれず、従ってくれないのだから上手くいくわけもなく、上手くいかないというその不満や責任は良子一人に降りかかり、良子の自信がますます失われていく。

 完全なる悪循環であった。


「もう! こんなんじゃ、練習にならないよ!」


 また練習に戻ったものの、カリカリしながらであった鈴鹿澄子はすぐに沸点に達してしまった。ボールを拾い上げると、苛立ちをまるで隠すことなく床に思い切り叩きつけた。

 フットサルボールはほとんどはずまないので、ころころゆっくり転がるだけ。澄子はそのボールを追うと、そばにいる吉田理恵に向けてちょんと蹴った。

 そのまま二人は、周囲を無視してパス交換の練習を始めた。


 二人の作る不満の空気感は、あっという間に他の者へと伝播。ほとんどの者が良子を無視して鈴鹿澄子の指示の元でボールを蹴るようになるまで、さしたる時間はかからなかった。


「なに勝手やっとるん、良子に従うんが主将命令やろ!」


 双葉は忍耐の限界に達したように、怒鳴り声を上げた。

 好き勝手に動くみんなの態度か、それとも俯いたまま黙っている良子の態度か、どちらに対して忍耐の限界に達したのか双葉本人にも分かっていないようであったが。


「さっきもいったけど、三年生にとって最後の大会なんだ。わたしたち一年生は初戦と二戦目に必ず勝って、先輩たちにバトンを渡す。勝つことがなによりの優先事項のはずだと思うんだ。それとも双葉は、良子ちゃんに任せていて勝てると本気で思ってんの?」


 鈴鹿澄子は双葉の怒鳴り声にまったく動じることなく、冷たい視線を双葉に投げつけた。


「おう、勝つわい!」


 双葉は、その冷たい視線に一瞬たじろぎつつも虚勢を張った。


「根拠がまったくないんだけど。良子ちゃんの指示に従うことで、あたしたちが思い思い勝手に練習するより間違いなく勝率が上がるのなら、いくらでも従うよ。だいたい良子ちゃんも良子ちゃんだよ」


 鈴鹿澄子は、ちらり良子へ視線を向けると、すぐにまたぐちを開いた。


「主将に選ばれたというのなら、この方針での練習で間違いないという、そうした根拠を見せる必要があるんじゃないかと思うんだ。でも、出来ないどころかそうするための努力すらもしていないでしょ? そういうのを、責任放棄っていうんだ。主将に任された特別な身分のくせに責任から逃げておいて、そのくせ指示に従えなんてあたしたちをバカにするにも程がある。そう思うんだけど、あたしなにか間違ったこといってる?」


 そうとうに溜まっているものがあったのであろう。鈴鹿澄子は冷静な表情ながらも少し興奮したように、矢継ぎ早ににまくし立てた。

 それは少し自己嫌悪に陥っているかのような、苦虫をかみつぶした表情ではあったが。


 とはいえ鈴鹿澄子の不満は、一年生全体の不満といってもよかった。


 澄子たちのそうした不満に対して、双葉の方こそ不満な様子であったが。なにも事情を知らんくせになに勝手なことを、と。


「だったら好きにしたらええやん。良子が主将代理みたいなもんなんやからな、試合に出られなくたって知らんで」


 こうして一年生は気まずさや一部険悪さを抱えつつ、真っ二つに分かれることになったのである。


     4

 しんどうりようの側に残ったのは、たかふたあしきりたにまいしげみつどんだいようゆず、の六人。良子を入れて七人。


 離脱したのが、すず鹿すみよしいばさきゆうさきさくらやまざきよしたかむらたにさくの七人。


 丁度半分に分断されることになった。


 今日は剣道部の屋内練習がなく体育館を広く使えるため、一年生だけでコートを一つ貸し与えられていたのだが、それを半分にしてそれぞれに練習することになったのである。


 でも、考えの合う者同士で楽しく練習、というわけにはいかなかった。


「良子、ほらまた! そこちゃんとぴしっと指示出来ひんから、澄子なんかに勝手なこといわれるんやで!」


 双葉は自分でムードをより険悪にしておきながら、やり場のなさを他人に向け、特にこのように良子へと声を荒らげてしまってばかりいた。


 などなどやっているうち、やがて鈍台洋子が九頭柚葉になにか耳打ちされて、双葉のところへと近寄ってきた。


「このままでいいと思ってるの?」


 それだけいうと、洋子は踵を返し肥満体を揺らしながら持ち場へと戻っていった。


「そんなにあたしと直接話すんの嫌かよ、あいつは」


 双葉は軽く床を踏み付けると、


「ええわけないやろユズ公! せやかて、どうしようもないやんか! だいたいこれ、うちがなんとかせんといかん問題か?」


 ゴール前からメッセージを投げるだけ投げ、素知らぬ顔して関与をとぼけている九頭柚葉へと怒鳴り声を投げつけた。


「ごめんね、双葉ちゃん。全部、あたしがやらなきゃならないことなんだよね」


 良子が俯いたまま双葉の横に立った。


「あ、ああ、良子は精一杯頑張っとるって。……こっちこそ、ついきついことばかりゆうてしまって堪忍な。だいたい一番悪いのははなさき主将や。なにも、こんな弱っとる状態の良子にこんな重たいこと押しつけんでもなあ。……他人だけやなく、うちも悪いな。良子のフォロー頑張ろ思うとるのに、反対に邪魔ばかりしとるわ。澄子とは喧嘩になるし。うちが出ると、かえってまとまらんな。ごめんな、ほんまに」

「謝らないでよ。双葉ちゃんには、ほんと感謝しているんだから。留美ちゃん、ドンちゃん、ユズちゃんにも」


 良子ははかなげではあるが、微笑んだ。

 双葉も、ふふっと呼気のような声を漏らし笑った。


 その時である。

 コート反対側で練習していた鈴鹿澄子たちの集団の中から、茨崎悠希、須賀崎桜、山崎芳枝が抜け出して、良子たちへと近寄ってきた。みんなからザキ同盟などと呼ばれている仲良し三人組である。


「どうしたの?」


 敵前視察かと思ったわけでもないだろうが、とにかく芦野留美はちょっといぶかしげな表情で尋ねた。


「うん、やっぱりこうした方がいいのかなーと思って。良子ちゃんがリーダーなわけだからさあ。澄子には、負けたければ勝手にしろって怒られちゃったけど」


 茨崎悠希は照れ笑いを浮かべながら答えた。


「澄子のいうことも分かるけど、主将だって考えがあって良子ちゃんをリーダーに任命したんだと思うんだ。良子ちゃん、さっきは怒鳴っちゃって本当にごめんね。一緒に練習しよう」


 須賀崎桜もやはり照れたように、良子へと手を差し出した。


「うん。頑張ろう」


 良子はおずおずと小さな手を伸ばし、桜の手を握った。


 人数比が変動して、練習が再開された。


 良子チームの側に、人数比以外にも変化が起きていた。良子の個人技は相変わらず酷いものであったが、チームとして若干ながら明るい雰囲気になっており、失敗しても笑いが漏れるようになっていたのである。


 鈴鹿澄子たちもお隣さんのそうした変化が気になるのか、「ぐっと能率的になったよね」「このまま続ければ、あたしらだけでも充分に優勝狙えるんじゃない?」などと大声で、自分たちの練習がさも効果的であるかのような主張をするようになっていた。


     5

 明るい雰囲気といっても、このような状況である以上は心から明るくなれるはずもない。

 でも良子は、自ら打開のため動くことはなかった。


 他人任せにするつもりも毛頭ないが、さりとてなにをすればいいのかがさっぱり分からなかったのである。


 明日になればまた状況も変わるかも知れないし、今日はこのまま最後までやってしまえばいいや。

 そう思っていた。

 逃げの姿勢であるという罪悪感は、多分に持ち合わせていたが。

 だからこそ、


「なんだこれは?」


 というはなさき主将の突然の声に、死ぬほどびっくりして飛び上がったのである。


 主将は良子の前に立つと、もう一度同じ問いを発した。

 部員たちがその雰囲気を察したか、体育館はすっかりと静まり返っていた。


「あ、あの」


 とうろたえるばかりの良子を見かねて、たかふたが「良子は……」と弁明に入ろうとしたその時である。


 ぱん、と音が響いた。

 主将の平手が、良子の頬を打ったのだ。


 良子はゆっくりと右手を自分の頬に運び、そっと押さえた。


「誰がバラバラにやれといった?」


 主将は特段声を荒らげることもなく、表情すら普段と変えることなく、冷静に良子の顔を見つめ、質問した。

 良子は頬を押さえて黙ったままであったが、やがてゆっくりと腕を下ろし、ゆっくりと口を開いた。


「すみませんでした」


 そういうと、頭を下げた。


「でも、そもそもあたしは……」

「もうすぐ退部するから関係ない、か? でもそれこそ他のみんなには関係のないこと。いまはここの部員なのだから」

「はい」


 良子は反論出来ず、また下を向いてしまった。


「主将、良子は出来ること精一杯頑張っています!」


 あしが花咲主将の前に出た。


「それよりも、主将がちょっと酷いんじゃないかと思います。良子の状態を知っていて、こんなことを押し付けるなんて。主将、良子のことを色々と気にかけてくれているようだったから、今回のことでてっきり味方になってくれるものと思っていたの…」

「殴るのなら、良子ちゃんではなくあたしです!」


 すず鹿すみが、留美の言葉を遮り主将へと詰め寄った。

 留美はまだいいたりなさそうな表情であったが、主将への詰問権を澄子に譲った。


「だって、あたしが勝手に練習を始めたことがきっかけなんですから。良子ちゃんにも問題はあるとは思いますけど、でも、命令違反を責めるならまずあたしが責められるべきです。あたしが殴られるべきです! 主将がなにを考えて今回の計画を立てたのか、あたしには分かりませんけど」


 鈴鹿澄子はそうまくしたてると、大きく息を吸った。

 文句は腐るほどあるが言葉が続かなくなってしまったのだろう。


「あたしが任せた一年のリーダーは誰?」


 花咲主将の口が小さく動いた。


「良子ちゃんです」


 澄子は不満そうに唇を尖がらせた。


「だけど……」


 と続けようとした時である。


「ごめんなさい!」


 良子が大きな声を出し、深く頭を下げていた。


「あたしが全部悪かったんです。しっかりやらないと一年生だけでなく部員全員に迷惑がかかるというのに。全部、澄子ちゃんのいう通りだったんです。でも今後は、きちんと指揮出来るよう頑張りますから」

「二言はない? 信じるよ、その言葉」


 花咲主将は、良子の肩を軽く叩いた。


「はい」


 元気でも大きくもない声であったが、どこか決心を感じられる、そんな声で良子は頷いた。


     6

 一年生はまた全員が揃って練習をするようになった。

 先ほどはなんのスポーツか分からないほどにグダグダもいいところであったが、それが段々と形になってきていた。

 ゆずの提案により、少しやり方を変えたのだ。


 どう変えたのかというと、しんどうりようが指示を出すのは最初と最後だけで、リアルタイムでの指示はあしが担当するようにした。


 良子の戦術眼ははなさき主将がいっていた通りきらり光るものがあるのだが、実際にリーダーになって誰かに指示をしたことなど一度もなく、慣れがまったくなかったからだ。

 小学生の頃は個人技を磨くことにしか興味がなかったし、中学校ではその個人技の酷さによりある種ののけ者扱いで試合に携わる機会などただの一度もなかったから。


 部員たちは、留美の仲介により良子の考えていることの理解が深まってきていた。

 そして良子自身もまた、留美の指揮における要領を学んで、自身も少しずつリアルタイムに的確な指示を挟めるようになってきていた。


 良子の足元の技術は相変わらずさっぱりであったが、このまま連係を高めれば武器になると部員たちが感じてきており、雰囲気としては本日の練習開始時と比べると格段に希望に満ちた明るいものになっていた。


 結局のところやらなければならないのだから、という背水の陣であることも多分に影響しているのであろう。


 段々と自分の指示がすぐに受け入れられて反映されるようになってきていることから、良子も少しだけ自信を持つようになっていた。


 効果的なセット(選手の組み合わせ)を作るべく様々と試していった中で一番の発見は、ザキ同盟コンビネーションであろうか。


 ばらさきゆうさきさくらやまざきよし、の三人の苗字に崎がつくことから、九頭柚葉が冗談半分にザキ同盟と称したことから定着した名称であるが、実際に同じピッチに置いてみたところなかなかに息の合った連係が見られたのだ。


 その連係は時間の経過と共に向上し、良子の戦術を基本としつつも独自に発展し、そして練習初日としては完璧とも呼べる結果を出した。


 フィクソで入った芦野留美が優秀で順応性に富んでいたこともあるが、そこからタイミングよく放たれたパスが山崎芳枝へと渡り、須賀崎桜、茨崎悠希と三人で三角形を回転させながらボールを繋いで敵陣へ、不意に逆回しのパスが出て茨崎悠希がフィニッシュ。ボールはきりたにまいの指先を弾いて見事ネットに突き刺さったのである。


 その綺麗な攻めの形に、みなどっと沸いた。

 決めた側も、決められた側も、外から見ている者たちも。


「もっと、もっとやろう良子ちゃん!」


 練習とはいえゴールを決めた茨崎悠希が、興奮したように良子へ近寄りばんばんと肩を叩いた。


「次、良子が入んなよ」


 芦野留美はピッチから出て、脱いだビブスを良子へと渡した。


「分かった」


 良子は受け取ったビブスを着用すると、ピッチへ入った。


 ありがとうね。

 留美ちゃん。


 心の中でお礼をいいながら。

 主将の最重要命令は、良子を中心としたチームを作ること。ピッチの外からはそれが達成出来たといってもよく、あとはピッチの中で良子という選手個人を中心とした戦術を(良子の個人技が酷いなりに)確固としたものに仕上げなければならない。

 ほぼ完成しているといってよいザキ同盟の中に入ることで、色々と引っ張ってもらえるのではないか。調子をつけることが出来るのではないか。

 おそらく留美はそう考えているのだろう。

 少しでも自分に自信をつけさせるために。

 そんな心遣いを、感謝したのだ。


 結果としては、実に惨憺たるものであったが。

 良子が完全に流れを止めてしまい、ザキ同盟の威力も半減、最終的にFP四人全員がバラバラになってしまったのだ。


 練習中断前であれば、ため息しか出なかったであろう。

 そこに笑いの出たことが、どんなに良子を勇気づけたか。


 良子はみんなにも感謝していた。

 もっと頑張らないと、そう心に誓っていた。


     7

 七月初旬。

 まだ本格的な夏にはなっておらず、夜ともなれば多少ひんやりとした日もある。今日がまさにそんな日であったが、風がまったくないためしんどうりようの部屋はむしむしとした濡れた熱気に満たされていた。


 良子は二階の自室にて机に向かい、学校の宿題をやっているところであった。

 今日は、社会に英語に古文と課題山盛りだ。

 どれだけ頑張っても、いつも寝ている時間までに終えられるかどうか。


 だというのに、ただ椅子に座っていたずらに時を過ごしているだけで、はかどらないどころかそもそもまるで手についていなかった。


 このむしむしとした不快さに参っているからではない。

 爽快ともいい難いものの、不快というよりはむしろそちらの方が、爽快の方が近いであろうか。


 今日のフットサル部でのことにいまだ興奮冷めやらず、身体の芯からうずいてしまって、そのことばかりを考えてしまって、勉強どころではなかったのである。


 たっぷりの宿題を抱えていることは重々理解しており、ときおり頭をぶんぶん振っては今日のそのことを追い払おうとするのであるが、追い払って作った空間に入り込んでくるのは結局またそのことだった。


 もうじき行なわれる全フェス、全国高校生フットサルフェスティバルでは、第一回戦と第二回戦を一年生だけで戦うようにと花咲主将から命令されている。

 しかも、良子を中心としたチームでだ。


 今日からそのための練習を開始したわけであるが、初めは上手くいかず色々とゴタゴタがあった。自分の指揮が悪いばかりにみんなをイライラさせてしまったし、たかふたすず鹿すみにいがみ合いの喧嘩までさせてしまったり。


 でもみんなの協力もあって、段々とチームワークがよくなってきた。

 FPフイールドプレーヤーの連係という意味だけでなく、一年生全員の雰囲気がだ。


 過ぎてみれば、最初からは考えられないくらい希望に溢れた楽しい気持ちで練習を終了することが出来た。

 おそらくは、みんなも。

 みんながそうであればこそ、自分もそういう気持ちになれたのだから。


 すっかりフットサルを怖くなってしまっていた自分だけど、そのフットサルにたくさんの勇気をもらった。

 フットサルが、また面白くなってきていた。


 自分の技術が相変わらずの下手くそでも、それでもああやってチームに貢献する方法があるんだってことが分かったし。


 とはいえ、今後も続けていくつもりなんかはないけれど。

 だって、続けている限りはまた石巻にいた頃のような辛い目に遭うかも知れないのだから。


 また、ではないか。現在だって継続中だ。

 今日は一時的な勇気をもらっただけ。勇気のドーピングだ。


 そもそも、あんな程度のことで心が崩れてダメになってしまうだなんて、根本からして自分にはフットサルなんか向いていないんだ。フットサルというか、みんなでなにかを頑張り抜くということに。


 だからもうどの部活にも入らない。

 帰宅部でいい。

 家に帰ったら、ずっとゲームでもして遊んでいよう。


 でも、

 だからこそしっかりと練習して、今度の大会を悔いないように頑張ろう。


 フットサルが好きだったということは、間違いのないことなんだから。


 そのおかげで、双葉ちゃん留美ちゃんといった親友も出来たんだから。


 好きだったんだという過去まで否定してしまったら、それこそ二人に申し訳ない。主将にも、他のみんなにも申し訳ない。


 だから自分なりに精一杯練習して、一年生への戦術練習もしっかりやって、初戦と二回戦を絶対に勝って、三回戦へのバトンを先輩たちに渡すんだ。


 やるぞ。


     8

 しんどうりようは、制服姿で学校の廊下を歩いている。カバンを手に下げ、スポーツバッグを背負い、放課後の部活練習に向かうところである。


 小柄な良子にとって身体の半分近くもあるスポーツバッグを背負っているというのに、どことなく動作が軽妙であった。

 鼻歌混じりであるという点がそう思わせているのかもかも知れない。


「おいっすーー!」


 という大声とともに、肩をぽんと叩かれた。

 振り向くとそこにはすらりと背の高い、制服姿の女子生徒。

 ゆずである。


「鼻歌なんか歌っちゃってえ。最近なんだか明るいじゃん、彼女お」

「うん。いつまでも沈んでいても仕方がないしね」

「そうなんだ。そんな心境になれたきっかけは、練習が上手くいってるから? それとも、やめる日が近づいてきたからかな?」


 別に責めるわけではなく、ただ微笑に乗せて生じた疑問を口にしただけのようであった。


「どっちもだけど、どちらかといえば後者かなあ」

「そっかあ。前にあたしさ、良子ちゃんに主将になって欲しいなんていったことあるけど、あれ本気で思ってたから残念だな」

「ごめんね」


 良子は済まなそうに謝ったが、その顔には薄く笑みが浮いている。

 ここ数日の良子は、以前ほどに朗らかではないものの、悩みのない実にすっきりとした表情をしていることが多かった。


「おい柑橘類、ユズ公! うちの良子になに接近しとるんやあ!」


 たかふたが遥か後方から大声をあげて、スカートぱたぱたなびかせながら全力で走ってきた。

 二人の間を駆け抜けると、くるり反転、戻ってきて再度仲を割くべく間に入り込んだ。


「変なこと吹き込もうとしてないやろな」


 双葉は柚葉の身体にどんと強く肩をぶつけた。


「お前の知ったことかよ、タコ焼き女はタコでも焼いて購買で売ってろ」


 柚葉も肩をぶつけ返した。十センチほどの身長差があるため、正確には肩というより二の腕であったが。

 二人は身体をぶつけ合い、押し合いながら、段々と歩調早めていつしか廊下を走り出していた。


「ついてくんなよタコ!」

「行き先おんなじや、ボケ!」


 などと張り合い爆走する二人に、良子は思わず苦笑。慌てて、早足で後をついて行った。


 階段を降りて、一階から渡り廊下を通って体育館へ。

 外周通路をぐるりと半周すると、プレハブの部室が見えてきた。


 双葉と柚葉が押し退け合い引っ張り合いをしながら、我先に部室の扉を開こうとしているところであった。


 仲がいいんだか悪いんだかなあ。


 また、良子は微笑んだ。


「ちょっとどいて!」


 どんと肩を押されて良子の小柄な身体はよろめいた。

 二年生のとくまるのぶであった。そのまま通路を走り、部室の扉前で競い合っている双葉柚葉の間を強引に掻き分けて、


「ニュースニュース!」


 と叫びながら、部室へと飛び込んだ。


「二戦目に対戦するかも知れないまえばしもりこしだけど、格下だなんてとんでもない! やばいよ、あそこ」


 その大声は、部室の外にまではっきりと聞こえていた。


 良子は、なんだかいいようのない胸騒ぎを覚えていた。

 対戦相手が強いとか弱いとか、そのようなことではなく、また別の、なんとも名状しがたい嫌な気持ちが頭をよぎっていた。なんの根拠もないというのに。

 胸を押さえ、大丈夫だと自分にいい聞かせながら、部室へと近づいて行った。

 でも、胸のドキドキはおさまるどころか近づく程に激しくなっていった。息苦しいどころか、痛いくらいに。


 部室の入り口には、双葉と柚葉が立っており、良子はその隙間から中を覗いた。部員の半数近くがこの中に集まっており、それぞれ着替えなど準備をしているところであった。


「なんだよキンコ、やばいって」


 二年生のぐろふえが尋ねた。


「うん、なんでもね、今年はすっごーいのが二人いるんだって」

「凄いの?」

「一人は世代別代表に選出されたことのある一年生。もう一人は六月に転校してきたばかりの二年生なんだけど、なんとおか出身なんだって。その二人に引っ張られてチームは去年とは比べ物にならないくらい強くなってるらしいよ。当たるかも知れないではなく、うちが勝ったら当たること決定的。セカンドキッチンの限定トロうまチキンバーガー賭けてもいいくらい」


 日和ケ丘というワードに、当然ながらみなの視線は入り口に立っている新堂良子へと集中していた。


 良子は、なんだか恐れ青ざめたような顔になっていた。

 視線定まらない感じで、口はなにかをいいかけ半開き、身体や指先はぶるぶると震えていた。


 様子のおかしなこと誰の目にも明らかであったが、最近の良子はそもそも元気がなく挙動も不審であり、特別に変だとは誰も思っていないようであった。

 ただ一人、高木双葉を除いては。


「確かにそれは厄介だな。代表経験者と、日和ケ丘かあ」


 三年生のないあさが少し渋い表情を作った。


「その話、後にしましょ!」


 双葉は、良子のことが心配になって、なんとかはぐらかそうと大声をあげたのであるが、


「大事な話なのに、邪魔すんなバカ」


 と、あらがみ副主将に殴られるだけであった。

 彼女らにすれば当然であろう。この情報をどう捉えるかによって、第三回戦まで無事に進出出来るかどうかが大きく変わってくるのだから。


「一年だけでやらせんのは、初戦だけにしておくべきか、後でつぼみと相談しないとだな。で、その二人って、どんなタイプの選手なんだろうな。日和ケ丘の方は、シャク知ってるんだろ。キンコ、その転校生なんて名前か分かるか?」

「そう思って名前控えてきました。確かね、ツダフミエって名前なんだけど、シャク知って……」

「ああああああああああああああああっ!」


 突然の、良子のけたたましく凄まじい絶叫が、徳丸信子の声を完全に掻き消していた。

 恐怖に怯えたように目を見開いて、まるで狂ったかのように叫んでいる。その目はまるで視点が定まっていなかったが、良子は間違いなく誰かを見、その影に怯えているようであった。


「良子、おい、良子! しっかりせえ!」


 双葉が正面から両肩を押さえたが、良子は恐ろしいほどの力で振りほどくと、逃げ出すわけでもなくただ立ち尽くしたまま狂ったような甲高く震える大声をあげ続けていた。

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