悪魔の欠片

 それまで順風満帆とは言えなかった。


 父親はろくに仕事もせず、酒浸りの日々を送り、代わりに母が家を支えるも、無理がたたって倒れ、帰らぬ人となった。

 きょうだいはおらず、周囲からは鼻つまみ者として煙たがられていたので、友人と呼べる人物もいない。


 この町で腐りながら一生を終えるよりも、王都に出て、一発当てたい。

 淡い夢を抱いてやってきたが、仕事は長続きしなかった。


 器用ではなく、物覚えも悪い。

 また良好な人間関係を構築するのも苦手だ。


 変わらなければ。

 何度もそう思い、心機一転し、新しい仕事に就くのだが、どうにも上手くいかなかった。


 職を転々としていくうちに、自分の無能さに打ちひしがれていった。

 蛙の子は蛙。結局は父と同じだ。

 この体に流れる血が悪いのだ。


 いや、自分は父親とは違う。

 母が倒れても、相変わらず酒に溺れていた父親にはなりたくないと、思い続けて生きてきたじゃないか。

 いつか偉業を成し遂げて、その名を世に知らしめてやるのだ。


 だが、これ以上、働く気力はなかった。

 それでも腹は減る。

 もう四日も食べていないし、家賃を半年も滞納していたことを理由に、今朝、住んでいた部屋を追い出された。


 この追い詰められた状況が、悪事に手を染めることを許したのだ。

 そう自分は悪くない。

 そう言い聞かせながら、盗みを働くことを決意した。


 安息日の朝にもかかわらず、大通りは人で溢れていた。

 好都合だ。盗みの心得はないが、これだけの人混みだ。紛れてしまえば、相手に気づかれないだろう。

 なるべく金を持っていそうな、身なりの良い者を。

 腕力も体力もない女がいい。

 若いと逃げても追いつかれそうだから、足腰の弱い年寄りがいいだろう。


 通りを歩きながら物色するが、年寄りの女は少ない。

 見つけても、明らかに金は持っていなさそうだ。

 

 もう少し、標的の範囲を広げるしかない。

 そうして、また物色する。


 すると、ほどなくして見つけた。

 派手さはないが、高そうな服を身につけている中年の女がゆっくりと歩いている。

 右腕には、これまた高そうな鞄を掛けている。

 

 よし、あの女にしよう。

 通り過ぎるのを待って、十歩ほど離れた後ろで付いていく。


 やってやる。やってやるぞ。

 気持ちを高めながら、少しづつ間合いを詰めていく。

 自分でも息が荒くなるのがわかった。


 そして、距離がなくなり、鞄を奪った。


「きゃーっ!!」


 歳に見合わず、可愛い悲鳴を上げるが、気に留める暇もない。

 一目散に逃げた。

 飲まず食わずでフラフラなはずなのに、足はいつも以上に動いた。

 悲鳴に振り返る人混みを縫って、「泥棒よっ!? 誰かーっ!!」という叫びに反応した勘の良い者の手をかいくぐり、逃げに逃げた。


 そして、路地裏に辿り着く。

 朝日の差し込まない暗がりは、肌寒さを覚える。

 地面は少しぬかるんでいて、どことなくニオイがする。

 普通なら、一秒だって居たくもない場所だが、早く戦利品を確認したかった。

 路地裏の奥、突き当たりの壁にもたれかかるようにして腰を下ろし、握りしめた鞄の口を開く。


「っ!?」


 中には一枚の羊皮紙の切れ端が入っているだけで、他には何もなかった。

 その切れ端を手に取ってみるが、よく分からない模様が描かれているだけで、とても金になるとは思えない。


「くそっ!!」


 鞄を投げ捨て、切れ端を握りしめた。

 

 ツイていない。

 疫病神でも取り憑いているのか。それとも、そういう星の下に生まれてしまったのか。

 人生、ままならないどころではない。

 もうダメだ。

 そう思うと腹が鳴り出した。


「ハハ、こんなときでも腹が減るのか」


 己の不幸を笑い、空を見上げた。

 両隣の建物の隙間から見える青空は、妙に青かった。


「いた!」

「こっちよ!」


 声が通りから聞こえた。

 走ってくる足音がどんどん近づき、複数の人間に取り囲まれた。


 衛兵ではなくメイドだった。

 何故だ。

 あの女のだったのだろうか。いや、確かに一人だった。


 疑問を口にする前に、メイドの一人が半歩前に進み出る。


「盗んだものを返しなさい」

「そこらへんに転がってるだろ」


 左手で指し示してやると、別の一人が見つけてくる。


「中身がないわ」


 最初に声をかけてきたメイドがこちらに向き直る。


「出しなさい」

「これのことか?」


 握りしめすぎてしまったのか、食い込んだ爪で傷つけてしまった手のひらの血を吸って、切れ端は赤く染まっていた。


「盗ったものを出しなさい」

「これしか入ってなかった」

「見え透いた嘘を」

「本当だ! 本当にこれしかなかったんだっ!」


 切れ端を投げ捨てる。


「正直になったほうがいいわ。虚偽は罪を重くするだけよ」

「嘘は言ってない!」


 思わず立ち上がる。


「だいたいなんだ、あんたら! 衛兵でもないくせに俺を捕まえようってのかっ!? メイドなら、ご主人様にお茶でも出してろっ!!」


 ふつふつと沸いてきた怒りは、いつも以上に声を荒げさせる。

 だが、メイドたちは怯まなかった。それどころか、互いに見合って「やれやれ」とでも言いたげに呆れた。


「抵抗するなら、覚悟なさい」


 メイドたちは身構える。

 おそらく武術か何かを身につけているのだろう。構えが様になっている。


「うるせえっ! 俺に構うなっ!」


 数の上でも不利だ。詰んでいる。

 それでも捕まりたくはなかった。

 まだ自分は何も成し遂げていない。ここで終わってしまうのは、とても悔いが残る。


 逃げよう。

 ふらつく足で駆け出し、メイドたちを正面突破しようとする。

 だが、


「ふべっ!?」


 メイドの一撃が綺麗に顔に入った。

 後ろに吹っ飛ばされ、壁に激突し、無様に転がる。


「ちくしょう……!」


 生まれを、半生を、能力のなさを、不幸を、その全てを呪いたくなる。

 所詮、この程度の人間なのだ。ご大層な望みなど抱かず、分相応に底辺で這いつくばっていればいいのだ。


 そんなことを考えていると、酒をかっくらいながら「ざまあねえな」と笑う父の姿が、浮かんできた。

 もちろん、そんなことを言われたことはなかったし、妄想の類いだ。

 だが、父の見下した顔は、全身の血を沸騰させるくらい、苛立ちを覚える。


「俺はあんたのようにはならねえっ!!」


 その声に反応するかのように切れ端が光った。

 光に全身の精気が吸われるような、そんな感覚のあと、力が沸いてきた。

 身につけていたボロ服を破り、膨張する体。


 なんだこれは。

 自分が自分ではなくなるような感覚。


 立ち上がってみれば、メイドたちが驚愕の表情で見上げてくる。

 そんな顔で見るな。

 苛立ちを乗せ、拳を振り下ろした。


 メイドたちは間一髪で避けたが、その顔は恐怖に染まっていた。

 それがたまらなく心地よかった。

 だから、露わになった肌が緑色になっていても、気にはならなかった。

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