第四章 王都の休日

決戦の安息日

 黒革の辞書を手に入れたシロンは、さらに多忙を極めた。

 空を飛ぶために必要なことを調べ、出来そうなことは実際に試みてみた。

 勿論、授業の準備も怠らなかった。

 ゆえに、睡眠時間はゴリゴリと削られ、疲労はどんどん溜まっていった。

 しかしながら、心は充実していた。

 夢の実現に一歩近づけたのだ。寝食を惜しむくらいどうってことはない。

 目の隈をくっきりとつけ、不健康を露わにし、没頭するシロンを心配する者は多かったが、一人だけ怒りを覚える者がいた。


「ちょっとっ!! あんたっ!!」


 レイラである。

 彼女は借金の取り立て屋も霞むほどの乱暴さで、シロンの準備室の扉を蹴破ってくる。


「やぁ、レイラ。どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないわよっ!? あんた、忘れてんでしょっ!?」

「何を?」

「何って、その、デ、デ……」


 モジモジしながらレイラに、シロンは首を傾げていたが、思い当たる。


「あ、ごめん! デートに行く約束だったねっ!?」

「忘れてんじゃないわよっ!」

「ごめんってば」


 シロンが拝むように謝ると、レイラは明後日の方向を向きながら鼻を鳴らす。 


「わたしだって、いつ誘いにくるか、ま、待ってたわけじゃないけど、や、約束は守らないといけないから、仕方なく、そう、仕方なく来てやったのに……あんたって奴は!」

「本当にごめん。お詫びは今度の安息日に、ちゃんとエスコートするから!」

「ぜ、ぜぜ、絶対よっ!! す、すっぽかしたりしたら、許さないんだからねっ!?」


 念を押したレイラは、準備室を出て行く。

 最後に一睨みすることを忘れなかった。




★★★




 数日後。

 安息日がやってきた。

 シロンが朝目覚めると、メイドたちを引き連れたエマが部屋に入ってきた。


「おはようございます」

「え? な、なにっ!?」


 びっくりして上半身を起こしたシロンを尻目に、エマは閉ざされたカーテンを開ける。

 まだ朝日の眩しい空は快晴であった。


「本日は絶好のデート日和でございます。さ、しっかり準備をいたしましょう」


 シロンの問いを無視し、エマはメイドたちに指示をする。

 はい、と鈴の音を鳴らしたような返事のメイドたちは、ベッドのシーツをめくり上げ、ビクッとなるシロンを抱きかかえるようにして、ベッドの横に立たせ、手際よく寝間着を脱がしていく。


「わっ!? ちょっ!? 自分で着替えられますからっ!?」


 シロンの抗議を「うふふ」とお上品な笑顔でかわすメイドたちは、シロンをパンツ一丁にした。

 すると、簡素だが高級感のあるワゴンを押して、もう一人のメイドが部屋に入ってくる。

 ワゴンには水の張った桶が載せられていた。

 別の一人が、その水をすくい、シロンの顔をパシャパシャと洗うと、また別の一人がタオルでシロンの顔を拭く。


 さらに別の一人が、移動式のハンガーラックのようなものをガラガラと引いてやって来る。

 男物の服がぶら下がっており、メイドたちはあーでもないこーでもないと議論を交わしながら、シロンを取り囲む。


 シロンは抵抗を試みるが、メイドたちの柔らかい部分が顔や腕や背中などに当たり、正気を保てないでいた。

 そうして、シロンの理性が吹っ飛びそうになると同時に、メイドたちがささっと離れた。


「上出来です」

「へ?」


 頷くエマの横に控えるメイドが、姿見を向けてきた。

 そこには別人と化したシロンの姿が写し出されていた。

 白いシャツに小豆色のベスト、下は砂色のズボンと茶色の革靴である。

 黒髪も自然な感じで整髪され、全体的にシロンの好みのスタイルだ。


「お気に召しましたか?」

「はい! とっても!」

「っ!? はぁ~……」


 振り返るシロンを見て、エマが卒倒してしまう。

 シロンが咄嗟に抱きかかえ、怪我をすることはなかった。


「だ、大丈夫ですか?」

「え、ええ……」


 何故かうっとりと見つめ返してくるエマに、シロンは寒気を覚える。

 メイドたちからも「いいなぁ」「羨ましすぎます」などとヒソヒソとした声が聞こえてくる。


「……はっ!? おほん! もう大丈夫です。シロン様、ありがとうございます」


 エマは自分の足で立ち、シロンに一礼すると、スカートのポケットから一枚の羊皮紙を取り出し、差しだしてくる。


「こちらをお受け取りくださいまし」

「なんですか?」

「デートプランでございます」


 受け取ろうとしたシロンの手が止まる。


「え?」

「本日の行程が書いております。シロン様はそれに従ってお嬢様をエスコートしていただければ結構でございます」

「はぁ……いや、でも……」


 手にしたシロンは黙読する。

 そこには分刻みのスケジュールがびっちりと書かれてあった。

 シロンとしては、ここまで本格的なデートを想定していなかった。


「差し出がましいとは思いましたが、お嬢様にとっては一世一代の日でございます。失敗は許されません」

「え? そんなに気合い入れないとダメですか?」

「ダメでございます!」


 くわっと目を見開くエマに、シロンは思わず仰け反る。


「いいですか? シロン様はにもチェイシー家のご令嬢と親密になられております。それはもう社交界でも公然の事実と扱われております。悪く聞こえるかもしれませんが、あなた様を見い出したのは、我がカークランド家でございます。そのカークランド家の息女であるレイラお嬢様を差し置いて、よりにもよって、チェイシー家のご令嬢と……わたくしは我慢がなりません!」


 カークランド家に仕える身であるエマとしては、ライバルであるチェイシー家に出し抜かれたことが悔しいのだろう。

 彼女の立場であれば、それは当然である。


 見ず知らずの平民に、住む場所と食事をタダで提供するはずはない。単純な善意ではないのだ。

 貴族は本当に面倒くさい。人を、家名を上げるための道具か何かにしか、考えていない節がある。

 そう考えると腹が立ってくるが、世話になっているのも事実である。

 右も左もわからない王都で、人並みに、いやそれ以上の水準で暮らしていられているのは、カークランド家のおかげである。

 無碍にすることは、シロンにはできなかった。 


「わかりました……でも、このプラン通りにいくかどうかはわかりませんよ?」

「ご心配なく。わたくしどもも、できる限りサポートいたします」

「え? ついてくる気ですかっ!?」

「もちろんでございます! お嬢様の晴れ姿を、この目に焼き付けておかなければなりません!」

「それは……」


 お断りしたいところである。レイラも授業参観じみたデートはご所望ではないだろう。

 だが、侯爵家の一員であれば、それが普通なのかもしれない。

 護衛も無しで外へ出歩くことなど不可能。裕福であっても不自由な生活を強いられるのだ。

 もっとも、シロンが一緒にいれば、不逞の輩などに襲われる心配もないのだが、死んでもついて行くという意志を瞳に宿らせるエマの圧が強い。

 

「と、とにかく準備も済みましたし、プラン通り、レイラと合流しましょうか」


 断れず、屈したシロンは、そう言うのがやっとであった。

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