8 ポキポキ
肉食獣のエリアにやってきた二人は、獣臭さに顔をゆがめていた。すごい、すごく獣臭い。動物園だから当然とはいえ獣臭いにも程度ってもんがあるだろう。
しかし獣臭さというのはなかなかクセになるもので、エスちゃんはずっと鼻をすぴすぴ鳴らしていた。エスちゃんは鼻づまり体質なので、鼻で息をするとすぴすぴ音がするのだ。
「鼻鳴ってるぞ」
「知ってる。これなに? どうみても牛だけど」
エスちゃんは檻のなかの動物を指さした。エヌくんは、
「こいつは『ポキポキ』だ」と答えた。エスちゃんは「はあ……」と答えざるを得なかった。名前を教えてもらったところで、なんで牛みたいなやつが肉食獣のコーナーにいるのか、さっぱり分からない。
その生き物は角を生やしており、のんびりと大きい牛のような姿をしている。しかし、目は牛のように横についているのではなく、肉食獣のように顔の正面についている。
「なんでポキポキっていうのか説明してもらわんことにはなんもわかんないよ」
「そうか? こいつは東南アジアのどっかの生き物で、水牛の群れにまぎれて悪さをする」
東南アジアのどっか、というエヌくんのアテにならない解説に、エスちゃんは来週試験勉強で地理をみっちりやろうと決めた。
「肉食獣が水牛にまぎれたらまずくない?」
「まずい。水牛をバリバリ食べる」
はあ……。エスちゃんはポキポキの檻を覗き込む。ポキポキは呑気に「モォー」と鳴いている。まるっきし牛だけどこいつホントに肉食なんだろうか。
「なんでポキポキっていうの? っていうかこれホントに肉食獣なの?」
「ちょっと驚かしてみ」エヌくんはニヤニヤしながらそう言う。エスちゃんは、
「動物園の動物驚かしちゃダメって常識なんじゃないの?」
「いいからいいから」エヌくんよ、君はなんとフリーダムなのか。エスちゃんは仕方なく、ポキポキに向かって「わっ!」と声を発した。
……ポキポキはどこ吹く風で、脚をたたんで座っていた。
「脅かし方が足んねーよ。こうだ。うぉうわっ! と」
しかし ポキポキは 驚かなかった!
「だめじゃん」
「駄目なようだな」エヌくんは変に頷く。エスちゃんはため息をついて、
「ここに脳内スライドあるよ?」と看板を指さした。最初からこっちにすればよかった。
「しかしだな、本当にポキポキ言ってるとこを見るのが最高なんだよ。わんわんっ」
ついにエヌくんが犬になった。ポキポキに完全に無視されている。エスちゃんはあきれて、エヌくんをドついた。エヌくんは「おわっ」と言ってすっこけた。
脳内スライドをぽちりと押す。
――南国の楽園みたいなところで、水牛の群れに混じってポキポキがいる。なるほど黒光りする毛並みはぱっと見水牛と区別がつかない。映像のなかのポキポキは、残酷なことに水牛の群れから子供の水牛を引きずり出してバリバリ食べ始めた。
ちなみに、妄想動物園の「脳内スライド」はすべて基本的に無修正である。子牛のはらわたが引きずり出されるところまで無修正。エスちゃんはだんだん気分が悪くなってきた。
「ねえこのスライド、ポキポキいうとこ見られるの?」
「そりゃあ見られるべ、ポキポキの名前の由来なんだから」
しかし無情にも、脳内スライドはポキポキいうところを映してはくれなかった。エスちゃんはまたエヌくんをドついた。エヌくんは「おうふ」と悲鳴を上げた。
「はー……どうすればポキポキいうの? わかんないよ」
「ほかの肉食獣が現れたときに威嚇としてポキポキ言うらしいんだが」
エヌくんは檻に向かってベロベロバーをしている。エスちゃんは仲間だと思われたくなくて一歩離れた。ソーシャル・ディスタンスである。
「ママーあのおにいちゃんなにしてるのー?」
「しっ。見ちゃいけません」なんかヤバい人だと思われてるぞ。そのとき。
ポキポキは後ろ脚で立ち上がると、前脚を中国の御辞儀というか、合掌というか、そんなかんじに合わせた。そして結構な音量で、
「ポキポキポキポキ」と関節を鳴らした。
「ほら! ポキポキいったろ? これがポキポキの名前の由来だぜ!」
「なんか動画にしてASMRでユーチューブにUPしたら伸びそうだね」
「えーえすえむあーる?」いやお前ASMR動画知らんのか。エスちゃんはそれから数分、ユーチューブのお気に入りの咀嚼音動画の話をした。韓国人のお姉さん(口元のみ出演)が、得体のしれないド派手なお菓子とか、見たこともない海産物の刺身をムシャムシャ食べる動画が、エスちゃんのお気に入りである。なにがすごいって、すごい勢いで食べているにも関わらず、口紅が全く落ちないのがすごいのだ。エスちゃんはそう力説した。
「俺ユーチューブは動物の動画しか見ないからなあ……猫のまるちゃんとかブルドッグのぶる丸くんとか」意外とかわいいもん見てんなオイ。エスちゃんは心の中でそう毒づいた。
「あ、うちの学校の生物部もユーチューブのアカウントあるぞ? ほかの部員が撮ったアリの巣観察セットとか、ミジンコとか」
「それってなにが面白いの?」
「さあ。分からんな。俺はモルモットのミケ三郎が可愛いからな」
ミケ三郎ってすっごい二度手間語ではなかろうか。でもエスちゃんは口には出さなかった。エヌくんのワガママで、生物部はミケ三郎を飼っているのだ。
エヌくんは土日も学校に来てミケ三郎の世話をしている。動物を飼うということは責任が伴う。ミケ三郎がどんどん巨大化して、生物部の部費の消耗が激しくなったため、エヌくんはクローバー摘むマンになったのである。そして、それを図書室の窓から見ているうちに、エスちゃんはエヌくんを好きになってしまったのだ。
そんなこたぁどうだっていい。目の前のポキポキは、エサの時間に投げ込まれた生肉を、ムシャムシャボリボリ食べていた。けっこうな量だ。
「これ、水牛にまぎれてるって言ってたけど、気付かないの?」
「気付いてもポキポキは圧倒的に強すぎて武器ナシでは太刀打ちできないやつだな」
そんなに強いんだこいつ。エヌくんが言うには、頭蓋骨が分厚いので頭を銃で撃ってもノーダメージだし、体も皮膚や脂肪が分厚くて簡単には殺せない、ということだった。
「でも普段は水牛に混ざってるから、いたって大人しいんだ。そっと運んでそっと動物園で飼う。こいつらはなかなかの希少な動物だから、どこの妄想動物園も欲しがる」
「へえ……こんなのが。ポキポキいうだけで何も面白くないのに」
「そうか? この水牛に擬態するフォルムも面白いし、あ、それからこいつは肉食動物だが反芻するぞ。胃に送った食べ物を口に戻してクチャクチャ食べる」
「げっ。きもちわるっ」エスちゃんは素直にそう述べた。エヌくんは退屈そうな表情で、
「普通の牛の反芻は許されるのか?」と訊ねてきた。
「だって草を消化するのが難しいのは分かるけど肉でしょ、生肉。生肉をくちゃくちゃやるんでしょ。きもちわるっ。……っていうか、こいつ水牛にまぎれてるって言ってたけど、乳からチーズを作ったり肉を食べたりできるの?」
エスちゃんは素直な疑問を述べた。水牛のモッツアレラチーズというのを、何年か前にいっぺんだけ食べたことがあったのだが、それがとてもおいしかったから、である。
「乳も肉も脂っこくて食えたもんじゃないらしいな」
「食えねえ牛はただの牛だ」エスちゃんはジブリアニメのキャラクターの口調でそう言った。
「いや食える牛のほうがただの牛だろ」
「たしかに。てへぺろ」
「……そろそろ腹が減ってきたな。フードコートにでもいくか?」
「牛丼ある? むしょうに牛丼がたべたいんだけど」
エスちゃんは完全なる牛丼の口になっていた。がっつり肉をいきたい感じだ。
「分からんよそんなの。とにかく腹ごしらえしよう。もうすぐ昼だ」
二人は肉食獣のコーナーを離れると、フードコートに向かってふらふら歩き出した。歩くというのは腹の減るものである。午後もこの妄想動物園を回ることを考えると、なにか腹ごしらえがしたかったのだ。
エスちゃんは、じかには言えなかったが、このデートをとても楽しく思っていた。エヌくんがアホなのを除けばの話であるが。
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