第20話 高麗町の惨劇
「今日は、静かにしろと言ったであろう」
屋敷の庭先に立ち、自ら椿の様子を調べていた宇多川甲斐は、表が騒がしいのに気づいて舌打ちした。
この前、入れたばかりの小者たちは、ぜひにと頼まれて同じ村からまとめて雇ったのだが、どうにも声が大きすぎて神経に触る。
これでは、せっかくの骨休めがぶち壊しである。
腰痛を理由に宇多川は登城を止めていた。
マシになっても出る気にならない。
彼にとって、今の城はすっかりいやな場所になってしまった。
子供のような城主に、若造の用人。そして彼らの機嫌を取ろうと図る家老たちに、懸命に取り入ろうとするあまたの者ども。
そのすべてが腹立たしく、情けなかった。
少年のころから、ひたすらこの身を国に捧げてきたつもりなのに、こうもあえなく崩れるとは、どうにも認め難い。
宇田川は足元の土を履物の先で蹴飛ばした。
休み続け、連日あんまを呼び、腰も首も肩もすっかり良くなったが、人前に出る気にはなれない。これからも、わからない。
嫌気の根本にあるのが、己の判断の誤りだったのはわかっている。
後継藩主を選ぶに際して、先に死んだ嫡子にこだわりすぎ、そして在府衆の先走りを不愉快に感じ、少々しつこく婿養子を否定しすぎたのが誤りだったのは、自らもはっきり自覚してはいる。流れは変わってしまっていた。
しかし、とまた宇田川は考える。
取り潰しの危機を救われたとありがたがる江戸家老はともかく、まさか国元の中老たちをはじめ、若手どもが揃ってあの育ちすぎのうどみたいなのを支持しているとは驚きだった。
雪花斎のくそじじいのいい加減な話を鵜呑みして、読み違えた。
おれとしたことが、と何度繰り返しても空しいだけだが、くやしい。
それに輪をかけて腹が立つのは、あの温泉場に住む偽隠者の婆さんだ。
わざわざ会いに行ってお世辞を言っても無表情のまま。まったく考えが読めなかったが、まさか十年も前から根回しをしていたとは、あとで知ってたまげさせられた。
こうなると、前藩主の御曹司たちを始末したのは、実はあの婆さんではないかとすら思えてくる。そろって出来が悪いと、つねづねくさしていたし。
宇田川は長い長い息を吐いた。
この件を通じ、身に染みて気づかされたのは、前藩主が病に陥ったあたりを境に、自分には正確な情報が集まらなくなっている現状だった。これでやっと納得ができた。そろそろ身の引き時なのは、苦みをもって実感している。
しかしこの腹ただしさは、別だ。
この前に登城した際のこと。二十歳そこそこで近習から年寄衆入りした(本人は空前の抜擢だと思っている)彼の、今日に至るまでの在任期間の長さをわざわざたしかめ、大袈裟に驚いて見せたのがいた。
すなわち、まだ隠居をしないのかとあてこすっているわけだ。
くそっ。大事な庭木を殴りつけそうになって、宇田川はあわてて手を引っ込めた。
溜飲の下がったことも、最近にはあった。
彼にとって長年の競争相手であり、一度はうまく失脚に追い込んだ墨田が、新しい殿様に呼ばれたと聞いて心穏やかでなかったのだが、その後なにをとち狂ったか、堀端に褌一枚だけを身につけ気を失っていたとの噂を耳にし、腹の底から笑わせてもらった。
とはいえ、宇田川の復権に役立つわけではない。
さらに、小国の厄介様を城主に直すことについて、醒めた口調で評していた一部冷笑派の雰囲気が、先日の国入りからこちら、日を追うごとに変化してきたのは最近、ごく短い時間登城しただけの彼にさえ感じられている。
とりわけ、若い城主が相次ぐ不気味な事件の処理に際して見せた、へこたれぬ態度に感心する声は多いようだ。だが、「おもわぬ名馬を買い当てた」とまで褒めるのは、ちとまだ早すぎるだろう。反発を、そう簡単に消していいものか。
宇田川には、体だけ大きい子供の、ただの無神経のように思える。
それよりぎょっとさせられたのは、先日、仕方なく出向いた三の丸御殿を移動中、目にした光景だ。
会いたくない人間が多すぎるため、人目につきにくい路を選んで歩いていると、偶然にも城代家老の内田が、渡り廊下の隅に立ち尽くしているのを見つけた。
宇田川は急いで身を隠した。なんでおれが隠れなければならない、と思わないでもないが、相手が悪かった。家中一の狸に顔を見られたくなかった。
ところが狸は、こちらに気づく気配すらない。
腹の底が知れないうえ、昔はずいぶん口やかましくて人への評価も辛く、先代藩主との間にもたびたび厳しいやりとりのあった内田が、どこかをじっと見つめながら目をほそめ、繰り返しうなずいている。
最初は、女が行水でもしているのかと思ったが、あの年寄りくさい顔つきは、離れて暮らす孫の成長ぶりをそっと祖父が見守るときのそれである。
けげんに思って視線の先を探ると、そのずっと向こうに、なんと手ずから馬の汗を拭いてやっている新藩主の姿があった。これにはあきれた。
おまけに馬番どもが馴れ馴れしくも直接少年藩主にしゃべりかけ、彼も機嫌よく応じている。なにを考えているのか。よく内田は黙っているものだ。
人に隠居を勧めるくせに、自分こそすっかり耄碌しているではないかと、内心大いに毒づいたものだった。
思いにふけっていた宇田川は、また眉をしかめた。
今度はもっと大勢の、それも悲鳴にすら聞こえる声が響いたからだ。
(いちど、きつく叱ってやらねばわからんようだ)
ゆっくりと声の方に歩き始めた宇田川だったが、人をふたりばかり従えた若い男が、庭先にぬっと入ってきたのには驚かされた。
叱りつけようとして腹に力を入れ、その大男がまぎれもない主君であることに気づいて宇田川は口を半分ひらいたまま、棒になった。
「急いでいる。許せ」虎之介は言った。「その方に聞きたいことがある」
「……これは、いかなる理由にございましょうか、あ、あらかじめご命じくだされば出迎えにまいりましたものを」
「若き日の義父上は江戸で、仲間三人となにをされていたのだ」
「え、ええ?」
「だれかにひどい仕打ちをしたということはなかったか、相手に恨んで恨み抜かれるほどの人でなしの所業を」
まったく抵抗できないほどの怪力で彼の両腕を掴み、揺すぶるように聞いてくる主に、当初は震え上がった宇田川だったが、ごく間近で見た藩主のまだ幼いといってもよい若々しい顔に、すぐ気持ちが落ち着いてきた。
「殿、お離しくだされ。突然そのようなことを申されましても、この宇田川、とんと見当がつきませぬ」
「三十、いや四十年は前のこと、おまえしか知るものはおらんのだ」主人は困った顔をして手を離した。少し余裕のできた宇田川は、
「いや、なんと申しましょうか、あまりに古すぎて思い出しかねます」と、さらに繰り返して様子を見た。
実際、思い当たることはない。わざとゆっくり着物を直しながら、宇田川はもう一度かなり上空にある主の顔を見上げ、じっくり観察した。
(まだ、こどもじゃないか)心の中で言葉にして、自分を落ち着かせる。
先代とはまったく違った雄大な体格。りりしく整った目鼻。
思い詰めた表情をしているものの、そこからは横死した若殿たちに共通だった険や陰りは少しも見出せない。
なるほど、明信院が惚れ込んだのも無理はないと感じた。
しかし、あまりにまっすぐで純粋な若者は、脆さも当然持ち合わせている。
主君の後ろからは、大汗をかいた小小姓組が、はらはらした顔で見ている。
こいつらも笑ってしまうほど若い。
徐々にゆったりした気分になってきた宇田川は、わざと年長者のような言い回しを選び、ほほえみながら諄々と少年藩主の非を説いた。
幸い、この場にあの小生意気な、油断のならない用人はいない。
興奮がさめてきたのか、最初の勢いを失った主に宇田川は、いろいろ大袈裟な言葉を重ねて機敏さをほめてから、次に多忙な日々に疲れて混乱しておられるのだろうとなだめた。そしてまた、慌てぶりや無鉄砲さをやんわりと非難した。
すっかりしょげた藩主は、客間へとあがるのを拒否した。そして頭を垂らし、
「おれが真喜の刀を持ってきてしまった。だれがあれを護ってやるのだ」などと、どういう意味なのかくどくどと似たことを言い続けている。
「殿、ご安心を。この宇田川がいずれなんとかいたしましょう。まずは城へとお戻りを」
自分が非常に心の広い師になったような気分を味わいつつ、屋敷から無事に送り出した。
主君の背後から狼のような目をしてこちらを見ている朝倉俊平の態度は、
(こいつ、あれほど唯我独尊だったのに、いつの間に殿に懐きやがった)
と、気にならないでもなかったが、(まあいい)と思い直した。
(うまくすれば、これをきっかけに殿がわしに一目置くようしむけられるかもしれん)と考え、内心の笑みが外にでないよう、表情に気をつけた。
唯一引っかかるのは、若き主君が暴挙の理由にあげた、
「真喜があぶない」という言葉だった。
今夜、宇部志摩守の江戸屋敷で紅葉狩りがあるというのだが、松明をどんどん焚いた中、護衛をつれた貴顕がそぞろ歩くような催しに、なんの危うさがあろうかと思う。
なるほど真喜姫は素っ頓狂な、理解し難いところのある女性だ。斬り合いでも目にすれば自ら止めに飛び込むことだってありえる。
が、今夜は女性客も大勢いる紅葉狩りである。刃傷沙汰なんて馬鹿げている。
宇田川自身は彼女を決して嫌ってはいなかった。夫婦仲は睦まじいと聞き、嬉しく思いさえした。危険の芽があるなら摘むのはやぶさかでないが、まさか。
しかし、主君の話を聞いてから宇田川の首の後ろあたりがぞわぞわしている。
なにが、ひっかかるのだろう。紅葉狩りについていま少し考えてみた。
数年前に代替わりした宇部家の当代とは面識がなかった。
一方、屋敷の庭園については予備知識があった。規模こそもっとすごい庭はあるとはいえ、凝ったつくりは有名だ。
夜桜ならぬ夜紅葉なんて、危ないどころか実に楽しそうではないか。
ただ、宇田川もよく知る先代は、ある時期から人が変わったように内向きになり、ご自慢の庭園に客を呼ぶのをやめたと聞いていた。跡継ぎはそうでないのだろうか。
とはいえ、奥方はいきなり未知の場所に乗り込むわけではない。
今度の催しには仲介がいて、それは旗本の花岡正義だと聞いた。花岡が息子でなく彼の知る人物のままなら、なかなかの風流人だったはずだ。人あたりもよく、奥方を上手に連れ回すだろう。
宇部と花岡の顔を、宇田川はぼんやりと思い出した。記憶にあるのは、ほっそりした首の上にのった、ずいぶん若い顔だった。
まあ、いずれも饗応にそつはないだろうから、奥方が不安を感じたり、ましてや怪我をするようなことはあるまい。
まてよ、はて。また何かが、ひっかかった。
宇田川の頭の中で、ちりのようにあちこちに分かれて置きっぱなしとなっていた記憶が重なり、ほんの少し形をなした。
花岡の若様は……仲間うちで最も若く、いつも他の三人の後をくっついていた。あの小屋の最後の夜には、先に逃げてその場にいなかったはずである。
最後の夜?
宇田川邸を離れたあとも、みるからに立派な馬とともにうなだれて進む主へ、忠次郎は声をかけられないでいた。
物見高い子供が集まってくるのを朝倉が追い払っている。あたりが武家屋敷ばかりでよかった。
「きっと、なにかあったと思ったのに」とつぶやく主君は、大きな身体をしていても、まだ生まれて十六年ほどにしかならない少年であるのを忠次郎に思い起こさせた。
しょんぼりした表情が可哀想でならず、彼もまた、落ち込んだ。
不思議なことに、藩主と馬のいく先々、待ち構えるかのように猫や犬がたくさんいて、一部はぞろぞろとついて歩きさえしている。
戸や塀の横からは、もっと小さな影が現れては引っ込んだ。ドブネズミかも知れない。
(いったい、どこから湧いて出てくるんだ?)忠次郎は首をひねった。
ふだんは人に好かれる明るい雰囲気の殿様だが、けものにまで好かれるというのは、どういうことだろう。
おかしな現象を伝えようと、主に一歩近づいた忠次郎は、異様なものが接近してくるのに気がついた。
朝倉はすでに刀を腰に引き付けている。
褌をちらちら見せつつ、静かな路地を暴れ牛のように突進してくる太った男に、見覚えがあった。
「との、との」牛男は叫んだ。「お待ちくだされ、思い出しました」
さっき会ったばかりの、宇田川甲斐だった。
一行に追いついた宇田川は、尻からげしたひどい格好のまま、懸命に息を吸い吐きした。なにか言ったが、ぜいぜいとしか聞こえない。
冷静な表情の朝倉が水筒を差し出すと、ひったくって飲んだ。
そしてまだ荒い息をしたまま、宇田川は虎之介に向かって半分泣きそうな顔をして謝り続けた。
どうやら、なぜか過去の記憶が飛んでいて、わざわざ訪ねてきた主君に充分答えられなかったのを詫びているようだった。
と、いうことは思い出したらしい。
忠次郎が見ていると、宇田川は荒い息をしたまま、
「との、お耳を」彼は長身の主君に身を屈まさせて、路上で耳打ちをはじめた。
それを馬と、冷たく疑わしげな顔の朝倉が横目で見、さらにまわりを猫や犬が野次馬のように囲む光景は、なんともいえず変だった。
息が荒くて声を殺しきれず、忠次郎にも耳打ちの内容はときどき聞こえた。
「御身にのみ、申し上げます。御先代は昔、江戸から連れてこさせた陰間を、みずから殺められた疑いがござった」
「なに」思わず虎之介は口に出したあと仁王立ちになり、あたりを見回してから慌てて背をかがめ直した。
あまりに陰惨な話であったし、後処理をした関係者も懸命に噂の広がるのを防いだため、次第に忘れ去られてしまったのだと宇田川は説明した。
共犯ないし深く関わっていたと見做されるのは、虎之介が長島の隠居から聞いたように江戸以来の遊び友達、すなわち大名の子息二人と鵠山近くに領地のある大身旗本の嫡男である。
四人は趣味の絵画を通じて少年のころから交流があり、それぞれが十代半ばにさしかかってさらに深まった。共通点がほかにもあったからだ。
それが、美童に対する強い関心だった。四人は長じると、若い役者たちを相手とした売春行為、いわゆる陰間遊びにのめり込んだ。
なかでも先代は、三木之丞という芸名を持った美少年と深い仲になった。彼は思い余った挙句、家督相続と前後してその美少年を密かに国元へと連れ帰った。
そして城下の商人たちに金を出させて、当時は高麗町と呼ばれた新興の歓楽地域の一角に、小さな芝居小屋を与えることさえした。
江戸ではよく遊びに関わる使いを命じられたし、先代の国入り直後には、まだ部屋住み身分だったほかの若殿たちも、うまく理由をつけては鵠山にやってきたりした。だから宇田川も数年にわたって若殿たちと、そして三木之丞とも淡いながらも交流を持った。
三木之丞の美しさといったら驚くほどだったと、宇田川はいまもなお夢見ているような顔をした。主君の行為への理解は難しくとも、納得はできたという。
また、当人の人柄については、
「大人しく見えるが芯はとても強い」と感じたが、その気質も振る舞いも、むろん見た目も女そのもので、
「あれなら本物の女とどう違うのか」と、思いさえした。
小屋ができて最初のうちは、舞台ではぞんぶんに好きな芝居にうちこみ、小さな自分の部屋に戻れば白い猫と機嫌よく過ごす三木乃丞の姿は、誰よりも充実して見えた。男色趣味のない宇田川でさえ、輝くような美しさに時おり見惚れてしまった。いまになって考えると、儚いがゆえの美しさだったかも知れない。
先代藩主も会いに来た。国入りの直後は、しきりに小屋を訪れては心から楽しそうにしていた。それ以来三十余年、主君と寵臣としてごく近いところで日々を過ごしたが、あの時のような人間味のある顔を見たことは、ついになかった。
しかし、せっかくの芝居小屋は役者が揃わず悪評にさらされ、二年ともたずに閉鎖された。ほどなく若殿たちの間に痴話喧嘩でもあったのか、内輪もめが頻発し、その始末に宇田川がたびたび駆り出されたりもした。
あれほど思いあった先代と三木乃丞のあいだがらも、ひびが一つ二つと入っていった。溢れるほどの愛情が一転してすさまじい憎しみへと変わるのも間近に見た。行く末が怖くて、若い宇田川はなるべく小屋に近づかないですむように図ったぐらいだった。
そして、なんとなく嫌な予感のした、ある生暖かい夜のことだった。
高麗町に火事が起こったとの知らせを受けたのは丑の刻近かった。宇田川が駆けつけた時にはほとんど火は消えかけていて、小屋も崩れ形がなくなっていた。
風もないのに、火のまわりがことのほか早かったと火消しに聞いた。三木之丞と可愛がっていた猫の消息はその夜から失せた。
おそらく彼と飼い猫の肉体は芝居小屋もろとも焼け落ち、この世になんの痕跡も残さず消えたと考えられた。
事情を知らぬ町奉行所からは詳しい調査を要求する声もあったが、当時の長老たち(多くは現在の重職たちの父や祖父)は、それを握り潰すとともに焼け跡の即時破却を指示した。さらに、
「この件は、はなからなかったことにし、つとめて忘れるよう」と、宇田川にも伝えてきた。その意味はすぐに理解できた。
殺したのか。
宇田川は激しい衝撃を受けたが、火事のあとに会った前藩主は、手指に目立つ怪我をしていたものの、顔からは苦悶や悲しみのあとなど一切内心をうかがえるものは見てとれなかった。態度もごく自然だった。それで宇田川も、長い夢でも見ていたのだろうといつしか考えるようになった。
その後、焼け跡から夜中に呻き声がするなどの怪談話が相次いだため、焼け跡の半分に供養のための寺を、残り半分を店家にして安く下げ渡したこともあったが、再度火災があったりして、街の命脈は絶たれた。小京都ならぬ小浅草みたいな歓楽街だった一帯は、すっかり寂れてしまった。
「あれからもう四十年は経ちますから、いまはどのような姿かは、とんと……」と宇田川は首をたれた。
彼もあえて思い出すこともなく今日に至ったのだと告白した。しかし、
「なぜ、今日まで綺麗さっぱり忘れてしまっていたのか、弁解するわけではございませんが、拙者にもしかとはわからないのでございます」
屋敷でのどこか不遜な態度はすっかり消え失せ、まるで人がわりしたように宇田川は素直な口調で語った。長い夢からいま、覚めたように。
「わかった。すまなかったな」閉じていた目を開いた虎之介は、落ち着いた口調で聞いた。「それで、その小屋跡は、いまで言うとどこだ」
「あの頃は高麗町と言いましたが名が変わり、のちに紅屋町と呼ばれた場所にございます。堀を越え、ご城下を過ぎ、大鷺神社を通って雑木林の広がるあたりとなります。川の近くでもありまして、一時はたくさん船が行き交っていましたが、それも途絶えました。埋め立てたせいで土が緩かったのか、三年ほど前の大水でかなりの被害が出て、水に浸かり人死にも出ました。そのあとまた手を入れまして、このごろは水はふんだんにあるし大きな音や煙を立てても文句が出ないというので、職人どもが住み着いていると聞いております」
「そうか、助かった」
話が終わると、腕を組んだまま虎之介は考え込む様子になった。そして、不安げに見上げる宇田川や忠次郎へにっこり笑いかけると、
「許せ」馬に飛び乗って虎之介は駆け出した。あわてた朝倉が走って追ったが、すぐに見失った。忠次郎も追いかけたが、なぜか一緒に走ってきた犬猫に追い越されてしまい、情けなくなって立ち止まった。
彼は主と猫たちがどこかへ消え去るのを、不思議な思いで見送った。
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