第6話

 それから、暫く沈黙が続いた。


 今は何時だろうか、ふと、そんな大事なことをすっかり意識していなかったのに気づいた時、シラカワが急に声を出した。


「ねえ、タカハシくん」

「……なに?」

「ナミちゃんに、電話したら」


 この、おせっかい。そんな台詞が胸をよぎったが、ぼくは辛うじて苛立ちを飲み込んだ。また、さっきのような事になるのはごめんだった。これ以上、感情を剥きだしにするには、ぼくは疲れ過ぎていた。


「余計な事は、言わないんじゃなかったの」


 ぼくは、なるべく淡々と応えた。


「そうだけど……タカハシくん、何か誤解してるかも知れないから」

「誤解?」


 意外な言葉に、少し返答に詰まる。


「家族や、恋人といても、やっぱり、ひとはひとりなんだと思うの」

「は?」


 益々、訳がわからない。


「だってね……さっき、ナミちゃん、泣いてたから」

「……え?」


 意外な台詞に、ぼくは当惑した。


「さっき電話した時。ナミちゃん、泣いてたの。私、バカだから、どうにかして最後にタカハシくんの声が聞けないかなあ、と思って、何気な感じで、タカハシくん一緒なんでしょ? って言ったの。そしたら、ナミちゃん、泣き出しちゃって」

「……なんで?」

「なんで、って……うん、私もびっくりしたけど、泣きながら、シュンを置いてきちゃった……シュンを、あの誰もいない家に……って言うの。タカハシくんの名前を何度も言って、泣いてた」

「……」

「わたし……泣いてるナミちゃんを可哀想だと思う所なのに、なんか、すごいムカついちゃって……なんでそんな事しちゃったの、って言っちゃった。だって、わたしなら、絶対そんな事しないのに、って思って」

「うん」


 無意識に相槌を打って、それから、今のはおかしなタイミングの相槌だったかな、と思った。だが、シラカワは、お構いなしに話を続けた。


「でもね、ナミちゃんは、仕方がなかった、って。仕方がなかったけど、でも、シュンが可哀想、シュンと一緒にいてあげたかったのに、って」


 ぼくは、また苛立ってきた。


 なんでシラカワは、わざわざそんな話をぼくに聞かせるのか?


 仕方がなかった。そんな事くらい、ぼくにだって解っている。


「……解ったよ。解ってるよ、そんな事。だから何? どっちにしたって、もう済んだ事じゃないか」

「わたし、さっきは、つい、自分の事を先に言っちゃって、悪かったと思ったの。時間がないからあせっちゃったけど……わたしはナミちゃんと話して、それから、タカハシくんの気持ちも聞いた。なのに、黙っているのは、なんて言うか、フェアじゃないなと思って」

「フェア?」

「タカハシくんは、ナミちゃんの事をもう考えない、って言ったけど、ナミちゃんはずっとタカハシくんの事を想って泣いてるって事を、教えとかないと、って事」


 この時、初めて、ナミカの泣き顔が、映像となってぼくの中に浮かび上がってきた。

 ぼくは、ナミカの泣き顔を見た事がない。だから、この映像は、想像の産物でしかない。

 朗らかで、気の強いナミカ。ぼくの家を出る時も、泣いてはいなかった。

 ……いや、もしかして泣いていたのだろうか?その肩は震えてはいなかったけど、彼女は一度も振り返らなかった。

 ナミカが泣いているかなんて、ぼくにはあの時、どうでもよかった。

 そうだ、仕方がない、と自分に言い聞かせ、諦める事に必死だった。

 冷たい家にぼくをひとり残し、家族の待つ暖かい家に帰る彼女への怒り、そして妬み……それに蓋をする事にばかり気をとられていたんだ。

 こんな事はなんでもないんだというポーズを自分に対して保ち続ける、という、どうでもいい事に拘っていたせいで、ナミカの辛い気持ちなんて、考えもつかなかった。


 心の上っ面を滑っていただけのシラカワミナの言葉が、ようやくぼくに届き、ぼくは、さっきから割り切れない気分で抱いていた罪悪感の正体に気づく事が出来た。

 ぼくは、シラカワの顔を見た。彼女はまっすぐに、ぼくを見ていた。真剣なまなざしだ。彼女もまた、今まで、みえない罪悪感を持っていたのだろうか。


「……ありがとう、シラカワ」


 そう言って、ぼくは携帯を取り出した。


 ツーコールで、ナミカは出た。

 いじけたぼくが予想してたように、家族とべったりだったなら、こんなに早くは出なかっただろう。


『……ナミカ?』

『シュン?』


 涙声だった。


『家にいるの?』


 とナミカ。


「いや。学校にいる」


 とぼく。ナミカには予想外だったようで、少し、返事まで間があった。


『だれか他にもいるの?』

「シラカワがいる。……あと、ヒライとか」

『クラスの子は、ミナだけなの?』

「ああ、うん、そうだ」


 学校で、シラカワと二人きりだとは、思いつかないらしい。色んな学年やクラスの人間が来ていると想像したのだろう。


『あたしも、学校に行きたい……でも、だめなの。お母さんがずっと泣いてて……ずっと慰めてたけど、あたしも疲れちゃって、ちょっとトイレで目瞑ってたとこ』


 やや小声だった。


「おまえ、おとなだね」

『おとなじゃないよ。あたしも一緒に泣いてたんだよ』


 さっきもシラカワに、『おとなじゃない』と言われた。同じような会話がぐるぐる回っている。先へ進めなくちゃいけない。


 ぼくたちは、おとなじゃない。でも、小さなこどもでもない。色々なことをして、色々な思いを感じて、色々なものを背負って生きてきた。自分なりに、それをきちんと整理して、意味を理解しないといけない。そうすれば、この今からやって来る理不尽な死にも、生きてきたことの価値を与える事ができる筈だ。


「ナミカ、ありがとう」


 素直な気持ちでぼくは言った。


「ぼくの為に泣いてくれてありがとう。ぼくと付き合ってくれてありがとう。ぼくを忘れないでいてくれてありがとう」

『何言ってんの!』


 ぼくの言葉に、ナミカは突然号泣した。


『あたし、あんたを置いて帰っちゃったのに! なんでありがとうなんて言うの!? あんた、恨みがましい目であたしを見てたじゃない! ほんとうは、怒ってるんでしょ?!』


 声の大きさに、母親が気づいたらしく、ナミカの言葉の後ろから、ドアを叩く音とナミカを呼ぶ声が切れ切れに聞こえる。だが、ナミカの感情の爆発は収まらなかった。


『ちがう! ちがう! 責めてるんじゃない! ごめんなさい! ごめんなさいなの! あたし、あんたにごめんなさいを言わなかった! 言えなかった! 初めて入ったあんたの部屋は、あまりに冷たくて……そこに、あんたをひとり置き去りにするなんてあんまりひどすぎて、ごめんなさいも言えなかった! ごめんなさい! ごめんなさい!』


 わあわあ泣くナミカの声とドアを叩いて叫ぶ声で、ぼくはしばらく何も言えずに黙っていた。


 辛抱強く待つと、やがて泣き声は啜り泣きに変わった。友達と話してるだけだから大丈夫、という声がして、ようやく電話の向こうは静かになった。


「ナミカ。そんなに泣かせてごめん」

『……』

「恨みがましい目で見たかも知れない。ぼくは自分の事ばかり考えてた。だから、あいこなんだよ。そんなに謝らなくていいよ」

『でも……』

「さっき言ったのはほんとうだよ。ありがとう、ぼくの事をそんなに考えていてくれるやつがいて、ぼくはうれしい」

『そんなこと……』

「ぼくはさびしくて、ナミカの事を忘れようとしてた。ごめん」


 暫しの沈黙の後、ナミカは小声で、わかった、と言った。


『じゃあ、おたがいに、ごめんはもうなしだね』

「そう。ありがとう、だよ」


 唐突に、最近流行りのテレビのCMで、ありがとうと連呼するキャラクターの顔が浮かんで、ぼくは苦笑する。ナミカも同じ事を思ったみたいにくすっと笑った。


『ありがとう、シュン。話せて……よかった』

「うん。シラカワが、きちんと話せ、って言ってくれたから」

『ミナが?』


 ナミカは驚いたようだったが、すぐに、


『そっか、さっき……』


 と呟いた。


『ミナに代わって。それから、も一回、代わってね』


 ぼくは携帯をシラカワに渡した。


 うん……うん……。シラカワは主にナミカの話を聞いて、相槌を打つばかりだった。

 最後に「わかった。じゃあ、タカハシくんに代わるね。じゃあね」とあっさり言って、ぼくに携帯を返した。


「ナミカ?」

『シュン、今までありがとう。シュンのこと、ほんとに好きだった』


 もう、涙声ではなかった。


「ぼくこそ、ありがとう。ぼくもだよ、ナミカ」

『じゃあね。また、あした』


 ナミカの言葉に、思わず軽く眉を顰めてしまったが、そう言いたい気持ちは判ったので、ぼくも、


「ああ。また、あした」


 と返した。そして、電話は切れた。


―――


 ナミカ、ナミカ、もう名前を思い浮かべても、息苦しくはない。寂しくもない。

 ぼくを置いて行ってしまっても、ぼくたちが過ごした時間に、意味があった。ほんとうに、またあした、会えるような気さえした。

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