波の向こう
前 陽子
波の向こう
海原のずーっと向こうに入道雲。
モクモクよじれた雲の端っこが、よじれて砂浜に向かって来る。
「ママ、見て見て!ワンチャンだよ!」
息子の洋一が空を見上げて指を指す。
大きな雲が先頭で、そのあとに小さい雲がふたつ並ぶ。
犬のお母さんと、こどもが二匹。
風に流れてまるで走っているかのようだった。
海上の大空を駆け抜けるふわふわの白い犬。
トンビが二匹、犬の親子と蒼空を舞う。
勝浦の鵜原と云う小さな入江。
ママと洋一、娘の海と散歩していたときだった。
パパとママは会社の同僚で、互いにサーフィン好きが高じて恋人になった。
土曜日か日曜日、両方休みの日だと連日サーフィンにやって来た。
勝浦マリブポイント。串浜、部原、そして鵜原、勝浦にはサーファーが集まる海岸線があった。領域を広げれば、上総一ノ宮、安房鴨川までポイントは数々。
前日が仕事で徹夜だろうと、飲み過ぎだろうが、シャンと起きて、お弁当をこさえてやって来た。疲れていても、来れば、肺の空気が全取っ替えするようで気持ち良かったし、海に入ればゴミゴミした日常から解放されて、地球で生きているんだと感じた。
パパのロングボード、ママのショートボードをルーフキャリアに括り、ビーチボーイズやサザンを聴きながら車を飛ばす。ときどきユーミンもね。
ママは洋一と海と3人で砂浜に座り、犬の親子を目で追い掛けながら話を始めた。
真夏の大手町。
舜一はビジネスマンらしく、ネクタイに、上衣を腕に掛けていた。
照りつける太陽が真っ白いワイシャツから跳ね返り、舜一の真っ黒い顔に反射していた。待ち合わせの洋子は、やはり誰かを待っているであろう舜一を、彼がアチラを向いているときだけ、ジーッと眺め回した。
同じ香りを感じていた。海の香りだ。
超イケメンではないが、眉毛が太く、目鼻立ちがハッキリしていて、仕事が出来る!感を醸し出していた。優しそうな黒眼も男子なのに可愛らしく思えた。そう、洋子のタイプだった。
そう思った、その瞬間、
「すいません、それってビラボンですよね!」 舜一が声を掛ける。
ビラボンはオーストラリアのサーフィンブランドで、シールはステッカーとしてボードの立ち位置に貼るモノだった。当時はまだ日本では珍しく、洋子はオーストラリア出張の際に購入し、ハマっていて少々悦に入っていた。
大手町のビジネスマンでサーフィンの話が出来る? 否、会社には余りにも不釣り合いで、ご法度扱いのサーフィンが互いの趣味だと知り、ふたりは付き合うようになる。
『サーファーこそ硬派で自然を愛する者はいない。』
軟派な奴ら、不良者と勝手に思い込んでいる風潮に、ふたりはビールを傾け憤慨し、しまいには大手町サーフィン愛好会を作る。大海原に、ましてや板切れに身を委ね、波を合わせる。自然に畏敬を感じなければあんな恐ろしいことは出来るはずもない。一歩間違えば死に直結する。実際、友人の何人かは波の向こうへ消えていった。
ふたりはサーファーのハシリだった。
互いの両親からも危ないから止めろと促され、それは世間への体裁に過ぎず、だからこそ何事にも真摯に向かった。遅刻もしない、最後までやり抜く、約束は守る。どんな幼稚だと思われるようなことだって真面目に考えた。
元々やんちゃなふたりだったけれど、海に行けばゴミは持ち帰り、汚れていれば率先して掃除した。「ヘタな釣り師よりよっぽど紳士だっぺよー!」地元の漁師たちは認めてくれていた。
今も、サーファーのいる海にゴミは無い。
神の祟りも信じ、祭りや神事にも参加した。ハワイの原住民達もそうする。
台風前の砕ける波には絶対乗らなかった。自分の命は勿論だが、遭難すれば迷惑が掛かる。
サーファーには海の声が聴こえていた。
ボードにぶつかればフィンなどで大怪我になるから、波に乗るのも暗黙の順番が出来た。上手い順も当然あったが、待ち構えるポイントに乗れる順が一般的だった。
サーファーは礼儀正しい。決して割り込んだり、独りよがりはしない。
体幹も鍛えた。余計な筋肉は付けない。サーファーは、しなやかさが必要だ。野菜を多目にバランスの良い食事を摂る。健康には気を使った。
サーファーに肥満はいなかった。
舜一は、ロングボードもショートボードも得意で、プロからオファーが掛かる。プロったって、賞金で生活なんて出来るはずもなくサラリーマンを続けていくしかない。毎週、ふたりで房総半島の波を捜して走る。今ならSNSで波情報なんか直ぐに手に入れられるが、40年前はテレビの天気予報を観るしか方法は無く、天気予報たって当時はあまり当たるものでは無かった。しまいには天気図を覚え、自分たちで分析もした。
一番天気を知っていたのは漁師さん達だった。
鵜原で仲良くなった太郎兵衛という漁師は、とにかく凄い。カンカン照りだというのにあと3時間もすれば雨が降ると言う。本当に雨が降る。なんでも外房は特有なんだそうだ。隣町の大原で雨が降ってていても、勝浦では晴れているとか、一ノ宮の風力とこちらでは異なる、などなど…。
それからは、電話で聴いてやって来た。鵜原だけでなく、一帯の予想をしてくれた。
一ノ宮が一番多かったように思う。それでも必ず鵜原へやってきて、太郎兵衛の漁師料理を食べてから東京へ戻る。
サーファーは律儀なのだ。
太郎兵衛と居ると面白かったし、為にもなったし…、ご飯は滅茶苦茶美味しかった。太郎兵衛も舜一を応援してくれた。昔、遠洋漁業でハワイに寄った際、サーフィンを見たことがあるそうだ。チューブの中をすり抜ける姿は、飛魚みたいだったと、何度も聴いた。舜一のテクニックを計り知ると、台風がまだ遠いいけれど、大波が来るぞ!と連絡をくれるようになる。
「ママのなめろうはお爺ちゃんに教えてもらったのかあ!」
「パパはカッコ良かったね!」洋一と海が声を合わせて言う。
空の犬の親子はどんどんこちらへやって来た。
今日は凪の海。
静かな波音は、空を駆ける犬たちとリズムを合わせる。
『一本松のクロ』いつしかそう呼ばれるようになっていた。
舜一は、一ノ宮の浜に在る一本の松を目掛けて波に乗る。
勢いよくパドリングで沖に出る。テイクオフすると大きな波のフェイスが現れる。アップスダウン+カットバック+カーヴィング+エアー…そしてオブザリップ+も一度オブザリップ…波が砕けて浜に打ち寄せるまで、波の上に立っていた。
波に磁石が付いているかのようで、滑らかだった。
どんな魚がいるんだい?って、魚たちが一緒に追いかけてくる。
一日に何十本もメイク出来るわけでは無い。それこそ一本しか乗れないときもあった。それでも舜一は大事に、有意義に、一本の波をメイクした。
浜に上がると、洋子とハイタッチ。満足そうな顔をしてたっけ。
波が無ければ、パドルだけで海を漂う。その時は洋子も一緒。大きな魚がプカプカ、プヨプヨ。
海の上で昼寝をしたこともあった。
「今日みたいな海だったよ。」
「わー、きっれーい!」海が叫ぶ。
西のお日様が海を染める。一面が橙色に包まれ、海の顔も洋一の身体も、砂浜も、あらあら、間近ににやって来た犬の親子も金色に光る。
その後、舜一はオースラリア、ハワイ、勿論ここ勝浦の大会にも出場している。
「サーフィンはなんでオリンピック種目にならないのかね?!」
「なったら、舜ちゃん、金メダルだよね!」ふたりの合言葉になった。
「僕もオリンピックに出るよ!」洋一が言う。
「うみちゃんも。」
「そうだね、今年の一ノ宮のは無理だけど、ロサンゼルスのオリンピックには出られるね!」
海は三歳、洋一は九歳。既に洋一は、パパの子らしく波を掴むのが上手い。
(きっと出場してくれるだろう。)
(パパ、天国からいつも見守っていてあげてね。)
洋子は金色の空を見上げて呟く。
海が生まれてまもなく、舜一は、オーストラリアの波の向こうに消えてしまった。
「魚になったんだよ、パパは。魚のお友達が沢山いたからね。お魚さんより波乗り上手だったからね。」洋一が7歳になろうとしていたときだった。
息子は男の子らしくなった。
「ママは、僕が守ってあげるよ。パパとの約束だからね!」
「ようちゃーん、うみちゃーん、ご飯だよー!!」
太郎兵衛の奥さん、ミッちゃんが呼びに来た。
舜一は、鵜原に小さな家を構える準備をしていた。
太郎兵衛との約束だった。
太郎兵衛の庭の片隅に、『一本松のクロ』オリジナルステッカーが目立つボードが立て掛けられた、ログハウスが在る。
「ここはよー、オーストラリアに続いってからよー、パパはいつも見てるぞーー!」そう言っていた、太郎兵衛ももう居ない。
仲良く、ふたりは太平洋の海原で出逢っているだろう。
洋子たちは親戚同然の家族になった。
「バイバーイ、バイバーイ!」
真上を向いて犬の親子にサヨナラする海。
犬の親子もちぎれちぎれになって、大きな雲に飲み込まれていった。
「お家に帰ったんだよ、うみたちも帰ろうっと!」
「うみんちと一緒だね。ママとようちゃんとうみだよ!」
海もちゃんと分かって来たのだ。
洋子は逞しく育ったこどもたちが誇らしかった。
海にもサーフィンを教えてあげよう、明日から…!
了
波の向こう 前 陽子 @maeakiko
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