疑念はさらなる惑いを呼びにけり

 いくら映像から顔を背け、耳を塞いでいようとも、空気の振動が鼓膜に伝われば音は聴こえてしまう。無駄な努力だとわかっている。わかっていても優香は両手を耳にあて、部屋に響き渡る男性の叫び声が少しでも聴こえないようにと、何かをせずにはいられなかった。


 二度と聴きたくない。人の断末魔の叫びというものが、あれほどおぞましいとは考えてもみなかった。思い出すと鳥肌が立ちそうだ。創作物での役者の悲鳴が、いかに芝居がかった嘘臭い演技かよくわかる。実際に断末魔の声を聴いたことのある人間など、そうはいないのだろうから当然ではあるが。


 汗で湿って肌に貼りつくTシャツが気持ち悪い。無駄にハイテクな機能をたくさん備えているくせに、なぜ空調が壊れているのだ。自室ならとっくに裸になっている。が、ここでは脱ぎたくても脱げない。


 たしか、配信だの視聴者だのと、おかめの音声が言っていたのを覚えている。おそらく、何台ものカメラが部屋に仕掛けてあるのだろう。


 まだ若いとはいえ、たいして良くもないプロポーションの裸身を、不特定多数の前に晒すのは気が引ける。素肌を見られることよりも、ろくに手入れをしていない横着な部分を見られるのが恥ずかしい。


「わあ”あ”ッ! わあ”あ”ッ! 麻酔ッ! 麻酔効いてないぃッ!」


 背後に流れている、どこぞの民族音楽らしき節回しの不思議なアカペラの歌に、モニター内の男性の悲痛な叫びが前衛的なラップのごとく絡む。やはり、耳を手で押さえるぐらいでは意味がない。


「わき、脇腹の、なかぁッ! かっ、かき、掻きまわされ、され」


 おかめのアナウンスが終わったあと、モニター内の男性の「俺の腎臓ッ!」という叫び声を耳にしたとき、音が割れているせいで聞き間違えたのだろうと優香は思った。負債の返済に腎臓を選ぶなど、背後に良からぬ組織でも絡んでいるのではないかと勘繰ってしまう。


 もしくは、すべては趣味の悪い冗談なのではないか、と。そもそも、どういった行動を取ると負債が発生するのかさえわからないのだ。そんな何だか得体の知れない罠にかかり、意識のあるまま内臓を取られるなど、とても正気の沙汰ではない。


「麻酔ッ! 麻酔するって言っ! がわあ”あ”あ”!」


 男性が同じ調子で喚きつづけて、かれこれもう三十分近くになる。部屋の暑さと相まって、これでは執筆に集中できない。


 映像のはじめのほうで注射を打たれていたようにも見えたが、あれは麻酔薬ではなかったのだろうか。男性が言うように麻酔が効いていないのであれば、彼は物凄い激痛に耐えているはずである。だが、痛がっているのとは何か様子が違う。


「耳栓! か、ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォン!」


 部屋に響く阿鼻叫喚を掻き消そうと、優香が負けじと声を張り上げる。最前に処刑された二人のときのように、何の策も講じずにただ聴いているだけでは、今度こそ頭がおかしくなってしまいそうだ。


 トレース台の上に現れたヘッドフォンを取り、ショルダーポーチからスマホを出してジャックを繋げ、音楽アプリのプレイリストを再生する。軽快な楽曲が流れはじめたものの、その背後には混線した電波のように、まだ微かに男性の叫び声が聴こえている。


 ヘッドフォンを外して調べると、イヤーマフの近くにスイッチを見つけた。オンにしてからもう一度装着する。


 余計な音が消えた。


 思わず顔を上げてモニターを確認する。画面左には口を大きく開けている男性の顔が、右側には複数のアームに穿ほじくり返されている彼の脇腹らしき部分が、それぞれアップで映っていた。


 なるべく映像を見ないようにして動画を縮小し、画面左下の隅へと追いやる。さっきの処刑動画と同じで消すことができない。それでも、叫び声が聴こえなくなっただけマシだ。執筆中に音楽を聴く習慣はないが、今回ばかりは仕方がない。


 執筆に取りかかる前に、モニター左脇の壁を見やる。赤いデジタル数字は順調に増え、今や『110』と三桁になった。最初に届いたものを含め、感想は全部で六件書かれたが、どれもこれも作品の内容ではなく文章への酷評だった。励ましや褒め言葉は一つもない。


 ともかく、感想は内容如何いかんに関わらず、一件書かれるごとに一律『10』ポイントが入るものと思われる。だが、SNSにいくら反応があっても、それらがポイントへ還元されることはないらしい。では、獲得した『110』ポイントのうち、『50』の出所は一体どこだ。


 気になりはするが、いつまでもこだわっているわけにはいかない。


 考えを中断して執筆に戻ろうとすると、視界端の右上辺りに何やら動くものを捉え、音もなく現れたように思えたそれを警戒し、優香は咄嗟に身を引いた。見れば、ただの液晶モニターである。正面のものと同サイズだろうか。画面は真っ暗で何も映っていない。


 気づかなかったのは外界の音が遮断されているせいだ。モニターだったからよかったものの、もし人体に危害を及ぼす類の仕掛けであったなら、知らぬまに死んでいた可能性もある。


 身に迫る危機の察知が遅れるのは、この部屋では文字通り命取りとなってしまう。重要な放送を聞き逃すかもしれない。ノイズキャンセリング機能はオフにするべきか。


 優香がヘッドフォンを外すと、「に入らせていただきます!」というおかめ面の機械音声が聴こえ、話の大部分を聞き逃してしまったことに血の気が引いた。奴は今、なにをすると言ったのだ。


「あ”あ”あ”あ”あ”ッ! 骨、骨がぁぁッ! けけず、けず、削れり」


 アカペラの歌声と、それに絡む施術を受ける男性の叫び声とは別に、ガサついた機械音声の「だららららららららら」というドラムロールのような音が合わさり、耐えがたいノイズとなって優香の耳に飛び込んでくる。加えて歯医者のドリルのような、甲高いモーター音も微かに聴こえる。


「ハイッ! それでは皆さん、右側のモニターをご覧ください!」


【紅 朱音】

・文章作法に則っていない 370

・規定文字数未到達 300

・程度の低い表現 400

・重複表現 480


 優香はモニターに表示された文字と数字を睨み、違和感を覚えて眉をひそめた。これは何だ。右端の数字はポイントのようにも見える。が、それにしてはポイント獲得理由とおぼしき左側の文言がおかしい。


 見ていると右側のモニターだけが暗くなり、ジャラジャラと小銭が流れ落ちるような音が部屋に鳴り響いた。最初のポイントを獲得したときに聴いた音と同じだ。反射的に正面モニター左の壁へと視線を投げる。


 壁の数字が目まぐるしく変化し、『1660』でピタリと止まった。モニターに出ていた数字が加算されたらしい。さっきのはやはりポイントだったのかと思う一方で、どこか腑に落ちない感覚がしこりのように残っている。


 視線を戻した優香は、右側のモニターに『アンケートにお答えください』という白い文字が出ているのに気がついた。このタイミングで何のアンケートを取るというのだ。続いて『価値が高いと思う順に、1から36の番号をふりなさい』と出る。


 文字が消えて人体を模したアウトラインが画面中央に現れ、それが三つに分離して横一列に展開した。右から臓器、骨格、裸の女性と、ただの線画が写真のような微細なイラストへとそれぞれ形作られてゆく。


 マウスを手に取ってポインターを動かす。矢印が臓器や骨格に触れるたび、ポップアップで名称が表示されるのを見た優香は、多くの疑念が融解したような、それでいて知りたくなかった事実を垣間見てしまったような、どこか異様な心地の悪さを感じて吐き気を催した。


 間違いない。モニター内で叫んでいる男は、こうして何を負債の返済にあてるか選ばされたのだ。そうでもなければ、腎臓で負債を返済しようなどと思うはずがない。だとすると、ここは『価値が高いと思う順』ではなく、『たとえ失っても生命維持に支障をきたさない部位』を選択すべきである。大丈夫、負債を抱えなければ問題はない。


 優香は重要な器官を避け、極力二つある部位や人工臓器で代替が可能と思われる箇所を選び、間違えないようゆっくりと慎重に番号を振っていった。

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