第21話 知っているけど知らないところ
馬を操りながら、虎之介はさまざまなことを思案した。
小屋跡に朱がいるに違いないと確信して駆け出したが、間違いかも知れない。
あるいは、罠が仕掛けてある。
あるいは、すっかり騙されている。
あるいは。
このような無鉄砲な行動は、兵部がいたら必ず止められただろう。
いや、朱の悪知恵がすごければ、きっと兵部を引き離そうと考えそうだし、もしかするとその罠にかかったのかも知れないし、
あるいは彼自身が裏切り者かもしれない。
そこまで連想して、虎之介は笑った。
「兵部が黒幕なら、おれはとっくに始末されている」
行者のもとへ旅立つ際、護身のために三池典太を持って行かせようとした虎之介を叱った兵部の様子を思い出した。いつも無遠慮に人の目をにらむ彼が、決して虎之介と目を合わせようとはしなかった。感情を隠そうとしたのだ。
そして、刀にそれほどの力があるなら決して手元から離してはならないと説き、必ずあの行者を連れて戻るので、軽挙はつつしむようにとだけ言って国を出た。
庭園の座敷でのことを思い出した。
長島の隠居は、彼の話を聞いて思わず立ち上がった虎之介に、うろたえた。
そして、いつもは準備怠りない義理の息子が、めずらしく飛び立つほどの速さで旅立った事情を知ると、足元にすがるようにして主君を押しとどめ、
「まことに僭越の極みながら、これだけはお耳に」と、兵部の歳の離れた弟の話をした。
兵部には明るく、いつも外を駆け回っているような元気な弟がいた。少年はある夏の日、兄の警告を聞かずにこっそり川遊びに行き、溺れて死んだ。
兵部はそのあと毎日、川べりにただじっと立ち尽くしていたという。
むろん長島は、兵部の主君への感情を説明したりはしなかった。
だが、兵部がどんな思いで虎之介を見ているかは、実兄には憎まれ、虫を見るような目つきで睨まれた経験しかなくても、わかっていた。
また長島によると、自宅では無口を通していた兵部は、虎之介に仕えるようになって以来、飽かずに毎日若い主の話ばかりして、妻を呆れさせているのだという。
「兵部、おれは……」
どうすればいいのだろう。虎之介はまた考えに詰まった。
朱は霊刀を持ってくるなと釘を刺し、彼もそのつもりでいるが、もしも殺されるようなことになれば、最悪の場合、国が取り潰しとなる。
おまえ、妻と引き換えに国を滅ぼすつもりか。
そう自分に言い聞かせてみたが、体は動きを止めなかった。
ただ、虎之介は、朱の抱く自分に対しての恨みは、案外薄いのではないかと読んでいた。いままでの怪異も、命を狙っているというより、ただ嬲っているのだ。
宇田川の話から推理すると、三木乃丞という役者を直接、手にかけたのは義父である先代藩主と思われた。
義父は最初に苦しみはじめ、一番長く苦しみもがいて死んだ。途中、快癒したとぬか喜びもさせ、最後は後継が死ぬという絶望まで味あわせてから、地べたに投げつけるように殺した。
三木乃丞が朱かどうかはわからないが、とにかく最も恨んだ相手は義父だったのだろう。
そしてたぶん、同じぐらい恨みを抱いた相手のうち、いまも生き残っているのは花岡正義だけなのだ。
朱は今夜、その男を大勢の目の前で嬲るか殺すつもりでいる。
だからこそ、真喜が危ない。
一連の怪現象を朱のしわざと考えて整理すると、どうも思いつきが勝って一貫性は乏しいようだ。側近に優れた軍師はいないようである。
今夜のこともおそらく、宇部当人を殺してしまってから、彼の愛した庭園を復讐の舞台とするのを思いついたのではないか。
朱のことばかり考えているうち、虎之介はだんだんと相手の暗い情熱が向かう先が読めるような気がしてきた。今夜の企みについてもそうだ。
奴はいま、舌舐めずりしていよう。名庭を舞台に、背景には燃えるような紅葉を置いて、三木乃丞ごろしの最後のひとりを苦しみのたうち回らせて殺す喜びに。客は貴顕か文人ばかりと聞く。いずれも噂好きの人々だ。目の前で花岡の口から過去の罪の告白でもさせて、それから始末するつもりではないだろうか。翌日には、江戸中が知っている。
その禍々しくも華やかな演し物に花を添えるのが、一番憎い男の娘の命だ。宇部の旧臣や家族という脇役もいる。どうやって真喜を呼び込んだのかは知らないが、復讐のためなら手間ひまを惜しまないのには感心する。ついでに、枝葉末節にこだわり過ぎなのにもあきれる。
それはともかく、役者としては二流だったというかつての三木乃丞の舞台よりも、はるかに長く市中の評判を独占するだろう。
虎之介は唇をひき結んだ。
(とにかく、朱に会おう)
言いわけできないほど甘く愚かな考えかも知れないが、虎之介は朱に直接会って説得するつもりだった。妻の命だけは救いたかった。
そのうえで自分を殺したいと主張するのなら、飲むつもりだった。後継手配の猶予だけをもらい、その後死ぬのはかまわないと思っていた。
もし、それで恨みの根が経ち切れるなら、喜んで命を投げ出そう。
いつも気になる自分の幼さについては、いまは考えないことにした。
城から遠ざかるにつれ、道はだんだんと狭くなって行く。
そこを見事な馬に乗った若い男が駆ける姿に、驚いて立ち止まる人が増えてきた。
途中、番所と門のある所まできたので、虎之介は下馬して、
「正光だ、通る」と声をかけたら、のんびり番をしていた老人が文字どおり腰を抜かした。
奥から出てきた若い男は、状況がまったく理解できないという顔のまま昔の高麗町、そのあとは紅屋町といった地域への行き方を教えてくれた。
こんな時はどのように礼をしていいかわからず、先日来外出には必ず持つようにしている巾着袋を取り出した。
どこで異変に巻き込まれても対応が可能なように、大小の金を詰め込んであり、重い。
そこから掴み出した金を渡して馬を出すと、うしろで悲鳴のような声が聞こえた。額が不適当だったかな、と青波の上から虎之介は首を傾げた。
風呂敷に包んだ荷物を抱え、年配の女と賑やかにしゃべりながら往来を歩いていた少女が、馬に乗った彼の姿を見て電撃に打たれたように立ち止まった。
そして宙を見上げたまま、ぽかっと口を開けた。
「おや、どうしたのおゆきちゃん」年配の女が聞いた。「お化けでも見たような顔をしちゃって。まだ昼間よ」
「お、お……」
「なに言ってるの。なんか悪い物でも食べたの?帰ったらちゃんとお向かいの先生のところに行きなさい。このあたりはだめよ、鍼医者しかいないはずだから。それも藪」
「お、との……」
自分を見上げ続ける少女に気づいた虎之介が、青波を止めた。
「おお、ゆきではないか」と声をかける。「息災か」
ゆきの話し相手が馬上の武士とわかった年配の女が、慌てて道の端に外れ頭を垂れた。
「すまんが今は急ぐ。また会おう」そう言って虎之介はゆきに笑顔を向けた。「よければ後日、俊平と城へこい。珍しい菓子もあるぞ」
声だけを残すと青波と一緒に駆けて行ってしまった。
ただ呆然と、ゆきは路傍に立っていた。
突然の再会への驚きと喜びより、殿様の眉宇にあった陰りがゆきには気になった。声は明るかったのにどこか寂しそうだった。殿様は嘘をおっしゃったのではないか。二度と会えないかもしれないと、思っておられるのではないか。
年配の女は突っ立ったままのゆきに近づくと、
「おゆきちゃん、あんた顔が広いんだねえ」と感心して見せた。
「ねえ、いまの方はどなたよ。立派な身なりでもお供はいなかったじゃない。こんなところでひとり馬を走らせて、変わった方よね。そうか、俊平ぼっちゃまのお知り合いかぁ。剣客っておかしな人ばっかりだもんね」
「俊平ぼっちゃま……」
「いやねえ、なに泡食ってるの」
われにかえったようにゆきは言った。
「いまの方が、ご城主さまです」
「げっ」
「なにか、よからぬことがあったのでは」
そして、目を白黒させている女の袖をつかむと、
「若先生は、俊平さまはどこに」と聞いた。「まだ、お城からお戻りでありませんよね」
「そ、そうかな、たぶん。道場にはいらっしゃらなかったし」
ゆきはくるりと後ろを向くと、一散に駆け出した。
〈江戸・宇部家下屋敷内庭園〉
「あんがい、愛想のいい幽霊でしたね」真喜が実に嬉しそうに言った。「日も残っているのに相手をしてくれました。夢が叶いました。これも、ぎんのおかげです」
「だー、かー、ら」ぎんが低い声で返した。「あまり親身に話を聞き過ぎちゃだめって申しましたでしょ。あいつら、愚痴を聞いて欲しいからこの世に残ってんだから、油断したらとっつかれちゃうわよ。まだ夜じゃないから離してくれただけ。人も多いし」
「でも、美しい方でしたね。悪い幽霊には思えなかった」
「もうっ。お化けの顔と話を鵜呑みにしてどうするの」ついにぎんが叱る口調になった。「夜になったら、ものすごい骸骨づらになって驚かせてくれるわよ」
「そうでしょうか……」
「そうよ。姫さまの人の良さはわかったらしいから、あっさり消えてくれたけど、これがもう、根性悪の御殿女中みたいなのが相手だったら、いまごろ耳元にべったりはりついて、そりゃあねちょねちょと辛気くさい恨み言を」
「あっ、奥方さま」女の声がした。
「いままでどこにいらっしゃったのですか。好きに歩き回られては困ると申しましたはず」
真喜付きの老女、松尾が背を伸ばし、胸を張って歩いてくる。後ろにはえんをはじめ他の侍女や男たちをおおぜい引き連れている。
ぎんはするりと真喜の持った袋へと隠れた。
「少し道にまよっただけです。思ったよりずっと広いですね」
「ははは、奥方さまご無事でなにより」同道してきた年配の男性、吉川が言った。花岡家の家老にあたり、明信院とは長い付き合いがある。院は彼について一言、「おしゃべり」と評した。「名門の家宰より大店の番頭」とも言っていた。
吉川は愛想よく、
「また、えんどのがどこかに忘れてこられたかと思いましたぞ」
えんがむくれた顔をした。「今日のわたくしはずっと皆さんと一緒です」
「まあ、えんは有名ですの」
「ええ、いささか。あ、そうでした。長島様はあちらで、ここの留守居役と話をしておられます。長引くようなので、我らは先にほかの奥方さまがたと一緒に、泉水へとまいりましょう。あちらもいっそう見応えがあります」
鵠山組と花岡家組に加え、あと三つの家の奥方衆からなる集団は、吉川たちを先頭に、傾斜のある道をぞろぞろと、樹々にかこまれた池に向かって歩みはじめた。ところどころに掘立小屋のようなものが建っていて、そこでは茶やひなびた菓子を供してくれる。一行は立派な灯籠の前に着くとひとまず解散し、思い思いに庭を見て回った。
真喜が小声でささやいた。「ぎん、おもては見えますか」
「はいな。ああ、萩ってのも、こうして見るときれいねえ」
「ええ、とっても」
「でも、点々と小屋とか建ってるの、ちょっとぼろ過ぎない?」
「国元の山あいにある村を、そっくり模したそうですよ」
「なんだあ、わざとか」ぎんは残念そうな声を出した。「お大名には珍しくても、あたしらは見慣れちゃってるよ、貧乏人の家なんて。こうなってくると、きんきら派手なのが見たい気もするね」
「なら、東照宮にでも行かねばなりませんね。調べておきましょう」
きょろきょろ周囲を見回していた吉川が、早足で近づいてくるのが見えて、ぎんはまた袋の奥に引っ込んだ。
「当家で長く用人を勤める橋本と申す者がございまして」と、吉川は言った。「鵠山のみなさま方のご様子を気にかけ、とりわけ奥方様にはこの機会にぜひご挨拶申し上げたいと繰り返しておりましたが、肝心の時には姿が見えませぬ。さっきまでここにいたはずなのですが、一体どこをほっつき歩いているのやら」
「わたくしが、勝手なふるまいをしていたからでしょうか」真喜が申し訳なさそうに言うと、
「いえ、決してそのようなことは。わが主のそばにもおらず、なにか急ぎの用でもあったのでしょう。たいへん失礼いたしました。またのちほど、ご紹介申し上げます。ただ、歳をとって少々偏屈のきらいはございますが、役には立つ男。わが主も長く信頼しております」
「そうですか。我が家中の用人、榊もとても信頼できる者です」
「おお、榊様。お留守居役の義理の弟さまでいらっしゃる方ですな、もちろん存じ上げております。ですが榊様はお顔立ちも涼やかな、すべてにおいて衆に抜きんでたお方。ところがわが橋本は、なんといいますか、かなり見劣りがいたします。とりわけ面相が」明るく笑いながら吉川は下がった。
「と、いうことだそうですよ。ひどい言い様」少し呆れながら真喜が囁くと、
「ぶおとこに生まれたら、大身のご用人であろうと、不幸せなものなのよ」ぎんが囁いて返した。
商家が減り、街並みが大雑把になり、いくつもの寺を過ぎて城がすっかり小さく見えたころ、虎之介は大鷺神社の社を通り過ぎた。ようやく目的地の近くへと到着した、はずだった。
青波とあたりをひと回りしてみたが、予想より風景はずっと寂れていた。
小さくとも歓楽街だったと聞いていたので、古い商家ぐらい立ち並んでいるのかと思っていたが、それらしい建物のあとすら見つからなかった。
目の前には平屋建ての、工房とおぼしき家が点在している。
時間が悪いのか人の気配がない。船着場にも人はおらず、通り過ぎてきた町々のように子供らの声もしなかった。
どこかの飼い猫らしい、首紐のついた猫だけがこっちを見ている。
空を見上げると、赤く染まりはじめている。気ばかりが焦った。
「もっと、思案してから動けばよかったなあ」
朱の言葉など正直に聞かず、土地勘のある人間を頼めば、場所ぐらい労せずにわかったかもしれない。
古手の町方でも同道すればよかったのだ。自分が情けない。
近在の者を探そうと馬首を巡らせると、少し下ったところでこちらをじっと見ていた中年の女と目が合った。
あわてて頭を下げた女を指し招くと、葛を集めにきたという相手は、言葉につまりながらも丁寧に説明してくれた。
かつて、この付近は少なくない店舗が並び通りを形づくっていたが、一時頻発した火事を境に、状況は一変した。気の利いた住人はさっさと引っ越しし、高麗町から紅屋町へと変えた町名も、根付かないうちにすたれてしまった。
土地に余裕があって水の便もいいからと、職人の住まいばかりになったこのごろは、新鍛冶屋町などと地元では呼んだりしている。だが、以前よりも格段にさびれて殺風景になってしまっているのは疑いもない。
追い討ちをかけたのが、数年前の洪水である。被害は甚大だった。
堤がくずれ土地の低い家は浸水し、昔の火事のあとをいったん埋め立てたところが陥没するなどの騒ぎがあり、場所によっては地形まで変化してしまった。
「おまえは職人の家の者か」
「いいえ」女の家は古くからこの近くに暮らしていた。彼女はいちど城下に嫁したが、子が生まれなかったため出戻ってきて、手間仕事などをしつつ細々と暮らしているのだという。
少しも良いことがないので、思い切って引越しをしたい気もするのだが、
「いざとなると腰が重うございまして」と、苦笑いした。
「前に芝居小屋があったと聞いたのだが、覚えておらぬか」
「生憎、よくは存じません」と女は謝った。だが、途方に暮れた様子の虎之介に、すぐさま母親だという背の曲がりかけた老女を連れてきてくれた。
まもなく八十になるという母親は、
「はい、ほんの短い間でしたが、小屋ができてのぼりが立って、人がおおぜい集まりました。桜の季節ともなれば舟が行き交い、それはたいそう賑やかでございました」と語った。
そして当時、町にあった親戚の小間物屋を手伝っていたという母親は、芝居小屋に火の出た日は覚えている、それはのちの大きな火事によって、街の大半が焼ける前のことだったとも話した。
「それについて詳しく教えてはくれぬか」
老女はうなずいて語りはじめた。
あの日、すでに小屋の木戸は朝夕閉じられたままになっていて、芝居も久しく演じられていなかった。
火事は突然起こった。その夜は風がなかったのに火のまわりは早く、近くの者たちが気づいた時には小さな小屋は激しく炎を吹き上げ、またたく間に燃え落ちて崩れた。翌日には黒いけし炭だけが残っていた。
小屋に住んでいたはずの何人かの姿もその夜から失せたきりになった。いや、朝になってひとつだけ、役者たちの世話をしていた中年男の亡骸が見つかった。
半分焦げた男は頭が潰れていた。
運悪く落ちた梁にでもあたったのだろうと見られたが、土地の十手持ちは、この話題になるとそそくさと姿を消した。
なかでも老女が印象深く記憶しているのは、翌朝の光景だった。
朝早く、日の昇りきらぬうちに城から普請組らしい一隊がやってきた。人ばらいをしたかと思えば、押し黙ったまま手早く焼け跡を崩し、均してしまった。さすがお上の仕事は人手を惜しまず手際がいいと感心しきりだったと老女は言う。
その後、更地にされたのも驚くほど早く、芝居小屋のあった一角は火事から数日のうちにすっかり様相を変えた。そして幾度かの災厄をへて、ほとんどの人は小屋のことを忘れた。
「ご老人、場所が知りたい。どこにあったか覚えてはおらぬか。供養のために寺かなにかが建立されたはずだ」
「ああ、そういえば」
老女は顔をあげ、話しはじめようとしては、首をひねるしぐさを繰り返した。
「はて、どうして思い出せないのだろう」
「火事を覚えているのに忘れたとは、いったい」
「申し訳ございません、歳のせいか、忘れてしまいました。小さな堂があった気もいたしますが、いつの間にやらなくなってしまったようで」
「本当に覚えておらぬのか。真喜をどうしても助けたいのだ」
静かな、しかし真剣な彼の言葉に、
「まあ、それはそれは」お参りをする気持ちは大切だ、などと言いつつ老女はしばし考えこんだ。
虎之介が我慢強く待っていると、「…… 知っているけど、知らないところ」
かすれ声の歌が耳に入った。振り向くと、老女の娘だった。あさっての方向をみながら、ぼんやりした表情で唄っていた。
「そのうたは……」虎之介が聞くと、
「これは失礼いたしました、申し訳ございません」中年女は慌てて謝った。
「聞いたような、聞いたことのないような歌だな」
「はい、ここらで昔、よう唄われていました。さがしものと聞いて、つい」
老女はまだ首を捻っている。焦らせたくなかった虎之介は、
「おもしろい、ひとつ唄を教えてくれ」と女たちの機嫌をとるように言った。
「わたくしでよろしければ」
女によると、出だしはよくあるわらべうたと同じように「あぶくたった、煮えたった」とはじまり、「煮えたとおもうたら逃げてった、食べられない」と続くのだという。
「煮ようとしたのは豆ではないのか、足があるな。それとも転がったか」
「はい、兎にございます。そのあとは『さがせさがせ、兎をさがせ、にがせにがせ、兎をにがせ』と続きまして、『隠れてしまえば見つからない、知っているけど知らないところ、だれも着けない森のなか』で相手のあたまをポンと叩いて終わりとなります」
「ほほう。おもしろいな」
「わたくしも姉から教えられたのです。なんでも、江戸からやってきたきれいなひとが、ひまな時にうたってくれたとか。それに」
女は少しおどけたような顔になって言った。「以前、この地をえらいお坊さまが通りかかられたとき、こんなものを歌うのはあまり感心しないとお叱りになったそうです」
「えらそうなことを言う、坊主だな」
「はい。そのせいか、あまり唄われなくなりました。食べようとしていたのが生ぐさものだったのが、お気にめさなかったのかもしれません。なにせ、ここらの住人はあまり信心深くなかったようで」と女は笑った。「寺も社も大切にはしてきませんでした。それも嘆いておられたとか」
「はは、そうか、現生利益だな、このあたりは」虎之介も笑った。
「知っているけど知らないところ、知ればねずみが、そりゃにげる」
振り返ると、母親が口ずさんでいた。
「かあさん、どうしたの」
さっきから二人が話しているのを呆けたように見ていた母親は、ひとふし歌ってからついと頭をあげた。
急に一人でよたよた歩いていったかと思うと、虎之介たちの方を見た。
そして老女は、背をゆっくり伸ばすと、ついていた杖を持ちあげて、目の前の坂を登り切ったところにある小さくこんもりした森を指し示した。
「考えますと、あのあたりでしかありません。いまはなにも残ってはおらぬようですが、あるとすれば、あそこ」
そこには森だけがあって、社寺の跡など柱一本もない様子だった。ただ、どこか不自然なほど、こんもりと樹々が密生してみえる。
女が歩み寄ったが、母親はまだ森を指していた。
「よし。あそこを探してみよう」虎之介は杖を下ろすよう指示すると、二人に近づき、
「助かった。これを」と、さっきの重い巾着をそのまま女に渡した。「少ないかもしれぬが、引っ越し代の足しにしてくれ」
押しいただいた姿のまま立ちすくむ二人をあとにして、彼は短く青波を走らせ、森へと近づいた。
〈江戸・宇部家下屋敷内庭園〉
「ねえねえ」
「なあに」ぎんの呼び声に、真喜が機嫌よく応じた。
飽きるほど紅葉の中を歩き回ったあと、毛氈のしかれた縁台に腰掛け、出された麦こがしを喉に入れたところだった。お付きの衆も、思い思いの場所に腰をかけ、休んでいた。
「なにが嬉しくて、わざわざこんな安物を飲むんだろ」ぎんは馬鹿にしたが、真喜はおかわりまでした。
あたりはそろそろ灯りに本格的に火がともされ、夕暮れに木の爆ぜる音が響いていた。
「一日に何度も違った景色を愛でられるとは、まことにぜいたくな庭ですねえ」
うっとりと感想を述べる真喜とはうらはらに、ぎんの声は直前とは違って硬かった。
「今夜、お侍の用心棒はたくさんきてる?腕の立つ人はいる?」
「そうですねえ、江戸の者たちは、武芸については、あまりその……」
「だめねえ。おたくの家臣たちでしょ」
「でも、国元には若くとも諸国に知られたほどの使い手がいて、いま殿のそばに離れずにいると聞きました。殿さえご無事なら、よくはありませんか」
「うーん、よくないなあ。あそこに座ってるえんちゃんとか、相撲は強そうだけど、あやかし相手じゃあねえ」
えんは別の縁台に腰掛けているが、彼女の立派な腰が乗っているせいで、傾いているように見える。
「なにか、よからぬ気配でもしましたか」
「そう。しちゃったの。人混みのなかから、とびきり危ない気配がした。でも、どいつかわからない。正体がわからない」
「どうしたらいいかしら」
「とにかく、あたしから離れないで。それと、あたし以外の言うことを信じちゃだめ。思っていたより手の込んだ奴のにおいがした」
「手の込んだやつ」
「そう。取っ憑かれっていう奴らがいて、これは物の怪とかさっきみたいな幽霊に心を喰われたのを指す。ただの木偶の棒が多くて、特にめずらしくはない。けど、ここにいるのは別物よ。なにが困るって、相手に応じてすらすらと嘘をつけるほど賢いこと。そうたやすくは作れないはずなんだけどな。あっ」
紅葉を見上げる大勢の人々の間を、縫うように歩いていた一人の女が、無表情なままこちらを見ている。
目立たない顔立ち、地味な衣装だが、色が白く首筋のきれいなのが夜目にもわかる。真喜らの視線に気づくと、うっすらと笑いかけてから、人混みに消えた。
「あの女だ」ぎんはせかせかと言った。「まずいな。とてもまずい」
「ご存知の方?」
「ご存知じゃないけど、まずい相手なのはご存知。あれは悪の親玉の、使いと言うか、身代わりだろうな。ぶるるっ、武者震いしちゃった」
老女の指し示した森は、近づくと低木がみっしりと生えて内部を隠し、まるで侵入を拒んでいるかのようだった。
来た方角に振り返ると、城がよく見えた。
「知っているけど知らないところとは……」森は、とても寺の跡には見えなかった。
ふと、虎之介は、いつのまにか自分が青波を引いたまま、森を通り過ぎようとしているのに気がついた。
「どうして見過ごそうとしてるんだ、おれは」
ほんのり、胸が暖かい。懐に入れていた真喜の守り刀、吉備津丸だ。
そうしろと言われたように、刀を袋から出して抜いて眉の上にかざしてみた。
森が失せた。ち密だった木々がまばらになり、真ん中あたりに半ば崩れた小さなお堂が姿をあらわした。虎之介は息を呑んだ。
お堂の周囲には土が盛り上げられ、草は生えていない。だれかの手が加わったようでもあるが、土の状態を見るとそう以前とは思えないし、やり口が荒っぽくて本職の土木職人による仕事とは考えにくかった。
「ああ」虎之介は嘆息した。「これも術か」
馬を降りた彼は、小さな石垣を乗り越え、お堂のあとに近づいた。横に大きな陥没ができていて、筵が適当にかけてあった。
そろそろ日が沈みはじめている。逢魔が刻になると、まずい。
陥没による穴は、傾斜がついていて、その奥へずっと続いているようだった。これは、おそらく抜け穴だ。虎之介の胸の鼓動が強くなった。
なんとか人が入れると判断した彼は、とりあえず青波を適当な木に結び、ぽんぽんとその背をはたいてから羽織を脱いで、迷わず穴の中へと踏み込んだ。
「ええっ、うそだろ」さっそく土が崩れ、虎之介は転げ落ちた。
穴の底には見事な洞穴があって、さらに奥へと続いている。。
尻餅をついた地べたは乾いていて、冷たい。
穴の奥から怪しい気配が漂ってくる。きっとなにかありそうだが、中までは日の光が届かない。
火を持ってくればよかったと後悔したとき、摑んだまま離さなかった守り刀が、ぼんやりと光を放っているのに気がついた。かろうじて穴の周囲を照らしている。線香よりはずっとましだった。
確かめると、穴の奥はまるで氷室のように土を掘り抜き、歩けるようになっていた。ただし大柄な虎之介には、少々低い。
「あらあら」例の声が頭の中に響いて、虎之介は思わず身構えた。
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