第六章 自慢の娘になれたかな

     1

 また喧嘩しているよ……


 畳にうつ伏せ、電子ブックで少女漫画を読んでいた良子は、小さいため息をついた。

 壁の向こうから、怒鳴り散らすような二人の声が突き抜けて飛び込んできたのだ。


 この一年半ほど、良子の両親は喧嘩ばかりしている。

 普段はなるべく顔を合わせないように暮らしているようなのだけれど、3LDKのマンション程度で鉢合わせを避けるのは無理。運がよければふんと鼻息荒くするくらいで済むが、よくなければすぐ紛争勃発だ。


 大人のくせに、どうしてこうも仲良く出来ないのか。それとも、大人だからなのだろうか。

 いやいや、親なんだから大人だ子供だ関係ない。仲良く出来ないなら親になんかなるな。せめて、子供にそういう態度を見せるな。最低限の責任だろう。


 こう兄ちゃんはもう中学生だから色々と我慢出来るだろうけど、わたしとゆうはまだ小学生なんだぞ。それに家には、生まれたばかりのむつがいるんだぞ。


 良子はそんなたっぷりの不満を心の中で言葉にしながら、オレンジジュースの残りをストローで吸った。随分残っているなと思っていたら、ほとんどが氷の溶けた水で不味かった。


 ちっとも内容が頭に入ってはこなかったけどとりあえず漫画を読み終えて、居間にでも行こうと自室を出ると、隣の部屋で母親が泣いている後ろ姿が目に入ってきた。

 良子は思わず立ち止まり、その姿を見つめていた。


 一向に泣き止む気配がなかった。

 良子は、ちょっと前まで喧嘩の声を不満に思い漫画に集中しようとしていたくせに、なんだかせつない気持ちになってしまい、母親の背中へ近づくと精一杯に腕を回してその背中に抱き着いていた。


「あたしは、お母さんの味方だからね」


 そういうと母は、ひぐっとしゃくりあげるような声ともいえない声を出して、振り向いて良子を抱きしめた。

 頭をなでながら、いい子だね、を何度も繰り返した。


 本当に、お母さんの味方なのだろうか。

 頭をなでられる気持ちよさの中で、良子はそのようなことを考えていた。


 味方なのかどうか、それは良子にも分からなかった。

 だってお父さんはこうやって泣いたりしないし、もしも泣いたとしてもなんだか似合わなくてみっともなくて、こっちもつい笑ってしまうだろうから比較のしようがない。


 どちらの味方でもないのかも知れない。

 だって良子はまだ小学生で、大人の事情なんかよく分からないのだから。


 でも、なんとなく分かっていることだって色々とある。

 例えば、両親の不仲の原因は母親の浮気にあるということ。


 揉めているうちに、お腹に六葉がいることが分かった。

 出産後の鑑定結果で父との子であることは判明した。しかし、妊娠期間中にずっと疑われ続け、出産後も鑑定を求められたことで、母親が激怒、反論。

 あなたは浮気ばかりを責めるけれど、そもそもどうしてこういうことになったのかまったく分かっていない、と。


 新堂家は子供が四人、しかも一人はまだ生まれたばかりということで、両親は別れるにも別れられず、こうして泥沼の生活を続けているというわけである。


 どちらが悪いというものでもないのだろうけど……いや、悪いといえば、間違いなくお母さんが悪いのだろう。

 でも、それは大人の話だ。

 子供には関係ない。


 ただ仲のよいお父さんとお母さんであって欲しい。

 子供がそれを願うのは、いけないことだろうか。


 いい子にしますから。

 と、どんなに一生懸命願っても、結局大人は自分自身を優先させるばかりで、子供はいつだってついでなのだろうか。

 でも、

 でも……


 でも、お願いします。

 神様。

 お願いします。


 いい子にしますから。

 いつも笑っていて親に決して迷惑をかけない、そんないい子になりますから。


 給食のニンジン、残しません。

 飼育係もサボりません。

 六葉のオムツ替えだってミルクだって、自分からやります。


 だから……

 どうか、お父さんとお母さんを、離れ離れにさせないで下さい。

 わたしたち家族を、バラバラにしないで下さい。


     2

「ドリちゃん!」


 もとやままきはルーズボールにいち早く駆け寄ると、前方へとダイレクトに蹴った。

 しかし、転がすべきところをつい大きく上げてしまっていた。


 サイドラインを割るかに見えたが、ドリちゃんことしんどうりようが走り込みながら高く跳躍し、おでこで受けていた。


 たかもえが、トラップを邪魔して奪い取ってやろうと良子へ勢いよく詰め寄った。でもそれは、詰め寄ったというただそれだけのことであった。

 良子は着地ざまに頭から落としたボールを腿で跳ね上げてターン、なにごともなく高野萌の脇を駆け抜けていた。


 高野萌の能力が低いわけでは決してない。新堂良子のそれがあまりに高すぎるのだ。


 ゴールへ向かった良子は、落ち着いてゴレイロの動きをよく見てシュートを放った。

 ゴレイロはなんとか足に当てて弾いたが、それも良子の想定内。跳ね返りに自ら詰めて押し込み、なんなくゴールネットが揺れた。


「ドリちゃん、やったあ!」


 澄み渡ったどこまでも広がる青空の下、本山牧江が良子へと駆け寄り、抱き着いた。


 ここは宮城県石巻市を流れる旧北上川の河原に作られた、人工芝のサッカーグラウンドである。

 その一角を利用して、石巻くさぶえFCの女子フットサル部が練習をしているのだ。


 地元の少年サッカー団の抱えるガールズフットサルチームであるが、最近の活躍は目覚ましく、地元では男子サッカー部よりもこちらの方が有名なくらいであった。


 新堂良子はまだ小学五年生であるが、高い実力ですっかりレギュラーとして定着し、キャプテンに次いでチームを牽引する重要な存在だ。


 その良子が、自分のパスからの流れでゴールを決めたことで、仲良しである本山牧江の気持ちは急上昇。


「今度の大会、絶対に優勝だね」


 興奮したように拳を握った。


「もっちろん。みんなが頑張って守っててくれれば、あたしいくらだって点を取るから」


 良子は自慢げな笑みを浮かべ、自分の胸をどんと叩いた。


「あーあ。あたしが誘って一緒に入会した仲だというのに、どんどん引き離されていくよ。悔しいなあ。ま、天から受けた才能ってのがもう天と地ほども違うんだから、仕方ないかあ。中学だって確かもう日和ケ丘に決めてるんでしょ?」


 日和ケ丘とは、女子フットサル部の強豪校として地元で有名な中学校である。


「うん。監督やっている人からぜひ来て欲しいって何度も誘われているから、そこでもっともっと自分が成長出来るのなら特に断る理由もないし。……みんなと一緒に公立に行きたい気持ちもあるけどね」


 自分は他とは違うんだ、という感じの滲み出ている誇らしげな、でもちょっと恥ずかしそうな良子の笑顔であった。


「ほんと凄いよなあ。ドリちゃんなら、ばりっばりのレギュラーだよ。行く末は代表かタレントかあ?」


 牧江は、肘で良子の脇腹をずんずんと突っついた。


「やあだ、やめてよマキちゃん。……代表なんて、そんなの考えたこともないよお」


 そう謙遜する良子であるが、その顔は自信に満ち溢れており謙遜の二文字などどんなに精度の高い顕微鏡であろうとも見つけられそうになかった。


「先のことなんか分からないけど、とにかくまずは日和ケ丘でしっかりやらないと。凄い人ばかりだって話だし。そのためには、このくさぶえFCでもっと結果を出していかないと」

「そうだね。よおし、ドリちゃんの未来のためにも今度の大会は優勝するぞ。石巻のゆうのためにもお!」

「またそれをいう! やめてよ、その石巻の佐治ケ江っていうの」


 良子は恥ずかしそうに顔を赤らめたが、ちょっと嬉しそうでもあった。


 佐治ケ江優というのは、FWリーグのベルメッカ札幌に長年在籍する選手であり、フットサル女子日本代表の主将でもある。

 フットサル選手として世間一般に名を知られている唯一の日本人女性だ。


 もう三十歳をいくつも過ぎているが、その天才的な能力はまるで衰えを知らず、先日はついにW杯優勝という栄誉を日本にもたらした。女子アスリートのスーパースターである。


「なに佐治ケ江に自分をなぞらえてんの? 調子に乗って、バカじゃないの?」


 小学六年生のふみが、にやにや笑いながら近寄ってきた。


「すみません、あたしが一方的にドリちゃんを褒めてただけなんです。どうもすみません」


 牧江は先輩の気に障ったことを、頭を深々下げて謝った。

 自分に非が微塵もなかろうとも、先輩が不満に思っている以上こうしておいた方がいいと判断したのだろう。でないと自分の言動がもとでドリちゃん、良子がいじめられることになってしまうから。


 津田文江の性格の悪さは、このフットサルチームどころかこの界隈で有名なのである。


 石巻くさぶえFCの女子フットサルチームは高学年だけで二十人以上いる。当然、試合でベンチ入り出来ない者も出てくる。

 新堂良子はそんな六年生から非常に嫌われているのであるが、津田文江は特に良子を異常なまでに敵対視していた。


 しかし……

 せっかく牧江が罪もないのに頭を下げて謝ったというのに、当の良子が平然とした顔をしているものだから、津田文江の気持ちはおさまるどころか不満高まるばかりのようで、


「そんなこと関係ないんだよ。石巻の佐治ケ江だなんとかいわれて、ニヤけてたのは事実だろ! 身の程を知れってんだ、バーカ!」


 津田文江はそう吐き捨てると、芝を激しく踏み付けながら去って行った。


「なんだよあれ、ドリちゃんに勝てないからってさあ」


 牧江はふんと鼻を鳴らし、やり場のない怒りを少しでも吐き出そうとした。


「そんなことない。津田さんも凄いよ」

「はあ? いま、っていった? 津田さんっていった?」


 牧江は、もに食いついた。


「いった」


 良子は恥ずかしそうな笑みを浮かべながらぼそり、でも即答。


「いやあ、やっぱり君は大物だ。石巻の佐治ケ江優だ」


 牧江は良子の背中をばんばんと叩いた。


 ぷ。と、どちらからとなく吹き出していた。

 なにがおかしいのか分からないが、澄み渡る青空の下で二人はいつまでも笑い続けていた。


     3

 石巻市さぎノ森ふれあいパーク内にある、屋外四面フットサルコート。


 ユニフォーム姿やジャージ姿の小学生女子が、溢れ返るほどに集まって、目に見えても不思議のないくらいの熱気を生み出していた。

 宮城社会日報社フットサル大会の、女子の部がこれから始まるのだ。


 新堂良子の所属する石巻くさぶえFCは開会式直後の第一回戦からであり、もうあと少しで試合開始だ。

 ピッチ脇では登録メンバー全員でウォーミングアップを行なっている。


 良子は試合直前までは余裕の軽口を叩いていることが多いのだが、今日は珍しく無口であった。淡々と、黙々と、ウォーミングアップをこなしていた。


 この大会を頑張るのだという気持ちも当然あるのであろうが、それ以上に感じられるのが、まるでなにかから逃げ出そうとしているかのようだということであった。


 いや、

 ようだではなく実際に逃げたのだ。


 今朝、大事な話があると母から声を掛けられた。

 その表情を見た瞬間、その声を聞いた瞬間、なんだか嫌な予感がした。

 なんの根拠もないけれど、でも良子の心臓はどくんと跳ねた。


 だから、話を聞かなかった。

 後でね。

 と、とっくに済んでいるはずの身支度をやり直して忙しい振りをして、そして家を飛び出した。


 こっちだって、今日は大事な試合があるんだ。

 そんな話、また今度……百年後か、二百年後にでも聞かせて欲しい。


 と。

 そう、つまり良子には、母親がなにを話そうとしていたのか大方の見当はついていたのである。

 だからこそ、心臓が跳ね上がった。

 だからこそ、逃げ出した。


 でも、本当にこっちだってこれから大切な試合なんだ。

 だからこそ、そういいわけをして、そして逃げた。


     4

「ドリ、やった!」

「よく決めてくれたあ!」

「くそ、こいつう」


 ピッチの中、新堂良子はみなに抱き着かれて小突かれたり髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回されたりと手荒い祝福を受けていた。


 4-4でむかえた決勝戦後半十四分、相手チームのクリアミスを良子が逃さず駆け込みジャンピングボレー。これがゴレイロの指を弾いてネットに突き刺さり、直後にタイムアップの笛が鳴り、良子のいる石巻くさぶえFCが大会を制覇したのである。


「あたしはなにも……みんなで掴んだ優勝だよ」


 良子は謙遜するものの、その顔は誇らしげであった。

 それはそうだ。

 だって、そうでなければ自分の家を、家族を守れないから。


 勉強は苦手だけれど、フットサルなら誰にも負けない。相手が六年生だろうと、中学生だろうと。


 自分が、石巻の佐治ケ江優などと呼ばれて地元で有名な存在であることは知っている。

 それは、家族にとっても自慢であるはずだ。


 自分がそうした自慢の娘である限り、きっとお母さんも出ていったりしないはずだ。家族がバラバラになったりしないはずだ。

 だからきっと、自分がたくさんのゴールをあげてこの大会に優勝したことは、より家族の絆を深めたんだ。


 帰ったらお母さんに伝えよう。

 たっぷりと、自分の活躍を話してやろう。

 たくさん、褒めてもらうんだ。

 たくさん、頭をなでてもらうんだ。


     5

 お母さんのなど、誰が聞くものか。

 反対に、こっちから今日の大会のことをいっぱいいっぱい聞かせてやって、褒めてもらって、頭をなでてもらって、お母さんがなにをいいたかったかなんて忘れさせてやるんだ。


 フットサルのことなんか全然知らないお母さんだけど、でもわたしの今日の活躍には絶対にびっくりするはずだ。

 だって、ゴール数、アシスト数、直接FKゴール数、連続複数得点などなど大会記録を続々と塗り変えて、チームを優勝へと導いたんだから。


 きっと驚くだろう。

 きっと喜んでくれるだろう。

 きっと自慢の娘だと思うだろう。

 きっと……

 だから、急がなきゃ。


「おい」


 大きなスポーツバッグを背負って駅から自宅までの道を小走りしていた良子は、児童公園の前で声を掛けられ足を止めた。


 ふみであった。

 しのきようすずそのも一緒だ。

 三人とも、石巻くさぶえFCの女子フットサル部に所属している小学六年生である。


 良子は取り囲まれていた。

 腕をぐいと引っ張られ、公園の敷地内へと連れ込まれていた。


「なにか、用ですか?」


 このただならぬ雰囲気に良子は緊張し、俯き加減におずおずと尋ねた。


「ドリさあ、今日はとーっても生意気だったねえ」


 津田文江は、自分の顔をぐうっと良子へと寄せた。


「調子乗ってっぺ?」


 篠田京子が、楽しそうに口元を歪めた。


 周囲の空気がなんだか異様な粒子をはらんだものになっていた。

 突然のことに良子はすっかり畏縮してしまって、なにも言葉を返すことが出来ずにいた。


「おい! 先輩が話し掛けてんのに、なんで無視すんだよ」


 鈴木園美が、そのいかつい体型通りの低い声で良子に凄んでみせた。


「やっぱり調子乗ってっぺ」


 篠田京子が、相変わらず楽しげなにやにやとした表情。


「あ……あの」


 良子は、ようやく声を発した。


「あたしはただ頑張って、みんなと一緒に優勝しただけです。それを喜んだだけです。生意気だなんて、そんな……」


 なかなか言葉の出ない良子であったが、一度言葉が飛び出すとすらすらと口をついて出てきた。


「みんなっていった? なに、みんなって誰?」


 津田文江が言葉尻を捉えるように尋ねた。


「だ、だから、試合に、出た、みんな、チームのみんな」


 良子は威圧感にしどろもどろになりながらも、脳内の冷静な部分で自分が何故からまれているのかを理解していた。


 この三人は今日の大会で、一試合にも出ていない。

 優勝が決まった瞬間も、あまり興味なさそうに隅っこで三人かたまっていた。


 出られなかったことが、面白くないのだ。

 そして、年下のわたしが出場して、しかも活躍したことが面白くないのだ。


 でも、だからって、こんなの理不尽だ。

 なんでわたしが責められなきゃならない?


 良子は心の中で相手の横暴を批難したが、超能力者ではない津田文江にその言葉が届くはずもなかった。


「チームの全員と、本当に喜び合えていると思ってんの? どうせ試合に出られない連中のことを、ざまあとか思っているくせにさあ」

「そんなこと、思ってない!」


 優越感があったことは認める。

 でも、そこまで酷いことなんか、誓って考えてなんかいない。


「じゃあきっと、哀れに思ってるんだ。あたしらのことを。実力がないばかりに試合に出られなくて可哀相だねって」

「そんな……」


 津田文江は、戦術上の問題によりこの大会では使われなかっただけだ。

 今回は運がなかっただけだ。

 足元の技術やシュート精度など、チームで一番かも知れないのだから。

 だから、こちらの方こそ五年生の身分で大会に出られて運が良かっただけ。

 実力がなくて可哀想だなんて、思うわけないじゃないか。

 そんなこと、分かっている。

 分かってはいるけど……


 三人の威圧感に目を白黒させながらも、良子の頭の中でなにかがむくむくと成長していた。

 同時に、段々と気持ちが落ち着いてきていた。

 おろおろしているのが、バカらしくなってきた。

 理不尽な先輩の戯れ言に付き合うのが、バカらしく思えてきた。

 そして、無意識に口が開いていた。


「そう思ったら、なにかいけないんですか? 可哀相だと思ったら悪いんですか?」


 良子は目を細め、津田文江へと冷たい眼光を向けていた。

 受けた当人は少したじろいだが、良子は構わず続けた。


「あたしだって、ボロボロになるくらい練習して実力をつけて、認められて試合に出られるようになったんです。それを嬉しいと思ったら悪いですか? 優越感を覚えたらおかしいですか? 試合に出られない人を可哀相だと思ったら悪いですか?」

「うるさい! うるさいうるさい! 生意気なんだよ、お前はっ!」


 津田文江は予期せぬ反撃に声を裏返らせながら、良子の胸を両手でどんと押した。

 良子はよろけ、とと、と後ろに下がり、昨日の雨でまだぬかるんでいる地面に尻餅をついた。


「五年生のくせに!」


 激昂して我を忘れた津田文江は、良子の身体を蹴飛ばした。

 良子は苦痛に呻き声を漏らした。


「謝れ! あたしを傷つけたことを謝れ!」


 良子は怒鳴り声を張り上げる津田文江に胸を踏まれ、泥の中に横たわったところ顔をぎゅうっと踏み付けられた。

 やり過ぎではないか、と一瞬躊躇いの表情を見せた篠田京子と鈴木園美であるが、三人のリーダー格である津田文江には従うしかなく、良子の脇からそれぞれ蹴りを入れた。

 想像力と自制心に欠ける現代の子供である、こうして一度火がつくと制御不能に陥るのはあっという間だった。


「ふざけやがって!」

「どうやってコーチに取り入ったんだよ!」

「調子に乗って!」

「謝れ! 早く謝れ!」


 良子の身体は加減を知らぬ三人に蹴られ、殴られ、あっという間に全身泥まみれ傷まみれになっていた。


「許して下さいっていえよ! あたしらに謝れよ!」


 鈴木園美のつま先が、良子の腹に減り込んだ。

 良子は嘔吐感をおさえるような呻き声を発した。

 蹴られたお腹を押さえようとしたけれど、両手は津田文江に現在蹴られ続けている頭部を守るので精一杯。エビのように身体を丸めるしかなかったが、それはそれで無抵抗のまま三人の容赦ない攻撃を浴び続けることを意味した。

 拳骨に顔を打たれたり爪先がお腹に減り込むたびに、良子は苦痛に顔を歪め呻いた。


「謝れ!」


 津田文江の、何度目の命令であったことだろう。


「嫌だ」


 良子の、何度目の抗いであったことだろう。


 何度目であろうと変わらない。

 だって、自分は悪くないから。

 殴りたければ殴れ。

 蹴りたければ蹴れ。

 こんなことをしていて恥ずかしくないのなら、いくらでもそうするといい。

 わたしは、なんにも悪いことなんかしていない。

 全部自分の努力で勝ち取ったもの。自分の実力だ。悔しくて我慢出来ないというのなら、実力でわたしに勝ってみろ。

 こんなことしか出来ないくせに!


「謝れ!」


 嫌だ……

 頭を蹴り続けられて、まったく抵抗の言葉を発することも出来なかった。


 でも良子は、朦朧としかける意識の中でも自分を曲げることなく、抵抗し続けていた。


 絶対に、謝るもんか。

 だって……

 意味がなくなっちゃうじゃないか。

 ここまでフットサルを続けてきた、意味がなくなっちゃうじゃないか。

 お母さんの自慢の娘であろうとして、ここまでガムシャラに頑張ってきというのに……

 だから、謝るもんか。

 絶対に……

 絶対に!


     6

 意識が戻ると、もうそこにふみたちの姿はなかった。

 すべて幻覚だったようにも思えるが、全身を襲う激痛、手足に出来た紫や黄色の痣、擦り傷、これらは先ほどまでのことが夢ではないことを表していた。


 でもそんなこと、良子にはどうでもよかった。

 殴られたことが夢だろうと現実だろうと。

 早く家に帰りたい。

 良子が考えているのは、ただそれだけだった。


 一刻も早く家に帰って、今日の優勝をお母さんに報告するんだ。

 大会記録をたくさん作ったことを、お母さんにたっぷりと話して聞かせてやるんだ。

 すごいね、って頭をなでてもらうんだ。

 そうしてもっともっと、お母さんの自慢の娘になるんだ。

 ここの家のお母さんでよかった、良子がいるからもうどこにも行かないよ、ってそういってもらうんだ。

 だから、急がなきゃ。

 たくさん、褒めてもらうんだから。

 だから……

 だから……


     7

 肌も服も全身ボロボロの良子は、玄関前で深呼吸をすると勢いよくドアを開け、大きな声でただいまをいった。


 聞こえてきたのは、まだ赤ん坊であるむつの泣き声であった。

 いつもなら、たとえ六葉が泣いていようとも、それを掻き消すようなお母さんのお帰りなさいが聞こえてくるはずなのに。


 おかしいな。

 ただいまの声が小さかったかな。

 いつもよりも、ずっとずっと大きな声を出したはずなのにな。


 良子はもう一度、さっきよりももっと大きな声でただいまをいった。

 だがやはり、六葉の泣き声が聞こえるばかりで母の返事はなかった。


 良子の顔は青ざめていた。

 もしも出かけているのなら、六葉を置いて出るはずがないからだ。


 苦しくなる胸にそっと手を当てて押さえると、靴をバラバラに脱ぎ散らかしたまま中に上がった。

 居間へ入った良子が見たのは、一人ベビーベッドで泣いている六葉の姿。


 その泣き方は少しおかしかった。

 どれだけ長時間放置されていたのか、泣き切ってしまう寸前であった。


 良子は焦る手で六葉のオムツを変え、震える手でなんとか六葉をあやして寝かせつけると、きっと部屋のどこかにいるに違いない母の姿を探し始めた。

 しかし、どこにも母の姿はなかった。


 買い物? なにか緊急の用? でも、それなら置き手紙があるはず。


 良子は信じて六葉と共に待ち続けたが、帰ってくる様子はなかった。


 やがて弟、兄、そして父が帰ってきたが、母一人だけが帰ってこなかった。


 誰も、母のことを知らなかった。


 みんなで近所の心当たりを探したけれど、見つからなかった。

 父が親戚関係全部に電話をかけたが、どこにも訪れてはいないようだった。


 罪悪感という鋭い矢が、良子の胸に突き刺さっていた。

 それは先ほど受けた津田文江たちからの暴力など蚊に刺されたほどにも思えないような、心臓の奥底にまできりきりと食い込む激しい痛みであった。


 大事な話がある。

 今朝、お母さんはそういっていた。


 おそらくこのことだろうと分かっていたのに、こっちの方がもっと大事な用事を控えているんだとわたしは心に嘘をついて、お母さんを無視して家を飛び出した。


 お母さん、きっとここにいるのが限界だったんだ。

 きっと、あえてわたしの大会があるこの日に声を掛けたんだ。

 わたしがどっちを選ぶか、お母さんの味方をしてくれるのか、それを確かめるために。

 お母さんがもしも戻ってこないとしたら、それはわたしのせいだ。

 わたしが、お母さんを見放してしまったからだ。

 わたしが……


     8

 それから一年とちょっとが過ぎた。

 良子は小学校を卒業し、中学一年生になった。


 女子フットサル部が強いことで知られる日和ケ丘中学に入学し、その女子フットサル部に入部した。


 今日が本年度の始動日である。

 体育館の一角に部員全員が集合し、なかまさなり監督の話が丁度終了したところだ。


 監督が後ろに下がりパイプ椅子にどっかと腰を掛けると、今度は三年生、主将のまえあつが前に出た。


「それじゃ、端から一人ずつ前に出て自己紹介して」


 こうして一年生による挨拶が始まった。

 良子は横一列で立つ一年生の中で、一人おどおどとして縮こまっていた。


 ここにきた最初からそのような態度ではあったが、正面に立つ二年生の中にふみの姿を発見してからそれはより酷くなった。


 津田文江、小学生時代に良子とおなじく石巻くさぶえFCでフットサルをやっていた者である。


 忘れるはずがない。

 勝ち負けに異常に執着する性格で、レギュラーを外されてからは怒りの矛先が良子に向いて、試合の帰り道に公園で殴る蹴るの暴力を受けたこともあった。


 レギュラーを外されたといってもそれは戦術な問題でもあり、実力は折り紙つきだ。

 実際、強豪であるこの日和ケ丘中学でも一年生のうちからレギュラーの座を勝ち取って活躍しているらしいが、以前からその実力を知る良子にすればそれは当然のことであろう。


 津田文江はうっすらと笑みを浮かべている。

 その視線は、間違いなく良子へと向けられていた。


 彼女がここにいるというだけで、恐れガチガチに固まっている良子である。もしも目を合わせたりなどしたらますます畏縮、いや萎縮して空気に溶けて消滅してしまうだろう。

 だから良子は、緊張したそぶりを見せて俯きがちに硬直していた。そぶりなど見せるまでもなくどのみち最大級にまで緊張していたので、見た目としてはなにも変わるところはなかったであろうが。


「次」


 良子の番が来た。


「次!」


 ぼけっと突っ立っていた良子は、主将の大声にようやく自分の番であることに気がつき、歩くことすらおぼつかない頼りない足取りで前へと出て挨拶をした。


 自分がなにを喋ってしまっているのかさっぱり分からなかったので、しっかりと挨拶が出来たのかどうか。

 列に戻ってもドキドキの収まらない良子をよそに時間は流れ、挨拶は進み、やがて全員が終了した。


 続いて、早速であるが一年生を対象とした技量測定が行われることになった。この結果により今後、一班、二班と分かれて練習をすることになるのだ。


 公式戦に出られるのは一班のみで、月に一回、班を決めるための審査がある。とはいうものの、一般的に一班も二班も実力差はそこまで開いていない。こうした制度によって、競争意識を高めるのである。


 技量測定はパス、シュート、キープなど基本技術のみではあるが、それだけにごまかしが効かない。

 みな、名門と知って入部してきただけあって実に上手であった。


 ただ一人を抜かしては。

 その一人とは、新堂良子である。


 上手でないどころの話ではない。下手などといえば頑張っていて下手な人に失礼ではないか。それほどに酷いものであった。


 部員たちの誰も、最初は信じられないといった表情であった。

 日和ケ丘中学フットサル部は強豪で知られるとはいえ誰でも入部可能。とはいえ、己の能力に自信がない限り普通は入部などしないからだ。


「新堂、緊張しているのか? もう一度やってみろ」


 監督も心配になって、良子にだけ何度もチャレンジさせたが、より酷くなるばかりであった。


 やがて部員たちからは失笑が漏れ、それが大爆笑に繋がるまでさして時間はかからなかった。


 もちろん良子はふざけてなどおらず、一生懸命であった。

 だけど、真面目に蹴ろうとすればするほどどうしようもなくなってしまう。


 どうすれば以前のようにボールを蹴ることが出来るのか、身体が完全に忘れてしまっていた。

 思い出そうとするほどに、焦るほどに、身体が希望とは異なるわけの分からない動きをしてしまう。


 名門中学に入部したという緊張、別にそれが理由ではない。

 何故ならば良子がボールの蹴り方を忘れたのは、一昨年の暮れにまで遡るのだから。

 母が失踪したあの日にまで。


 それまで石巻くさぶえFCで絶対的なエースとして活躍していた良子であるが、その日を境に完全に別人になってしまった。

 あまりの酷さに、それからはもう試合で使われることなど一度もないまま、小学校を卒業した。


 だから本当は、自分はこのような強豪校になど入部出来る身分ではないのだ。と、良子は思っている。


 良子は、この中学で当時から監督をやっている野中正成より、小五の頃から熱烈なラブコールを受けていた。

 でももう自分はまともにボールを蹴ることが出来ないし、それに公立中学校の方が小学校からの友達がたくさんいるし、と進学について断ったのだが、それでも執拗に勧誘され続け、入学することになってしまったのである。


 を迎えて以来の良子を監督は一度も見たことがなく、いくら自信がないとはいえまさかここまで酷い有様とは思ってもいなかったのだろう。


 日和ケ丘中学は進学校でもあることから、勉強により身が入ればよいという父親の考えにも押されて、良子は不本意ながら入学を決めたのだ。


 と、このような経緯によって、良子は部員全員の前で初日から醜態をさらしていたのである。


 そんな良子を見つめる津田文江の表情は、なんだか嬉しそうであった。

 一年先輩である彼女は石巻くさぶえFCをその分早く抜けたわけであるが、一年振りに再会した良子がまったく立ち直っていなかったことが嬉しいのであろうか。その嬉しそうな表情、視線、それがますます良子を狂わせて、出鱈目な方にばかりボールを蹴ってしまっていた。


 焦るあまり、ますますおかしくなるという悪循環。すっかり頭の中が真っ白になってしまっていた。


 上手に蹴れないという点では去年と同じであり、そうした姿を他人に見られることなどもう慣れっこだというのに。


 石巻くさぶえFCでは友達が多かったから気持ちも楽だった、ということなのであろうか。

 日和ケ丘でボールを蹴るにあたりここまで気持ちが焦ってしまうなどとは、まさか予期もしていなかった。

 津田先輩がいることだって知っていて、覚悟して入学したはずなのに。

 どうしてここまで動揺してしまうのか、さっぱり分からない。

 分からないけど、

 でも……

 きっと、罰が当たったんだ。


 真っ白になりながらも、頭の片隅では冷静にそんなことを考えていた。


 フットサルが少し上手だからって天狗になっていたこと、そのことを隠れみのにして家族を大切にしてこなかったこと。自分のことしか考えていなかったこと。きっと、それを見ていた神様が怒ったんだ。


 フットサルを頑張って家族を繋げるんだなどと、なんと幼稚で無意味かつ自己中心的な発想であったことか。

 家族を見ようともしない、単なるいいわけの言葉じゃないか。


 良子はかつての自分を悔いていた。

 表面だけ良くて、内面は自分のことしか考えていなかった過去の自分を。


 だから、罰を受けた。

 これはきっと、今後ずっと自分が背負い続けていかなければならないことなんだ。

 このように人に指を差されて笑われようとも、背負っていかなければいけない。

 そう、これはきっと家族を繋ぐんだと嘘をついて本当に立ち向かわなければならない試練から逃げていた自分に与えられた罰。

 だから……


 もう、どんなに辛くたって逃げない。

 くさぶえFCだって、そうして最後までやり抜いたんだ。

 この中学への入団を断らなかったのも、そのため。

 お母さんのことも、フットサルも、どちらも大切なんだってことを証明してやるために。

 それが、わたしなりの罪に対する償い。


 フットサルのことばかりで本当に家族を思ってなんかいなかった自分だけど、だからこそ、それを悔いて反省するならフットサルを辞めちゃいけないんだ。


 これまでは勝負にこだわっていただけで、心からフットサルを好きだったわけではないのかも知れない。

 だから今度こそ、心から好きになって、楽しんで、誰とでも仲良くなって、下手だろうとなんだろうととにかく自分に自信をもてるようになって、そして、それと同じくらい家族をいっぱいいっぱい大切にするんだ。

 だから、楽しまないと。

 楽しくボールを蹴らないと。


 良子は心の動揺をなんとか押さえ付けながら、そう強く心に唱えた。

 しかし、母の失踪という胸の奥深くに突き刺さった罪悪感の矢は溶けることも抜けることもなく、ボールの蹴り方を完全に忘れた良子は部員たちの前で失態をさらし続け、笑われ続けた。


 良子は楽しげな表情を作ろうとするものの、その顔はただぴくりぴくりと痙攣するばかりであった。


 おかしいな。

 なんで、笑えないんだろう。

 上級生たちどころか一年生まで、みんなが笑っているけれど、わたしも笑ってフットサルを楽しんでいるよって応えたいのに。

 おかしいな。

 緊張してるのかな。

 辛い、って思っているのかな。

 そんなことないよね。

 だって、こんな楽しいスポーツ他にないじゃないか。

 ボールをまともに蹴れなくなったからってなんだ。

 最初に戻っただけ。

 一から練習すればいい。

 それだけじゃないか。

 ただそれだけじゃな……


 視界が反転した。

 ごちという鈍い音と激痛とともに、どっと周囲から大爆笑が起きた。

 良子はボールに乗り上げてしまい、転んで後頭部を床に打ち付けていたのだ。


 すぐさま起き上がると、ころころ転がるボールを追いかけた。

 まるで雨の日のドライブのように、視界がすっかりと曇って前が見えなくなっていた。


 泣いていたのである。

 目に涙が満杯になって、走るたびボロボロと頬をこぼれ落ちていた。


 邪魔だなあ、この涙。

 前が見えないじゃないかあ。

 また、転んじゃうじゃないかよ。


 袖で拭っても拭っても溢れてくる自分の涙に文句をいいながら、良子はボールを追い掛けていつまでも走り続けていた。

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