託された物、託された者

 ドロドロとした空間だった。

 ねっとりとした空気が肌に纏わりついてきて手足が思うように動かせない。

 地面に立つ感覚はなく、ただゆっくりと下に落ちていく。


 ここは何処だろう?


 自分は地獄に来てしまったのだろうか。

 周りを見回しても不可思議な空間がうねるだけで、何の変化もない景色が続く。


 声を出そうとしても何かが喉につっかえた様に邪魔をして、思うように喋ることができない。


 ふと、視界の端に何かが映った。


 ゆっくりと首を動かすと、その姿を捉えることができる。


 大きい。


 果てし無く大きなが、この不思議な空間を支配するかのように蠢いている。

 それを言い表すには、「怪物」なんていう言葉では拙く感じてしまうくらい、今まで見たこともないような形をしていた。ただただ大きく、長い。


 こちらの事なんか気にも留めていないかのように、ゆっくりと泳ぐように飛んでいる。


 と、それが急に激しく動き始めた。

 長い身体をうねらせ、なめらかに泳ぐようだったのが、滑るように早く移動する。


 それが徐々にこちらに近づいてくる、近づいてくる。


 逃げることもできずに、レストはただそれが自分の方に近寄ってくるのを眺めている他なかった。


 それはレストの目の前にやって来ると、止まった。


 顔とも言えないような大きな顔がじっとレストを見つめている。

 レストもその顔をじっと見つめている。


 突然それの口が開かれる。


 顔が二つにぱっくりと割れ、全てを飲み込まんとするかのように大きく開かれている。その中は熟した果実のように紅い、紅い。


 笑ってる。


 何故かレストにはそう思えた。


 それは口を開いたまま再び動き出した。レストに真っ直ぐ向かってくる。

 

 レストは動けない。


 大きな口が近づいてくる。

 視界が徐々に飲み込まれていく。


 レストは動かない。


 近づいてくるそれの息遣いを感じたままじっとしている。


 そしてレストは飲み込まれた。

 

 自分の中にそれが入っていくのを感じた。

 

 それは何かの感情。何かの絶望。

 

 悲しみの紅がレストを染め上げていく。

 

 ただひたすらにゆっくりと、


 紅く、


 紅く。



 〇



 瞼の裏に日の光を感じた。

 ゆっくりと目を開けると、一瞬強烈な太陽の光が目を刺し思わず顔をしかめる。

 周りで安堵の溜息が漏れるのが聴こえた。


「目を覚ました!」


 リリィの声だ。

 どうやらここは遺跡の外らしい。レストは身体を持ち上げると、全身に痛みを感じて、再び顔をしかめる。


 「あまり急いで動かない方が良い、オークにやられた傷がまだ癒えきっていない」


 心配そうなノルトの声が耳に入ってくる。

 レストはまだ少し状況が掴めずにいた。ふらふらとする頭を何とか持ち上げながら、


「僕はどうしたんだっけ......」


 と呟く。


「オークの親玉を倒したのだよ」

「オークの......そうか、僕は彼を......」

「バカレスト!死んじゃったかと思ったんだから!」


 リリィが抱き居ついてくる。普段は気丈な彼女が珍しくわんわんと涙しているので、相当心配してくれていたのだろう。


「ごめんね、リリィ。それと、ありがとう」

「今度あんなことしたら承知しないんだから」

「うん、わかった。あとちょっと痛いよ、リリィ」

「あ......ごめん」

「レストさん!」


 別の声が聞こえる。

 視線をあげると、探究者の女の子が立っていた。レストが助け出し、オークとの戦いの時に剣を投げ渡してくれた女の子だ。


「君は......無事でよかった」

「私、エリって言います!レストさんが助けてくださらなかったら私、あのままどうなっていたか分かりませんでした。本当にありがとうございます!」

「そんな、僕の方こそ最後は助けてもらったから......。でも、どうしてオークのもとに戻ってきたの?危ないって分かってたはずなのに」


 エリと名乗った女の子はそっとしゃがんで座っているレストと視線を合わせた。活発そうな顔にショートカットの茶髪がよく似合っている。


「レストさんに助けてもらった後、小隊の皆さんに回復魔法をかけてもらって......それで動けるようになったんですけど、私を助けてくれた人が一人で戦っているって聞いて。恩人をみすみす死なせるわけにはいなかないって、いてもたってもいられなくて......それで、つい」

「そっか......本当に助かったよ。ありがとう」

「......ええ、はい!」


 実際、彼女やノルトたちが駆け付けてくれなかったらどうなっていたか分からない。オークの攻撃をいつまでもいなし続けるのは無理だったし、あのまま時間だけが過ぎていたら先に力尽きていたのはレストの方だっただろう。

 だけども現実は、レストが勝利して、オークたちは死んだ。

 レストが、彼らの命を絶ったのだ。


「どうかしましたか?」


 浮かない顔が出てしまっていたのだろう、エリが心配そうに覗きこんでくる。


「あぁ、いや、その......オークを、オーク達を......殺してしまった、と思って」


 実際にレストが討伐したのはオークのボス一体のみだが、頭を倒すというのは組織全てを潰すのに等しい。

 エリはそれを感じたのか、


「えぇ、はい!レストさんのおかげでオークの脅威は無くなりました!」


 と少し的外れな返答をする。

 いや、的外れではないのだろう。彼女にとっては。そして、この場にいる人たちにとっては。

 オーク達は人間を無差別に襲い、奪い、恐怖に陥れる存在だった。それを討伐したレストはまさにヒーローだ。皆それを祝福するし、散っていった"悪役"を気にも留めない。

 自分は良いことをしたのだろう。しかしどうにも手放しで喜ぶことができない。オーク達がしたことは正しいことではない。では自分のしたことは正しいことであったのだろうか。彼らにも生活があって、暮らしがあって、日常があった。それを"亡きもの"にしたのは、紛れもなく自分だ。

 そう選択したのは、自分だ。

 オーク達は断罪されるべきところまで来ていた。それは変わらない。彼らと潰しあわない未来を描かくことができるタイミングがあったのだとしたら、それはきっと遠い昔──旧世紀に起こったの時だけだっただろう。

 だからレストはきっとこの気持ちに折り合いを付けられないまま進んでいくしかないのだ。

 今レストの心境を正しく理解できる人物がいるとしたら、それは、リリィしかいない。彼女もまた、オークと対話をしたから。オークの憎しみに触れたから。

 リリィがつい、とレストに飛んでくる。彼女は何も言わずににこりと微笑んで、レストの頭に座る。それだけでほっとした気持ちになってレストも微笑んだ。



「さて、皆の者」


 ノルトの声が響く。


「オークの殲滅は成った。今宵は宴だ!存分に楽しみ、ゆっくりと身体を休めるがよい!」


 おおおおおと歓声が響き、すぐさま宴の準備が進められる。一応のこと、この辺りにオークより強い魔物は存在をしないことになっているので、警戒を怠らなければ少しくらい騒いでも大丈夫だろう。

 つかつかとノルトが歩み寄ってくる。レストは視線をあげて応えた。


「改めて感謝するよ、レスト殿」

「いえ......」


 求められる握手に応じると、変わらないごつごつとした手の感触が伝わってくる。


「焦る気持ちはあるだろうが、今宵はゆっくりと休んでくれ給え。日が明けたら、神器を見つけに参ろうぞ」

「はい、お心遣い、感謝します」

「うむ。ではな」


 それだけ言うとノルトは仲間の下へと去っていった。

 この宴もレストが気兼ねなく休めるようにとのことなのだろう。その配慮に感謝しつつ、レストは用意してくれていた寝床に潜り込む。


 夜になり始めた空が暗い蒼に変わり、地平線は遠く赤く染まっている。

 リリィが枕元に移動してくるのを感じた。

 すぅっと息を吸い込むと、レストは数刻もしないうちに眠りへとつくのだった。





 オーク達がいなくなっても、遺跡に染みついた血生臭さは変わらなかった。

 しっとりとした壁に手をつき、ゆっくりと通路を進んでいく。慎重に松明を掲げながら、一歩、また一歩と足を踏み出す。

 そうして数歩進むとふいに頭に靄がかかったような感触に襲われた。

 くらくらとして前が良く見えなくなり、足取りも覚束なくなる。なんとかこらえてずしずしと鉛のようになってしまった足を動かすが、今自分がどこに向かってるかさえも分からない。

 気が付くとノルトの顔が目の前にあった。


「やはりダメか」


 低い呟きですっと頭が明瞭になる。

 レストはハッと短く息を吸い込んだ。


「戻ってきてる!?」


 そこは先ほどレストが進入した通路の入り口だった。


「うむ。これこそが神器を護るための仕掛けであろう」


 最初出会った時にノルトが言っていたことだ。新しく遺跡内に発見された空間には、どうあがいても立ち入ることができなかったと。まるで何かに操られるように引き戻されてしまうのだと。


「こういうことか......」

「正直私たちではお手上げだ。この先に進めるのは女神様に認められた君しかいないだろう」


 とは言うが、実際にレストも先に進むのを阻まれているのも確かだ。

 レストは通路の入り口を睨む。それはこの遺跡を造ったであろう誰かが、他者の立ち入りを想定して作られたものではない。ぽっかりと雑に開けられた入り口はノルト率いる探索隊が壁を破壊して設けたものだ。

 遺跡の最奥。

 四角く間取られた空間の真ん中には石を切り出した質素な台座が鎮座している。天井は丸くドームになっていて、見上げれば遥か高い。

 その部屋の突き当りの壁を崩したところに、通路が繋がっている。

 この遺跡を造った誰かは、どうしてこんな隠し通路なんかを──。

 いや、待てよ。レストはふと思う。

 何も遺跡の建造者たちと、神器をこの遺跡に隠した人たちは同じであるわけではないじゃないか。考えてみれば当たり前の話だ。

 レストはぎゅっと目を閉じる。

 思い出せ、歴史を。この世界のありようを。

 ここがかつて海であったのは、ブラッド・フォールが起きる前。その時代からこの遺跡は存在しているとされる。証拠は?旧世紀の言語で綴られた宝具や遺物等が出土しているのだ。

 対して森の魔物アンブロシアが出現したのは、ブラッドフォールが発現した後の世界での話だ。女神リリアナ様と力を合わせ、それを封印したのは間違いなく自分たちと同じ新世紀の人間たちだ。

 つまるところ、神器を護るためにこの遺跡を建てたのではなく、元々あった遺跡を神器を護るための場所として利用したのだ。そう考えると、今自分の目の前に続くこの通路は、女神リリアナと共に森の魔物アンブロシアを封印した人たちが、新しく増設したとみるのが自然だ。

 では何故彼らはこの場所を選んだのか?

 考えろ、考えろ。

 この聖域が、聖域たり得る所以はなんだ?

 他者を阻み、神器を護るためにこの遺跡はどうして都合がよかった?


 何故なら、ここが、元から聖域であったからだ。


 聖域とは、神域。


 。ここには。


 千年よりもはるか昔から。


 そしておそらく、千年前にはまだかろうじて。

 アンブロシアを封印した人たちがいたころには、まだ存在していたのだ。


 だからこそ、この遺跡は建てられ、そして永い時を経てさえも朽ちずに残ることができた。


 ここは海。

 海の底。

 たゆたう蒼き世界を統べる、


 深き神のための遺跡。


「『ケートス』」


 ふとリリィの声がする。


「え?」


 レストと同じことを考えていたのだろうか、その目はじっと虚空を見つめ動かない。


「ずっと昔にリリアナ様が言ってたのを思い出したわ」


 そう言ってリリィはすっとレストのもとを離れ、部屋の真ん中──台座の方へと飛んでいく。


「レスト、こっちに来て」


 言われたとおりにレストはリリィのいる場所へと歩いていく。


「ケートスは、海を守護するとされる神よ」


 リリィに促されるままレストは台座の前に膝をつく。そうするのが自然であるかのように感じられ、何の疑問も浮かばなかった。

 ノルトを含む探索隊たちも、息を呑んだようにじっと静かに二人の動向を伺って動かない。


「まさか他の神が関わっているとは思わなかったけど......レスト、ここで海の神に祈りを奉げて御覧なさい。そしたら、きっと、上手くいくから」


 リリィの確信したような声。

 レストは両の手を合わせ目を瞑り頭を垂れる。

 何を疑問に思うべきか、何を考えるべきかは一度心の隅に追いやって、無心で精神を集中させた。




 音が聞こえる。

 ざわざわと、それから、こぷこぷと。

 自分がいる空間が、世界が、何かに満たされいくような感触。

 瞼の裏に、景色が、情景が、広がって、レストは解き放たれていた。

 そこは海だった。

 暗い海の底。

 冷たくて、温かい。だけどあぁ、なんだか塩っぽい。それは涙によく似た味。

 見たこともない深海の生物たちがレストの周りを通過していく。

 海の底に洞窟があった。

 その中に光るものを見る。

 大きな二つの赤い光。

 何かのまなこ

 それは大きな、大きな、クジラ。

 クジラはレストを認めると、口を開けて一つ吼える。途端に激しい海流が生み出され、レストはもみくちゃにされる。

 ただただ激しい水の流れに身を任せ、レストは何もできずに翻弄される。


 気がつくとレストは宙の上にいた。

 天は黒く怒っている。激しい雷雨が叩きつけてくる。そしてレストは見た。

 大きな大きな岩の上に、巨大なクジラが張り付けにされているのを。

 頑丈な楔が岩に刺さって、それに連なる鎖が痛々しくもされど神々しくクジラを締め上げる。

 クジラの眼は優しく、そして悲しく細められていた。

 そのクジラの影に、レストは見る。

 張り付けにされている美しい女性を。

 同じように優しさに満ちた、されど悲しみに目を伏せている、女性を。


 頭なの中に声が聴こえる。

 先ほどの光景が幻だったかのように消え去った。

 再び海の中。だけど一つ違うのが、洞窟ではなく立派な神殿があることだった。

 目の前にたゆたうクジラがいる。

 それが頭の中に語り掛けてくる。

 人間よ、何をしに来たと。

 人間よ、何を求めると。

 レストは喋れない。だけども想い描く。女神様のことを、リリィのことを、遺跡のことを、まだ見ぬ、アンブロシアのことを。

 その途端、レストの頭に何かが流れ込んでくる。

 それは、映像。それは、記憶の本流。

 たくさんの人々が遺跡に集まっている。

 クジラの目の前に何かを奉げて頭を垂れている。

 それは、儀式。それは、契約。宙へと還るクジラと地に残る人との間の。クジラが迷わず宙へと昇れるように。人々が迷わずクジラを見つけ出せるように。捧げられたものは、小さな天球儀。これこそが神器。神の力を宿せし器。

 そしてクジラは約束をした。

 女神の加護を受けし者が訪れるまで、再び神器が必要とされるその時まで、自身の魔力を以てして、神器を守護することを。神器を以て自信を導いてくれた人間たちへの礼として。

 そして今その約束は果たされる。


「一つ良いかな」


 声が聴こえた気がした。


「なんでしょう」


 心の中で答えると、一呼吸おいて再び声が聴こえる。


「どうか、忘れないで欲しいんだ。私は襲おうとしたのではない。護ろうとしたのだということを」


 岩場に張り付けられた女性の姿が浮かぶ。

 レストは頷いて静かに言った。


「わかりました」


 満足そうな鳴き声が聴こえて、クジラの気配は遠く去っていく。


 水の感触はもうすっかりなくなっていた。




「......っは!!」

 レストが瞼を持ち上げると、そこは変わらない石室の中だった。

 空気はひんやりと澄んでいる。心なしか血生臭さもなくなっているようだった。まるで遺跡全てが洗われたかのように。遠い昔に存在した海の水が、再びこの遺跡を清めたかのように。 

 ゲホゲホと咳き込めば、リリィが心配して寄ってくる。


「レスト、何か見えたの?」


 かなり深く集中していたらしい。視界がまだ瞬いていて、頭も回っている。こくこくとリリィに頷きだけ返して、レストは呼吸を整える。


「海の底にいたんだ」


 ぽつりぽつりと、今しがた見てきた光景を語る。語るにつれて、リリィと、そして後ろのノルトたちの表情が明るくなっていく。


「それじゃあ......!」

「うん、いいよって」


 許可をもらった。認めてもらえた。神器を持っていっても良いと。自分は神器を使うに値すると。

 しかし、本音を言ってしまえばレストが何をしたというわけではない。レストはただ祈って、"視た"だけだ。それでも、ケートスが神器を託してくれたのは、人間を信じてくれていたからだ。海の神から伝わってきた人間への深い恩を、レストは感じていた。祈り、そして彼の下にたどり着いたレストのことを、ケートスは信じてくれたのだ。


「それとね、『忘れないで』って、言ってた」

「......そう」


 リリィはそれ以上何も言わずにただ頷いた。多分、リリィにはもう何のことか分かっているのだろう。レストを通して、レストが感じたことは、リリィに伝わっているだろうから。


「それにしても、リリィ殿は海の神のことをよく知っておったな」


 ノルトが感服したように言う。それに対してリリィは首を振った。


「うぅん、私は知らなかったよ。私は海の事も、クジラのことも知らなかった」

「おや?では何故?」

「言ったじゃない、ずっと昔にリリアナ様に聞いたって。海にいるクジラの神のことを話してたことがあったのよ」

「そうであったか」

「まさかその神の遺跡が聖域として使われただなんて、リリアナ様も思いもしなかったでしょうけれど」


 海の神と森の神、何かしらの交流があったのかもしれない。

 今となっては、遠い昔の話であろう。


「......さて、となればぐずぐずしている理由もないだろう。レスト殿」

「はい」


 レストは再び通路の入り口に立つ。そしてゆっくり中へと足を踏み入れてみる。最初の時に感じた、頭に靄がかかっている感じはもうしない。

 一歩、一歩、と歩を進めていく。

 それは案外短い通路だった。


「うわ......」


 その部屋に入った時、思わず声が漏れた。

 見渡す限りの星、星、星。

 まるで真夜中の空へと放り出されたように一面中──足元までもが、きらきらと宝石のように輝いている。


「すごい......」


 リリィも同じように声を漏らす。


「これは宙だ......ケートスが還っていった、宙だ」


 祈りで視た光景を思い出す。ここは、ケートスの力に満ちた宙の海なのだ。

 部屋の真ん中で、ふわふわと浮いているものがある。レストの拳にさえ満たない程の、小さな天球儀。それには、見覚えがあった。


「神器......」


 そう、あれこそが神器。

 レストはゆっくりと近づいて行く。シャリシャリと足元で軽やかな音がする。

 くるくると回転する天球儀に恐る恐る手を伸ばすと、天球儀が強く輝き始める。その光が徐々にレストの手を伝ってレストの身体に染み込んでいく。温かい感情の本流が、レストに流れ込んでくる。それはケートスの思い出だ。神としてこの地にあったことの思い出だ。その思い出がいつか自身を助ける力となることを予感しながら、レストは天球技を手に取った。


 強烈だった光は収まって再び静かな星々の明るさが戻ってくる。

 と、レストは自身の周囲に風が纏い始めるような感覚を覚えた。見れば、微弱な光の壁が、自身を囲っていることに気が付いた。


「これって!」


 リリィが叫ぶ。レストも頷く。

 オークの王と戦っている時、レストを守ってくれた障壁だ。


「そうか......神器の力だったのか」


 つまりはもう既にその時からケートスはレストに力を貸してくれていたのだと気が付くと、レストは自然と天球儀を額に近づけて呟くのだった。


「ありがとう」



「なるほど、そんなことがあったんですね」


 うんうんと頷くのは、ヒヨリだ。

 レスト達はアルフの街に戻ってきていた。甘味処『いちごへび』、その店内を抜け、おそらくは生活スペースなのであろう、リビングのような部屋に腰を下ろしレスト達は海の遺跡で起こった出来事を報告していた。

 リビングはかなり広く、長机とソファが中心に置かれ、そしてたくさんのドアがあった。それぞれがこの大樹の様々な場所につながっているらしい。

 ちなみにセリンには既に顔を見せている。二人の帰還を喜んでくれて、それから労いの言葉をかけてくれた。その後にヒヨリのもとに訪れると、自慢のお菓子を振舞って歓迎してくれた。それに大層喜んだのはリリィだ。


「なんにしても、無事に帰ってきてくださって本当に良かったです」

「ありがとうございます。ヒヨリさんのおかげで最初の神器を手に入れることができました」


 ヒヨリのチーズケーキに舌鼓を打ちながら話を進める。


「いえ、私は情報を渡したにすぎません。この結果を勝ち取ったのは全てレストさん自身の力ですよ」

「それでも、ありがとうございます」


ぺこりと頭を下げるとヒヨリさんはふふふと笑う。


「まだ一つ目を手に入れたにすぎません。大変なのはこれからですよ、レストさん」

「あ......はい、その通りですね」

「それにしても『ケートス』......旧世紀より存在する海の神ですか。そのような存在が封印の神器を守護してたとなると、ことは思いのほか大きいかもしれませんね」


 先ほどまでより一つトーンを落として、神妙な顔をしながらヒヨリさんが呟く。


「え?」


 どういうことかと表情で問うと、ヒヨリは言葉を続けてその問いに答える。


「アルフの街だけの問題ではないかもしれない、ということです」

「それって......」

「はい。アンブロシアの復活は、この世界をも揺るがす事態になりかねない」


 あくまで可能性ですが、とヒヨリさんは言った。


「そんなレベルの話にまで発展するんですか」

「まだ可能性にすぎないと言いました。ですが──昔の人が何を思って古の神に神器の守護を願ったかは知りませんが──その点を無視するのはあまりに早計です」


 考えながらといった風に言葉を紡ぐヒヨリは、そのまましばらく黙り込む。

 数秒ほど経ったてから「かこつけるわけではありませんが」と前置きを入れてから再び口を開いた。


「最近、新しい遺跡が発見されました」

「本当ですか!?」


 レストは思わず立ち上がる。


「ええ、本当です。今までに例を見ない遺物なんかも発見されているようです。これは闇に立ち向かう人類にとって大きな足掛かりになることでしょう」

「そうですね!これで世界の謎にまた一歩近づく」

「ですが同時に」

「同時に?」

「今までに見たこともない魔物も大量に発生しているようなのです」

「魔物が......!?」


 ヒヨリがこくりと頷く。


「レストさんが言った通り、これは人類にとって大きな前進になるでしょう。いえ、そうするために」


 ヒヨリが言葉を切る。その表情は真剣であるとも、緊張しているとも見えた。


「どうかレストさんのお話をもう少し詳しくお聞かせくださいませんか。アンブロシアの件と、今回の新しい遺跡の件。そこに現れた新種の魔物──まったく関連性がないとも言い切れません。ですので、どうか......」


 ぺこりとヒヨリは頭を下げた。

 レストは再び慌てて腕を振る。


「そんな、頭を下げないでくださいよ!もちろんお話しますから」


 ソファに座り直しながら言うと、ぱあっとヒヨリの顔が明るくなる。


「ありがとうございます!」


 嬉しそうに笑うその表情はまるであどけない少女そのままだ。


「......といっても何を話したらいいか」

「何か気になったり、疑問に残ったことはありませんか?遺跡のことやケートスの記憶......何でも良いのです」

「私一個あるよ」


 視線がリリィに集中する。

 チーズケーキを食べ終え、満足そうな口調だ。しかし彼女の表情は至って真剣だった。


「本当ですか、リリィさん」

「うん。えっとね、レストがオークにやられて気絶してる時、私少しオークと言い争ったんだけど」


 ヒヨリはこくこくと頷く。レストもその時の詳しい事柄はほとんど記憶にないので、リリィの言葉に神経を集中させる。


「その時、オークは現世うつしよ幽世かくりよって言ってた」

「......現世と幽世、ですか?」

「うん。自分たちは現世では千年しか繁栄してないけど、幽世では私たちよりもずっと長い時を生きてきたって」


 その言葉には怒りもなく、怯えもなく、ただ淡々と事実を述べている。


「現世では千年......千年というのはブラッド・フォールが起こってから現在までの時間と重なりますね......ということは現世とはこの世界のことを言っているのでしょうか......では幽世というのは......?」


 ぶつぶつと呟きながらヒヨリが考え込んでいる。その姿はおおよそ容姿とは似合わない。


「レストさんも、他にはありませんか?」

「そ、そうですね......えっと」


 唐突に顔をあげて話を振られたので、少し焦りながら、レストは頭の中を整理していく。自分が見たのはケートスの記憶。


 ──その中に、はっきりとしない何かがあったような。


「ケートスは......迫りくる何かから海を護ろうとしていた」

「海を?」


 レストは頷く。情景ははっきりとしている。レストの脳裏にたやすく浮かぶのは、岩礁に縛り付けられたクジラと、その影に重なるように女性の姿。だけどケートスが何を成したのかは霞がかっているように見えてこない。あれはいつの時代だろう。あれは何の記憶だろう。


「まだ海があった時代......そして迫りくる何か、ですか」

「そして『忘れないで』と僕に語りかけてきたんです」

「語り掛けてきた?ケートスがですか?」

「はい。『私は襲おうとしたんじゃない。護ろうとしたんだ』って」

「......そうですか。『忘れないで』......」


 そう言ってヒヨリはむむむと腕組みをする。その姿に前にも感じた疑問がふつふつと浮かび上がってくる。


「ヒヨリさんは」


 ぱっと顔をあげてこちらを見つめてくる顔は、瞳は、あどけない少女のそれだ。なのにその口から出てくるセリフはレストよりも知見が深い。

 彼女はいったい何者なのだろうか。どうして彼女はこんなにも物事を知っているのだろうか。どうしてこんなにも大きな存在に見えるのだろうか。


「......誰ですか?」

「ほへ?」

「あ、いや!」


 考えすぎて不躾な言葉になってしまった。慌てて取り繕いながら、きょとんと不思議そうにするヒヨリに言葉をかけ直す。


「僕に海の遺跡とオークの情報を教えてくれたのはヒヨリさんです」

「そうですね」


 その声は果てし無く柔らかかった。


「でも、オークの件は極秘事項だった。いくら情報が集まるお店だからってそんなことをホイホイと知ってたら極秘の意味がない。それに、そもそも聖域といってすぐ心当たりがあるのだって......」


 なんと形容したらいいのか分からなくなって一度言葉を切る。ヒヨリは変わらず静かに聞いていてくれている。


「ヒヨリさんは、一体どういう人なんですか?」


 ふふふと笑って、ヒヨリはこちらを見つめてくる。その瞳はどこまでも澄んでいて、不純なものなど一つもない。


「そう言えば、ちゃんとした自己紹介をしていませんでしたね」


 ヒヨリがソファから腰を上げる。ぴしっと背筋を伸ばして恭しくお辞儀をする。


「私はヒヨリ・アストラル・クールミエール。コレット王国筆頭探究者にして、アルフの街の統括を任されている者です」

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