6 ウヒヒ

 哺乳類エリアに戻ってきた。霊長類のコーナーに二人はいる。


「ウヒヒ」と書かれた檻の前で、エヌくんとエスちゃんは立ち尽くしていた。


 サルだ。そりゃヒヒなんだからサルだ。そのサルが、「ウヒヒヒヒヒ!」と陽気な変態のような笑い声をあげている。そしてそのサルは端的に言って首が長い。鵜のようだ。


「ね、ねえ、なにこれ……なんなのこれ、エヌくん」

「ウヒヒだ」


 そういうことじゃない。ウヒヒがどんな生き物なのか聞いているのだ。エスちゃんは小声の早口でそうまくし立てた。エヌくんは、

「急に怖い顔すんなよ、びっくりするなあ。鵜みたいに首が長いヒヒだからウヒヒだよ」

 と、見ればわかることを言ってきて、エスちゃんはエヌくんをジト目で見るほかなかった。


「じゃあなに、こいつらを川に放して、アユを食べてきたところで首引っ張って吐かせるの?」

「……それ、長良川の鵜飼いだろ。さすがに霊長類にやられると気持ち悪くないか……それにこいつらは魚なんか食べないよ」


 みるとウヒヒたちは天井につるされたバナナを、器用に棒きれに引っ掛けて手に入れて食べていた。ウヒッウヒヒッと断続的に鳴きながら、バナナの取り合いをしている。


「ウヒヒ……ねえ……」

 エスちゃんはそうつぶやいて檻に向き直る。ウヒヒたちはバナナをもぐもぐ食べて、皮を投げ合って遊び始めた。


「けっこう知能が高いんだね」

「サルとしてはふつうのレベルじゃないか? もっと賢いのならこの妄想動物園のアイドル・センパンジーのカステラちゃんというのがいる」


 詳しいことは突っ込まないでスルーした。志村●んの動物番組に出てくるチンパンジーみたいなもんだと思えばいいのだろう。あとでそっちも見ようね、と約束する。


 ウヒヒたちは檻の中を立体的に移動している。まるで立体機●装置のごときアクロバティックな動きだ。手足はとても長く、たとえばクモザルの仲間のような動きをしている。


 急に、寒い風が吹きつけてきた。春の初めである、まだまだ寒い。ウヒヒたちは寒い風から逃げるように、電気ヒーターの前で団子になりはじめた。


「この動物園、サル山とかってないの? 焼き芋したりお風呂作ったりとか」

「ないと思ったけどなあ。だってニホンザルがいないんだから」


 その通りなのであった。


「ニホンザルは世界で一番北に棲んでるサルだ。ふつうサルが雪遊びをするのは考えられないことだ。だから外国人観光客が長野やら青森やらに『スノーモンキー』を見に行く」


「へえー。ところで、『モンキー』と『エイプ』の違いってなに? ウヒヒはどっち?」

「ウヒヒは『モンキー』だよ。尻尾があるだろ? 尻尾がないと『エイプ』なんだ」

「えっ、たったそれだけの違い?」

「そうだよ。ゴリラとかチンパンジーは尻尾がないだろ。ニホンザルは短いが尻尾がある。それだけの違いだ」


 エヌくんは一発あくびをして、

「どこ原産とか聞かないのか?」とエスちゃんに訊ねた。エスちゃんは、

「だってどうせ適当に考えた地名を適当に言うだけでしょ?」と切り返した。

「そう言われちゃうとおしまいなんだが、適当に考えているわけでは断じてない」

 エヌくんはそう答えた。


「なにを根拠に?」と、エスちゃんは再び尋ねる。

「あのな、妄想で地名をひねり出すって結構難易度高いんだぞ。しかも毎回違う名前を考えねばならん。結構大変なんだからな」

「……ふーん。で、どこ原産なの?」

「東南アジアのちいさな島国、ケヒネシアだ。そこの、タロワロ寺院の周りに住んでる」

「ケヒネシアのタロワロ寺院」

「そうだ。そのタロワロ寺院にはケッハール教の笑いの神が祀られている。そこのお供え物をかっぱらって暮らしてるのがウヒヒだ」


「じゃあオトメノナミダネコみたいに少ないの?」


「いや、タロワロ寺院はもともとウヒヒのいるところを狙って建てたんだ。ウヒヒは笑いの神の使いだからな。いまじゃウヒヒは寺院で甘やかされるだけにとどまらず、森を伝ってマーケットに行って果物や野菜やお菓子を盗んでいる。ウヒヒは神の使いだからだれも邪険にしないんだ。それでいまじゃケヒネシアのどこに行っても勝手に悪さをしているのを見る」


「へえ……神の使いにしてはひどく下品な笑い方だなって思うんだけど」

「しょうがあるまい、そういう動物なんだから。きっとタロワロ寺院を建設した古代人も、下品な笑い方だなーって思ってたと思う」


「そっかあ。あ、脳内スライドみっけ」

 またしてもエスちゃんがボタンを押す。


 二人の頭の中に、果てしないジャングルが広がった。

 そのジャングルには、アンコール・ワットみたいな寺院が建っている。壁にはなかなか猥褻なレリーフが施され、それを観光案内で小遣いを稼いでいるらしい子供が棒きれで指し示している。まるっきりインドの古代遺跡のそれだ。


 タロワロ寺院にはオレンジの布を体にまとっただけの僧侶――どうやらケッハール教は仏教ないしヒンドゥー教の流れを汲む宗教らしい――がいて、大きなウヒヒの像に、スイカやよく分からない焼き菓子などの甘味を供えている。


 僧侶が読経しているそばから、ウヒヒが寺院に入ってきて供え物を奪っていく。


「あっ。お供え物盗られちゃった」


 ウヒヒたちはそれを寺院の広いところにばらまき、群れで供え物の焼き菓子をばりばり食べている。子供の個体に食べさせるのを優先しているようだ。


「ウヒヒは神の使いだからこれくらいの窃盗じゃ咎められんよ。……しかしいいなあ、タロワロ寺院」

「なにが? よくある東南アジアのお寺じゃない」


「この、なんというか『古代遺跡』って感じがたまらないんだよ。俺が小さいころ、俺の従兄がゲームボーイアドバンスの最高傑作だっていう『黄●の太陽』ってゲームを貸してくれて、ゲームボーイアドバンスのソフトを挿せる古いDSでプレイしたんだが、それがまー面白くてな、それに出てくる古代遺跡がこんなんだったんだよ。あれスイッチでリメイク出ないかなあ。本当に傑作だったんだぜ、ダンジョンがパズルになってて」


 エヌくんが懐古厨になってしまったのをしみじみ聞きつつ、エスちゃんは封●演義を勧めてくれたツイッターのフォロイーお姉さん(三十代)のことを思い出していた。その人も「●金の太陽は神ゲー。スイッチでリメイク出ろ」と言っていた記憶がある。


 黄金の●陽がどう神ゲーなのかは分からないが、確かに遺跡というのはあこがれを掻き立てるものであるなあ、とエスちゃんは思った。スライドが終わって、目の前のウヒヒたちはヒーターの前にくっついてもぞもぞしている。


「遺跡かあ」エスちゃんはそう言い、ウヒヒをしみじみと眺めた。

 よく見ると案外愛嬌のある顔だ。長い首の気持ち悪さが優勝してよく見ていなかったが、漫画みたいにシンプルな顔立ちをしていて、仲間同士の結束も強いようだ。

「ウヒーッウヒヒヒーッ」


 そう思ったそばから喧嘩を始めたウヒヒを、エスちゃんは面白く見た。

「ケヒネシアかあ……行ってみたいなあ。映像をみる限りでは観光客もいるんだよね」

「蚊とかノミ・ダニの媒介するヤバい伝染病が流行ってるらしいから行くのはお勧めしないな。いっぱい予防注射打ってくなら別なんだろうけど」


 エスちゃんは「うぐっ」と悲鳴を上げた。エスちゃんは注射というのがとにかく苦手で、学校の身体測定のとき採血の注射で気を失った人間である。小学校のハンコ注射も、まったく痛くないのに大泣きしたのであった。


「そ、そういうとこ行かなくても動物園で充分だよね!」

 エスちゃんがそう答えると、雲の切れ間から太陽が覗いて、ちょうどウヒヒの檻を照らした。ウヒヒたちはヒーターの前から太陽光を浴びられるところに移動し、ごろごろし始めた。とても怠惰だ。


「さ、次行こ次! なに見る?」

「あっちにもっとでかいサルのエリアがあるぞ」二人はそちらに向けて歩き出した。

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