第9話

 学校は燃え続けている。見渡す町のあちらこちらにも、小さな火の手があがっている。照明はあまり灯っていない。破滅への秒読み段階に入った町の景色は、惨たらしいまでに暗く淀んでいた。

 あそこにいなくてよかった、と思った。あそこにいたら、きっと終末の恐怖と狂気に呑まれて、自分を見失っていただろう。でも、学校に行ったおかげで、同じ波長で話ができる相手と一緒にいる事ができる。とても幸運な事に思えた。


「わたし、ハッピーだとおもう」


 ぼくの考えをなぞったかのように、シラカワが言った。


「世界中が不幸のどん底なのに、わたしは今、憧れてたひととふたりでいるんだもん。付き合ってた訳でもないのに、偶然に出会えて、こんな事がなかったらたぶん一生話さなかったような事を色々話して。もしかしたら、今、世界の誰よりもハッピーなのかもしれないよ」


 そう言いながらも、シラカワはまた泣いていた。怖いのだろう。ぼくだって怖い。


「ぼくだって、ハッピーなのかもしれない」


 シラカワにというより自分自身に向かってぼくは言った。


「本当なら、親父に見捨てられてひとりで家にいて、火事に巻き込まれていたかもしれないのにさ、シラカワみたいな女の子と一緒に、ここで街を見てる」

「本当?」


 シラカワは、少し嬉しげにぼくを見た。


「わたしと一緒にいてハッピーなの?」

「うん。ひとりより、ずっといいよ」


 言ってしまってから、少し失礼な言い方かな、と思う。果たしてシラカワは、軽く溜息をついた。


「ああ、その程度ね」


 ぼくは慌てて彼女に向き直る。


「あのさ、話の合わない誰かといるより、ひとりの方がずっとましなんだ。正直、ぼくは今、シラカワ以外に、一緒にいたい相手が思いつかない」


 シラカワは、信じられない、という風に上目遣いにぼくを見た。


「嘘。ナミちゃんの方がいいでしょ」

「いや。ナミカは大事だし、好きだけど、今一緒にいても多分ハッピーじゃない。慰め合って、一緒に泣いて、そういう感じにしかならなかったと思う。シラカワといるとさ、何だか最期まで自分を保てる気がして、そこがいいんだ」

「……それって、喜んでいいの?」

「もちろん」

「……だったら、キスしてくれない?」

「……」


 ぼくは無言でシラカワの方を見た。シラカワは顔を前に向けたまま、横目でぼくを見ている。


「ごめん、嫌だったら今のは忘れて。でも、心残りがないように言いたかったの」


 ふうっと大きく彼女は息を吐いた。


「したこと、ないから……」


 可愛い、と思った。


「嫌じゃないよ」


 ぼくは彼女を抱き寄せて唇を重ねた。彼女の唇は硬く乾いていたが、なるべく優しくそれを開かせた。


「……ありがと」


 微かに身体を震わせてシラカワは囁き、自分から体勢を戻した。


 彼女に対して感じるのは、今も、恋情より友情に近いものだけれど、唇を合わせて良かったと思った。


 シラカワは、ほうっと溜息をついた。


「こういう感じだったのかあ……」

「どういう感じ?」


 気の抜けたようなシラカワの台詞に思わず微笑して聞いてみる。悪くはなかった筈だけど。


「もっとこう、さらっとした感じだと思っていたら、妙に湿った感じだった」

「なんだそれ」


 ぼくは思わず爆笑してしまった。


「もちろん、もちろん、すごく嬉しい。すごくすごくドキドキしたよ」

「そりゃよかった」


 まだ笑っているぼくを、シラカワは軽く睨んでいる。


「何よ、ばかにしちゃって」

「ばかになんか、してないよ。むしろ、尊敬してる」

「ほんとかな」

「ほんとほんと」


 軽く怒ったような目と、軽く笑いを含んだ目が見つめ合う。


「ナミちゃんがさっき言ったこと」

「ん?」

「キスまでなら、許す、って」

「あいつ、そんな事言ってたの?」

「うん、でもあの時は、そんな事起きないだろうと思ってたから、わかった、で済ませちゃった」

「はは、そっか」


 それから、会話が途切れた。もうあと、数分しかない筈だ。この和やかな空気の中で終わりを迎えたくて、ぼくは話題を探した。


「あ~、タイムマシンがあったらよかったのにな」

「タイムマシン?」

「そう。そしたら、過去に行って平和に暮らせる」


 軽いジョークのつもりだったが、想像してみたら、なんだか切実な願いになった。百年前に戻れたら、天寿を全うできるのに。


「戻れないよ、過去には。歴史が狂ってしまうもの」

「タイムパラドックスか。でも、何もせずにひっそり暮らして、子供も作らなきゃ、大丈夫なんじゃないか?」

「そういう問題じゃないと思う。いる筈のない存在がそこにいたらダメと思う」

「そうかなあ……」


 ふっと、シラカワの顔が真剣になった。


「タカハシくん。わたしは、未来に行きたいよ」

「未来? 未来はない」


 何を言い出すんだ、と思った。


「タイムマシンで、未来に行きたい。今日のあしたじゃない。ずうっとずうっと先の、あした」

「ずうっと先に行ったって、何もないよ」


 聞き流せばいいのに、と心の隅で思いながらも、反論してしまう。


「そんなことない。今日、わたしたちはここで終わるけれど、宇宙が終わる訳じゃない。ずうっとずうっと先には、きっと未来がある。わたしたちの未来が。何も間違っていない、自由な未来が。そこにわたしがいる。タカハシくんもいる。ナミちゃんもいる。わたしたちはそこでまた出会って、そして新しい関係を築いていくの。タイムマシンはないから、今すぐにそこに辿り着くことはできないけど、でも、いつか、いつか辿り着けると思う。わたしたちの、未来に」

「未来……か」


 思いもしなかった言葉に、ぼくは何と答えるべきか、考えを巡らせた。


―――


 だけど。


 もう、時間が、なかった。


 街から聞こえる、大きなサイレンが、その時を告げた。


 水平線の向こうから来る。


 オレンジ色の光。視界をすべて同じ色に染めながら、それはやって来た。


 シラカワは目を瞑り、ぼくの胸にしがみついた。ぼくは彼女を抱きしめた。目を瞑りたかったが、その光景に心を奪われて、動くことができなかった。海を、港を、街を、世界を、焼き尽くす、埋め尽くすオレンジとそしてあとにやってくる灰色。


 もしかしたら、それは幻覚だったのかも知れない。そんな光景を感じる間もなく、ぼくは塵になったのかも知れない。


 だけど、ぼくは確かに言った。


「いつか、あしたに。いつか、いつかあしたに、また会おう……」


 シラカワは答えた、と、おもう。


「いつか、あしたに。約束だよ……」


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いつか、明日に 青峰輝楽 @kira2016

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