砂漠の氷 暁の陽炎に灰と帰す

 気分が悪い。また吐きそう。急に部屋も暑くなった。セーターを脱いでキャミソールになっても汗が止まらない。


 床に尻をついた格好で座ったままの菜々は、部屋に充満するえた匂いを再び意識してしまい、スマホでの作業を中断して思い切り嘔吐えずいた。おかめ面の音声放送を聴いて吐き、コピペ作業中に怖くなってまた吐いた。


 口をゆすいで、さっきの吐瀉物の残り香を洗い流したい。換気もしたいし、外の空気も吸いたい。床にブチまけた自分の反吐の掃除もできないなんて、あまりにもみじめだ。


 スマホの時計に視線を落とす。午前二時二十分になろうとしている。判定の時間までまだ十八時間以上もある。原文全部のコピペはサイトの構造上できなかった。各話ごとに少しずつやるしかないため、遅々として進まない。が、一度この辺りで区切りをつけ、加筆や体裁を整える作業に移り、早めの公開に備えたほうがいいだろうか。




「金の成る木があったら、いいよなぁ。なぁ、千咲ちさき?」


 まだまともに会話が成立していた頃の、つまりは酒に溺れて人生を放棄する前の父が、よく口にしていたセリフだ。幼かった私は、家庭が経済的に困窮していたことなど、つゆほども知らなかった。


 父は真面目で家庭的な人だった。と言えば聞こえは良いが、あまり社交的な人間ではなく、単純に友人知人と呼べる者がほとんどいなかっただけらしい。だから、遅くとも夕方七時には仕事から帰ってきていたし、家でも自室の書斎にもりきりで、姿を見るとすれば食事のときぐらいしかなかった。


 口下手というか無口というか、そんな父だったから、たとえ家族で集まっていても、会話というよりも二言三言「暑くなってきたなぁ」とか「今年は暖冬かもなぁ」とか、近所のおじさんが言いそうな他人行儀な時節的な感想を、ただ独り言のように呟くぐらいで、父親らしい威厳ある言葉を耳にした覚えが私にはない。


 実直で勤勉に仕事をしていれば、贅沢は無理でも、誰もが人並みの生活を送っていける。世界がいくら狂っても、均衡は勝手に調整される。世の中とはそういうふうにできているのだ。


 おそらく、父はそういったようなことを盲目的に信じ、無理を押して仕事に打ち込み、十年以上勤めた会社をクビになり、酒に溺れ、その酒を買いに行く途中でトラックに撥ねられて死んだ。


 父の人生がどういったものだったか、それを他人が論じることはできない。はたから見れば、物静かで生真面目な男のありがちな顚末として映っていたかもしれない。誰かに語られるような話でもなければ、取り立てて珍しくもないありふれた出来事として。


 当時の私はまだ七歳で、父が事故に遭って死んだという事態がうまく飲み込めず、それよりも大声で泣き崩れた母の取り乱しようが恐ろしかった記憶しかない。


 晩年は酒浸りの父だったが、それでも母は愛していたのだろう。家から父が消えた後の母は、見るからに憔悴し、一言も口を開かなくなった。訪問者があっても戸口に立たず、電話が鳴っても一切取らなかった。


 その頃から、母は夕飯の支度を終えると外出するようになった。母がいつ帰ってきていたのかは知らない。少なくとも、私が起きている間に帰宅したことはなかった。翌朝には朝食が用意されていたことを思えば、深夜ではなく夜明け近くに帰ってきていたのだろう。


 中学に上がり、夏休みまであと一ヶ月というある日、唐突に母がいなくなった。買い物に出たのだろうと思っていたのだが、そうではなかった。夜になっても母は帰らず、頼りにしている近くに住む父方の親戚に連絡しても知らないと言われた。


 彼らから警察に捜索願いを出してもらったが、ついぞ母は見つからなかった。警察も大の大人がふらっといなくなったところで、本腰を入れて捜索するほど暇ではなかったのだろう。一般人の主婦を警察が見つけられないはずがない。


 十二歳で天涯孤独の身となった私は、連絡を入れた親戚の家に引き取られることとなり、夏休み前に転校の手続きをさせられた。近くに住むとはいえ、電車だと三駅も違う。田舎の三駅は都会のそれとは別物だ。おかげで、小学校時代から仲の良かった友人や、中学で新しくできた学友たちとも、それきり会えなくなった。


 私を引き取ってくれた親戚の家族に感謝はしている。しかしながら、彼らは決して善良なタイプの人間ではなかった。


 彼ら夫婦には私より二つ年下の丈匡たすくという息子がいた。共働きの彼らは帰りが遅く、学校から帰ると家では丈匡と二人きりとなる。それがどういう意味を持ち、どういった場所に身を置いているのか、私は数日のうちに知ることとなった。


 十二歳の私は、世間どころか異性のことすらもろくに知らない、ただの子供だった。相手が小学生ということで、どこか見縊みくびっていたのかもしれない。


 あれは親戚の家へと移り、四日か五日経った夕方のことだ。


「千咲ねえちゃん」


 ノブを捻ってドアを開ける音とともに、いつものように丈匡の声が背後から響いた。引っ越してきた初日から毎日続いている。


「丈匡くん。ノックしてって、いつも言ってるでしょ」


「でも、うちら家族だよ?」


 大人が言えば説得力のあるセリフも、子供が言うと途端に胡散臭く聴こえることがある。


「それは……そう言ってくれるのは嬉しいけど、ここは私の部屋でプライ、ちょっと!」


 丈匡に背を向けて椅子に座っていた私は、背後から抱きつかれて思わず大声を上げた。ただ抱きついてきただけではない。彼の右手は的確に私の




 突如、聞き覚えのあるブザー音が響き、菜々は咄嗟にスマホから顔を上げて部屋を見まわした。男の人たちが死んだときに鳴ったのと同じ音だ。誰かがまた殺される。でもきっと私じゃない。だってまだ何もしていないのだから、私であるはずがない。


 そう思いつつも菜々が身構えていると、「おやおや? 皆さん、顔色がすぐれませんねぇ!」と、生理的な嫌悪感を覚える例の機械の音声が聴こえてきた。


「そんな皆さんに、またもや貴重な映像をお届けしたいと思います! こちらを観て元気を出していただきたいッ!」


 反射的に顔を上げてモニターを見た菜々の目に、椅子に縛られた男性の姿が飛び込んできた。これまでのように名前は出ていない。大学生だろうか。恐怖のせいか目が大きく見開かれている。何事か喋っているようにも見えるが、彼の音声はこちらに聴こえていない。


「ああっと! 顔を伏せるのはまだ早いですよぉ! ご安心ください。彼が命を落とすようなことはございません!」


 また気味の悪い音楽が流れはじめた。おかめ面の趣味なのだろう。他人の好みをとやかく言うつもりはないが、自分は絶対に聴かないタイプのジャンルだ、と菜々は顔をしかめた。


「今回、彼はルール違反を犯したのではありません。負債を抱えてしまったのです!」


 なんと言ったのだ。音声がガサガサしているせいでよく聴こえなかった。もし聞き間違いでないのなら、と言ったような気がする。この監禁状態で借金でもしたのだろうか。自分で思いついておきながら、あるわけがないと己の考えを訂正する。


「負債は一定の数値に達しますと、自動的に返済の義務が発生し、ただちに清算していただくこととなります」


 また具体性を欠いたことを言っている。どういった行動の結果に『負債』を背負わされるかの説明がない。一定の数値というのもわからないし、ポイント制とは別のルールなのかさえも定かではない。それに、どうして次々と新しくルールが追加されるのか。こんなの、まったくフェアじゃない。


「またまた、そんな浮かない顔をしないでくださいよ皆さんッ! ここで朗報です! 返済を何でされるかは、皆さん自身でお選びいただけるのです! おや? 喜んでもらえると思ったのですが、まぁだ石膏像のような表情をされていますねぇ」


 とはどういう意味だ。通常、負債の返済は金銭で支払われるものだろう。物々交換というわけでもあるまい。


「あぁ! わたくしとしたことが、これまたうっかりしてました! 気になっているんですよね? 彼が何をもって負債を返済するのかをッ!」


 金銭と等価のもの。またはそれ以上ということか。いずれにせよ、ロクなものではないに決まっている。


「なんと、彼が返済に選んだものとは」音声が途切れて奇妙な音楽が大きくなった。モニター内の男性が震えているのがわかる。機械音声のトラブルだろうか。何かしらの言葉が続くのかと思ったが、まるで喋りだす気配がない。間をためるにしても長すぎる。


「ご本人からどうぞッ!」


 いきなり戻ってきたおかめ面の音声は、そう言い放つとブツリと切れ、代わりにモニター内の男性のものと思われる叫び声が部屋に響き渡り、菜々は顔を伏せるとスマホを放して両手で耳を塞いだ。

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