それが僕の夢だから

 突き抜けた青空のように透き通った声は、客で賑わう店内の中でもしっかりと聞くことができた。

 ただその返答を予想していなかったレストは、内容を理解するためにしばらくの時間を要することになった。


「そうですよね、知るわけない───」


 とまで言ってようやく、レストはヒヨリが発した言葉の意味を捉えることができた。


「知ってる!?」

「はい」

「聖域の!」

「ある場所をです」

「ほんとですか!」


 思わず飛び上がる。その様子をヒヨリはニコニコと面白い物でも見るかのように眺めていた。


「ええ、ほんとですよ。神器とそれを守る聖域のことについては、いつだったか耳に挟んだことがあります」


 レスト達には願ってもないことだ。まさかこんなに早く手掛かりをつかめるとは思ってもいなかった。


「それで、その聖域というのはどこにあるんですか?」


 はやる気持ちを抑えきれなくて、レストはぐいと顔をヒヨリに伸ばす。

 それをなだめながら手で制すると、ヒヨリは言った。


「お店の玄関で立ち話もなんですし、よければうちの新作、食べていきませんか?」



 運ばれてきたものを見た瞬間、歓声を上げたのはリリィだ。

 それは紛れもないタルトのようであったが、ただ一つ普通と違っていたのは土台のタルト生地以外全てが透明だったということだ。透明なゼリー部分がホイップクリームでデコレーションされているので、まるでクリームが宙に浮いているように見える。


「すっごー!なにこれ、どうなってるの!」


 歓声を上げながら、水晶のように輝くタルトを一口頬張ってリリィはさらにその目を輝かせた。


「レモンの味がする!」

「レモン、白ワイン、はちみつ、グラニュー糖を混ぜあ合わせてゼラチンで固めるんです」

「透明なレモンタルトですか、面白いですね」


 一口食べて、レストも美味しいと思わず声を漏らす。

 その様子をヒヨリは嬉しそうに眺めている。


「ヒヨリさんはいつからこのお店を?」

「そうですね……お店を開いたのは私が十六の時ですから、もう三年になりますね」

「既に三年も」


 決して長いわけではないが、すごいことだ。

 そう言われてみると、まだレストが故郷の国にいた頃にもちらほらとこの店の名前を聞いたような気がする。わずかな三年で辺境の地の菓子店が、他国まで名を馳せるようになるというのは大変なことだ。それだけ確かな実力と実績をもってこの店を繁盛させてきたということなのだろう。

 そこには信じられないほどの努力と積み重ねがあったに違いない。

 信じられない、といえばレストはどうにも未だにこのヒヨリという女性の容姿が信じられなかった。傍から見ればまるでまだ十二、十三程の齢の女の子にしか見えないのだ。これも人間の神秘の一つなのだろうか。


「この街は娯楽に飢えていましたからね」


 ヒヨリは語る。

 今でこそアルフの街はそれなりに発展してきているが、ほんの数年前までは開拓時代真っ只中だった。資源的には幸いにも森の恩恵はあったが、それ以外の物資に乏しく娯楽などもっての他だった。そこでヒヨリは開拓者及び探究者たちの心を安らげる場所をとこの店を開いたのだそうだ。


「ヒヨリさんはここが未開の地だったころを知っているんですね」

「未だにここは未開の地ですよ。世界に変動をもたらした原初のブラッド・フォール──その発生場所と隣り合わせの街なのですから、未知のことばかりです」


 今回のこともそうですね、とヒヨリは言った。


「レストさんが仰った女神様にとっては、千年もの間ずっと守り続けてきたことでしょうけれど。闇に包まれた世界を切り開き、ようやく最近この地まで這い戻ってくることができた我々人類にとっては、初めて遭遇する未知です」


 知れず真剣な表情を張り付けながらレストは頷く。


「当時一緒に森を守ってくれた人たちも最終的にはみんないなくなっちゃったしねぇ」


 タルトの最後の一口を大事そうに頬張りながらリリィが呟いた。

 当時女神と力を合わせてアンブロシアを封印した人たちも、その後魔物により屠られたり、進行する闇に対抗できず森を手放さざるを得なくなったりと散り散りになってしまった。

 アンブロシアと女神の記憶は、誰にも継承されることなく文字通り闇に消えてしまったのだ。

 それでも女神リリアナはこの千年の間ずっと、妖精たちと必死に封印を守護してきた。いつか人類がこの地に戻ってくることを信じて。


「だから私たちにとってレストは救世主みたいなものなのよね」


 タルトを食べ終えたリリィはパタパタと羽ばたいて宙を舞い、レストの頭の上に腰を下ろした。すっかり定位置になってしまっている。


「女神様とあなたたち精霊にとってもようやく訪れた機会なのでしょう。だから私も協力を惜しみませんよ」

「うん、ありがとう!」


リリィがにっこりと笑う。


「それで、聖域というのは一体どこにあるんでしょうか」

「残念ながら私が知っている聖域は一つだけです。ここからそう遠くない場所にあるのですが、ほとんど人には認知されていません。いえ、正確には」


 と、ヒヨリの表情に一瞬の翳りが訪れた。


「認知されていなかったと言った方が正しいですね」


 レストはその表情の変化を見逃さずにいることができた。言葉の続きを促すようにヒヨリの目を伺う。


「ちょっと厄介なことになっているのです」


 とヒヨリは言った。


「厄介なことですか?」


 ヒヨリは頷いて肯定する。


「オークという魔物をご存じですか」

「オークって、上級魔物指定されている?」

「そうです」


 この世界において、魔物は一律に強い。しかし、もちろん魔物によって違いはある。そこで魔物を種類と強さの傾向によって区分することによって、ある程度の強さの目安を図ることができるようになっているのだ。オークという種は魔物の中でも特に強大な力を有しているため、ベテランの探究者であっても仕留めることは難しいとされる。そのため『上級』という分類が成されているのだ。

 あくまで目安でしかないが、これがあるのとないのでは不慮の事故を未然に防げる確率が段違いだ。探究者になったばかりの新米が上級の魔物と知らずに挑んで命を落とす、といったことが昔はよく起きていたそうだ。そこで世界の国々は協力して魔物を調査し、その強さを順位付けた。

 むやみに人類の数を減らすわけにはいかないという当時の各国の強い意志が感じられるようだ。


「それでオークがどうかしたんですか?」

「ここ最近、オークが人間を攫っていく事件が多発しています」

「えっ」

「ここ付近の農村や町から、歳や男女の隔てなくオークに人間が連れ去られているんです。このアルフの街の探究者も数名、クエスト中に攫われています」

「そんなこと、全然知らなかった」

「大きく騒ぎ立ててむやみに混乱を招かないように情報が制限されていたんです」


 極秘事項というやつですねとヒヨリは言う。

 レストは驚愕した。リリィもレストの頭の上で身震いをしている。


「それで……?」

「それで先ほどの『厄介な話』に繋がってくるのですけど、その……」


 ヒヨリは一瞬口をつぐんで、息を吸い込むと再び言葉を繋いだ。


「現在オーク達が根城にしているその場所が、まさに封印の神器を祀っていた聖域なんです」

「何ですって!?」


 レストは思わず椅子から立ち上がる。勢いよく押された椅子はガタン、と大きな音を鳴らした。


「なぜオーク達はそんなところを」

「それはわかりません」


 魔物たちの生態、そして行動理念など、研究はなされているがはっきりと答えが出ているわけではない。彼らの行動に、意志が伴うものなのかすらも。

 原初のブラッドフォールから千年経っても、人類は未だに魔物達のことについてほとんど何も知り得ていないのだ。


「彼らがその場所を聖域と認識しているのかいないのかはわかりませんが」


 そう言ってヒヨリは少し悲しそうな顔をした。


「いずれにせよ神器を手に入れるつもりなら、彼らと対峙する決断をしなければなりません」


 上級指定された魔物。本来であればレストのような駆け出しの探究者が立ち向かって良い相手ではない。

 レストはごくりと喉を鳴らした。


「まず間違いなくあなたは無傷では済まないでしょう」

 ともすればもっと酷いことになる可能性もあるとヒヨリは続けた。それは別に脅しでも何でもない。レストが対面することになるであろう事実だ。それをヒヨリは包み隠さず言っているだけだ。


「私としては、探究者になったばかりの前途ある若者を、みすみすと危険な場所に送り出すことはしたくありませんが」


 されど同時に、レストの行動を強制する力も自分には無いとヒヨリは言った。


「あなたの決断です。あなたの人生です。あなたが考えて、あなたが決めてください」


 ヒヨリの目は真っすぐにレストを見ていた。レストの答えを、じっと待つかのように。


「僕は──」


 レストは答えを紡ぐ。自分の為すべきことを。自分の成したいことを。


「僕はいかなければならない。女神様を、女神様の森を、そして、この街を守るために。森の魔物アンブロシアなんかに乗っ取られてたまるか」


 ヒヨリはその答えを予想していたのだろう、軽くうなずくと「やはりな」とでもいうように小さくため息をついた。レストがそう決断したのなら、ヒヨリはそれを止めはしないし、止められない。しかし、最後に、本当に最後の小さな抵抗だったのかもしれない、やさしく諭すように、ヒヨリは尋ねた。


「あなたはこの街で生まれ育ったわけでもない。女神様の苦悩をずっと知っていたわけでもない。でも、それでも、あなたがこの森を、そしてこの街を想って戦おうとしてくれているのは、どうして?」


「この街──アルフの街は、僕にとってのロマンなんです」

「ロマン、ですか?」


 はい、とレストは頷いた。


「ヒヨリさんが言っていたように、ここは原初のブラッド・フォールが起きた場所と隣合わせの街です。この世界で最も危険で、最も謎に満ちた場所」


 だからこそ、とレストは言った。


「ここは世界で一番ロマンに溢れる場所だ。この場所を調べれば、ブラッド・フォールの謎を解明できるかもしれない。世界に起きた変動の謎を突き止めることができるかもしれない。千年前、世界に何が起きたのか。未だ誰も究明できていないこの世界の謎を知ってること、それが、僕の、夢なんです」


 レストは半ば興奮して思わず机をバンと叩いてしまい、その音でハッと我に返る。恥ずかしそうに頭を掻きながら、先ほど倒してしまった椅子を引き寄せて座りなおした。それからコホンと一つ咳払いをする。


「だから僕はアンブロシアなんかに、この森を盗られたくないんです」

「そうなのですね」

「それに」

「それに?」

「僕はもう、この街のこと、好きですよ。まだここに来て数週間しか経ってないけど、その間に僕がかかわった人はみんな優しくて、いい人たちだ。もちろん、ヒヨリさんも。だから、僕はそんな人たちが住むこの街を壊されたくない」

「レストー、私はー?」


 それまで大人しく話を聞いていたリリィが、レストの頭の上から顔をぺしぺしと叩いて、「はいはい、リリィもだよ」とレストがそれを諫める。

 ふふふ、とヒヨリが笑った。


「あなたはなかなか面白い人のようですね」

「そ、そうですか?」

「ええ、はい」


 きょとんとするレストにヒヨリはまた微笑みかけた。


「あなたの想いは伝わりました。聖域の場所をお教えしましょう」

「ありがとうございます!」

「極秘事項でしたが、オークの件では既に街の精鋭たちが動いてくれています。彼らに合流すればきっと協力してくださるでしょう。あなたを巻き込んでしまったような感じになってしまって悪いですが……」

「いえ、こちらこそ」

「レストさん」

「はい?」


 レストにヒヨリは呼びかける。レストは返事をする。

 それから数秒の間があって、ヒヨリは口を開いた。


「くれぐれも、気を付けてくださいね」

「はい」


 レストはしっかりとヒヨリの目を見て頷いた。



 大地を踏みしめると、サクリと音が鳴った。歩く度に枯れた草花の残骸が、未だ自身の存在を主張するかのように音を鳴らし続ける。

 アルフの街を出て草原をしばらく進んだ先に、その場所はあった。


「『枯れた海』……ここが……」

「海って大きな泉の事でしょ?どうみてもそんな感じがしないよ、ここ」


 レストとリリィの眼前に広がるのは、干乾びてひび割れを起こしている地面のみだった。そこには水はおろか、生命の気配も伝わってこない。木々が生い茂る森、それに続く平原、その途中で唐突に、ぽっかりと穴が開いたように乾いた土地が現れるのは、異様な光景であった。


 いや、実際のところ、


 「見てリリィ、あの場所」


 そういってレストが遠く指さした場所は酷く淀んでいる。

 空気を汚染する瘴気。決して晴れない宵闇のとばり。抉れた地面とこの世のすべてを飲み込まんとしているかのように、深く深く、口を開けている大穴。

 紛れもないあの場所こそが、すべての元凶、すべての始まり。


「原初の『血に臨む陥落ブラッド・フォール』。その発生地だ」

「あれがこの世界で初めてブラッド・フォールが起きた場所......私初めて見た」

「僕もこれで2回目だ。この街に来るときに見たのが、最初」


 レストは視線を枯れた大地に戻す。


「ここは昔本当に海だったそうだよ」

「えっそうなの?」

「ブラッド・フォールが発生して、その衝撃で消し飛んだっていうのが通説みたいだ」

「それで千年もずっと干乾びたままなの?海は戻ってこなかったの?」

「ブラッド・フォールによって流れ込んだ魔力がここを不毛の地にしたそうだよ。海はおろか、新しく植物が芽生えても、その生が続くことは無い」


 リリィは小さく唸った。


「難儀だね」

「その表現は適切なの?」


 よくわからない会話をしながら歩を進めていく。

 同じような景色が続く中、ポツリと見間違いかのようにそれは見えてきた。



 枯れた大地に一つの建物がある。

 いつの時代に造られたのかも分からない。

 誰が何の目的で建てたのかも分からない。

 ただ今にも崩れそうな風体のみが、その遺跡がどれ程永い時を生きてきたのかを物語っている。


「海の遺跡」


 レストは小さく呟く。

 遺跡の入り口は絶望を叫び閉じることのない屍のあぎとのようにぽっかりと開いている。

 ヒヨリが言うことには、この遺跡はかつて海の神を祀るために建てられたのではないかとの推察がなされているらしいが、ブラッド・フォールによってそれ以前の歴史が途絶えてしまった今となっては、人類と魔物の世界が始まったこの千年よりも昔──旧世紀の歴史を正確に鑑みることはほぼ不可能だ。

 こうした遺跡や稀に発見される遺物のみが、過去の存在を生々しく語りかけてくる。


「ここがリリアナ様が言っていた聖域の一つなのね」

「少なくともヒヨリさんによればそういうことになるね」


 レストは遺跡の入り口を覗いてみる。階段が下へ下へと続き、その先は暗闇に覆われて見えない。海のあった時代、レストが今立っているこの場所は海底だったはずだ。過去の人類はそこにどうして、そしてどのようにして、このような海の底のさらに下の地面の中に潜っていく遺跡を造ったのだろうか。

 少なくとも今の人類に、そんな技術は無い。


「よく来てくれた」


 二人の背後で声がする。

 驚いてレストが振り向くと、そこには丸い鍔が大きく反り返っている不思議な帽子を被った壮年の男が立っていた。男はさもこちらの警戒を解くように綺麗に並んだ歯をにこやかに見せつけてきていたが、その眉は厳しく尖っている。


「ヒヨリ殿から通達があった。近々新人の探究者とその連れである精霊が、こちらの遺跡の調査に加入してくれると。貴殿らであると見受けるが?」


 男の声は低くもなく高くもなく、ただ少し嗄れた音が混じっているのが凄みを与えていた。

 男から少し離れた場所に、簡易的なキャンプが設営されていた。そこには数人の人影も見える。ヒヨリが言っていた遺跡調査のための精鋭たちとは彼らのことのようだ。

 レストは軽くうなずいて手を差し出す。


「レストと言います。こちらは相棒のリリィ。よろしくお願いします」

「よろしくねー!」

「私はノルト。今回の協力に感謝する」


 差し出されたレストの手を取りながら、ノルトは言う。

 そのごつごつとした感触が数多の死線を潜り抜けてきた彼の実力を確かに語っていた。


「こちらこそ。仲間がいるのは心強いです」

「事情は聞いているよ。しかしまさかここが本当に聖域だったとはな」

「本当に、と言いますと?」

「この遺跡自体は何も新しく発見されたものではない。アルフの街からもそう離れてはいないしな。今までにも幾人もの探究者たちが訪れ調査している」


 レストは首を傾げる。まだ話の行く先が見えない。


「しかし、今回のオークの件で調査を進めていくうちに、実は遺跡の内部にことが分かってきたのだ」


 しかしその空間にはどう足掻いてもたどり着くことができなかった、とノルトは付け加えた。


「たどり着くことができなかった、ですか?」

「うむ。その空間を目指して歩を進めると、何度挑戦してもいつの間にか元の道に戻ってきてしまうのだ。まるで何かの意志に阻まれているかのようにな。そこで我々はその空間は何か特別な力で封印された部屋に違いないと推論を立てていたのだよ」


 そこまで聞いてようやくレストもノルトが何を言おうとしているのかを理解できた。


「そこに僕たちがやってきた、ということですね」


 ノルトは頷く。


「そうだ。女神の神器が納められている空間なら、そのような仕掛けがあってもおかしくはない。ヒヨリ殿から貴殿らと聖域の話を聞いた時に思わず納得してしまったよ」


 ヒヨリが聖域はほぼ認知されていなかった、と言ったのはこのためだろう。おそらくごく少数の人物しかその不思議な空間について知り得なかったのだ。


「なるほど……ん、ということはノルトさんたちはここが聖域だということは元々知っていたわけじゃないんですか?」

「そうだな」


 レストは首をかしげる。では、そのほとんど認知されていなかった聖域についての情報を、ヒヨリさんは何故持っていたのだろうか。オークの件といい、いかに沢山の情報が集まる場所だからとはいえ一介の甘味処のオーナーが極秘情報までもを知っているのは、どういういことだろう。

 彼女は一体何者だ?

 そんなことをぼんやりと考えていたが、リリィの声でその思考は中断された。


「でもそうなるとさ、私たちでもその部屋にたどり着くのは難しいんじゃないの?その仕掛けってのがどうやって動いているかも分からないし」

「そうだね。まずはどうにかしてその部屋に入らないとどうしようもないか……」


 レストもある程度は予想はしていたことだった。神器は剥き身で置いてあるわけではない。そこに施された封印を解かなければ、その姿にもお目にかかることはできないということだ。


「しかしそこでまた厄介なのがオーク達なのだよ。彼奴きゃつ等がいるために──しっ!」


 ノルトが唐突に姿勢を低くした。彼にまとう雰囲気が一気に張り詰めたものに変わったのを感じたレストも瞬時に警戒態勢に入る。

 レストは口を閉ざし辺りを見回した。すると遠くの方からこちらに向かってやってくる『何か』の影がうっすらと浮かび上がってくるのを発見する。

 どす黒い肌。大きく膨れ上がった体躯。丸太のような腕はひと振りするだけで巨大な岩石をも破壊できるだろう。彼らの視線は鋭く、そして冷たい。

 人間など比肩することすら敵わない。

 それが大軍で押し寄せてくる。

 かつて海だったこの地に波となって押し寄せてくる。

 それは恐怖の集合といっても過言ではなかった。


「彼奴等が戻ってくる。レスト殿、リリィ殿、一旦ここを離れるぞ!」


 ノルトはキャンプの仲間にも声をかけ、全員でオーク達の目に留まらない場所まで急いで移動する。

 そのさなか、再びオークの群れに視線を戻したレストは確かに見た。彼らがたくさんの人間を担ぎ運んでいるのを見た。人間たちはみな拘束され身動きができない状態で運ばれていた。皆一様に顔が死んでいた。絶望に顔が死んでいた。

 彼らはどんなひどい目に遭ってここまで運ばれてきたのだろうか。

 どんな蹂躙に遭いここまで連れてこられたのだろうか。

 

 その光景を見たレストはどんな感情を抱いて良いのか分からなかった。





 野営地の真上は星の海だった。

 オーク達の群れが遺跡に入っていったのを確認した後、レスト達はキャンプを張りなおした。一晩作戦を練ってから、明日オーク達の根城に突入しようということになったのだ。

 ぼんやり空で瞬く星々を眺めていると、隣にリリィが飛んでくる。


「リリィ」


 レストはなんともなしに声を出した。


「どうしたの、空なんか見上げちゃって」

「うん」

「お夕飯のスープ、美味しかったね。私は森の精霊だからお肉は苦手だけど、今日のスープは野菜だけだったから、私的には大満足ね!」

「うん」

「それで、どうしたのさ。何か悩みがあるならこのリリィちゃんに相談してみなさいな」

「うん」


 そして沈黙が訪れる。

 リリィは呆れたような顔をして大きなため息をついた。


「ちょっとレスト!聞いてるの!?オーク達を見てからずっとそうやって上の空じゃない!一体どうしたっていうのよさ!」


 レストは答えない。何かを思案しているような顔で、じっと一点を見ている。

 リリィは粘り強く待った。レストは何かを言いたいけど言い出せない。そんな雰囲気を感じ取ったから。呆れて遠くに行くようなことはせずに、ただずっとレストの顔を見ながら待った。

 それからややあって、ようやくレストは口を開いた。


「リリィ」

「なにさ」

「僕、見たんだ。オーク達に抱えられる人たちを」

「え?あ、そうね。私も見たわ」

「それを見て、リリィはどう思った?」


 リリィは羽ばたきながら首を傾げた。


「どうって、かわいそうだなとは思ったけど。それがどうかしたの?」

「僕は、何も思わなかった。いや、正確にはどう思えばいいのか分からなかったんだ」

「……そう」

「その時考えたことがある」

「どんなこと?」

「運ばれてきた人たちはどんな酷い目に遭わされるんだろうとか、そんなこと。でもね、もう一つ」

「もう一つ?」

「オーク達は何故、何のためにあんなことをしているんだろうって、一瞬、考えたんだ」


 リリィは返事をしなかった。しない代わりに、レストの頭の上に座る。それを視線で追いながら、レストは言葉を続けた。


「普通の人なら、あの瞬間、きっと怒るんだと思う。どうしてこんな酷いことをするんだ、オークなんてぶっ倒してやる、ってね」

「そうね」


 リリィは相槌を打つ。


「でも、僕は怒りの感情が湧いてこなかった。何か、何だろう、オーク達にも何か理由があるのではないかって、まずそう考えちゃったんだ」


 おかしいよね、とレストは言った。


「魔物は人類の敵のはずなのに。その魔物たちのことが気になるなんて、きっと僕は何かがおかしいのかもしれない」


 リリィはレストの頭の上でしばらく黙っていた。レストもそれ以上話すことも無く、また同じように空を見つめている。

 少し時間が経って、リリィが突然声を発した。


「何だ、そんなこと」

「えっ」

「そんなことで悩んでたの?あなたって意外と繊細なとこあるのね」

「えぇ」


 そう言ってリリィはレストの頭から飛びたつと、そのままきらきらと輝く粉をその羽根から振りまきながら、レストの周りをぐるりと一周した。


「さっき私も面白いものを見つけたの。レスト、ちょっとこっちに来て」


 リリィは半ば強引にレストの服の袖を引っ張ると、力任せにレストを誘導する。レストもつられて立ち上がって、そのまま引きずられるようにのろのろと歩き始める。


「え、あ、ちょっと、リリィ?どこに行こうってのさ」

「いいからついてきて!」


 リリィは手を放してくれず、腕を引っ張られたままレストは進んだ。ようやく手を放してくれたのは、二人が野営地からかなり離れた草原と枯れた大地の丁度境に当たる場所についた時だった。


「こんな場所まで連れてきて、何を見せようってのさ」

「そこの茂みの奥、見てみてごらんなさい」


 訝しく思いながらレストは言われた通りにする。境目の草原の側。雄々しく茂った草の壁に顔を突っ込み、そこの奥に広がる光景を見てみる。

 そして、絶句した。

 そこにあったのは、広い空間。石で作られた大きな板のようなものが規則正しく並んでいる。その石板一つ一つの前には、綺麗な白い花が、まるで手向けられるように添えられている。

 そこはまるで、墓地のようだった。


「な、なんだ……ここは」

「面白いでしょ」

「面白いって……ここは、墓地じゃないか……でも……誰のための......?」


 レストは半ば混乱している。

 その答えは、自分の中でも既に湧き上がっていた。しかしあまりに信じられないので、それを確定できないでいた。

 リリィはレストが声を出すことを逡巡しているを、軽々と言い放つ。


「少なくとも人間ではないわね」


 何故なら人間のサイズにしては明らかに石板が大きかったからだ。そして石板一つ一つには、その下の地面に眠っている存在が誰なのかを示すかのように、手形が押されている。明らかに人の掌よりも数倍は大きい手形が。

 レストはようやく答えを口にすることができた。


「ここは……オーク達の墓地だ……。彼らが、彼らの仲間たちのために作った墓地だ……」

「そうみたいだね」


 レストは背中に電流が走りぬけたような感覚を覚えた。

 こんな、こんなことがあっていいのか。

 自分が今目にしているのは、紛れもない現実なのだろうか。


 「オーク達はしっかりと知性があって、そして彼らの社会を築いている。ちゃんとした理念があって行動している。獣じゃない、人間みたいに」


 レストは呟く。

 この墓地は、オークが本能だけではなく、理性を伴って行動することができる確固たる証拠だ。

 ならば何故、オーク達は人間を攫う。

 何故魔物達は人類を蹂躙する。


 リリィはわなわなと震えているレストにそっと触れた。ぴくりと反応した彼の背中を撫でながら、優しく声をかけた。


「ねぇレスト。貴方の目的は何?あなたの志は何?」

「……僕の志?」

「魔物は人類の敵かしら?少なくとも私は、今、それはまだ分かっていないんだと思うわ」

「分かっていない……」

「確かに魔物は人間を襲うわ。だからこそこの世界は闇に包まれた」


 でもね、とリリィは溜め息をつくように呟いた。


「その理由を、その仕組みを、解明した人はこの世界にいる?一人でも確かな説明をできた人がいる?」

「リリィ……」

「そして、あなたの夢はその謎を明かすことじゃなかったかしら?」


 レストはハッとした。


「魔物が敵かそうでないか。その行動の理由は何なのか。そこに千年以前の歴史の答えはある。あなたは、それを解き明かしたいんでしょ?」


 リリィはレストの前に飛んできて、そしてにっこりと笑った。

 レストはその表情を、じっと見つめる。


「そうか、そうだよね。僕が知りたいのは……」


 レストは立ち上がった。そしてゆっくりと野営地に向かって戻り始める。


「ありがとう、リリィ」

「ふふふ、どういたしまして」


 オーク達の墓地は重要な情報だ。彼らが何であるのか。彼らがどんな存在であるのか。それを知るための、大切な手掛かりの一つだ。

 少なくとも彼らは、仲間のことを慈しみ、愛することができる心がある。

 オークと対峙した時、そのことを知っているのといないのとでは、レストの心持ちは格段に違ってくるだろう。

 レストは決意する。オーク達に対して自分はどんな感情を覚えるのか。そして何を考えるのか。その答えを知るためには、まず遺跡に足を踏み入れてみないと分からない。

 知ろう、るために。

 これはその為の一歩だ。

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